天使の涙

hamapito

文字の大きさ
17 / 18

16.新商品

しおりを挟む
 半分ほど開けられたシャッターから明かりが漏れていた。
 お店は休業しているけれど中には人がいるのだろう。きっと彼だろうなと思いながらも、どうするべきか悩む。声をかけてもいいのだろうか。休んでいた理由は気になるけれど、個人的なことかもしれないし、そもそもただのお客でしかない私が聞いていいものかもわからない。踏み出しきれずに立ち止まっていると、「璃子さん?」と声が聞こえた。
 振り返ると白のコックコートを着た彼が立っていた。
 あまりにも見慣れた姿に力が抜け「……はあ」とわけのわからない返事をしてしまう。
 ふっと息を吐き出すように小さく笑った彼は「よかったら中、入りません?」とあのときのように私をお店の中へと誘った。
 通されたのは以前と同じ休憩スペース。出されたのはアイスティーだった。カラン、と氷がグラスと触れ合って音を鳴らす。棚や机に白い布がかけられているのはあのときと同じだったけれど、今日はお店中に甘い香りが広がっていて、すぐそばの厨房からは熱が流れてくる。何より「ちょっとお待ちくださいね」と言った彼の顔に滲むのは悲しさではなかった。息を吸うたび体の中にふわふわとした甘さが広がり、自然と頬が緩んでいく。
 ――食べなくてもわかるんだよ。
 そう言ったハルの気持ちがとてもよくわかる。うん。食べなくてもわかる。食べているひとからだけじゃない。作っているひとからも感じられる。これはとても温かくて優しい、しあわせの空気だ。あのときの私たちは確かに「しあわせ」を感じていた。だからこそあんなにも美味しく感じられたのだ。
「よかったら、どうぞ」
 出されたのはシュークリームだった。
 白い皿の上に載せられた、まるまるとした姿。
「これは……?」
「明日から出そうと思っている新商品です」
「新商品、ですか」
 臨時休業はそのためだったのだろうか? と一瞬思ったが、お盆休みすらとらないような彼だからそれはない気がする。彼が考えるのはケーキを楽しみにしているお客さんのことだろうから。たとえ新商品の開発でも『臨時休業』でお店を閉めるなんてことはしないだろう。
「ふ、ふふ……あ、すみません」
 向かいの席に腰掛けた彼が私の顔を見て笑い出す。なぜ笑われたのかわからず戸惑っていると彼はまた小さく笑って言った。
「すみません。きっとお休みしていた理由を考えてくださっているのだろうな、と」
「え、あ、えっと」
「すみません、璃子さんの表情がわかりやすくて……ふふ」
 すみません、と四回も謝った彼はまだ小さく声を震わせる。
 ――璃子、なんでも顔に出すぎ。
 不意に甦ったハルの声に、思わず私も笑ってしまう。笑いの収まらない彼の表情はハルととてもよく似ていて、ふたりはやっぱり兄弟なんだなと今さらながらに思ってしまった。
「実は子どもが生まれたんです」
 小さな笑い声を重ねたまま、彼はさらに顔を綻ばせて言った。
 一度だけ見たことのある奥さんの姿を思い浮かべ「おめでとうございます」と私も笑い返す。
「ありがとうございます。予定日なんてあてにならないと聞いていたので、いつでも大丈夫なようにしておかないと、って思ってはいたのですが。いざその時になったら慌ててしまって。子どもの方が気を遣ったのか予定日を一日過ぎただけだったのですが」
「そうだったんですね。でも、もう明日から始めてしまってもいいのですか?」
 新商品の発売日は明日だと彼は言っていた。本当はまだ奥さんと子どものそばにいたいのではないだろうか、そう思って問いかけると彼は眉を下げて笑った。
「大丈夫です。むしろ生まれてきてくれた子どものためにも働かないと、って思っちゃったので。それに――」
「それに?」
「あ、いえ、よかったら食べてみてください」
 途切れた言葉の続きは気になったが、彼に促されるままシュークリームへと視線を移す。
 今までと同じようで同じではない。
 シュー生地は以前より色味が増している。詰められているクリームの見た目は同じに見えるが、キラキラと小さな粒が混ぜられている。生地の上にはさらに細かい粒が載せられている。
「いただきます」
 口へと持っていくその短い間でさえ香ばしさが濃さを増す。ザクっとした歯ごたえの後にパリパリっと生地の割れる音。外側は思った通りさっくりとしていたけれど、中はしっとりとした柔らかさが残されている。口の中にバターの香りが広がれば、舌の上に着地したクリームは変わらず優しい甘さを主張してくる。手に持ったときの重量感とは違い、舌触りは滑らかで軽い甘さだ。ザク、パリ、ふわ、どこまでも広がる美味しさの中、不意にカリッととても小さなものが歯にあたった。あたったと思った瞬間にはもうクリームと一緒に溶けている。甘さの中に残されるコレは――。
「塩? ですか? あれ、でもこっちの生地はお砂糖?」
「はい。クリームには塩が、生地の上にはあられ糖が載せてあります」
 香ばしさと柔らかさの中にある甘味と塩味。ふたつがそれぞれに触れている素材の味を引き立て、美味しさの厚みが増している。スッキリとした口当たりは変わらず、大きさも同じなのに、満足感が――幸福感が――明らかに増していた。
「とっても美味しいです」
「ありがとうございます。これが『完成品』なので。早く璃子さんに食べてほしくて」
 ――完成がとても楽しみです。
 そう言ったのは自分だ。だけど、あれはハルが作ったもので。完成することはもうないのだと思っていた。
「大変お待たせしてしまいましたが……ハルが作ったわけではないですが、これで『完成』です」
「……」
 ハルは消えてしまった。もう二度と顔を見ることはできない。だからこそ忘れたくなくて。忘れてしまうのがこわくてたまらなくて。今までの時間が消えないように、あのとき触れた形のままで閉じ込めることばかりを考えていた。だけど……。
「璃子さん?」
「……え?」
 向けられていた瞳が驚いたように丸くなっている。なぜ名前を呼ばれたのか、その理由に気づいたのはポタっとお皿の上に雫が落ちてからだった。
「大丈夫ですか? えっとどこか痛いとか」
「いえ、全然そういうのではないので。大丈夫です。あの、本当に美味しくて、それで……」
 美味しかった。本当に美味しくて、美味しすぎて、胸が苦しかった。ハルはちゃんと残してくれた。ハルの夢は、ちゃんと叶えられていた。どうしようもなく変わってしまったものも、変わらなければならなかったものもあるけれど。その中にも変わらないものや変わらずに見せられるものもあって。変わることができたからこそ見える未来もあって。その全部を抱えて私たちは生きていた。たとえ幽霊であっても、ハルが私の前でちゃんと生きていたように。
 ――泣くほど美味しいの?
 そうハルに尋ねられたときと同じ。泣きながら食べた、あのシュークリームと同じ味だった。これがハルの言っていた『最高傑作』なのかどうかはわからないけれど。私の中ではこれ以上に美味しいものなんてきっとない。私にとってはこのハルと彼が作ったシュークリームこそが『最高傑作』だった。そう言ったらきっとハルは「そんなに?」ってまた笑うんだろうな。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

