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二十三時の訪問者
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駅から徒歩八分。築年数はそれなりだが、リノベーションされた部屋は新築さながらにキレイで、南向きの窓からは明るすぎるくらいに光が入る。一人暮らしには十分すぎる広さの1LDK。周が来ても躊躇うことなく泊めてあげられる。検索の際に挙げた条件はほぼ満たしていて、迷う理由はなかった。
不動産屋で鍵を受け取り、家とは反対、駅へと歩く。平日昼間とはいえ、商店街はひとが多い。ビジネス街とは違う緩やかな騒がしさは心地いいが。
カンカンカンと警報器が鳴り、踏切が閉まる。目の前を小豆色の電車が過ぎていく。初めて住む沿線ではあったが、すでに見慣れた色だった。周の部屋はふたつ隣の駅にある。付き合って半年、会社帰りに乗り換えるのも、休日に揺られるのも慣れたものだ。
「誠一さん」
改札から出てきた周が手を上げ、俺の名前を呼ぶ。まだ呼び慣れたとは言えない、少しはにかんだ表情で。周の仕事場である美容室で会うときは今でも「小林さん」だからだろうか、何度呼ばれても胸がくすぐったくなった。
「はい、鍵」
「えっ、いいの?」
まだ使っていない鍵を渡せば、周の声が驚きに跳ねる。
確かに合鍵を渡すのはこれが初めてだけど。二本受け取ったときに、自然と周に渡そうと思っていた。
「ダメなの?」
「ダメじゃないけど……誠一さんのいない間にイタズラしちゃうかもよ。新しい部屋見るの楽しみだったし」
「あー、それなんだけど」
先週のうちに引っ越しをすませるはずが、急遽出張が入り、休みを取ることができなくなった(おかげで、こうして周の休みに合わせられたのだが)。仕事が忙しいときは連絡を取らないことも多いので、伝えそびれていた。
「なーんにもないね」
家具もカーテンもない。空っぽの部屋に二人で寝転がる。白いフローリングの床は窓からの日差しを吸い込み、背中をじわりと温める。
「引っ越しは?」
「明日」
「え、こんなのんびりしてていいの? 準備は?」
「お任せコースだから、もう終わってる」
「マジで?」
「マジで」
ふっ、と周が笑う。
「誠一さんも『マジ』とか言うんだ」
「言うよ。言ったことなかったっけ?」
「んー、聞いたことなかった気がする」
そうだっけ、と片肘をつき周の前髪へと指を伸ばす。
「色変えた?」
「うん、秋色にしたんだ」
「もう秋なのか」
季節を先取りする周の時間は、鮮やかに過ぎていく。歳をとればとるほど時間は早く過ぎる。だからこそ季節を先取りすることになんの躊躇いもない若さを見るのは眩しい。俺は今の季節を味わうだけでいいと思ってしまうのに。十歳の差をこんなところで感じるとは。
「まだ八月なのに」
「明日から九月だよ」
「それでもまだ夏だろう」
最高気温は三十度を切らない。電気と水道だけは先週のうちに通していたので、エアコンをつけているが、そうでなければ十分もいられなかっただろう。
「誠一さん、そろそろ切らないとだね」
「周が切ってくれる?」
「もちろん。俺以外に切らせたら怒るよ」
空っぽの部屋にあるのは窓からの日差しとエアコンの冷気と、二人の話し声だけ。ほかには何もない。何もいらない。そう言ったら周は「いや、冷蔵庫も洗濯機もいるでしょ」って笑うのだろう。周のほうが現実的なのだ。
「……カーテンないよ」
頬に手を添えれば、困ったような、それでいて期待するような眼差しを向けられる。
「そうだね」
「そうだねって、向かいのマンションから見えるんじゃない?」
「俺は気にしないけど。周は嫌?」
きゅっと小さく尖った唇が、視線を揺らしながら解かれる。
「……キスだけなら、いいけど」
ありがと、と声とともに唇を落とす。ん、と触れ合った瞬間に周の声が零れる。薄く目を開ければ、瞼を閉じた周の顔。小さく眉を寄せているのが可愛い。
キスだけで終われるかな、なんて思っていたけど。誰にも見せたくないという独占欲のほうが大きくなった。
そっと唇を離せば、ゆっくり瞼が上がる。視線とも呼べない距離で、焦点の定まらない目が向けられる。
「周のその顔は、物足りないってこと?」
「っ、そんなことないし」
「本当に? 俺は全然足りないけど」
周の顔が一気に赤くなる。
「まあ、でも、ここカーテンないし。俺の部屋は段ボールだらけだし」
「……うち」
来る、とエアコンの風にも掻き消されそうな小さな声で周が言う。うん、と頷くと同時にもう一度キスを落とした。
引っ越しから二週間経ち、手続きや仕事も落ち着き始め、そろそろちゃんと(空っぽの部屋ではなく)周を呼ぼうと思った頃だった。
「ん?」
リビングのソファでビールを飲んでいると、視界の隅が明るくなった。顔を向ければ、リビングと廊下を隔てる扉の向こうが僅かに明るい。距離を考えるに、ガラス部分に差し込む光は玄関に設置されているライトだろう。
部屋には自分一人。周には合鍵を渡しているが、ドアが開けられた気配はない。缶の中身はまだ半分以上残っている。酔っ払うには早すぎる。
面倒だな、と思いつつ立ち上がり、玄関へと向かう。ドアを開ければ三和土の真上、丸いライトが点いていた。もちろん誰もいない。
人感センサーにしているので、単なる誤作動か不具合だろう。ライトが点かなくなるのは困るが、点くのだから問題はない。リビングへと引き返す頃には自然と消えたので、気にすることもないだろう。
ソファに戻ると、テレビではここからほど近い場所での交通事故を伝えていた。
そろそろ来るかな、と壁の時計へ視線を向けたところで、タイミングよくインターフォンが鳴る。画面の右上には『玄関』の文字。合鍵を渡しているので入って来られるはずだが、オートロックのエントランスは抜けても、周は必ずドアの前でインターフォンを鳴らす。
――急に鍵が開いたらこわくない?
