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くわえ煙草のジョニー
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冷え切った箱に僕は言い聞かせている。
できる。お前はできる。まだ空っぽじゃない。あるものだけでひねり出すことができるんだ。
「新しく出た製品ですよ」
知らない人が寄りついてきても、安易に応じてはいけない。この街は油断ならない。微笑んでいる相手ほど、決して心を開いてはならない。できることは何なのか。
「何ができる?」
「鮮度を保ちます」
聞いていないのに余計なお世話だ。それに酷く的外れだった。もっと他にできることがある。全幅の信頼を寄せて、僕は扉の中に入っていった。
冷蔵庫の中は野菜畑になっていた。麦藁帽のおばあさんが、大根を抜こうとしている。日射しが強い。腰を屈めおばあさんは格闘している。手強い大根に違いない。お茶を届けなきゃ。遠くから呼んでもおばあさんは気づくはずはない。土に足下を食われながら、僕はおばあさんの元へ歩いて行く。歩いても歩いてもたどり着けない。
「おばあさーん!」
たこ焼きの上で踊る鰹節の香りが漂ってくる。誰かが手に入れる。僕ではない。最も近くにいる人がそれを手にするのか。あるいは、今はここにいないけれど、最も望む者が手にするのかもしれない。舟が動き始めた。これはまたどういうことだ。鰹節の香りがこちらに近づいてくる。発注もなく届けられる運命的なたこ焼きだろうか。誘惑に手が伸びそうになる。駄目だ。引っかかってはならない。先に1つ食らわせて、後で課金されるトリックが仕掛けられているかもしれない。
「さあ履いていけ」
それは32センチのスニーカー。主は僕ではない。靴というのは、ただ足が入ればいいというものではない。それでは落とし穴と変わらない。ちょうど納まればこそ、一体となりどこへでも歩いて行けるというものだ。長い道程を歩いてきた。歩き始めた頃の記憶を、僕はもう忘れてしまった。
「鼻毛が伸びたね」
10年振りに再会したというのに、久しぶりくらい言えないのかね。打ち解ける風景を想像した自分が恥ずかしくなる。目の覚めるようなハエが飛んできたが、やはり眠い。睡魔は最大の思いやりだ。眠らなければどうにかなってしまう。Wi-Fiがハーモニカの音色を飛ばす。バンズに挟まれないように、バッタたちが必死になって逃げて行く。駆けて行くロングコートのお化けたちを尻目に、僕は絨毯に紛れたチャーハンを拾い上げる。
「今日は出張で?」
「いいや、たこ焼きさ」
歩道から白い煙が見える。歩いてくる女の口元から出ているようだ。歩き煙草の女を避けて、車道に飛び出した。この街の歩道は狭いのに、なんて真似をしてくれるんだ。女が吐き出した煙が道を越えて広がってくる。逃げても逃げても逃げ切ることができない。降下してきた宇宙人がキットカットとサーキットを混同してショートカットを起動した。おかげで僕は家の中にワープすることになった。薄暗い部屋に戻ると僕はわけもわからずに冷蔵庫の前で新しい別の扉を探していた。エアコンの奥か、テレビの裏か、本棚の隙間か、ここにはない。この部屋の中に扉はない。
「やっと気づいたか」
小馬鹿にしたような兄の声が遠くから聞こえた。
迷子になるために僕は再び家を飛び出した。疲れを感じなくなるまで歩いた。「ここは2丁目です」お節介なグーグルを閉じて橋を渡ったところでホログラムが現れた。僕は足を止めて映像の中の人々を眺めた。
「どこに捨ててくれてるんだ!」
「すみません」
青年は事務所の前に投げ捨てた煙草を拾った。短くなった吸い殻を手に持ったままトラックに乗り込む。運転席と助手席の間に挟まれたまま、枯れ木のように縮まりながら現場へと運ばれて行った。
「あれがかつてのお前だ!」
突然、耳元で老人がささやいた。
こちらは現実に人間のようだった。
