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『誕生日*前々日』side伊織
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◇
もっと触れてしまったなら
もっと感じてしまったなら
もっと深く繋がってしまったなら
——きっと俺は抱えきれなくなるだろう。
大和のことが好きなのに
大和のことが好きだからこそ
今ある幸せが怖くて仕方ない。
いつか終わるのだとしたら
いつか離れ離れになるのだとしたら
これ以上好きになってしまったら……きっと俺は耐えられない。
——堪えきれなくなった俺の想いは、いつか大和を傷つけるのだろうか。
◇
机に触れていた手の先から伝わってきた振動に、とっさに視線を向けると大和の名前が表示されていた。隣に置かれたデジタル時計を確認した俺はシャーペンを指に引っ掛けたままスマートフォンの画面に触れる。
「伊織?」
少し弾むような声が聞こえ、耳へと持っていこうとした手が一瞬止まる。
「……うん、部活終わったの?」
大抵、大和が電話をかけてくるのは二十二時過ぎだったが、今はまだ二十時半だった。家に早く着いたのか、それとも練習が長引いたのか、その時刻があまりにも中途半端なので、俺には判断がつかない。
「終わった、終わった。あ、実はもう家だから」
「そうなの?今日終わるの早かったんだ」
中指に通したスマホリングの硬さもふわりと染み込むような冷たさも、今はもう心地よく感じられるほど馴染んでいる。
「いつもこの時間はまだ電車乗ってるくらいだもんなぁ。今日は監督が決勝リーグ見に行ってていなくてさ。だからたまには早めに終わろうって」
「それでいいの?成瀬主将?」
「あー、その呼び方やめて」
たとえ見えなくても、大和が照れた顔を隠そうと目を閉じているのが想像できる。
大和の困っている表情が伝わってくるから、余計に俺はいじりたくなってしまう。
「なんでだよ。主将だろうが。いい加減慣れないと」
「わかってるんだけどさぁ。なんかまだくすぐったいんだよ」
こうして電話を通して聞こえる大和の声が、こんなにも明るく響くのは久しぶりだった。
「なんだよ、それ。……あ、今日は寝落ちしなさそうだな」
「さすがにまだこの時間だからな。いや、ほんと毎回ごめん」
学年が変わると同時に大和たちバスケ部の監督が変わった。それに伴い、バスケ部の活動は以前とは比べものにならないほど忙しくなっていた。新しく着任した監督が全国にも行ったことのある有名な人らしく、今まではどこか遠い目標だった全国大会が急に目の前の目標に変わったのだと、大和は言っていた。
「それだけ疲れてたってことだろ、別にいいよ。せっかく早く帰れたんならもう寝たら?」
「いやいやまだ九時前じゃん。寝るには早すぎるでしょ」
「いつも話してる途中で寝落ちてたくせに」
「それはもうほんとごめんって。でも、今日はさ、こうやって話せてるんだし、その……俺だって、本当はもっと長く話したいっていうか……」
少しずつ小さくなっていく大和の声が、それでも俺の耳の奥に触れる。
「大和、顔赤いよ」
「っ……!見えてないのに適当言うなよ」
「いや、見えなくても声でわかるから」
大和が「なんだよそれ」と動揺を隠せずに声を揺らすのを、俺は自分の胸が温かくなるのを感じながら笑ってやった。
——こんなふうに話せることがずっと『当たり前』だった。
クラスが別れても、部活が忙しくなっても、一緒に登下校ができなくなっても、俺たちは何も変わらないのだと、そう思っていた。だけど、実際は一日一回顔を見て話すことも難しく、電話やメッセージのやり取りはしても、気づくと大和が疲れて寝落ちることが多かった。
——変わっていく環境に少しずつ俺たちの『日常』は変化していた。
