不老不死の少女は戦鬼となって戦う! ~餓鬼狩りより

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不老不死の少女は戦鬼となって戦う! ~餓鬼狩りより

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                 プロローグ

 夜の闇が、おぼろに光った。
 淡い光の中から少女が現れた。少女は一人ではなかった。一匹の大型の犬が少女の傍らに寄り添っていた。
 少女は、淡いクリーム色の胴衣と、紺色の袴をその身に着け、長い黒髪を風になびかせていた。白陶器のようななめらかな白い肌と、憂いを帯びた切れ長の瞳が光に反射した。
 大型の犬は、赤色に近い茶色の毛並を持っていた。頭と胴に青い鋼鉄製の防具をつけている。白い鼻先と太い眉。巻き毛の尾と三角耳。少女に同伴している犬は秋田犬の特徴を備えてはいるが、秋田犬ではない。違う種の犬だろう。辺りを用心深く窺っている姿は、犬というより狼、狼というより知能を持った野獣のような生き物といってもいい。
 いま、少女と犬は真夜中の公園の中にいた。
 少女と犬の前に、直径五メートルほどの噴水があった。噴水の中央には三メートルほどの大きさの女神像が置かれていた。女神像の左肩にはネック・アンフォラという壺が載せられてあった。壺から水が流れ、女神像の体を濡らし足元のロココ調の台座を打っている。
「……間に合わなかった」
 少女が悲しそうに呟いた。傍らの犬がうなり声をあげる。
「いいのよ……。呂騎(ろき)」
 少女は、辺りを見渡した。
「奴らは、もうここにはいない……」
 少女は睫毛を揺らした。左手で犬の頭部を軽く撫でる。
 犬の瞳が怪しく光った。犬の瞳に十字の光が灯り、やがて、少女と犬は忽然と姿を消した。

 男が一人、夜の公園にやってきた。四十代と思われる男だ。近くにある飲み屋街で、一杯ひっかけてきたのだろう。千鳥足で歩くその姿は、いまにも倒れそうだった。
 風が吹いていた。寒気を伴った風だ。寒風は公園の花壇に咲き誇っている紫色のヒメスミレや、赤いチューリップの花弁を、容赦なく散らした。
(なにも変わらない……。なにも変わらない……。毎日一生懸命働いても、同じような日々が続くだけ……。この先、良いことなどあるものか……)
 男は、女神像がある噴水の前までたどり着く。へりに両手をつき、ロココ調の台座を見た。
 ロココ調の台座の上に、バスケットボールのようにも見える異物が三つ置かれてあった。
 男は濁った眼をそれに向けた。
(なんだ? なにが置かれてあるのだ)
 見慣れたものがそこにあるのだが、男にはそれがなんなのか分からない。
(これっ、こんなところにあっていいのか)
 男はアルコールで麻痺している頭を二、三回叩いた。ロココ調の台座に近づく。男はそれを手に取ろうとしたが、手を途中で止めた。口をわなわなと震わせ、髪の毛を逆立てる。ションベンでも漏らしたのだろうか、ズボンに黒い染みが広がった。
「ひっっー」
 男は短く悲鳴をあげると、這いつくばってその場から逃げた。
 男の見たものは、それは、いたいけな幼児の三つの首だった。




         第一章 宣戦布告する、忌み嫌われしもの

                   1

 三日、経った。
 週末の午後九時過ぎ。ウ二漁やアワビ捕りに使うザッパ船が数隻たむろしているだけの簡素な漁港で、二人の刑事が、一人の男を追いつめていた。
 男は、この街ではあまり見られない黒い山高帽を目深に被っていた。顔を覆い隠すような大きい白いマスクを着用し、灰色の薄汚いトレンチコートを無造作にはおり、マスク越しにせせら笑っていた。
 男の傍らに黒い犬がいる。犬はその姿から甲斐犬と思われた。低くうなり、男を追いかけてきた刑事たちを威嚇していた。
 二人の刑事は、この男を一時間前から追っていた。
 一時間前、男は警ら中のパトカーの前にいきなり飛び出してきた。パトカーを制止させるとボンネットの上に飛び乗り、しゃがみこんで、パトカーの中にいる刑事たちを嘲笑した。
