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12.シュークリーム
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お互いの涙を拭うことさえできず泣き合って、気づけばお昼前になっていた。
くぅ、と小さくお腹が鳴ったのを合図に私は立ち上がる。ポロポロとこぼれ続けた涙はようやく涸れてきた。目も鼻も真っ赤なのは鏡を見なくてもわかる。こんな顔で外に出るのはどうかと思わなくはないけれど、私たちのあいだには必要なものがある。
「ケーキ……買ってくる」
「え?」
お腹が鳴るのは私だけ。ハルはお腹も空かない。それが今の私たちの世界の差。この境界線を越えることはできない。できればこのままハルと一緒にいたい。だけど、それはきっと望んではいけないことだと思うから。ハルをこのまま何にも触れられず、何も感じることのできない存在でいさせるほうが後悔すると思うから。だからこそ、せめてそのときまでは――ハルが消えてしまうときまでは――今まで通りでいたかった。そのためにも私はハルにちゃんと聞いておかなくてはならない。「そのとき」がいつなのかを。
心残りが『最高傑作』ではないのなら。私だと言うのなら。それは想いが通じた瞬間に成仏してしまってもおかしくはなかったはずで。それなのにハルはまだ目の前にいる。消えないでいてくれる。だから――気づいてしまった。本当は心残りなんてあってもなくても、「そのとき」がきたら消えてしまうのではないか、と。ハルは自分がいつ消えるのかを知っているのではないか、と。
「ハルは、いつまでここにいられるの?」
床に座ったままのハルが私を見上げて目を丸くする。けれど、すぐに観念したように笑って言った。
「あー……、はっきりとは決まってない。でも、あと一か月くらいだとは思ってる」
「最初から決まってたの?」
「……まあ」
困り顔で笑うハルに涙の跡はない。泣くことはできても、流れたはずの涙は何にも触れず、なんの跡も残さず消えてしまっていた。それでも私はハルが泣いていたことを知っている。目の前で流れていく涙を覚えている。それだけのことにどうしようもなく嬉しくなって、どうしようもなく胸が痛んだ。こんなにも好きだとわかってしまったから。こんなにも愛おしく思う気持ちを知ってしまったから。それなのに……触れることさえできなくて、別れることが絶対的に決まっていて、どうしようもなく痛くて、痛くて……たまらなかった。じわじわと涸れたはずの涙が戻ってきそうになり、ぐっと顔を上に向ける。もう泣きたくない。ハルとの残された時間はできるだけ笑って過ごしたい。
「心残りをなくすために来たのに」
ポツリと落とされた言葉に振り向けば、ハルも立ち上がっていた。ふわりと浮かせるのではなく、床に足を着けて立っていた。立って見せていた。まるで何も変わらないのだと、同じ世界にいるのだとでも言うように。
「新たな心残りを持って帰ることになったなぁ」
聞こえた言葉にほんの少しだけ寂しさを滲ませてはいたけれど、ハルはやっぱり笑っていた。どんなに違っても。たとえ同じ世界に立てなくても。ハルの笑顔は変わらない。
言葉はまたしても勝手にこぼれていた。
「あのときはごめんね」
「あのとき?」
「ハルがサッカー辞めたって言ったとき。ちゃんと話聞いてあげられなかったから」
「あー……あったね。そんなこと。じゃあ、俺も璃子に謝りたいことあるんだけど、怒らないでね」
じゃあ、ってなんだ? と思わなくはなかったけれど。その返し方にどこまでいってもハルはハルなんだと思えて、笑うしかなかった。
「なに?」
「シュークリーム。あれさ、璃子のこと試したんだよね」
「試す?」
「そ。あんな出来損ないのお菓子をもらってどうするか試したんだ。ケーキじゃなくて兄貴が目当てなら嘘でも『美味しい』って言うだろうし、見た目が気に入らなければ食べずに捨てちゃうだろうし。どうするかなって」
ちら、とこちらへと向けられた視線。ハルの方が背は高いのに、なぜか見上げられているような気持ちになる。
「――で、試した結果どうだったわけ?」
ため息に混ぜて言ってやれば、ハルはとびきりの笑顔で「璃子サイコーじゃん、ってなった」とふわりと頬を赤くして言った。
「……あっそ」
反省のしるしではなかったけれど、あのシュークリームに込められたハルの気持ちを私は知らず知らずのうちに受け止めていたらしい。
――その日、私はシュークリームを買って帰ってきた。
先週の日曜日に買ったものと同じシュークリーム。今度はショーケースの中と同じ、まるまるとした姿でお皿に載せられている。表面だけを香ばしく焼かれた生地がぽってりとしたクリームを抱えて堂々と私を見上げてくる。自信たっぷりに「美味しいですよ」と言ってくる。一週間前に食べた申し訳なさそうに崩れていたものとは違う。
サクッと音が鳴ったのは一瞬。パリッと香ばしい歯ごたえは、すぐにふっくらと空気を含んだ生地の食感に塗り替えられる。サクッ、パリ、ふわ。生地だけでも十分に美味しいのに。そこへむにゅっと飛び出したクリームを着地させれば、バニラの甘い香りがふわりと口内に広がった。手に持った瞬間の重みは口の中に入れた途端に浮き上がるような軽さに変わる。濃厚なカスタードクリームの味はしつこくなくて、すっきりとした甘さだけが残る。生地もクリームも最高なのだから、両方が合わさればもはや最強だった。
「美味しい……」
思わず言葉をこぼせば、ハルが「そんなに?」と正面の席から問いかけてくる。
それだけのことに胸がいっぱいになって、涙はするするとこぼれていった。
「泣くほど美味しいの?」
ふっと息を吐き出すように笑ったハルに