「伊織……あのさ、」
「ん?」
急に声のトーンを変えた大和に、俺は何も気づいていないかのように聞き返す。
「明後日なんだけど」
「あぁ、何?どっか連れてってくれんの?」
そう返しながらも、俺は胸の中に刺さったままの小さなトゲの存在に気づいている。
——本当は;続く言葉を予想しているくせに、俺はわずかな可能性の方を期待したのだろうか。
「ごめん!!」
「……」
「本当は一日一緒にいたかったんだけど、ちょっと無理そうでさ……でも、夕方には用事終わるだろうから、だから……」
——俺はこの結果を予想していた。
大和が何を考え、何を選択するのか、わかっていた。
だから、こんなことで傷ついたりなんか、苦しくなったりなんかしない。
——この大和の選択を俺は望んでいたのだから。
*
——今日の移動教室の時間だった。
教室から続く人の流れに乗って歩いていると、いつのまにか佐渡さんが俺の隣を歩いていた。近くにはいつも一緒にいる佐渡さんの友達が何人か固まっていて、狭い廊下を進むうちに自然と俺の横のスペースに収まった、そんな感じだった。
すぐ前を行く友達の視線がこちらを離れたからだろうか、そっと静かに吐き出されたため息に、気づいてしまった俺は思わず声をかけていた。
「バスケ部、忙しそうだね」
「!え、あ、あー、ごめん。今めっちゃため息ついてたよね」
そう恥ずかしそうに困った顔で佐渡さんが笑うと、その小さな動きに合わせて一つに結ばれている髪の先が揺れた。夏服の白いシャツと擦れて乾いた音がふわりと届く。
「ため息くらいみんなつくから、大丈夫だよ」
「……ありがとう」
ホッとしたように緩ませた表情に、俺よりも小さなその肩がずっと強張っていたのだと気づく。
「部活、大変なんでしょ?」
「うん、もうずっと忙しくて。今年は練習試合も多いし。バスケは好きだからいいんだけど、お休みがね、あまりにも少なくて」
そう言って佐渡さんは肩を大きく動かして、思いっきり息を吐き出した。それが先ほどの誰かに遠慮するようなため息とは明らかに違ったので、俺もわずかに残っていた力を緩ませた。
「練習も毎日遅くまでやってるもんね」
「うん。みんなすごい頑張ってるよ。本気で全国に行きたいんだって伝わってくる。……でも、辞めちゃった部員もいて、全部が全部よかったとは言えないかな」
「そっか」
「ま、でも私はあくまでマネージャーだからね。私なんかより成瀬くんの方がよっぽど大変だと思うよ」
わざとらしく投げかけられたその視線に、大和の名前を口にするその声に、今はもう『部活仲間』としての意識の方が強いのだと、伝わってくる。きっと佐渡さんは俺にそう伝わるように言っているのだろう。
「大和、主将だもんね」
「それもあるけど、期待の表れっていうのかな?監督、成瀬くんにはとくに厳しいんだよね」
「期待……」
「うん、今度監督の知り合いにも挨拶させるって。でもわざわざ部活休みの日に引っ張り出すのはさすがにどうかと思うんだよね」
移動の目的地である視聴覚室はもう目の前だった。周りのみんなが吸い込まれていく流れに合わせて動かしていたはずの俺の足が、一瞬止まりかける。
「休み?休みって日曜のこと?」
わずかに乱れたリズムを誤魔化すように俺は小さく笑いながら会話を続ける。
「うん。あれ?聞いてない?あ、そっか今日はまだ会ってないか。この話出たの朝練のあとだったし」
「……そうなんだ」
「あ、もしかして日曜に何かあった?」
見上げてきた視線をゆっくり受け流して、俺は引かれていた暗幕を持ち上げた。佐渡さんは俺に促されるように作られた入口へと顔を戻していく。
「ううん、大丈夫」
そう答えた俺の声は、薄く広がる暗闇の中へと進む小さな背中にぶつかって静かに落ちていった。
*
——佐渡さんに返した言葉は嘘ではない。
「いいよ、無理しなくて」