 刑事たちは、あわててパトカーの中から外に出た。男はボンネットから飛び降りる。トレンチコートをひるがえし、黒い犬と共に、その場から逃げた。
 二人の刑事は、パトカーをその場に置き男を追った。
 男と黒い犬は、漁港の近くにあった荒れ果てた鉄工場跡に入っていった。男と犬を追った刑事たちは、腰まで伸びていた薄緑の雑草を、脚で乱暴に蹴散らし、投げ捨てられていた錆びた空き缶を踏みつけながら、男と犬が逃げ込んだ鉄工場跡に入って行った。
 二人の刑事は鉄工場の構内に散らばっていたダグタイル鉄管の上に腰かけていた男を発見した。
 男は、こちら側に背中を見せたまま、けだるそうに首を左右に揺らしていた。
 二人の刑事は、男に慎重に近づいて行き、声をかけた。
 男は目深く被っていた黒い山高帽を脱ぎ捨てた。マスクを乱暴に取り外し、立ち上がって、振り向きざまに、灰色のトレンチコートを刑事たちに向かって投げつけた。
「きさま、どういうつもりだ」
 二十代前半と思われる若い刑事が、投げつけられた灰色のトレンチコートを払いのけた。
 男が、雄叫びをあげた。
 大気を震撼させるような凄まじい雄叫びとともに、男の顔が変異してゆく。
 男の黒々とした髪の毛が赤茶色に変色した。赤茶色に変色したそれが針のように硬くなり、逆立った。瞳が金目になり、鼻先が大きく全面に突き出た。口が耳まで大きく裂け、サメの歯を思わせるような鋭い牙が、口の中に並んだ。
 変異していったのは、顔だけではない……。
 全身の筋肉が異常に隆起し、男の身長と体重は倍以上に膨れ上がっていった。
 まるで、ヒヒ……。いや、猿人か。
 それは、伝記や神話に登場する猿の化け物の姿にそっくりだった。
「ひっー」
 若い刑事が、身の危険を感じ、慌ててホルスターから拳銃をとりだした。
 続けざまに三発拳銃を撃つ。鉄工場跡に死を予感させる轟音が響いた。轟音の後、化け物の倒れる音が聞こえる。
「なぜ、撃った? 相手が何者か分からんだろうが……」
 五十代前半と思われる中年の刑事が、若い刑事の暴走を制止した。
「吉川さん、そんな悠長なことを言ってていいんですか? 相手は化け物ですよ。化け物」
 若い刑事が言う。
「化け物でも、口ぐらいはきけるだろう」
 吉川が横柄に応えた。
 数々の修羅場を潜り抜けてきた吉川からみれば、今年、署に配属されたばかりの高井戸は、犯罪事件のいろはも知らない坊ちゃんにしか見えない。恐怖に駆られ拳銃を使用するとは情けない。もっと違うやり方があったはずだ。
「事情聴取する気だったんですか? 化け物に」
 高井戸が言う。
 うつぶせに倒れている化け物の姿からは、知性の片鱗が感じられない。獰猛で猛々しい化け物が、人の言葉を話せるとは思えない……。
「たとえ、口はきけなかったとしても、なんらかの情報が得られたかもしれん。なにせ、人の格好をして歩いていたんだからな」
「しかしですね……。吉川さん……」
 高井戸は、吉川に何かをいいかけた。その時……。高井戸の言葉を遮ったものがあった。
「そんな小口径の銃弾では、俺は死にはしないよ……。もっともマグナム弾でも、俺を殺すことはできやしないけれどな」
 高井戸の言葉を遮ったのは、目の前に倒れていたはずの、猿人の化け物だった。
 猿人の化け物は、立ち上がった。ニヤリと嗤い、額と胸に食い込んでいる拳銃の弾丸を、爪で穿り返した。
「馬鹿な!」
 二人の刑事は、異様な光景に肝を冷やした。
「ここんところに、弾が当たったから、軽い脳震とうをおこしかけたがな……」
 猿人の化け物は、コキコキと頭を揺さぶって見せた。
「おまえは何者だ」
 と、吉川が言う。
「俺か? 俺はそっちの若い奴がいうように人間じゃあないモノ……。つまり、化け物っていうわけさ」
 猿人がニタニタ嗤いながらこたえた。
「俺のかわいい餓鬼どもが、腹をへらしているところに、おまえらが現れたんでな……。おまえらを狩って、俺のかわいい餓鬼どもに食べさせてあげるのよ」
「な、なんだと……」
 吉川と高井戸は、猿人が発した言葉の意味を、うまく咀嚼できなかった。
 餓鬼だと!? 餓鬼っていったい何だ? 餓鬼どもに、俺たちを喰わせる!? 人を食するのか、その餓鬼っていう奴は? 
