三日月の守護犬

月ノ宮小梅

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番外編 楚羅

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小さな森に暮らす三匹のうちの一匹、艶やかな長髪が自慢の楚羅は、元々飼い犬だった。
ブリーダーから飼い主の元へと渡った楚羅は、とても明るく、悪く言えば騒がしい犬だった。
家の中で飛び跳ね、走り回り、とにかくやんちゃな彼を見て、飼い主は彼を障害物競走に出す事を思いついた。犬の障害物競走は、月に1度地元のドッグランで開催されている。そこで彼は、まだ子犬だったにも関わらずかなりの好成績を残した。小さなバッジを彼の首輪につけ、飼い主は満足そうだった。

障害物競走でのバッジを手にしてから、飼い主は本格的に彼に指導を始めた。毎日何時間もドッグランに連れていかれ、服従訓練もとにかくやらされた。自由奔放な性格の彼には、服従訓練は辛いものだった。
(ドッグランに行けるのは楽しいけど……、服従訓練は嫌だよ、ね?もう辞めようよ……僕もう疲れたよ……。)
どんなに彼が語りかけても、当然人間からはただ嫌がって吠えているようにしか見えない。結果、彼の態度は飼い主を怒らせ、彼は更にきつい訓練を強いられることとなった。

訓練は苦痛だったが、それに比例するかのように彼の成績はどんどん上がっていった。そしてそれと同様に、飼い主の機嫌もまた良くなっていった。数年後には、楚羅は県の大会でも上位にランクインするほどのアスリート犬になっていた。
「楚羅よ、今のは良かったぞ。良かったともさ。」普段は寡黙な飼い主だったが、その頃から楚羅が賞を獲る度に大袈裟に声でも褒めてやるようになっていた。
(僕が頑張れば……そうだ、僕が走れば走るほどご主人は喜ぶんだね!それなら僕はいくらでも頑張るよ!)
ちぎれんばかりに尻尾を振る楚羅と沢山のバッジを見ながら、飼い主は次第に「勝ちたい」という欲望を増幅させていった。

大会の次の日から、また激しい練習が始まった。自宅の一室に障害物競走の練習専用の部屋を作り、そこに器具を置いて一日中練習出来るようにした。彼は既に七歳を超えており、以前ほど騒がしい性格ではなくなっていたが、それでも家の中で飼い主の掛け声と共に走り回るのは幸福だった。飼い主との関係も良好で、前にも後にも、この頃が彼の最大の幸福の時期だった。

彼の犬生に悲劇が訪れたのは、彼が八歳になる歳の秋の事である。
ある日いつものように彼が今で横になっていると、飼い主が得体の知れない子犬とともに帰ってきた。
(誰だろう……。どうも女の子みたいだけれど。君は何処から来たの?もしかして新入り?)
おずおずと近づいた楚羅から、その仔犬は鳴きながら飛び退いた。
「楚羅、こいつは怖がらせてはならん。今日からお前の妹なのだから。そうさな、こいつは障害物競走で歴代好成績をおさめている犬の所から譲って貰ったんだ。訓練次第ではお前を抜かしてしまうかも知れないぞ?さあ、うかうかしとらんで練習をしようか。」
厄介な新入りが来たものである。楚羅は犬づきあいが下手な方ではないが、この新入りの方がどうしようもなかった。他の犬が相手だとそうでもないのだが、どうも楚羅とは特別相性が悪いらしい。飼い主はやむを得ず新入りと楚羅との練習時間を分けなければならなくなった。

新入りは未だに楚羅を怖がり続けていたが、障害物競走に関してだけは本当に出来の良い犬だった。先祖代々受け継がれてきた運動能力に特化されたその血が、楚羅のそれとは全く異なっていた。人間で言えばいい歳をしたおじさん位の歳になっていた楚羅の成績を、新入りは軽々と超えていった。二匹の練習時間を分けなければならないとなれば、新入りに練習が偏ってしまうのは、人間の欲というものであろう。
いつしか若い頃ほど成績が出せなくなっていた楚羅は、次第に家の中で放っておかれるようになっていった。