「違っ、無理なんかじゃなくて」
「俺は大丈夫だから」
「っ、伊織が大丈夫でも、俺が大丈夫じゃないからっっ!!」
「!」
「伊織の誕生日なのに、本当にごめん。終わったら連絡するから、だから……会いに行ってもいい……?」
叫ぶように声を大きくした大和が、急に不安げに言葉を揺らす。大きな体を縮め、自信なさげにこちらを窺う大和の顔が浮かび、俺は思わず笑ってしまった。予想通りにはいかない大和が、どちらも掴もうとする欲張りな大和が、俺のことを決して離そうとはしない大和が、愛しくて、可愛くて……苦しかった。
「……ふ、ふは、なんだよ、なんで急に弱気なの?」
「いや、だってさ、」
今、この瞬間の大和の顔が見たい。
今、この瞬間の大和の声に直接触れたい。
今、この瞬間の大和にもっと……
「……大和、」
「?」
「明後日、実は母さんも出張入っちゃっていないんだよね」
俺は先ほどの食卓での母さんの悲しそうな表情を思い出す。仕事なのだから仕方ないし、気にしなくていいと言った俺に、母さんは「私にとってはどんな記念日よりも大事な日なのに仕事を優先しなきゃいけないなんて……」と本当に悔しそうな声でため息をついていた。俺にとってはその言葉だけで十分だった。
「……久しぶりに、家泊まりに来る?」
「!」
「あ、でも、次の日学校だし無理にとは言わないけど」
「行く!遅くなっても絶対行くから!!」
俺が話終わるよりも早く、前のめりに大和の声が耳に響く。
「お、おう」
「あ、じゃあ、俺ケーキ買ってくわ」
「いや、そこまでしなくても」
「いいじゃん、丸いケーキなんて滅多に食べれないし」
大和の弾んだ声に思わず聞き流しそうになって、俺は緩めてしまった口元を慌てて戻す。
「いや、待って。ホールケーキ買おうとしてる?二人でホールとか地獄でしかないから」
「小さめのならいけるっしょ」
「絶対無理だから。……夕飯入らなくなってもいいなら買えば?」
ポツポツと、目の前の窓に水滴が見え始め、俺は耐えきれずにつけてしまっていたエアコンを停止させた。
「!え、あ、もしかしてなんか作ってくれようとしてる?」
「別に、大和のためじゃなくて、自分の分のついでだから。いらないならいいけど」
鍵を外して窓を開けると、湿気の混じり始めた風が流れてくる。雨の匂いと低くなった気温がゆっくりと部屋の中に広がっていく。この地方の梅雨入り宣言がされたのは、つい三日前のことだった。
「いる!いります!お腹空かせて行くから!」
「ふ、ふは、そんな必死に言わなくても」
思わず笑ってしまった俺に柔らかな静けさが伝わってくる。大和が何も言わずに俺の笑い声に耳を傾けているのだと感じて、胸の中がじわりと熱くなった。
「……なんか、ごめんな」
「え?」
「伊織の誕生日なのに、俺の方が得してるから」
——耳に響くその声だけで、簡単にわかってしまうから。
「別にいいよ……来てくれるんだろ」
「!……うん、絶対行くから。二人でお祝いしような」
——そのあまりにも優しい空気に、大和が今どんな表情をしているのか、想像するだけで俺は泣きそうだった。
「うん、ありがと」
——大和がバスケットを、自分の未来を、俺とは関係なく選択してくれることに、俺は寂しさを感じつつもどこかでホッとしていた。
*
——二年になって初めての選択授業の時、佐渡さんと俺は隣の席になった。
同じクラスになってから何度か挨拶程度は言葉を交わすようになっていたけれど、それ以上は踏み込まないようにしていた。意識するほどではないかもしれないけれど、どうしたって気まずさを感じてしまうのは事実だったから。それはきっと俺だけが思っていることでなくて、佐渡さんも同じだと思うから。
「あれ?伊織くんて理系じゃないの?」
だから、こんなふうに話しかけられるとは思っていなかった。
驚いた俺の反応は一瞬遅れた。