「おまえらが、女か子どもだったら、この俺様がじきじきに食してやるがな。……男どもの硬い肉では、俺様の口にはあわんよ」
 猿人は、吉川と高井戸に近づいて行った。
 二人は一歩も動けない。死への予感が吉川と高井戸を恐怖の虜にしていた。
 猿人は、猫の糞のような異様な臭いのする息を吐き散らした。
 恐怖にすくんでいる高井戸の脚を、丸太のような太い右足で払う。鈍い音が鉄工所跡に響いた。骨の砕ける音だろう。猿人の一撃はいとも簡単に高井戸の両足の骨を砕いたのであった。
「これで、逃げることもできないだろう……。若い奴は、逃げ足も速いからな」
 猿人が言った。
「この、化け物めがー」
 吉川が拳銃を、取り出した。
「これでもくらえ」
 拳銃を、一発、二発と撃つ。
「そんなオモチャ、俺には通じないと言っただろうが……」
 猿人は、吉川の右手を拳銃ごと握った。そのまま握りつぶす。
「うっ、ううっ……」
 右手を握りつぶされた吉川の、くぐもった声が、猿人の鼓膜に届いた。猿人の持つ残虐な嗜虐性に一致したのであろう。猿人は海鳥が鳴くような奇声をあげて嗤った。
 嗤いながら、右手を握り潰されてうめいている吉川の左脚を、右手一本で持ち上げ、そのまま吉川の体を地面に叩きつける。
「おまえはそのままそこで、しばらく寝ていろ」
 吉川を昏倒させた猿人は、両足を砕かれ、耐えがたい苦痛を漏らしている高井戸の所に行き、高井戸の顎を汚らしい爪先で持ち上げた。
「若いの、おまえから料理してやるか」
 猿人は、高井戸の横っ面を叩き、銀縁の眼鏡を張り飛ばした。鋭い爪で高井戸の紺色の背広をはぎ取ると、高井戸の右腕を、強烈な力で捻って、むしりとった。絶叫をあげて苦しむ高井戸を横目にして、むしりとった高井戸の右手を無造作に地面に投げ捨てる。
「そう、吠えるなって。吠えたところで、誰も助けにこんよ」
 猿人は、高井戸の左腕に手をかけた。
「こっちの腕も、引き抜かなくちゃあなあ~」
 猿人は、息も絶え絶えになっている高井戸の左腕も、右腕と同じようにむしり取る。それを頭上に放り投げると、高井戸の左手は円を描き、錆びついたパワーロールクラッシャーの上にゴトリと音をたてて落ちた。
 猿人は、両腕を失った高井戸の胸倉を掴んだ。一閃の手刀で高井戸の首が胴体から切り落とされる。首は路上を転がり、気を失っている吉川の前で止まった。
 猿人は右手を頭上に挙げた。指を鳴らし、狼の遠吠えのような声をあげた。遠吠えに呼ばれたのか、どこからともなく数匹の奇怪なモノが、その場に出現した。
 十歳ぐらいの子供の背丈の大きさのそれは、前頭葉が異様に大きかった。身体に比べて明らかに大きすぎる頭部の頭頂部は見事に禿げ上がっており、側頭部にだけ、ゴワゴワとした白い剛毛が生えていた。身体は鉛色で、粗末な衣類を腰の周りにだけつけている。骨と皮だけがめだつ身体に、妊婦のように膨れ上がった腹部が、奇怪なモノの醜さを、より見事に演出しているかのようだった。
 餓鬼、食肉(じくにく)……。
 食肉は、長く伸びた両手の爪をガチガチ鳴らして、赤子がひきつけを起こした時のような鳴き声をあげた。
 食肉たちの赤くただれた醜悪な口元から、大量のよだれが流れる。長く細い、蛇みたいな舌を出して唇を嘗めると、また赤子がひきつけを起こしたような鳴き声をあげた。
 猿人は、高井戸の腹部に両手を突っ込んだ。両手を突っ込み、腹部を押し開いた。高井戸の腹部から大量の血潮が溢れ出る。腹部の奥から、紫色の脾臓をとりだし、それを食肉たちに投げ与えた。次に肝臓をとりだすと、まだビクビクと動いている心臓を、むしりとった。
「人の臓器が、おまえらの食前のデザートだったよな」
 猿人の言う言葉に食肉たちは奇声をあげてはしゃいだ。
 食肉たちの蛮声が、昏倒している吉川の脳裏に届いたのか、右手を潰され、地面に叩きつけられていた吉川の意識が回復した。
「こ、こんなことが……。こんなことがあってたまるか……」
 意識を回復した吉川の見た光景は想像を絶するものだった。
 地面にぶちまかれている大量の血と肉片。バラバラにされた吉川の手足。顔面を真っ赤な血に染めて、腸(はらわた)を、むさぼり喰っている食肉と呼ばれる餓鬼たち……。
「うぐぐっぐ……」
 吉川は、胃の中のものを全て吐き出した。
「おや? 目覚めたのかな……。目覚めたところで、数分後には、こいつらの餌になってしまうがな……」
 猿人が言った。
「そこまでにしなさい! 私の目の前で、これ以上の残虐な行為は許さないわよ」
 猿人と食肉と呼ばれる餓鬼の前に、一人の少女と一匹の犬が現れた。
 少女は、長くつややかな髪を風になびかせ、凛とした瞳で猿人を睨み付けていた。
「那美(なみ)……。やっと現れたか」
 猿人が言った。
「雁黄(がんき)、やっと現れたとは、どういう意味?」
 那美と呼ばれた少女が応える。
「すべては洪暫(こうざん)さまの計画どうり……。洪暫さまの思惑が当たったわ。食肉、行け!」
 雁黄に指図された食肉たちは、那美に一斉に襲いかかった。
 那美は跳んだ。跳躍しながら、胸元から若草色の香袋を取り出す。香袋の中から鴇色(ときいろ)の勾玉を取り出すと、それを宙に投げた。
「いでよ光破剣」
 叫ぶ那美。鴇色の勾玉が眩い光を放っ。勾玉が剣になる。龍の形をした鍔が柄の部分に現れ、刃の末端から切っ先にかけて白く輝く。刀身からプラズマが弾き出ているのだ。
 一匹の食肉が鋭い爪で、那美の顔面を切り裂こうとした。那美は光破剣を頭上から一気に振り落した。那美の顔面を切り裂こうとした食肉が、その面を真っ二つに斬られる。那美は、反す刀で、左側から、那美を手にかけようとした食肉の胴を斬り割いた。
 三匹目の食肉は、背後から那美に迫った。那美は振り返りもせずに、後ろから襲いかかった食肉の腹に、光破剣を突き刺した。
「でやゃぁー」
 那美は気合と共に、光破剣を食肉の腹から引き抜き、三匹目の食肉を倒すと、四匹目の食肉の首を光破剣で斬り飛ばした。那美の斜め後方にいた五匹目の食肉は、那美に左腕を一刀両断に切断され悶絶する。
「ぎゃぁあ~ ぎゃぁああ~」
 仲間が無様に切り刻まれたのを見て、怖じ気ついたのだろうか。残った数匹の食肉たちは、那美の周りから後退し始めた。
「ふん、やはり、おまえらでは歯がたたないか」
 雁黄が言った。
「この俺様がじきじきに相手をしてやるか」
 雁黄が、食肉たちを後ろに退けて、那美の前に立ちはだかった。
「一つ訊いてもいい」
 那美が言った。
「なにが訊きたい」
 雁黄が言う。
「おまえたちは、闇に生き、闇の中でしか生きてゆけないはず」
「昔はな……。が、もうその必要はない」
「必要がないだと!」
「那美、俺たち蒜壷(ひるこ)一族は、おまえの秘密を暴いたのさ」
「私の秘密を暴いた!?」
「わざわざ目立つ殺し方で、人を殺してやったのは、おまえをおびき出すためにしたこと」
「私を、おびき出すために……」
 那美の背筋に、緊張の影が忍び寄る。
 雁黄ら蒜壷一族は那美に怯え、那美を天敵として、闇の中で生きてきたはず……。
 その蒜壷一族が、なにゆえに私をおびき出す?