そう周は言っていたけど。何かに怯えるような年でもなければ、繊細な神経も持ち合わせていない。ただただ年下の恋人が可愛く、したいようにさせている。
「え、なに? 雨?」
いらっしゃい、と用意した言葉がすり替わる。
ドアの前に立っていた周はずぶ濡れだった。
「さっき急に降り出し……っしゅ」
「うわ、入って入って。タオル持ってくる」
降り出したばかりらしいが、雨音は耳を塞ぐほどで、ほんの一瞬ドアを開けただけでも、湿った香りと蒸し暑さが濃かった。
洗面所からタオルを取って戻ると、周が三和土の上でぼんやりと真上を見ている。
「これ使って」
タオルを差し出せば、パッとこちらに顔を向ける。ふわふわと柔らかかった髪は濡れて束を作り、先から頬へと雫を落とす。音さえない。それなのに、それだけのことに胸がざわつく。滴る水。佇む姿。記憶の糸が繋がりかける。
「誠一さん?」
周の声に意識が引き戻される。
「あ、えっと、シャワー使って」
「うん。……ありがとう」
落ちてくる光を受け止めながら、周が柔く微笑んだ。
「誠一さん」
声に振り返れば、周の髪は濡れたままだった。
「あれ? ドライヤー気づかなかった?」
わかりやすいように洗面台に置いたはずだが。洗い物の手を止め、キッチンを出る。廊下とリビングを繋ぐドアのところで立ち止まったまま、周の視線は俺と背後を行き来する。
「誠一さん、こっち来てないよね?」
「ん? 周がシャワー浴びてるのを覗いたかってこと? さすがにそれはしてないけど」
「そうじゃなくて。玄関のほうに来たかってこと」
玄関、と付け加えられ、ようやく周の言いたいことがわかった。壁の時計を振り返れば、時刻は午後十一時ちょうど。
「ああ、ライト点いた?」
「え、う、うん」
「大丈夫。そのうち消えるから」
「待って。どういうこと?」
周の肩を廊下へと押し戻しながら、説明する。玄関のライトはすでに消えていた。
「俺にもよくわかんないんだけど、一週間前からかな? 十一時になると勝手に点くようになってさ」
「勝手に? 何か設定してるの?」
「いや、特には。人感センサーにしてはいるけど」
「知らない誰かが外から操作してるってこと?」
ああ、そういう発想もあるのか。決まった時間に点くのは確かに妙だが、放っておけば消えるし、実害はないに等しい。手動に切り替えることもできるが、帰宅時にスイッチを探す煩わしさを考えれば現状のままのほうが便利だ。ということを、周の髪を乾かしながら説明する。ドライヤーの音で聞きづらかったのだろう、何度か聞き返されたが、細く柔らかな髪がさらさらと指を抜ける頃には話し終えた。
「うーん、一回二回ならともかく、毎日なら管理会社には言ってもいいんじゃない?」
「そうだな。とりあえず言ってみるわ」
「……誠一さんって、意外とテキトーだよね」
「え、そう? わりと全体的にテキトーだけど」
「そっち?」
「気づかなかった?」
きゅっと唇を尖らせるのは、周が考え事をするときの癖だ。そんな些細なことに気づけるくらい一緒にいるのだと思ったら、愛おしさが込み上げてくる。
周は――周だけは、手放したくない、と。
愛おしさの奥で鳴った痛みに気づかないふりをする。
「そう言われると、最初にお店に来たときもだいぶテキトーな格好だったような」
「ああ、そうかも。まさかこんな可愛い子に出会うと思ってなかったからな」
洗面台の鏡越しに合っていた目が、直に向かい合う。周の唇はまだ少し尖ったままだ。
「二回目以降はちゃんとしてたでしょ?」
「まあ……」
ほんの一瞬、洗面台に置かれたドライヤーへ落とされた視線が戻ってくる。頬が赤いのはシャワーのせいか、ドライヤーのせいか、それとも……。
「俺もシャワー浴びるね。冷蔵庫にある飲み物勝手に飲んでいいから。リビングでも寝室でも好きなところにいて」
「好きなところも何もないと思うんだけど……まだ」
「そう?」
「やっぱりテキトーだ」
ふわりと湿った空気が近づく。ボディソープの香りが鼻に触れ、柔らかな唇が重なる。
「早くしないと寝ちゃうよ」
「りょーかい」
互いに出勤準備を終え、玄関で靴を履いていたとき。周が天井を見上げた。
「あのさ」
靴ベラを戻し、視線の先を追えば、丸いライトが煌々と光っている。
「幽霊ってことはないよね?」
「え」
予想外の言葉に、周の顔を確かめれば、冗談で言ったのではないのが表情でわかる。
「故障とか不具合とか説明がつくならいいけど。つかなかったら、そういう可能性もあるかなって……誠一さん?」
「ふ、ふふ、ごめん」
「ちょっと、ひとが真面目に心配してるのに」
「だって、まさか周が『幽霊』なんて言うと思わなくて」
見た目こそ派手ではあるが、実家の経済状況と自分の将来を考えて美容師免許の取れる通信制高校を選んだことや、実家から送られる食材で休みの日に作り置きしていることを知っていたので、俺の中の周は「堅実」で「現実的」な青年だった。
だからこそ非現実的である「幽霊」という言葉が周から出てきたことにびっくりしたし、自分以上に気にしてくれていたのだとわかって嬉しかった。
「いや、俺だって見えるわけじゃないし、心から信じてるわけでもないけど」
でも、と周が眉を寄せたのは俺に笑われて怒っているからじゃない。言葉どおり「真面目に心配して」くれているから。
「心配してくれてありがとう。じゃあ、管理会社に一度見てもらって、それでも原因がわからなかったら、お祓い付き合ってよ」
おはらい、と口の中で繰り返す周の頬にキスをして、ドアを開ける。
「周はどこか行きたいところある? 車でも新幹線でもいいよ。何なら飛行機でも。俺のお祓いのためだから、費用は俺が持つし」
「それって、ただの旅行じゃ……」
「せっかくだし両方兼ねてるほうが得でしょ」
「やっぱりテキトーだ」
キーケースを手にした俺を制し、周がリュックの中からキーホルダーを取り出す。
真新しい鍵が差し込まれ、金属音が小さく鳴る。今この瞬間にどうしても必要だったわけではない。けれど周は今使うことを選んだ。俺の部屋だけど、俺だけの部屋じゃない。そう、周に言われた気がした。
***
――まだ誕生日じゃないんだけど。
ベッドに寝転がりながら、携帯電話でメールの返事を打つ。スマートフォンよりも分厚くて小さい、片手で収まるサイズ。画面をスライドさせることでキーボタンが出てくる。タイムラグがあるのは当たり前で、返信が来るまで何度も問い合わせていた。
懐かしいな。二十年以上前だろう。夢と呼ぶにはあまりにも鮮やかで、記憶の欠片が溶けているのだとわかる。
眠りにつく寸前までメールのやり取りをしていた。翌日の朝練のことなんて考えもせず。寝不足で体が動かなくなるなんて全くなかった頃。
――フライングしてまで一番に送りたかった俺の気持ちを汲んでくれ。
――十二時まで起きてる自信がなかっただけだろ。
そう送りながらも、本当はとても嬉しかった。誕生日を覚えていてくれたこと。メールをくれたこと。フライングをしてでも一番にこだわってくれたこと。全部が嬉しくてくすぐったくて、でも素直に伝えられる性格ではなかった。
センターに問い合わせている途中で、着信が来る。え、電話? わざわざ?