「……あ、うん。俺は文系選択なんだよね」
「そっかぁ。伊織くんどっちもできるから、てっきり成瀬くんたちと一緒に理系なのかと思ってた」
成瀬くんたち——そうさりげなく佐渡さんが含ませてみせた人物に思い当たって、自然と笑いがこぼれる。
「え、何?何?私、なんか面白いこと言ったっけ?」
「ううん、何でもないよ。佐渡さんこそ理系じゃないんだね」
「私?私は理数系まったくダメだから。選んだというよりは消去法に近いかなぁ」
——佐渡さんがバレンタインデーの日に大和と何を話したのか俺は知らなかったけれど、その後、佐渡さんは俺に「この前はごめんね。ありがとう」と言いに来てくれた。
「伊織くんは?何かやりたいことあるの??」
「俺は……まだ考え中かな」
「そっか。そうだよね。まだ二年になったばっかだもんね。私もとりあえずは部活でいっぱいいっぱいだからなぁ……あ、先生来ちゃった」
そこで会話は途切れてしまったけれど、俺の中にずっとあったしこりのようなものはフワリと消えていて、代わりにくるくると表情を変えて話す佐渡さんの可愛さに小さく笑ってしまった。
俺は今ごろ大和と一緒にいるであろう友人の顔を浮かべながら「これはライバル多そうだな」と心の中で呟いていた。
*
声を重ねて通話を切る、たったそれだけのことで嬉しくなって、同時に感じた懐かしさに少しだけ切なくなる。画面に映る大和の名前を見つめたまま、俺はしばらくその手を離せずにいた。
「……いい加減、言わないと」
指から外したスマホリングを立てたまま机に載せると、静かに消えていたバックライトが反応した。桜の景色の真ん中に表示された日付に、俺はそっとため息をついてから机の上に広げていた書類へと視線を移した。
◇
『当たり前』だと思うほどに、
『日常』だと感じるくらいに、
いつの間にか、習慣化されて意識すらしなくなっていた。
そうなるためには、たくさんの時間が必要だったけど。
——それを失うのは、きっと一瞬だ。
◇
もっと触れてしまったなら
もっと感じてしまったなら
もっと深く繋がってしまったなら
——きっと俺は抱えきれなくなるだろう。
大和のことが好きなのに
大和のことが好きだからこそ
今ある幸せが怖くて仕方ない。
いつか終わるのだとしたら
いつか離れ離れになるのだとしたら
これ以上好きになってしまったら……きっと俺は耐えられない。
——堪えきれなくなった俺の想いは、いつか大和を傷つけるのだろうか。
◇
机に触れていた手の先から伝わってきた振動に、とっさに視線を向けると大和の名前が表示されていた。隣に置かれたデジタル時計を確認した俺はシャーペンを指に引っ掛けたままスマートフォンの画面に触れる。
「伊織?」
少し弾むような声が聞こえ、耳へと持っていこうとした手が一瞬止まる。
「……うん、部活終わったの?」
大抵、大和が電話をかけてくるのは二十二時過ぎだったが、今はまだ二十時半だった。家に早く着いたのか、それとも練習が長引いたのか、その時刻があまりにも中途半端なので、俺には判断がつかない。
「終わった、終わった。あ、実はもう家だから」
「そうなの?今日終わるの早かったんだ」
中指に通したスマホリングの硬さもふわりと染み込むような冷たさも、今はもう心地よく感じられるほど馴染んでいる。
「いつもこの時間はまだ電車乗ってるくらいだもんなぁ。今日は監督が決勝リーグ見に行ってていなくてさ。だからたまには早めに終わろうって」
「それでいいの?成瀬主将?」
「あー、その呼び方やめて」
たとえ見えなくても、大和が照れた顔を隠そうと目を閉じているのが想像できる。
大和の困っている表情が伝わってくるから、余計に俺はいじりたくなってしまう。
「なんでだよ。主将だろうが。いい加減慣れないと」
「わかってるんだけどさぁ。なんかまだくすぐったいんだよ」