「私をおびき出して、どうするつもりなの。私はおまえたちには決して負けないわよ」
「どうかな? 俺たちは洪暫さまの元で、おまえのことを調べ上げ、凄まじい修練を積んできた。おまえに負ける気などさらさらない。……もっとも、俺たちは、おまえを殺すつもりもないがな。おまえを生け捕り、おまえが隠し持っている十種神宝(とくさのかんだから)を奪うだけさ」
 十種神宝……。
 古の昔、それは古代の豪族物部氏(ももものべし)が、その始祖と言われる天神から授けられた宝と言われているものである。十種類のそれらの宝は、それぞれ、はかりしれないな力を持っていたという伝説が残っている。
 雁黄が狙っている十種の神宝とは、物部氏が天神から授かったという十種の神宝のことを指すのだろうか?
「十種神宝って、それなに? 私はそんなもの知らないわよ」
 那美が言った。
「とぼけるな……。洪暫さまが、おまえが秘めていた秘密を、ほとんど解き明かした。おまえが三百年経っても、少女のままの姿でいられる秘密もな」
 雁黄は、せせら嗤うと身体を宙に躍らせた。宙で身体を反転させ、那美に迫る。
 那美は光破剣を構えなおした。
 雁黄が、黒く醜悪な爪を、那美の体に振り下ろす。那美は光破剣で、その爪を弾き返す。雁黄が、口から黄色い膿みのような、ねとねとした溶解液を吐き出す。那美は、素早くそれをよけ、光破剣を水平に薙ぎ払う。光破剣は、雁黄の胸に一筋の赤い傷を作る。が、致命傷には、ほど遠い……。
 異臭が鉄工場跡に充満する。腐った柑橘系の果汁の臭いと、活火山の噴火口からもうもうと湧き出る硫黄のような臭いが、鉄工場跡に満ちてゆく。雁黄の口から、放たれた、黄色い膿のようなねとねとした溶解液は、那美の傍らにあった強化プラスチック製のコンテナを、溶かし始めていたのだ。
 辺りを見ると、溶けているのはコンテナだけではない。樹脂製のパレットや鉄でできたパワーリフトも音をたてて溶けていた
 吉川は、この場から、直ぐに逃げ出したかった。恥も外聞もかなぐり捨てて、一目散に逃走したかった。が、体がいうことをきかない。地面に思い切り叩きつけられたショックで、全身が軋み、体が悲鳴をあげているのだ。
 吉川の前に、一匹の犬が立ち止まる。那美の相棒、呂騎だ。呂騎は、吉川に近寄って行き、吉川の頬を嘗めた。
「くすぐったい。嘗めるなよ。くすぐったいじゃあないか」
 吉川は、笑いながら泣いていた。
 このまま、俺は死んでしまうのだろうか……。まだまだ、やりたいことがいっぱいあるというのに……。
 吉川は、眼を閉じた。
 呂騎は、吉川の潰された右手を嘗め続けた。嘗められた吉川の右手が、ほんのりと桜色に光り、おびただしく流れ落ちていた血が止まった。心なしか痛みが和らいだ気がする。
「ん!? 」
 吉川は、眼を開けた。彼を優しい眼差しで見ている呂騎に気づく。
「おまえ……。俺を介抱してくれているのかい」
 吉川は怪我をしていない左手で、呂騎の頭を撫でた。人に馴れているのだろうか、呂騎は黙って、吉川に頭を任せていた。
 吉川の眼から、一筋の涙が溢れた。
 黒い犬が、吉川を癒している呂騎の前に現れた。精悍な黒い犬だ。雁黄の相棒、黒堕(こくだく)である。  
 黒堕は、うなり声をあげた。心臓を素手で掴みとられるような陰惨なうなり声だ。臆病な人間が聴いたなら震え上がり、卒倒するだろう。
 呂騎が鼻で嗤った。黒堕の陰惨なうなり声は、呂騎になんの脅威を与えていない。黒堕のうなり声は、呂騎にとっては、赤子の産声に等しいのだろう。
 黒堕は、呂騎に飛びかかった。呂騎が、黒堕を軽くかわす。軽くかわして、黒堕の首筋に噛みついた。
 黒堕は、首筋に噛みついた呂騎を振りほどこうともがいた。が、呂騎の強靭な牙は、がっちりと黒堕の首筋に食い込んでいる。外れそうにもない。激しく動き回り、なんとか呂騎の牙を外そうとする黒堕の首から鮮血が流れ落ちた。
「雁黄、あのまま放っとく気。あのままだと黒堕は命を落とすわよ」
 那美が言った。
「ふん、放っとくさ。黒堕はただの犬ではないんでな。自分でなんとかするだろうって。……それより、自分の身を心配したらどうだ」
「心配? 一体、何を心配するの。私は、おまえたちに負ける気はしないわ」
「ずいぶん、自信たっぷりだな」
「あたりまえよ。私の陰に怯え、闇の中でしか生きてこれなかったあなたたちが、私に勝てると思うの」
 那美は、あえて雁黄を挑発した。挑発することで、雁黄の動揺を誘っているのだ。