「もしもし」
『誕生日おめでとー』
「だから、まだなってないって」
『俺が一番? 一番だよな?』
「フライングだからな」
『よし。じゃあ、これから毎年この時間にお祝いするな』
「は?」
突然の宣言に驚き、体を起こす。カーテンの隙間からは半分になった月が見えた。
『いいだろ。一時間得したと思えば』
「得なの?」
『得だろ。俺とお前の間でだけは、誕生日が一時間長いんだから』
「まあ、そうだけど」
でも、この一時間で何ができるってわけでもないじゃん。そう付け加えようとしたとき。僅かに早く声が届いた。
『今は何もできないけどさ。何年か後には、この時間もきっと一緒にいるだろ。そのときにちゃんと一時間多くてよかったって思わせるから』
いつもと変わらないやり取りのはずだったのに。機械越しの声はいつもより柔らかくて、「友達」ではなく「恋人」なのだと実感してしまう。
毎年お祝いすること。何年か後には、こんな時間でも一緒にいること。なんの不安も躊躇いもなく、当たり前の未来として語られるのが、嬉しくてたまらなかった。
『え、泣いてる?』
「……泣いてねー」
『まあ、もうちょっとの辛抱ってことで』
「――うん」
半年後には、二人とも上京しているはずだ。ここから通える大学はないに等しく、進学を希望するひとはみな都会に出ていく。それまではただの「友達」でいないといけない。ひとの噂が何より速く伝わるこの場所で、周りの目を気にする大人たちの前で、俺たちが「恋人」であることは許されないのだから。
『これから毎年誠一の誕生日は前日の二十三時からってことで』
「わかったよ」
おやすみ、と声をかけ合う頃には日付が変わっていた。
「……幸せ、だったのにな」
この先に何があるのか知らなかったから。自分たちの思い描く未来が簡単に壊れてしまうことに気づいていなかったから。いや、でも。あいつは何か気づいていたのかもしれない。気づいていたからこそ、強く未来を語って見ないふりをしたのかもしれない。
***
「誠一さん?」
はっきりとした輪郭のある声だった。夢でも思い出でもない。現実を生きる声に、意識が引き寄せられる。
見慣れた自分の部屋よりも早く、周の顔が視界に入った。ベッドの中で顔が向かい合う。
「こわい夢でも見たの?」
隣から心配そうな表情で見つめられる。明日(もう今日か)からの旅行のため、前日から泊まりに来てもらったのだ。すぐに車で出発できるから、と。
「あ、いや。こわい夢じゃなくて、昔のことを思い出しただけで」
「でも、泣いてるよ」
「え」
周の指が目の下に触れる。そっと拭われ、自分が泣いていることをようやく理解する。
「年を取ると涙もろくなるって言うからな」
あれは幸せだった頃の記憶だ。泣きたくなるような出来事なんてまだ何もなかった頃の。でも、泣いている。胸の奥が痛みを鳴らしている。
「大丈夫?」
大丈夫だよ、といつものように答えようとして、うまく声が出なかった。大丈夫。もう大丈夫。あいつがいなくなってから二十年も経っているのだ。手がかりも探す気力もとっくに尽きている。俺は目の前の周を大切にすると決めたのだ。
「大丈夫だけど、ぎゅってしてほしいな」
「誠一さんが甘えるなんて珍しいね」
「我慢してたからね」
「そうなの?」
「十も上のおじさんに甘えられたら困るだろうなって」
「そんなことないのに」
ふふ、とくすぐったそうに笑いながら周が近づく。タオルケットから出た細い腕が背中に回され、きゅっと空気が押し出される。温かな体温と柔らかな匂いに、鳴っていた痛みが遠くなっていく。
「これでいいの?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
くすくすと揺れる胸に顔を埋めながら、今が一番「幸せ」だと思った。
目の前の信号が赤へと変わる。緩やかに速度を落とし、停止線手前で停車する。高速道路に入る前、景色はまだ見慣れた街のままだ。
「そういえば、ライトどうなったの?」
「一応、管理会社に言って取り替えてもらったんだけど」
「え、もしかしてまだ点くの?」
「そうなんだよなあ」
「……やっぱり、おばけかな」
そうか、おばけか。幽霊よりは可愛く聞こえるな。自動点灯させるおばけ? しかも決まった時間に? どんな理由で? 理由なんかないのか? と考えたところで、小豆を洗う妖怪がいたなと思い出す。あれは音で人間を誘い出すのだっけ。
「うーん、さすがにまだ引っ越さないよね?」
「一か月しか経ってないよ」
「だよね」
「そんなに気になる?」
自分にとっては毎日のことで、もはやライトが点こうが点かなかろうが気にならなくなっている。何か困ったことがあるわけでもない。電気代もたかが知れている。
「むしろ、どうしてそんなに気にせずにいられるのかわからないんだけど」
「俺の分まで心配してくれてありがと」
眉を寄せた周の頭に軽く触れてから、ゆっくりアクセルを踏んだ。
温泉街から少し離れた旅館は、あたりを山に囲われていて、運転こそ気を遣ったが、窓からの風が心地よかった。周も「都会とは全然違う」と声を弾ませていて、それだけで来てよかったと思う。
「こちら当館から誕生日のお祝いです」
「えっ、あ、ありがとうございます」
チェックインの最後、鍵と一緒に手渡されたのはお菓子の詰め合わせだった。
「誠一さん、誕生日なの?」
格子の引き戸を開ければ、二人では広すぎる玄関がある。襖が閉じられているので部屋はまだ見えない。広さや景色を確かめる間もなく、周に見上げられ、「あー」と声が出る。まだ靴すら脱いでいない。
「正確には明日だけど。いや、すっかり忘れてて……。まさかこんな形で祝われるとは」
「なんで教えてくれないの。俺が一番にお祝いしたかったのに」
「いや、だから忘れてて」
荷物も下ろさず、部屋に興味も示さず、周が俯く。
「……ひどい」
絞り出すように落とされた声は、消えそうなくらい小さかった。誕生日を祝う、という習慣すら薄れている俺にとっては「そんなに落ち込まなくてもいいのに」と思ってしまうが。これが自分の誕生日ではなく周の誕生日だったなら、張り切っていろいろ用意したに違いない。あー、愛されてんな、俺。
「ごめん。でも、周といられることが俺にとってはプレゼントだから、結果オーライというか」