こうして電話を通して聞こえる大和の声が、こんなにも明るく響くのは久しぶりだった。
「なんだよ、それ。……あ、今日は寝落ちしなさそうだな」
「さすがにまだこの時間だからな。いや、ほんと毎回ごめん」
学年が変わると同時に大和たちバスケ部の監督が変わった。それに伴い、バスケ部の活動は以前とは比べものにならないほど忙しくなっていた。新しく着任した監督が全国にも行ったことのある有名な人らしく、今まではどこか遠い目標だった全国大会が急に目の前の目標に変わったのだと、大和は言っていた。
「それだけ疲れてたってことだろ、別にいいよ。せっかく早く帰れたんならもう寝たら?」
「いやいやまだ九時前じゃん。寝るには早すぎるでしょ」
「いつも話してる途中で寝落ちてたくせに」
「それはもうほんとごめんって。でも、今日はさ、こうやって話せてるんだし、その……俺だって、本当はもっと長く話したいっていうか……」
少しずつ小さくなっていく大和の声が、それでも俺の耳の奥に触れる。
「大和、顔赤いよ」
「っ……!見えてないのに適当言うなよ」
「いや、見えなくても声でわかるから」
大和が「なんだよそれ」と動揺を隠せずに声を揺らすのを、俺は自分の胸が温かくなるのを感じながら笑ってやった。
——こんなふうに話せることがずっと『当たり前』だった。
クラスが別れても、部活が忙しくなっても、一緒に登下校ができなくなっても、俺たちは何も変わらないのだと、そう思っていた。だけど、実際は一日一回顔を見て話すことも難しく、電話やメッセージのやり取りはしても、気づくと大和が疲れて寝落ちることが多かった。
——変わっていく環境に少しずつ俺たちの『日常』は変化していた。
「伊織……あのさ、」
「ん?」
急に声のトーンを変えた大和に、俺は何も気づいていないかのように聞き返す。
「明後日なんだけど」
「あぁ、何?どっか連れてってくれんの?」
そう返しながらも、俺は胸の中に刺さったままの小さなトゲの存在に気づいている。
——本当は;続く言葉を予想しているくせに、俺はわずかな可能性の方を期待したのだろうか。
「ごめん!!」
「……」
「本当は一日一緒にいたかったんだけど、ちょっと無理そうでさ……でも、夕方には用事終わるだろうから、だから……」
——俺はこの結果を予想していた。
大和が何を考え、何を選択するのか、わかっていた。
だから、こんなことで傷ついたりなんか、苦しくなったりなんかしない。
——この大和の選択を俺は望んでいたのだから。
*
——今日の移動教室の時間だった。
教室から続く人の流れに乗って歩いていると、いつのまにか佐渡さんが俺の隣を歩いていた。近くにはいつも一緒にいる佐渡さんの友達が何人か固まっていて、狭い廊下を進むうちに自然と俺の横のスペースに収まった、そんな感じだった。
すぐ前を行く友達の視線がこちらを離れたからだろうか、そっと静かに吐き出されたため息に、気づいてしまった俺は思わず声をかけていた。
「バスケ部、忙しそうだね」
「!え、あ、あー、ごめん。今めっちゃため息ついてたよね」
そう恥ずかしそうに困った顔で佐渡さんが笑うと、その小さな動きに合わせて一つに結ばれている髪の先が揺れた。夏服の白いシャツと擦れて乾いた音がふわりと届く。
「ため息くらいみんなつくから、大丈夫だよ」
「……ありがとう」
ホッとしたように緩ませた表情に、俺よりも小さなその肩がずっと強張っていたのだと気づく。
「部活、大変なんでしょ?」
「うん、もうずっと忙しくて。今年は練習試合も多いし。バスケは好きだからいいんだけど、お休みがね、あまりにも少なくて」
そう言って佐渡さんは肩を大きく動かして、思いっきり息を吐き出した。それが先ほどの誰かに遠慮するようなため息とは明らかに違ったので、俺もわずかに残っていた力を緩ませた。