「ほざけ!! きさまなんか、俺たちの悔しさがわかってたまるか。俺の溶解液でぐちゃぐちゃに溶かしてやるわ」
 雁黄は、再び口から溶解液を吐いた。首を360度、振り回し、辺り一面にふりまく。
「どうだ。どうだ。どうだ。これはよけきれないだろう」
 雁黄は執拗に溶解液を吐き続けた。
 那美は、自分に降り注ぐ溶解液をすべて弾き返していた。光破剣をくるくると回し、自分の周りに障壁を造り、溶解液を退けているのだ。
「単純な攻撃ね。単純な攻撃は命取りになるわよ」
 那美は、雁黄の一瞬の隙をついて、背後から雁黄に、光破剣を振り落した。
「うぎゃぎゃあぎゃああぎゃ~」
 雁黄の左腕が、光破剣で斬り落とされる。
「おのれ~ よくも、よくも……」
 雁黄は、息も絶え絶えになりながら右腕を頭上にあげ、指を鳴らした。
 すると、新たなる餓鬼が現れた。外観は食肉という餓鬼に似ているが、新たに現れた餓鬼は食肉ではない。新たに出現した餓鬼は、針口(しんこう)という口径が異常に小さいが、腹部が太鼓のように大きい、世にもおぞましい醜い姿の餓鬼だった。
 那美の前に現れた新手の餓鬼、針口。その数、約二十数匹。二十数匹の針口が、口から炎をチロチロ出しながら、那美に迫った。
「針口ね。食肉の次は針口を出してきたか」
「そうよ、針口よ。おまえなど、針口の地獄の業火で焼かれるがいい」
 雁黄が、血まみれになった左腕の付け根の部分を抑えながら言う。
 針口の攻撃が始まった。二十数匹の針口が、炎を吐きながら、那美に飛びかかってゆく。
「遅いー」
 那美は、いとも簡単に針口の攻撃を退ける。
 針口は、那美の正面に立つことができない。突風のような那美のスピードについてゆけないのだ。針口が那美を確認し、攻撃態勢に移った時には、針口の首が地面に転がり落ちている。那美にとって、針口の緩慢な動きは、のろまな亀のようなものなのだ。
「黒堕、いつまで手間取っている」
 雁黄が、黒堕の首にくらいついている呂騎に蹴りを入れた。強烈な雁黄の蹴りに、呂騎が黒堕から離れる。
「いっとき、退散する。来い、黒堕!」
「逃げる気」
「ああっ、これ以上、ここにいても意味がないんでな」
 雁黄は、身をひるがえした。
「逃がさないわよ」
「馬鹿め、おまえの周りを見てみろ。腹を空かした餓鬼どもが、吉川という男を襲おうとしているわ」
 那美の光破剣を逃れた針口たちが、吉川に向かおうとしていた。動けない吉川は、針口にとって、恰好の餌にすぎやしない……。
「おのれ」
 那美は、跳躍し、吉川と針口の前に降り立った。
 光破剣が、風と共に針口の胴体をぶった斬る。
 一匹……、二匹……、三匹……、四匹……。吉川の前に瞬く間に、針口の惨たらしい死骸が積み重なった。
 呂騎が吠えた。那美に、雁黄と黒堕がそこからいなくなってしまったことを告げる。
 那美は、呂騎の傍らに駆け寄り、呂騎の頭を撫でた。
「説明してくれっ! あの化け物は、いったい何なんだ。あんたらは何者だ。餓鬼という生き物は空想上の怪物ではなかったのか!?」
 と、吉川が言った。
「私は……」
 那美は、悲しそうに眼を伏せた。
「教えてくれっ! あんたは何者だ。あの化け物は、なんなんだ。人の……、人の肉を……、高井戸の肉を喰らった餓鬼という生き物は、どこから湧いて出たんだ」
 吉川は、涙ながらに、那美に訴えた。
 高井戸は、生意気な口ばかりきいて、どこか人を小馬鹿にしているような態度をとっていたが、吉川にとって、高井戸はかけがいのないかわいい部下だった。
 世代間の違いが生む、感情の擦れ違いや、価値観の違いのせいで、度々衝突することがあったが、それはそれでいい刺激になった。
「なあ、教えてくれよ……。高井戸は、なぜ、死ななければならなかったんだ。あいつはまだ二十五なんだぞ。死ぬには早すぎるだろうが」
 吉川の慟哭は続く。
 那美は、吉川の後方に立った。吉川の額に手をかざす。
「へっ?」
 那美の両手の掌から、淡い桜色の光が放射される。桜色の光は拡がり、地べた寝そべっている吉川の体を優しく包み込んだ。
 吉川は、温泉にでも浸かっているような感覚に陥った。冷え切っていた体が、ポカポカと温まり、急速に痛みが和らいでゆく。
 この娘は、この俺を介抱してくれているのか……。あの犬と同じように、優しく、俺を包み込んで……。
「うっううっうっ……」
 那美が与える治癒効果は、呂騎以上のものだった。瞬く間に、吉川の身体が癒されてゆく。
「なあ、あんた。なぜ、応えてくれないんだ。そこで醜い死骸をさらしている餓鬼とかというモノはなんだ……」