「でもここを見つけたのも予約したのも支払いだって、全部誠一さんがしたよね。運転だって。俺なんにもしてない。いつもしてもらうばっかりで、なんの役にも立ってな」
「周」
声色の変化を感じ取ったのだろう、周がパッと顔を上げる。
「それ以上言ったら、怒るよ」
視線を繋いだまま、顎へと手を伸ばす。触れても周は逃げない。ただじっと不安げに見上げてくる。もっと揺らしたいとも、二度と揺らしたくないとも思う。不安な顔をさせたくないのに。俺のことで不安になっているのが嬉しくもあって。矛盾する気持ちを抱えたまま「周」と名前を呼ぶ。
「っ、でも……んっ」
小さく動いた唇を塞ぐ。言葉も気持ちも俺の中で溶かしてしまえばいい。周の中身まるごと俺に注いでくれればいい。そうしてできた空白に俺だけを置いてほしい。
「ほんとに、俺は周がいてくれるだけでいいんだよ」
呼吸が重なる距離のまま言葉を紡ぐ。
「できればずっと、そばにいてほしい」
「そんなの俺だって」
思ってる、と呟いた声をそっと吸い込む。それは周の匂いと一緒に広がり、じんと胸を熱くさせた。
この部屋だけで十分では? と思うほど広い和室の左奥には、ベッドが二台置かれた寝室がある。荷物を置き、二人でひと通り見て回ると、周は畳の上にある座布団でも、広縁に置かれた籐椅子でもなく、ベッドに腰を下ろした。
「誠一さん」
隣に座るか、向かいに座るか、という一瞬の逡巡を周の手が消し去る。二人分の体重を受け止めたベッドの振動が、繋いだ手にまで伝わる。
「しばらく俺のところに来ない?」
指先から熱を滲ませる周は、いつもより早口だった。
「誠一さんの部屋より狭いし、古いし、オートロックもないけど。でも、二駅しか変わらないし、駅からの距離も同じくらいじゃん?」
「そうだけど」
周の部屋は何度も訪れているが、狭さも古さも気になったことはない。むしろ周が生活しているのを感じられて、居心地がいいくらいだった。
引っ越し先を同じ駅にするか迷い、一緒にいるための適度な距離を考え、敢えて二駅隣の物件を選んだ。近づきすぎることがこわかったのかもしれない。口では「ずっと」と言いながら、どこかで「おわった」ときを考えてしまう自分がいた。
「ライトひとつで、って思うかもしれないけど。でも、やっぱりなんか嫌なんだよ」
なんか嫌、というのはあまりにも直感的で、周から出てくる言葉にしては珍しかった。
「そんなに心配?」
「うん。だから、できるだけ俺のそばにいればいいのにって思う」
「……なんだよ、急にカッコイイこと言うなよ」
「惚れ直した?」
「――とっくにベタ惚れだよ」
ほんの少し重心をずらしただけで伝わってしまう。声とともに距離を手放せば、いつもとは違う感触に沈むだけだった。
夕飯を大広間ですませたところで、スマートフォンが振動した。
こんなときに誰だよ、と確かめれば、実家からだった。ここで無視したら、いいところで邪魔されかねない。
「ごめん。実家から」
エレベーターホールに向かう足を止め、自動販売機の前に置かれた椅子に視線を向ける。
「じゃあ、先に戻ってるね」
「悪い。すぐ行くから」
「いいよ。ゆっくり話して」
浴衣姿の周を見送ってから画面をタップする。
「もしもし」
「誠一? あのね、落ち着いて聞いてほしいんだけどね」
今忙しいから、と切るはずが、思いがけず真剣な声を出され、言葉が引っ込む。
「佐藤さんとこの修吾くん、覚えてる? 高校の頃に仲のよかった」
「あ、ああ。卒業間近に父親が亡くなって、それで、急に引っ越した」
まだ大人に振り回されるしかなかった頃。修吾とはその後一切連絡が取れなくなった。
「そう、その修吾くんがね、亡くなったの」
「――は?」
どこに行ったかもわからない。携帯も繋がらない。消息不明。それがどうしていきなり生死を確認できるのか。
「二週間前に……交通事故で」
え、と開いた口からは音さえ出なかった。
「名前が変わっていたからニュース観てもわからなかったんだけど。誠一が住んでるところの近くで、バイクとトラックの事故、あったじゃない」
うちの近くって、言われても……。テレビは流し見る程度で、記憶に留めようと思うこと自体が少ない。
「それでね、修吾くんの遺品に手紙があったらしくて、うちに送ってくれたの」
遺品という言葉に、ドンと強い衝撃が心臓に走った。
「手紙って」
「誠一宛てだったからって」
「どうして」
「どうして出さなかったのかなんて、お母さんにもわからないわよ」
そうじゃなくて、と言いかけて、口を噤む。今「どうして出さなかったのか」と言わなかったか? つまり、そう疑問に思うほど、手紙が古いものだったということでは? そこに書かれている文面を想像しようとして、一文字も浮かばなくて。それなのに、心臓が一回り縮んでしまったような苦しさを感じる。
「送ろうと思ったんだけど、誠一の新しい住所聞きそびれてたから」
修吾の死。修吾の手紙。何から考えればいいのかわからないまま、覚えたての住所をどうにか伝える。
「じゃあ、送っておくわね」
「……うん」
「あ」
「なに?」
「誕生日おめでとう。ちょっとだけフライングだけど」
ありがと、と衝撃の余韻を抱えたまま通話を切る。
気づけば飲み物を買うのも忘れ、部屋に辿り着いていた。格子の引き戸に鍵はかかっていない。俺が鍵を持っていないので開けておいてくれたのだろう。
「ただいま」
静かな空間に響く自分の声。奥からは薄くテレビの音が聞こえるが、返事はない。
「周?」
声が聞きたい。肌に触れたい。周に触れてほしい。胸を占める切実な願望のまま、スリッパを揃えることなく、襖を開ける。
視界で捉えられる範囲に周の姿はなかった。
トイレだろうか、と確認するがいない。スニーカーもスリッパも二人分揃っている。まさか裸足で出ることはないだろう。
「周? どこにいるの?」
広縁にもベッドにもいない。残るは……と視線を巡らせたとき。テレビが突然消えた。リモコンに触った覚えもなければ、停電でもない。え、と戸惑う間もなく、今度はカタ、と小さな音が耳に届く。
「周?」
振り返った先には露天風呂がある。脱衣所の明かりは消えていて真っ暗だ。誰かがいるとは思えない。けれど、ほかに確かめるべき場所も浮かばない。足を進める。あとで一緒に、と約束したはずだけど。先に一人で入っているのだろうか。
脱衣所に浴衣はなかったが、引き戸の向こうからは明かりがわずかに漏れている。
「周? いるの? 露天入るなら俺も誘っ――あまねっ!」