「お前は現場について社員の手伝いをする。エレベーターがなく、何度も階段を往復して荷物を運ばなければならなかった。握力を失ったお前が運ぶ布団の裾は何度も地面に触れて汚れをつけていた。箪笥を運ぶのを手伝う時、お前はうっかり手をすべらせて箪笥は社員の頭を直撃する。その瞬間、罵声と共に社員の足がお前の下腹部を攻撃し、お前はうめき声を上げた。仕事が終わるとお前は見知らぬ街で解放される。車の中にお前は持ってきた靴を忘れてしまう。夕暮れの街をお前は駅を探して独り歩いた。人の流れについて行くが、いつまでもお前は駅にたどり着くことができない」
「あれがお前だ!」
「(俺に貸せ!) お前は街角に立つ少女からマッチを奪い煙草に火をつけた。おかげで少女が創りかけていた希望の物語は光を失って闇だけが残った。お前は燃えかすになったマッチ棒を道端に投げ捨てて歩き出す。お前の頭の中には、街のどこかにあるはずの駅と今日の復讐のことだけがあった。自分が不条理な力で奪い取った小さな物語のことなど微塵もなかったのだ」
「あれがお前だ!」
「違う!」
「くわえ煙草のジョニー。それがお前の名だ」
「違う! 絶対違う」
「お前が受けた煙。それは10年前にお前が吐いた煙なのだ!」
「違うったら違う! いったい誰のことを言ってるんだ!」
ラスト・オーダー19時30分、女はカウンターで入店を断られて帰って行く。先に入っている我々は、最後の最後まで居続けることができるのだ。
我々はずっとここにいる。朝よりも早く夏よりもずっとずっと早くからだ。
「おじさん、令和の前からいるの?」
「もっと前だ」
「そんなに前なんだ」
「君たちが生まれるよりもずっと前だ」
「もしかして昭和の人?」
「もっともっと、我々は宇宙人だ」
「やっぱりそうだ! ずっと何してるの?」
「友達を待っている」
「そうなんだ。でも来ないんじゃないかな。ずっと待ってて来ないんだから」
「我々の感覚は違う。もう来ているかもしれないのだ。人間の振りをして近づいているのかもしれない」
「楽観的なんだね!」
「それが宇宙だ」
できる。お前はできる。まだ空っぽじゃない。あるものだけでひねり出すことができるんだ。
「新しく出た製品ですよ」
知らない人が寄りついてきても、安易に応じてはいけない。この街は油断ならない。微笑んでいる相手ほど、決して心を開いてはならない。できることは何なのか。
「何ができる?」
「鮮度を保ちます」
聞いていないのに余計なお世話だ。それに酷く的外れだった。もっと他にできることがある。全幅の信頼を寄せて、僕は扉の中に入っていった。
冷蔵庫の中は野菜畑になっていた。麦藁帽のおばあさんが、大根を抜こうとしている。日射しが強い。腰を屈めおばあさんは格闘している。手強い大根に違いない。お茶を届けなきゃ。遠くから呼んでもおばあさんは気づくはずはない。土に足下を食われながら、僕はおばあさんの元へ歩いて行く。歩いても歩いてもたどり着けない。
「おばあさーん!」
たこ焼きの上で踊る鰹節の香りが漂ってくる。誰かが手に入れる。僕ではない。最も近くにいる人がそれを手にするのか。あるいは、今はここにいないけれど、最も望む者が手にするのかもしれない。舟が動き始めた。これはまたどういうことだ。鰹節の香りがこちらに近づいてくる。発注もなく届けられる運命的なたこ焼きだろうか。誘惑に手が伸びそうになる。駄目だ。引っかかってはならない。先に1つ食らわせて、後で課金されるトリックが仕掛けられているかもしれない。
「さあ履いていけ」
それは32センチのスニーカー。主は僕ではない。靴というのは、ただ足が入ればいいというものではない。それでは落とし穴と変わらない。ちょうど納まればこそ、一体となりどこへでも歩いて行けるというものだ。長い道程を歩いてきた。歩き始めた頃の記憶を、僕はもう忘れてしまった。
「鼻毛が伸びたね」