 那美は答えない……。悲しそうな顔をして、艶やかな睫毛を揺らした。
 音が聞こえる。肉が焼け焦げるような音だ。
「な、なんだ、これは……」
 吉川は、那美によって命を絶たれた餓鬼たちの死骸の変容に、眼を奪われた。
 餓鬼、食肉。餓鬼、針口。二つの種の餓鬼の死骸が、音をたてて溶け始めているのである。
「生を絶たれた餓鬼は、溶けて、やがて塵となって跡形もなく消え去るのみ。その痕跡さえ残せない……」
 と、那美が言った。
 廃れた鉄工場跡に、散らばった食肉と針口の合わせて三十体にも及ぶ切り裂かれた無残な餓鬼の死骸が溶けてゆく。奇怪な首や、鉛色の胴や、筋くれだった手足が、ジュウジュウと朽ち果ててゆき、吐き気をもよおす臭気を辺りに漂わせながら、やがて塵となって消えて行く。
「刑事さん……、あなたの潰された右手は、もう元には戻らないでしょう。けれど、身体の方はすぐに回復する。あと十分もすれば、立ち上がることができるようになる」
「……おまえが、俺の身体を直したというのか?」
「私は、人が本来持つ回復力に力を送っただけ」
「おまえは、何者?」
 吉川が、再び問う。
「あなたたちが、私と、蒜壷一族を知れば、あなたたちはかつてないほどの衝撃を受け、遅かれ早かれパニック状態になるでしょう。私は、人間社会の混乱を避けるために、蒜壷一族に関わってきた人間の記憶をすべて消してきた」
 獰猛な怪物にしか見えない蒜壷一族と、醜悪な化け物にしか見えない餓鬼という生き物に、人々は嫌悪し、到底受け入れることはできないだろう。
 それゆえ、那美は蒜壷一族とかかわった人々の記憶を消してきたのだ。
「俺の記憶も消すのか?」
 吉川が言う。那美はうなずいた。
「そうか……」
 何か思うことがあるのだろうか? 吉川は、左手をズボンのポケットに突っ込んだ。吐く息は、まだ荒い。
「ひとつだけ教えてくれ……。幼児が惨殺された公園の事件は、奴らがやったことなのか?」
「そう……。蒜壷一族の所業よ。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「奴らは、決して犠牲になった人間を、人前にさらすようなことはしなかった。それが、なぜ?」
 人に、その存在を知られてはならない蒜壷一族は、殺した人間を食しては、その遺体を巧妙に処分してきた。その処置を行うことで、いままでその存在が隠してきたのだが……。
 那美は、眉をひそめた。
「呂騎、お願い……」
 那美が言った。呂騎が、吉川の前に立つ。呂騎の眼に紫色に輝く十字の眼光が宿る。あやしく光る呂騎の眼光に魅せられて、吉川の意識が遠のく。呂騎が、吉川の記憶の中から、ここであったすべてのことを消しているのだ。
「警察には、直ぐに連絡を入れるから、刑事さんは、そこでぐっすりと眠っていてね」
 那美が吉川の肩に、そっと手を置いた。吉川が、すやすやと眠り始める。
「呂騎、雁黄の跡を追うわ」
 那美は短く、そう言った。
 寂れた鉄工場跡に吉川を残して、那美と呂騎は、再び姿をくらませた。



               2、

 吉川は、I県鹿沼市の郊外にある県立鹿沼総合病院の一室で目覚めた。
 病室は、他の一般患者と隔たれた特別室のようだった。バルーンカテーテル、べースメーカーなどの最新式の医療機器が、部屋に置かれ、二十四時間病室を監視するカメラまでついている。
(医者は、もうこの右手は元には戻らないと言っていた……)
 吉川は、左手で右手を擦った。
 骨という骨が粉々に砕けていた右手。神経と筋肉がいたるところで寸断され、手の施しようがなかった。
 吉川のゴツゴツした逞しい右手は、いくどともなく凶悪な犯罪者を、締め上げてきた。サバイバルナイフを滅茶苦茶に振り回す狂犬じみた若い奴を、締め上げた時もあった。前科五犯にも及ぶ凶暴なヤクザを組み伏せたときもあった。長年逃げ回っていたコソ泥を捕まえたときは、達成感に酔いしれ固く右手を握りしめたものだ……。
 もう、その右手は使い物にならない。
 吉川は眼を閉じた。
(……しかし、なぜだ? なぜ、俺の右手が潰されているのだ。俺は高井戸とパトロールに出ていたはずだ……。高井戸と、浜通りを警らしていたはずだ)
 吉川の脳裏から、雁黄という化け物に出遭ってしまったという記憶が、すっぽりと消えていた。餓鬼という化け物と出遭った事実も、那美という少女に命を救われたことも、頭の中から消え失せていた。
 病室のドアをノックする音がする。誰かが来たようだ。
「気がついたか?」