「練習も毎日遅くまでやってるもんね」
「うん。みんなすごい頑張ってるよ。本気で全国に行きたいんだって伝わってくる。……でも、辞めちゃった部員もいて、全部が全部よかったとは言えないかな」
「そっか」
「ま、でも私はあくまでマネージャーだからね。私なんかより成瀬くんの方がよっぽど大変だと思うよ」
わざとらしく投げかけられたその視線に、大和の名前を口にするその声に、今はもう『部活仲間』としての意識の方が強いのだと、伝わってくる。きっと佐渡さんは俺にそう伝わるように言っているのだろう。
「大和、主将だもんね」
「それもあるけど、期待の表れっていうのかな?監督、成瀬くんにはとくに厳しいんだよね」
「期待……」
「うん、今度監督の知り合いにも挨拶させるって。でもわざわざ部活休みの日に引っ張り出すのはさすがにどうかと思うんだよね」
移動の目的地である視聴覚室はもう目の前だった。周りのみんなが吸い込まれていく流れに合わせて動かしていたはずの俺の足が、一瞬止まりかける。
「休み?休みって日曜のこと?」
わずかに乱れたリズムを誤魔化すように俺は小さく笑いながら会話を続ける。
「うん。あれ?聞いてない?あ、そっか今日はまだ会ってないか。この話出たの朝練のあとだったし」
「……そうなんだ」
「あ、もしかして日曜に何かあった?」
見上げてきた視線をゆっくり受け流して、俺は引かれていた暗幕を持ち上げた。佐渡さんは俺に促されるように作られた入口へと顔を戻していく。
「ううん、大丈夫」
そう答えた俺の声は、薄く広がる暗闇の中へと進む小さな背中にぶつかって静かに落ちていった。
*
——佐渡さんに返した言葉は嘘ではない。
「いいよ、無理しなくて」
「違っ、無理なんかじゃなくて」
「俺は大丈夫だから」
「っ、伊織が大丈夫でも、俺が大丈夫じゃないからっっ!!」
「!」
「伊織の誕生日なのに、本当にごめん。終わったら連絡するから、だから……会いに行ってもいい……?」
叫ぶように声を大きくした大和が、急に不安げに言葉を揺らす。大きな体を縮め、自信なさげにこちらを窺う大和の顔が浮かび、俺は思わず笑ってしまった。予想通りにはいかない大和が、どちらも掴もうとする欲張りな大和が、俺のことを決して離そうとはしない大和が、愛しくて、可愛くて……苦しかった。
「……ふ、ふは、なんだよ、なんで急に弱気なの?」
「いや、だってさ、」
今、この瞬間の大和の顔が見たい。
今、この瞬間の大和の声に直接触れたい。
今、この瞬間の大和にもっと……
「……大和、」
「?」
「明後日、実は母さんも出張入っちゃっていないんだよね」
俺は先ほどの食卓での母さんの悲しそうな表情を思い出す。仕事なのだから仕方ないし、気にしなくていいと言った俺に、母さんは「私にとってはどんな記念日よりも大事な日なのに仕事を優先しなきゃいけないなんて……」と本当に悔しそうな声でため息をついていた。俺にとってはその言葉だけで十分だった。
「……久しぶりに、家泊まりに来る?」
「!」
「あ、でも、次の日学校だし無理にとは言わないけど」
「行く!遅くなっても絶対行くから!!」
俺が話終わるよりも早く、前のめりに大和の声が耳に響く。
「お、おう」
「あ、じゃあ、俺ケーキ買ってくわ」
「いや、そこまでしなくても」
「いいじゃん、丸いケーキなんて滅多に食べれないし」
大和の弾んだ声に思わず聞き流しそうになって、俺は緩めてしまった口元を慌てて戻す。
「いや、待って。ホールケーキ買おうとしてる?二人でホールとか地獄でしかないから」
「小さめのならいけるっしょ」
「絶対無理だから。……夕飯入らなくなってもいいなら買えば?」
ポツポツと、目の前の窓に水滴が見え始め、俺は耐えきれずにつけてしまっていたエアコンを停止させた。
「!え、あ、もしかしてなんか作ってくれようとしてる?」