むわりと包み込むような湿気も、ヒノキの香りも、飛び込んできた光景に吹っ飛ばされる。洗い場の先、広めのお風呂の中になぜか浴衣を着たままの周がいた。どうにか縁に頭が残っているが、今にも沈みそうだ。
「おい、大丈夫か? 周、周ってば」
強く揺すってでも起こしたかったが、頭を打っているかもしれないので、頬を叩くにとどめ、体を引き上げる。
水を吸った浴衣が引き止めるように、重みとなって周の肌に貼りつく。抱えた体は熱かった。
「なんで……いつも、俺のいないときに……」
ぎゅっと抱きしめれば、震えにも似たわずかな反応が返ってきた。周の瞼が薄く開かれる。
「――せい、いち、さん」
「周! 大丈夫か? どこか痛いとこないか?」
ぼんやりとした表情ではあるものの、声を発してくれたことに安堵する。
「大、丈夫……誠一さん?」
震えていたのは自分の体だった。濡れた浴衣が二人の間でだけ熱を持つ。寒いのか暑いのかわからない。ただ、周を放すのがこわかった。あのときとは違うのに。修吾がひとり呆然と佇んでいた、あのときとは。
「足、滑らせた?」
「……ううん」
「じゃあ、なんで浴衣のままなの?」
周の視線が俺の顔を通り越す。向けられていたのは、洗い場の真上に設置された照明だった。
「ライトが、点いた、から」
「点いたって」
「十一時ちょうどに」
「そんな、だって、ここは」
俺の部屋じゃないし。そう口にするより早く、周が話し出す。
「俺、少しだけ寝ちゃって。目が覚めたときに、ちょうど明かりが点いたから、誠一さんが帰ってきたのかと思って」
「部屋からこの明かりは見えないだろ?」
「うん。見えたのは、ここじゃなくて、あっちの明かりだったけど」
周が指差したのは、俺が開け放った引き戸の先、脱衣所の明かりだった。扉さえ開いていれば、部屋からでも確認できる距離ではある。
「行ったら、こっちも点いてたから、お風呂に入ってるのかなって思って……でも、誰もいなくて……それで」
不意に周の声が途切れる。
「周?」
「……ごめん……なんか、うまく思い出せない」
「いいよ、無理しなくて。とりあえず着替えないと」
引き上げたときは熱かった周の体が、濡れた浴衣ごと冷えていく。夏とはいえ、山の中だからか夜の空気は冷たい。
「……ごめん、なさい」
「なにが? 周は何も悪くないだろう」
体を抱え上げれば、周の手がぎゅっと俺の浴衣を握り締めた。
ベッドサイドの明かりの中、小さな寝息を立てる周を見つめる。頬に触れれば、指先が記憶している温度と変わらない。表情は穏やかで、魘されているようにも見えない。念のため病院には連れていこうと思いながら、何事もなくてよかったと息を吐く。脳裏には浴衣のまま沈む周の姿が焼き付き、何度でも胸を苦しくさせた。大丈夫。もう大丈夫。周は生きている。
はあ、と大きな息を落とせば、頭には別の名前が浮かぶ。
――……修吾、なのだろうか。
午後十一時は修吾が毎年祝うと約束した時刻で。修吾が事故に遭った二週間前は、ライトが点き始めた頃だ。亡くなった修吾が来ていると考えるのが自然かもしれない。
「俺に会いに?」
そんなわけないとどこか冷静に思いながら、そうだったら嬉しいとも思ってしまう。二十年経っても色褪せることなく残り続けた想い。「会いたい」と願っていたのは自分だけではなかったと、ただそう思いたいだけなのだ。
だけど、どうしても腑に落ちない。
周の話が本当なら、周は明かりに誘い出され、気を失ったことになる。何が起きたのかはわからないが、俺が見つけなかったら頭も沈んでいたかもしれない。つまり、誰かが周に危害を加えようとしたってことだ。鍵は開いていたのだから、別の誰かがいたとも考えられる。けれどとくに荒らされた気配もなくなった物もない。じゃあ、やっぱり修吾の幽霊が? でも――修吾がそんなことをするだろうか。
和室のテレビへと視線を向ける。周を抱えて部屋に戻れば、何ごともなかったかのように画面は光を放ち、絞られた音が流れていた。
もしもあのときテレビが消えなかったら、小さな物音に気づくことはなかったかもしれない。
――……一時間多くてよかったって思わせるから。
一時間多くてよかったと俺が思うとすれば、修吾が誕生日を祝いに来たのだと、一時間早く来てくれたから周が助かったのだと思いたい。
だってあいつは、修吾は、いつだって俺のことを考えてくれる優しいやつだったから。
――優しいから。優しすぎるから。だから、あんなことになった。
ぎゅっと唇を噛みしめ、せり上がる苦しさをやり過ごす。修吾が周を助けてくれた。それでいい。真実なんて確かめる方法もないのだ。俺は俺が信じたいように信じる。
「……せいいち、さん」
「ん?」
薄く目を開けた周が、ゆっくり口角を上げ、優しく微笑む。
「誕生日、おめでとう」
ベッドサイドの置時計へと視線を向ければ、いつのまにか午前零時を過ぎていた。
「……周」
「俺が一番だよね? だって誕生日は今日だもんね?」
「うん。周が一番だよ」
そっと額を撫でると、ふわりと周が笑った。
病院で検査を受けたが、とくに問題はなく、周は翌々日から仕事に行った。よく覚えていないことが幸いしたのか、周はいつも通りだった。
むしろ心配になったのは俺のほうで、周にまたなにかあったら……と、しばらくは周の部屋から通うことにした。
「なんだか反対になっちゃったね。結局、お祓いも行けなかったし」
「俺のことは周が心配してくれて、周のことは俺が心配するんだから、ちょうどいいよ」
リモコンで明るさを調整し、周の隣に潜り込む。
「お祓いはまた今度、二人で行こう」
「……うん」
周の部屋にあるライトは人感センサー付きではない。午後十一時に勝手に点くことはなくなった。
「ベッド買い替えようかな」
「確かに狭いよな」
いくら周が小柄でも。シングルベッドに二人で眠るのは狭い。寝返りも満足にうてないし、起きると体のどこかが凝っている。それでも別々に寝るという選択肢が出てこないほど、心は満たされていた。
「でもこの部屋だとこれが限界なんだよね」
「じゃあ、ベッドじゃなくて部屋探すか?」
「え」
寄り添っていた体が、小さく振動する。
「誠一さん、引っ越したばっかなのに? いいの?」
窺うような言葉を使いながら、周の声には期待が滲む。わかりやすすぎて、隣で触れるだけでは足りなくなる。腕を伸ばし、体を抱き寄せる。