 吉川の返事を待たずに病室の中に入って来た男たちは、吉川の意識が回復するのを、ずっと待っていたようだった。待ちくたびれたような顔をしている。
「武井警部(たけいけいぶ)……。室緒(むろお)」
 吉川の病室に、やってきたのは、同じ署に勤務する同僚と上司だった。その後ろに医者らしき男が立っている。
「一体、なにが、あったのかね?」
 武井警部が言った。
「なにがあって、どんな状況で、高井戸は殺されたんだ?」
 高井戸は署内でも屈指の猛者と言われている男だった。柔道三段はだてではない。町を歩く顔見知りのチンピラが、高井戸を見つけると、すごすごと道をゆずるのだ。
 その高井戸が殺されただと!?
「高井戸を殺し、君の右手を潰したのは誰なんだ?」
 武井警部の質問は、続く。
 吉川は、武井警部の話しが耳に届かないのか、ぼんやりとしていた。武井警部が何を言っているのか把握できない。本当に高井戸が殺されたのか。
「警部……」
 吉川が、ぼそりと言った。
「なんだ?」
「俺……。ずっーと眠っていたんですか?」
 吉川はベッドの脇のサイドテーブルに備え付けられてあるカレンダー付のデジタルクロック時計を見ながら言った。
「ああっ、君がここに運ばれてから二日ほど経っている。君はまる二日間、眠り続けていたんだよ」
「そうですか……」
 吉川は自分が、そんなに長い間、眠っていたということが信じられなかった。
 仕事に追われ、ここ三十年、八時間以上続けて眠ることなどなかった。その俺が、二日間も眠り続けていたのか……。
「吉川くん、もう一度言う。一体、何があった?」
 武井警部が言った。
「俺は……、俺は……」
「どうした? なにが、あった?」
「俺は……、俺は……」
 吉川は、頭を振った。
「ダメだ! 何も覚えていない……。高井戸と、パトロールに出て、浜通りまで行ったのは覚えてはいるが、その後のことは……」
「なぜ、なぜ、覚えていない? 君は現場にいたんだろう。人がそこで殺されているんだよ。同僚の高井戸くんが!」
 武井警部は、思わず、吉川の肩を揺さぶった。
「犬が……、犬の眼が光って……。あっー、ダメだ。思いだせない」
 吉川は、頭を抱えた。
「吉川くんー」
 事件現場にいた刑事が、なにも覚えていない? 若く優秀な刑事が惨殺され、経験豊かな刑事が右手を潰されていたのだ。現職の刑事が、その現場にいて何も覚えていないことなどありえない。
「部長……。よしましょう。吉川さんは、本当になにも覚えていないようだ」
 武井警部の隣で、室緒が言った。
 室緒 武。公園で起きた幼児殺害事件の実質的なリーダーである。ここに来るまで室緒が指揮をとり、事件の捜査を展開してきた。吉川と高井戸は、その捜査の途中で襲われたのだ。
「吉川さん、これは、あなたのものですね」
 室緒は、吉川の前に煙草の箱のようなボイスレコーダーをかざした。
「俺のものだ……。警らに出るときは、いつも持ち歩いている……」
「そうですか……。では、録音されていた音声を聴いてみてください」
 室緒は、ボイスレコーダーのスィッチを押した。
 ボイスレコーダーから吉川の声が漏れ、続いて女の声が聞こえてきた。
「この女性の声に聞き覚え、ありませんか? この女性は誰なんです」
 室緒が言った。
「この女性は、実に重大な証言をしています。幼児殺害事件の犯人を知っていると言っているのです。吉川さん、蒜壷一族って何者なんですか?」
「俺は……」
「思い出しませんか。この録音は、吉川さんが、機転を利かせて録ったものだと思いますが、そうなんでしょう」
「俺は……、俺は……、俺は……、ダメだ、ダメだ、ダメだ、何も思い出せない」
 吉川は、左手で顔面を掴んだ。
「これを聴かせてもダメか……。警部、行きましょう。吉川さんは、まだ回復していないようですから」
 室緒はそう言うと、ボイスレコーダーを懐にしまい込んだ。
「佐藤先生、頭の方は、吉川くんの頭の方は、なんともなかったのかね」
 武井警部が、後方に控えている医師に言った。
「脳内に出血の跡が、ありましたが、脳波は正常です……。ただ、強いショックを受けていたようですから、その後遺症のせいで、記憶があいまいなのかもしれませんが」
「治る見込みがあるのか?」
「いまは、なんとも言えません……。もう少し、様子を見ませんと……」
 呂騎が奪った吉川のあの夜の記憶は、もう戻ることはないだろう。
 無理に想いだそうとすると、呂騎の怪しく光った瞳だけが、残像として、吉川の脳裏に浮かぶのだ。
「分かった、わかった、もう、いい」