10年振りに再会したというのに、久しぶりくらい言えないのかね。打ち解ける風景を想像した自分が恥ずかしくなる。目の覚めるようなハエが飛んできたが、やはり眠い。睡魔は最大の思いやりだ。眠らなければどうにかなってしまう。Wi-Fiがハーモニカの音色を飛ばす。バンズに挟まれないように、バッタたちが必死になって逃げて行く。駆けて行くロングコートのお化けたちを尻目に、僕は絨毯に紛れたチャーハンを拾い上げる。
「今日は出張で?」
「いいや、たこ焼きさ」
歩道から白い煙が見える。歩いてくる女の口元から出ているようだ。歩き煙草の女を避けて、車道に飛び出した。この街の歩道は狭いのに、なんて真似をしてくれるんだ。女が吐き出した煙が道を越えて広がってくる。逃げても逃げても逃げ切ることができない。降下してきた宇宙人がキットカットとサーキットを混同してショートカットを起動した。おかげで僕は家の中にワープすることになった。薄暗い部屋に戻ると僕はわけもわからずに冷蔵庫の前で新しい別の扉を探していた。エアコンの奥か、テレビの裏か、本棚の隙間か、ここにはない。この部屋の中に扉はない。
「やっと気づいたか」
小馬鹿にしたような兄の声が遠くから聞こえた。
迷子になるために僕は再び家を飛び出した。疲れを感じなくなるまで歩いた。「ここは2丁目です」お節介なグーグルを閉じて橋を渡ったところでホログラムが現れた。僕は足を止めて映像の中の人々を眺めた。
「どこに捨ててくれてるんだ!」
「すみません」
青年は事務所の前に投げ捨てた煙草を拾った。短くなった吸い殻を手に持ったままトラックに乗り込む。運転席と助手席の間に挟まれたまま、枯れ木のように縮まりながら現場へと運ばれて行った。
「あれがかつてのお前だ!」
突然、耳元で老人がささやいた。
こちらは現実に人間のようだった。
「お前は現場について社員の手伝いをする。エレベーターがなく、何度も階段を往復して荷物を運ばなければならなかった。握力を失ったお前が運ぶ布団の裾は何度も地面に触れて汚れをつけていた。箪笥を運ぶのを手伝う時、お前はうっかり手をすべらせて箪笥は社員の頭を直撃する。その瞬間、罵声と共に社員の足がお前の下腹部を攻撃し、お前はうめき声を上げた。仕事が終わるとお前は見知らぬ街で解放される。車の中にお前は持ってきた靴を忘れてしまう。夕暮れの街をお前は駅を探して独り歩いた。人の流れについて行くが、いつまでもお前は駅にたどり着くことができない」
「あれがお前だ!」
「(俺に貸せ!) お前は街角に立つ少女からマッチを奪い煙草に火をつけた。おかげで少女が創りかけていた希望の物語は光を失って闇だけが残った。お前は燃えかすになったマッチ棒を道端に投げ捨てて歩き出す。お前の頭の中には、街のどこかにあるはずの駅と今日の復讐のことだけがあった。自分が不条理な力で奪い取った小さな物語のことなど微塵もなかったのだ」
「あれがお前だ!」
「違う!」
「くわえ煙草のジョニー。それがお前の名だ」
「違う! 絶対違う」
「お前が受けた煙。それは10年前にお前が吐いた煙なのだ!」
「違うったら違う! いったい誰のことを言ってるんだ!」
ラスト・オーダー19時30分、女はカウンターで入店を断られて帰って行く。先に入っている我々は、最後の最後まで居続けることができるのだ。
我々はずっとここにいる。朝よりも早く夏よりもずっとずっと早くからだ。
「おじさん、令和の前からいるの?」
「もっと前だ」
「そんなに前なんだ」
「君たちが生まれるよりもずっと前だ」
「もしかして昭和の人?」
「もっともっと、我々は宇宙人だ」
「やっぱりそうだ! ずっと何してるの?」
「友達を待っている」
「そうなんだ。でも来ないんじゃないかな。ずっと待ってて来ないんだから」
「我々の感覚は違う。もう来ているかもしれないのだ。人間の振りをして近づいているのかもしれない」
「楽観的なんだね!」
「それが宇宙だ」
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