「うん。周と一緒にいられるほうがいいから」
ありがとう、と呟いた周の声は音よりも熱を持って胸に届いた。
何度座っても、美容室の椅子は慣れない。後ろへと倒れたときの位置が合っているのか自信が持てない。何も言われないのだからいいのだろうけど。
爽やかな香りとともに、泡が膨らむのを感じる。
「こだわりですか?」
「ええ。何かあるかなって」
周以外のひとに洗ってもらうのは久しぶりだった。同じ店内にはいるのだが、周は別の客の髪を切っている。シャンプーだけほかのひとが担当するのはよくあることだが、周を指名するようになってからは初めてだった。
「部屋っていうか、外から操作できるのに慣れると、もう戻れなくなりますね」
「ああ、スマートフォンひとつで何でもできるから」
「そうなんですよ。今だとエアコンを入れておくのが便利ですね」
九月になっても気温は相変わらず高いままだ。
「でも昔、彼女が部屋にいたのに気づかなくて外から操作しちゃったことがあって」
周より力が強いが、これはこれで心地いい。
「心霊現象かと思った、ってめっちゃ怒られましたね」
そういえばライトの話を初めてしたとき、周も『知らない誰かが外から操作してるってこと?』と言っていたっけ。
「そのあとめちゃくちゃ謝って許してもらったんですけど、周さんに言ったら『そのまま心霊現象にしてもよかったんじゃない?』って言われましたね」
「ん? どういうこと?」
「『一人でいるのがこわいなら、一緒に住む? って言えるじゃん』って」
頭皮を行き来していた指が止まる。
「洗い足りないところありますか?」
「――いや、大丈夫」
微かな震えは、シャワーの音とともに流れていった。
美容室の前、慣れた調子で周が「またよろしくお願いします」と頭を下げる。いつもなら俺もただの客の顔をして別れる。だけど、今日はできなかった。シャンプーのときに聞いた話が耳に残っている。今日は一人になるべきだと思った。
「周」
名前を呼べば、すぐに周が顔を上げる。
「今日はちょっと自分の部屋に戻ろうと思う」
浮かんだのは微かな不安の色。それでも「何かあったらすぐに連絡して」と付け加えれば、すぐに「うん。わかった」と周は頷いた。
自分の部屋に帰るのは一週間ぶりだった。ポストの中には広告やダイレクトメールがぎっしり詰まっている。一枚一枚確かめながら、備え付けのゴミ箱に捨てていく。
「ん?」
見慣れない水色の封筒に並ぶのは、母の字だった。
「あ、そっか。修吾の……」
話をした直後に周をお風呂場で見つけ、手紙のことをすっかり忘れていた。
ドクドクと心臓が不穏に揺れ出す。
頬を撫でるのは湿った冷たい風。夏から秋へと季節は変わろうとしていた。
ドアを開けば、一瞬遅れてライトが点く。
靴を揃えることなく進み、部屋中の窓を開け放つ。冷蔵庫に残していたミネラルウォーターをグラスに注ぎ、一気飲みしたところでテーブルの上に置いた郵便物を手に取る。
「……修吾」
携帯が繋がらなくなり、俺から修吾に連絡することはできなくなった。でも、修吾は俺の実家の住所も電話番号も知っていて、連絡をとる手段はあった。それなのに、何もしてこなかった。それが修吾の「答え」だと思った。俺を巻き込まないための優しさなのだと。
水色の封筒を開ける。ハサミを使わなかったので、糊付けされた部分が歪な波線を描く。
中には黄ばんだ封筒と、水色の一筆箋。
――たまには実家にも顔を出しなさい。
母の言葉に、周を連れていこうという考えがごく自然に浮かぶ。少し気になることはあるけど。周とこれからも一緒にいたいという気持ちは変わらない。尋ねられたら、今度こそ正直に言おう。修吾をただの「友達」としか言えなかった自分ではもうない。何を言われても、どんな反応をされても、周がいてくれるなら生きていける。
そっと息を吸い込み、封筒の上部を破く。乾いた紙の音だけが静かな部屋に響く。テレビすら点けていなかった。
入っていたのは便箋が一枚だけ。いざ読もうと顔を下げたところで、ふっと視界の端が明るくなった。
リビングと廊下を隔てる扉を開けたままにしていたので、顔を動かすだけで玄関まで一直線に見通せる。三和土の真上のライトが点いている。何を照らしているのか、俺には何も見えない。
――一人でいるのがこわいなら、一緒に住む? って言えるじゃん。
「周?」
――これから毎年誠一の誕生日は前日の二十三時からってことで。
「修吾?」
腕がぶつかり、ミネラルウォーターのペットボトルが倒れる。トプトプと広がった液体がテーブルから床へと流れていく。
――幽霊ってことはないよね?
幽霊だとしたら、心当たりはもう一人いる。
「……おじさん、なの?」
亡くなった修吾が訪ねているのではなく、修吾が亡くなったことによって、今度は俺を訪ねるようになったのかもしれない。
***
塾が終わったのは午後十時すぎ。携帯電話に修吾からの返信はなく、電話しても出ない。寝てしまったのだろうか。塾が終わった頃に連絡を取り合うのが当たり前になっていたので、どうにも落ち着かない。明日には学校で会える。そう思いながらも、自転車の前輪を修吾の家へと向けていた。
チャイムを鳴らすが、応答はない。けれど、部屋から漏れる明かりはある。そっとドアノブを回せば、あっさりと開く。
「――おじゃまします」
最初に聞こえたのは水音だった。
「修吾―?」
声をかけながら、音のするほうへと進む。
「せい、いち……?」
一目で状況を把握することは不可能だった。お風呂場には水音と修吾の声だけが反響する。裸のまま、修吾はタイルの上に佇む。視線を向けられたのは一瞬で、すぐに修吾は顔を戻した。
「……ごめん」
絞り出された声だけが落ちていく。
あと半年だと、もうちょっとの辛抱だと言ったのは、ほんの一週間前だ。
「救急車……呼んで、くれる?」
そうだ、救急車だ。ズボンのポケットから携帯電話を取り出すが、うまく指が動かない。
「ごめん、待って、すぐ」
指だけでなく声も震える。とにかく救急車を。それで、それで……混乱する頭のまま視線を戻せば、修吾は同じ姿勢のまま佇んでいる。
「……修吾? とりあえず、こっちに」
声をかけても返事どころか微動だにしない。ただじっと浴槽を――服を着たまま沈む自分の父親を見ていた。
水は止まることなく注がれ続け、浴槽の表面を滑っていく。救急車よりも水を止めることが先ではないか。そう思ったところで、お風呂場を満たす空気のどこにも熱がないことに気づく。裸のまま佇む修吾の体は微かに震えていた。