「別に、大和のためじゃなくて、自分の分のついでだから。いらないならいいけど」
鍵を外して窓を開けると、湿気の混じり始めた風が流れてくる。雨の匂いと低くなった気温がゆっくりと部屋の中に広がっていく。この地方の梅雨入り宣言がされたのは、つい三日前のことだった。
「いる!いります!お腹空かせて行くから!」
「ふ、ふは、そんな必死に言わなくても」
思わず笑ってしまった俺に柔らかな静けさが伝わってくる。大和が何も言わずに俺の笑い声に耳を傾けているのだと感じて、胸の中がじわりと熱くなった。
「……なんか、ごめんな」
「え?」
「伊織の誕生日なのに、俺の方が得してるから」
——耳に響くその声だけで、簡単にわかってしまうから。
「別にいいよ……来てくれるんだろ」
「!……うん、絶対行くから。二人でお祝いしような」
——そのあまりにも優しい空気に、大和が今どんな表情をしているのか、想像するだけで俺は泣きそうだった。
「うん、ありがと」
——大和がバスケットを、自分の未来を、俺とは関係なく選択してくれることに、俺は寂しさを感じつつもどこかでホッとしていた。
*
——二年になって初めての選択授業の時、佐渡さんと俺は隣の席になった。
同じクラスになってから何度か挨拶程度は言葉を交わすようになっていたけれど、それ以上は踏み込まないようにしていた。意識するほどではないかもしれないけれど、どうしたって気まずさを感じてしまうのは事実だったから。それはきっと俺だけが思っていることでなくて、佐渡さんも同じだと思うから。
「あれ?伊織くんて理系じゃないの?」
だから、こんなふうに話しかけられるとは思っていなかった。
驚いた俺の反応は一瞬遅れた。
「……あ、うん。俺は文系選択なんだよね」
「そっかぁ。伊織くんどっちもできるから、てっきり成瀬くんたちと一緒に理系なのかと思ってた」
成瀬くんたち——そうさりげなく佐渡さんが含ませてみせた人物に思い当たって、自然と笑いがこぼれる。
「え、何?何?私、なんか面白いこと言ったっけ?」
「ううん、何でもないよ。佐渡さんこそ理系じゃないんだね」
「私?私は理数系まったくダメだから。選んだというよりは消去法に近いかなぁ」
——佐渡さんがバレンタインデーの日に大和と何を話したのか俺は知らなかったけれど、その後、佐渡さんは俺に「この前はごめんね。ありがとう」と言いに来てくれた。
「伊織くんは?何かやりたいことあるの??」
「俺は……まだ考え中かな」
「そっか。そうだよね。まだ二年になったばっかだもんね。私もとりあえずは部活でいっぱいいっぱいだからなぁ……あ、先生来ちゃった」
そこで会話は途切れてしまったけれど、俺の中にずっとあったしこりのようなものはフワリと消えていて、代わりにくるくると表情を変えて話す佐渡さんの可愛さに小さく笑ってしまった。
俺は今ごろ大和と一緒にいるであろう友人の顔を浮かべながら「これはライバル多そうだな」と心の中で呟いていた。
*
声を重ねて通話を切る、たったそれだけのことで嬉しくなって、同時に感じた懐かしさに少しだけ切なくなる。画面に映る大和の名前を見つめたまま、俺はしばらくその手を離せずにいた。
「……いい加減、言わないと」
指から外したスマホリングを立てたまま机に載せると、静かに消えていたバックライトが反応した。桜の景色の真ん中に表示された日付に、俺はそっとため息をついてから机の上に広げていた書類へと視線を移した。
◇
『当たり前』だと思うほどに、
『日常』だと感じるくらいに、
いつの間にか、習慣化されて意識すらしなくなっていた。
そうなるためには、たくさんの時間が必要だったけど。
——それを失うのは、きっと一瞬だ。
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