お前が欲しくて堪らない〜年下御曹司との政略結婚

ラヴ KAZU
恋愛
忌まわしい過去から抜けられず、恋愛に臆病になっているアラフォー葉村美鈴。 五歳の時の初恋相手との結婚を願っている若き御曹司戸倉慶。 ある日美鈴の父親の会社の借金を支払う代わりに美鈴との政略結婚を申し出た慶。 年下御曹司との政略結婚に幸せを感じることが出来ず、諦めていたが、信じられない慶の愛情に困惑する美鈴。 慶に惹かれる気持ちと過去のトラウマから男性を拒否してしまう身体。 二人の恋の行方は……

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

蛇の噛み痕

ラティ
恋愛
ホストへ行かないかと、誘われた佳代は、しぶしぶながらもついていくことに。そこであった黒金ショウは、美形な男性だった。 会ううちに、どんどん仲良くなっていく。けれど、なんだか、黒金ショウの様子がおかしい……? ホスト×女子大学生の、お話。 他サイトにも掲載中。

カラフル

凛子
恋愛
いつも笑顔の同期のあいつ。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

フローライト

藤谷 郁
恋愛
彩子(さいこ)は恋愛経験のない24歳。 ある日、友人の婚約話をきっかけに自分の未来を考えるようになる。 結婚するのか、それとも独身で過ごすのか? 「……そもそも私に、恋愛なんてできるのかな」 そんな時、伯母が見合い話を持ってきた。 写真を見れば、スーツを着た青年が、穏やかに微笑んでいる。 「趣味はこうぶつ?」 釣書を見ながら迷う彩子だが、不思議と、その青年には会いたいと思うのだった… ※他サイトにも掲載

お前が愛おしい〜カリスマ美容師の純愛

ラヴ KAZU
恋愛
涼風 凛は過去の恋愛にトラウマがあり、一歩踏み出す勇気が無い。 社長や御曹司とは、二度と恋はしないと決めている。 玉森 廉は玉森コーポレーション御曹司で親の決めたフィアンセがいるが、自分の結婚相手は自分で決めると反抗している。 そんな二人が恋に落ちる。 廉は社長である事を凛に内緒でアタックを開始するが、その事がバレて、凛は距離を置こうとするが・・・ あれから十年、凛は最悪の過去をいまだに引き摺って恋愛に臆病になっている。 そんな凛の前に現れたのが、カリスマ美容師大和颯、凛はある日スマホを拾った、そのスマホの持ち主が颯だった。 二人は惹かれあい恋に落ちた。しかし凛は素直になれない、そんなある日颯からドライブに誘われる、「紹介したい人がいるんだ」そして車から降りてきたのは大和 祐、颯の息子だった。   祐は颯の本当の息子ではない、そして颯にも秘密があった。

処理中です...