「修吾っ! お前、いつから」
靴下のまま踏み込み、修吾の腕を掴む。あまりの冷たさに、反射的に放してしまいそうだった。
「待っ、て……え、なんで……」
なんで、と零れ落ちた言葉が何を指したものだったのか、自分でもわかってはいなかった。目の前の状況すべてに「なんで」と言えた。それでも、目に入った瞬間ではなく、修吾の腕を掴んだ瞬間に零れたのだから、俺は修吾を信じていたのだろう。
「……我慢、できなかった」
ちがう。そんなことを聞きたかったわけじゃない。首を振るが、修吾は俺を見ない。
「ただ殴られるだけなら、耐えられた、けど、今日は、ちがう日、で」
「修吾」
「でも、はじめてじゃ、ないし」
「修吾」
「俺が、我慢すれば、よくて……でも、できな」
「修吾っ!」
抱き締めた体は体温を失くしたかのようだった。髪に触れた部分だけが濡れていく。修吾の体はひどく冷たく、肌は乾いていた。
「……救急車、呼ばないと」
修吾の声が腕の中に落ちていく。
助かるのだろうか。今ここで俺が救急車を呼べば。
「修吾」
「救急車を」
「――本当に、助かってほしい?」
修吾の声が途切れる。腕を緩めれば、ゆっくりと修吾が顔を上げる。青くなった唇は震え、瞳も不安げに揺れ続ける。それでも、きっと、答えはもうある。
「せい、いち……俺……」
知っていた。本当はずっと知っていた。だけどそれを誰かに言うことはできなかった。同情や慰めがほしいわけじゃない。ただ静かに平穏に生きていきたいだけ。すべてを話したら、修吾は父親と離れることができるだろう。だけど、それは同時に修吾に起きたことを晒すことになる。一度表に出れば、消えることはない。いつか忘れられるものだとしても。その「いつか」は保障されていないし、忘れられるものは「思い出せる」ものでもある。
――虐待。暴行。被害者。
そんな言葉を背負わせたくない。もっと自分が大人だったなら守れただろうか。二人で生きていく未来を自分たちで掴めただろうか。
「……事故、だろ」
「え」
「酔っ払ったおじさんがひとりで足滑らせて溺れた。そうだろ?」
揺れ続ける瞳が濡れていく。
「修吾のせいじゃない。俺が救急車を呼ばなかった。だから間に合わなかった」
零れ落ちた涙が頬を濡らす。
「修吾は何も悪くない」
シャツに落ちた雫は、確かな熱を持っていた。
翌日、帰宅した修吾の母親がお風呂に沈む夫を見つけ、死亡が確認された。不審な点はなかったのか、不幸な事故として処理され、俺も修吾も何も疑われなかった。
母親からの電話に答える修吾を、俺は枕に頭を乗せたまま見つめる。階下では聞き慣れた朝の支度の音がする。
「――うん。じゃあ、あとで」
通話を終えた修吾が、ゆっくりと俺に顔を向ける。カーテンの隙間から漏れる光が、修吾の上半身を縁取る。
「起きた?」
「……うん」
タオルケットから両腕を伸ばし、枕を背に座る修吾の腰へと回す。
「行ってくるね」
修吾の声はもう震えていない。
「うん」
ぎゅっと力を入れても、修吾の体は温かいままだ。記憶を追い出すように注ぎ合った昨夜の熱とは違う。ただ穏やかな熱だけが存在していた。
***
修吾との最後の記憶を思い出しながら、視線を戻す。封筒の中で時を止めていたかのように便箋は白い。何本も引かれた罫線を無視し、真ん中に文字が並ぶ。
――誠一、おわりにしよう。
「ごめん」も「ありがとう」も「好き」もない。期待した言葉はなにひとつない、別れの手紙。出そうとして出せなかった修吾の気持ちが痛いほど伝わってくる。
「なんだよ……それ」
呟きの最後、ピンポーン、と弾んだインターフォンの音が重なる。
「周?」
こんな時間に尋ねてくる相手など、周しか浮かばない。
画面の右上には『玄関』の文字。周なら合鍵でエントランスを抜けるので、いつものことだ。
「ん?」
映っているのはドアを開いて見える景色だけで、ひとの姿はない。映り込まずに鳴らすことは可能だけど。なんだ? 俺のこと驚かそうとしているのか?
「――はい」
通話を押すが、返答はない。
「周?」
呼びかけても答える声はない。
周ではないのだろうか? 部屋を間違えているとか? いずれにしても出ないことには鳴り続けるだろう。
「一体、何時だと思っ」
玄関へと向かいかけた足が止まる。
視線を向けた先は、ドアの色がはっきりとわかるくらいに明るい。
「あれ?」
ライトは点いたままだった。いつものように午後十一時に点いてから一度も消えていない。誰もいないはずの玄関を照らし続けている。
――ピンポーン。
音は鳴り止まない。
――誠一、おわりにしよう。
不動産屋で鍵を受け取り、家とは反対、駅へと歩く。平日昼間とはいえ、商店街はひとが多い。ビジネス街とは違う緩やかな騒がしさは心地いいが。
カンカンカンと警報器が鳴り、踏切が閉まる。目の前を小豆色の電車が過ぎていく。初めて住む沿線ではあったが、すでに見慣れた色だった。周の部屋はふたつ隣の駅にある。付き合って半年、会社帰りに乗り換えるのも、休日に揺られるのも慣れたものだ。
「誠一さん」
改札から出てきた周が手を上げ、俺の名前を呼ぶ。まだ呼び慣れたとは言えない、少しはにかんだ表情で。周の仕事場である美容室で会うときは今でも「小林さん」だからだろうか、何度呼ばれても胸がくすぐったくなった。
「はい、鍵」
「えっ、いいの?」
まだ使っていない鍵を渡せば、周の声が驚きに跳ねる。
確かに合鍵を渡すのはこれが初めてだけど。二本受け取ったときに、自然と周に渡そうと思っていた。
「ダメなの?」
「ダメじゃないけど……誠一さんのいない間にイタズラしちゃうかもよ。新しい部屋見るの楽しみだったし」
「あー、それなんだけど」
先週のうちに引っ越しをすませるはずが、急遽出張が入り、休みを取ることができなくなった(おかげで、こうして周の休みに合わせられたのだが)。仕事が忙しいときは連絡を取らないことも多いので、伝えそびれていた。
「なーんにもないね」
家具もカーテンもない。空っぽの部屋に二人で寝転がる。白いフローリングの床は窓からの日差しを吸い込み、背中をじわりと温める。
「引っ越しは?」
「明日」
「え、こんなのんびりしてていいの? 準備は?」
「お任せコースだから、もう終わってる」
「マジで?」
「マジで」