ある日の事である。ドッグランで走り回っていた新入りが、心無い人に横から大型の雄犬をけしかけられ、軽い怪我を負った。様々な客が出入りするこのドッグランでは飼い犬が怪我をする事は決して珍しい事ではないが、それにより新入りは大きなトラウマを背負わされた。大きな犬が駄目、雄犬が怖い、ドッグランなどもう行けそうにもないと知った飼い主は、もう彼女を障害物競走の練習から除外せざるを得なかった。家でも練習出来ることには出来るのだが、大会自体がドッグランで開催されるため、どうしようもないのである。そこで放っておかれていた楚羅をまた練習に付き合わせようとしたが、長い間訓練を行わなかった楚羅に、直ぐに大会に出せるほどの記録を出せそうにはなかった。
(何年も障害物競走を続けてきたのに…、これでは二匹とも使えないではないか。もう駄目なのか…、諦めるしかないのか。)
それからはもう二匹が練習に付き合わされる事は無くなり、家の中で長時間顔を突き合わせることになった。今までは練習の為に楚羅と顔を合わせる機会が少なかったが、これからは二四時間三六五日一緒に過ごさなければならないのである。ましてや雄犬ともなれば、彼女が黙って大人しくしていられようがない。一日中激しく吠え続け、楚羅が近くを歩こうものなら歯を剥く程だった。このまま家に二匹置いていては騒がしくてかなわない。しかし飼い主に対しては非常に愛想の良かった彼女はそれ以降も家の中に居ることを許された。追放されたのは楚羅の方である。庭に簡易式の小さな犬小屋を建てられ、そこで暮らすことを強いられた。これで家の中には平和が訪れた訳であるが、楚羅にとっては当然激しい苦痛だった。なにしろ初めての外での生活である。冷暖房の効いた部屋でぬくぬくと生活していた彼に夏の日中の暑さ、冬の夜の寒さはとても堪えた。水と餌はきちんと用意されていたが、夏場に与えられた時に少し痛みすぎていたのか、彼は体調を崩してしまった。直ぐに気がついた飼い主が動物病院に連れて行ってくれはしたが、家の中とは違い、病院から帰っても地獄のような暑さからは逃れられない。当然、治るものも治りにくいのだ。元々外飼いの犬であればそうでも無いだろうが、楚羅には無理だった。そのまま不調をずるずると引きずったまま秋、冬と過ごし、その年の一月に訪れた大寒波に耐えられず小屋の中で息絶えたのであった。

目が覚めると、自分の肉体が見える。彼の魂が肉体から抜け出したのだ。もう楚羅の葬儀は済まされた後だったが、成仏出来なかったようである。彼には強い希望があった。
(妹と仲良くなりたい。)
何年経っても心を許してくれなかった新入りだが、肉体が無くなった今ならば心を許してくれるだろうか。なにせ、今の彼は雄犬の姿でもなく、また自分の体臭も漂わせていなかった。それならば新入りが楚羅に気がつくかどうか不安であるが、なにしろ犬という生き物は霊感が強いものである。彼はそっと窓をすり抜けて屋内に入り、妹に近づいた。すると新入りははっと気がつき、激しく吠えたてた。霊が傍にいるというのが怖いのか、それとも楚羅が嫌なのか。
何日経ってもいつまでも興奮が収まらない彼女を見て、飼い主は何を思ったか家の奥から御札を持ってきた。
「安心しろ、これはな、三日月神社ってとこから何十年も前に貰ってきた御札でな。あそこは霊に関する事ならなんでもござれな神社だからいつか使えるだろうと思って物置にきちんと封印してたんだが……。お前が騒いでいるのは、もしかして楚羅なのかも知れんのだろう?飼い犬がうるさいと周りからも苦情が来ててな。楚羅には申し訳ないが消えてもらうとするか。」
そう言って庭に出ると、楚羅が使っていた犬小屋にペたりと貼り付けた。

みるみるまに自分の霊気が薄れてゆくのを感じる。
(このまま消えるのかな、僕何かしたっけな……なんでこんな目に……。出来るならもっと自分の好きなように生きたかったよ…。)
『生まれ変わりたいのですか?』
突然声がした。どうやら楚羅にしか聞こえていないようだ。その声は続ける。
『貴方は確かに何も悪さはしていない。むしろ、妹と仲良くなる為に自分なりに努力しましたね。それは評価しましょう。そして貴方は……今こう思っています。(どうしてこんな目に……。)とね。
それならば生まれ変わらせてあげましょう。今とは違う、もっと自由な姿にね。』
声がぱたりと止んだ。そして小さな光が浮かび上がり……
現在の楚羅が誕生したのである。
妹に近寄る事を諦めざるを得なかった彼は、第二の犬生をと、静かに歩き出した。自分の暮らした家など、一度も振り返らずに。
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