 武井警部は片手で佐藤医師の肩を「ポン、ポン」と叩いた。
「警部、行きましょう」
 室緒が促す。
 武井警部が室緒を見て、
「例のことを調べるのかね」
 と言った。
「ええっ、調べてみますよ。蒜壷一族と……。それと、現場に残っていた獣毛のことをね」
 室緒はそう言うと、武井警部と共に、病室を出て行った。
 蒜壷一族……。
 室緒は、ネットや文献で、できる限り、その一族のことを調べてみたが、どこにもそんな一族の存在など記しているものなどなかった。
 一族というキーワードを外して、ヒルコという言葉のみで意味を調べてみると、ヒルコというのは『古事記』や『日本書紀』という日本の神々を描いた古い書物の中に登場する古代神のひとりらしい。
 蛭子とも水蛭子とも記されてはいるが、ここでは蛭子と記して話を進めてゆこう。
 蛭子は、国産みの神、イザナギ、イザナミの間に生まれた最初の子だった。骨もない、ぶよぶよとした不具の子だったために、葦の舟に入れられて、イザナギとイザナミが造った最初の島、オノゴロ島から流されてしまう。
 葦の舟に入れられて海に流された蛭子は、どこにたどり着いたのであろうか?
 日本各地に、蛭子らしい生物が流れ着いたという伝承が残っているが、一般的に摂津の国の西宮に流れ着いたとされている。西宮に流れ着いた蛭子は、漁師の戎(えびす)三郎に拾われて、それ以後は、戎神(えびすかみ)となったという。
 戎神=(イコール)七福神で著名な恵比寿神のことである。
 七福神は日本で信仰されている神であり、最も身近な神でもある。その中でも恵比寿神は、他の六人の神様たちと違って日本唯一の神である。(他の六人の神、大黒天、毘沙門天、弁財天はヒンドウー教の神、福禄寿、寿老人は道教の神、布袋は実在した仏教の僧だと言われている)
(蛭子……、転じて、恵比寿となるか)
 室緒は、パソコンのキーボードに、エビスという文字を打ち込んだ。
 打ち込むと、戎、恵比寿、蛭子という文字が出てきた。
 蛭子と書いて、蛭子(エビス)と読む……。
「室緒さん、科捜研から連絡が入りました」
 室緒がいる県警の資料室に、室緒の部下である、高橋が入ってきた。
「で、科捜研は、なんだと言っている?」
 室緒は、振り向きもせずに言った。眼は、パソコンのモニターを見つめている。
「送られてきた獣毛の特定は難しいとのことです」
「特定が難しい!? どういうことだ?」
「何の動物の毛だが、分からないとのことなんですが……」
 室緒は、振り向いた。
 現場の状況は、あまりのも凄まじいものだった。
 砕け散ったコンクリート片が、そこら辺に散らばり、五、六本の鉄パイプが、ぐにゃりと飴が曲がるように曲がっていた。側部がへこんだフォークリフトが横倒しになっており、辺り一面、血の海だった。
 まるで、象かゴリラなどの大型の動物が、そこで暴れたかのようなありさまだったのである。
 室緒は、最初、その蒜壷一族という奴らが、飼いならした凶暴な動物を使って、吉川たちを襲ったと推理していたが……。
「女の声は……、ボイスレコーダーに残されていた女の声の分析は、どこまで進んでいる?」
「声の質からいって、十代から二十代の女性だと思われるということです。話している言葉は、特に訛りもなく、普段我々が使っている標準語に近いものです。これから、それぞれの言葉にかかるアクセントの違いから、どこの地方の出身なのか、プロファリングをしてみると連絡してきました」
「そうか……。よろしく頼むと言っておいてくれ」
 人が殺されているのに、犯人にたどり着けるような手がかりは、ほとんどない。
 幼児殺害事件から、連日連夜、全職員を総動員し、捜査にあたっているのに、犯人らしき人物を見たという目撃者は現れず、犯人が残していったと思われる、遺留品もみつかっても、それがなんなのか特定ができない。現場に遭遇した刑事は殺され、生き残った刑事もまた、右手を潰されていた。
(科捜研の調べが、何かのヒントになればいいが……)
 室緒は、パソコンのモニター上に映っているユーモラスな恵比寿さまの、漫画を見つめた。
 ふくよかな体格で、右手に釣り竿を持ち、左胴に二歳児くらいの大きな鯛を抱えている恵比寿さま。
 この神様と、残虐な殺人を行っていると思われる蒜壷一族が、つながっているとは、どうしても思えない。
 室緒は、パソコンのスィッチを消した。





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