「今まで食べたどんなケーキよりも一番美味しい」
と私も笑って言ってやった。
くぅ、と小さくお腹が鳴ったのを合図に私は立ち上がる。ポロポロとこぼれ続けた涙はようやく涸れてきた。目も鼻も真っ赤なのは鏡を見なくてもわかる。こんな顔で外に出るのはどうかと思わなくはないけれど、私たちのあいだには必要なものがある。
「ケーキ……買ってくる」
「え?」
お腹が鳴るのは私だけ。ハルはお腹も空かない。それが今の私たちの世界の差。この境界線を越えることはできない。できればこのままハルと一緒にいたい。だけど、それはきっと望んではいけないことだと思うから。ハルをこのまま何にも触れられず、何も感じることのできない存在でいさせるほうが後悔すると思うから。だからこそ、せめてそのときまでは――ハルが消えてしまうときまでは――今まで通りでいたかった。そのためにも私はハルにちゃんと聞いておかなくてはならない。「そのとき」がいつなのかを。
心残りが『最高傑作』ではないのなら。私だと言うのなら。それは想いが通じた瞬間に成仏してしまってもおかしくはなかったはずで。それなのにハルはまだ目の前にいる。消えないでいてくれる。だから――気づいてしまった。本当は心残りなんてあってもなくても、「そのとき」がきたら消えてしまうのではないか、と。ハルは自分がいつ消えるのかを知っているのではないか、と。
「ハルは、いつまでここにいられるの?」
床に座ったままのハルが私を見上げて目を丸くする。けれど、すぐに観念したように笑って言った。
「あー……、はっきりとは決まってない。でも、あと一か月くらいだとは思ってる」
「最初から決まってたの?」
「……まあ」
困り顔で笑うハルに涙の跡はない。泣くことはできても、流れたはずの涙は何にも触れず、なんの跡も残さず消えてしまっていた。それでも私はハルが泣いていたことを知っている。目の前で流れていく涙を覚えている。それだけのことにどうしようもなく嬉しくなって、どうしようもなく胸が痛んだ。こんなにも好きだとわかってしまったから。こんなにも愛おしく思う気持ちを知ってしまったから。それなのに……触れることさえできなくて、別れることが絶対的に決まっていて、どうしようもなく痛くて、痛くて……たまらなかった。じわじわと涸れたはずの涙が戻ってきそうになり、ぐっと顔を上に向ける。もう泣きたくない。ハルとの残された時間はできるだけ笑って過ごしたい。
「心残りをなくすために来たのに」
ポツリと落とされた言葉に振り向けば、ハルも立ち上がっていた。ふわりと浮かせるのではなく、床に足を着けて立っていた。立って見せていた。まるで何も変わらないのだと、同じ世界にいるのだとでも言うように。
「新たな心残りを持って帰ることになったなぁ」
聞こえた言葉にほんの少しだけ寂しさを滲ませてはいたけれど、ハルはやっぱり笑っていた。どんなに違っても。たとえ同じ世界に立てなくても。ハルの笑顔は変わらない。
言葉はまたしても勝手にこぼれていた。
「あのときはごめんね」
「あのとき?」
「ハルがサッカー辞めたって言ったとき。ちゃんと話聞いてあげられなかったから」
「あー……あったね。そんなこと。じゃあ、俺も璃子に謝りたいことあるんだけど、怒らないでね」
じゃあ、ってなんだ? と思わなくはなかったけれど。その返し方にどこまでいってもハルはハルなんだと思えて、笑うしかなかった。
「なに?」
「シュークリーム。あれさ、璃子のこと試したんだよね」
「試す?」
「そ。あんな出来損ないのお菓子をもらってどうするか試したんだ。ケーキじゃなくて兄貴が目当てなら嘘でも『美味しい』って言うだろうし、見た目が気に入らなければ食べずに捨てちゃうだろうし。どうするかなって」
ちら、とこちらへと向けられた視線。ハルの方が背は高いのに、なぜか見上げられているような気持ちになる。
「――で、試した結果どうだったわけ?」
ため息に混ぜて言ってやれば、ハルはとびきりの笑顔で「璃子サイコーじゃん、ってなった」とふわりと頬を赤くして言った。
「……あっそ」
反省のしるしではなかったけれど、あのシュークリームに込められたハルの気持ちを私は知らず知らずのうちに受け止めていたらしい。
――その日、私はシュークリームを買って帰ってきた。
先週の日曜日に買ったものと同じシュークリーム。今度はショーケースの中と同じ、まるまるとした姿でお皿に載せられている。表面だけを香ばしく焼かれた生地がぽってりとしたクリームを抱えて堂々と私を見上げてくる。自信たっぷりに「美味しいですよ」と言ってくる。一週間前に食べた申し訳なさそうに崩れていたものとは違う。
サクッと音が鳴ったのは一瞬。パリッと香ばしい歯ごたえは、すぐにふっくらと空気を含んだ生地の食感に塗り替えられる。サクッ、パリ、ふわ。生地だけでも十分に美味しいのに。そこへむにゅっと飛び出したクリームを着地させれば、バニラの甘い香りがふわりと口内に広がった。手に持った瞬間の重みは口の中に入れた途端に浮き上がるような軽さに変わる。濃厚なカスタードクリームの味はしつこくなくて、すっきりとした甘さだけが残る。生地もクリームも最高なのだから、両方が合わさればもはや最強だった。
「美味しい……」
思わず言葉をこぼせば、ハルが「そんなに?」と正面の席から問いかけてくる。
それだけのことに胸がいっぱいになって、涙はするするとこぼれていった。
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ふっと息を吐き出すように笑ったハルに
「今まで食べたどんなケーキよりも一番美味しい」
と私も笑って言ってやった。
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