ふっ、と周が笑う。
「誠一さんも『マジ』とか言うんだ」
「言うよ。言ったことなかったっけ?」
「んー、聞いたことなかった気がする」
そうだっけ、と片肘をつき周の前髪へと指を伸ばす。
「色変えた?」
「うん、秋色にしたんだ」
「もう秋なのか」
季節を先取りする周の時間は、鮮やかに過ぎていく。歳をとればとるほど時間は早く過ぎる。だからこそ季節を先取りすることになんの躊躇いもない若さを見るのは眩しい。俺は今の季節を味わうだけでいいと思ってしまうのに。十歳の差をこんなところで感じるとは。
「まだ八月なのに」
「明日から九月だよ」
「それでもまだ夏だろう」
最高気温は三十度を切らない。電気と水道だけは先週のうちに通していたので、エアコンをつけているが、そうでなければ十分もいられなかっただろう。
「誠一さん、そろそろ切らないとだね」
「周が切ってくれる?」
「もちろん。俺以外に切らせたら怒るよ」
空っぽの部屋にあるのは窓からの日差しとエアコンの冷気と、二人の話し声だけ。ほかには何もない。何もいらない。そう言ったら周は「いや、冷蔵庫も洗濯機もいるでしょ」って笑うのだろう。周のほうが現実的なのだ。
「……カーテンないよ」
頬に手を添えれば、困ったような、それでいて期待するような眼差しを向けられる。
「そうだね」
「そうだねって、向かいのマンションから見えるんじゃない?」
「俺は気にしないけど。周は嫌?」
きゅっと小さく尖った唇が、視線を揺らしながら解かれる。
「……キスだけなら、いいけど」
ありがと、と声とともに唇を落とす。ん、と触れ合った瞬間に周の声が零れる。薄く目を開ければ、瞼を閉じた周の顔。小さく眉を寄せているのが可愛い。
キスだけで終われるかな、なんて思っていたけど。誰にも見せたくないという独占欲のほうが大きくなった。
そっと唇を離せば、ゆっくり瞼が上がる。視線とも呼べない距離で、焦点の定まらない目が向けられる。
「周のその顔は、物足りないってこと?」
「っ、そんなことないし」
「本当に? 俺は全然足りないけど」
周の顔が一気に赤くなる。
「まあ、でも、ここカーテンないし。俺の部屋は段ボールだらけだし」
「……うち」
来る、とエアコンの風にも掻き消されそうな小さな声で周が言う。うん、と頷くと同時にもう一度キスを落とした。
引っ越しから二週間経ち、手続きや仕事も落ち着き始め、そろそろちゃんと(空っぽの部屋ではなく)周を呼ぼうと思った頃だった。
「ん?」
リビングのソファでビールを飲んでいると、視界の隅が明るくなった。顔を向ければ、リビングと廊下を隔てる扉の向こうが僅かに明るい。距離を考えるに、ガラス部分に差し込む光は玄関に設置されているライトだろう。
部屋には自分一人。周には合鍵を渡しているが、ドアが開けられた気配はない。缶の中身はまだ半分以上残っている。酔っ払うには早すぎる。
面倒だな、と思いつつ立ち上がり、玄関へと向かう。ドアを開ければ三和土の真上、丸いライトが点いていた。もちろん誰もいない。
人感センサーにしているので、単なる誤作動か不具合だろう。ライトが点かなくなるのは困るが、点くのだから問題はない。リビングへと引き返す頃には自然と消えたので、気にすることもないだろう。
ソファに戻ると、テレビではここからほど近い場所での交通事故を伝えていた。
そろそろ来るかな、と壁の時計へ視線を向けたところで、タイミングよくインターフォンが鳴る。画面の右上には『玄関』の文字。合鍵を渡しているので入って来られるはずだが、オートロックのエントランスは抜けても、周は必ずドアの前でインターフォンを鳴らす。
――急に鍵が開いたらこわくない?
そう周は言っていたけど。何かに怯えるような年でもなければ、繊細な神経も持ち合わせていない。ただただ年下の恋人が可愛く、したいようにさせている。
「え、なに? 雨?」
いらっしゃい、と用意した言葉がすり替わる。
ドアの前に立っていた周はずぶ濡れだった。
「さっき急に降り出し……っしゅ」
「うわ、入って入って。タオル持ってくる」
降り出したばかりらしいが、雨音は耳を塞ぐほどで、ほんの一瞬ドアを開けただけでも、湿った香りと蒸し暑さが濃かった。
洗面所からタオルを取って戻ると、周が三和土の上でぼんやりと真上を見ている。
「これ使って」
タオルを差し出せば、パッとこちらに顔を向ける。ふわふわと柔らかかった髪は濡れて束を作り、先から頬へと雫を落とす。音さえない。それなのに、それだけのことに胸がざわつく。滴る水。佇む姿。記憶の糸が繋がりかける。
「誠一さん?」
周の声に意識が引き戻される。
「あ、えっと、シャワー使って」
「うん。……ありがとう」
落ちてくる光を受け止めながら、周が柔く微笑んだ。
「誠一さん」
声に振り返れば、周の髪は濡れたままだった。
「あれ? ドライヤー気づかなかった?」
わかりやすいように洗面台に置いたはずだが。洗い物の手を止め、キッチンを出る。廊下とリビングを繋ぐドアのところで立ち止まったまま、周の視線は俺と背後を行き来する。
「誠一さん、こっち来てないよね?」
「ん? 周がシャワー浴びてるのを覗いたかってこと? さすがにそれはしてないけど」
「そうじゃなくて。玄関のほうに来たかってこと」
玄関、と付け加えられ、ようやく周の言いたいことがわかった。壁の時計を振り返れば、時刻は午後十一時ちょうど。
「ああ、ライト点いた?」
「え、う、うん」
「大丈夫。そのうち消えるから」
「待って。どういうこと?」
周の肩を廊下へと押し戻しながら、説明する。玄関のライトはすでに消えていた。
「俺にもよくわかんないんだけど、一週間前からかな? 十一時になると勝手に点くようになってさ」
「勝手に? 何か設定してるの?」
「いや、特には。人感センサーにしてはいるけど」
「知らない誰かが外から操作してるってこと?」
ああ、そういう発想もあるのか。決まった時間に点くのは確かに妙だが、放っておけば消えるし、実害はないに等しい。手動に切り替えることもできるが、帰宅時にスイッチを探す煩わしさを考えれば現状のままのほうが便利だ。ということを、周の髪を乾かしながら説明する。ドライヤーの音で聞きづらかったのだろう、何度か聞き返されたが、細く柔らかな髪がさらさらと指を抜ける頃には話し終えた。
「うーん、一回二回ならともかく、毎日なら管理会社には言ってもいいんじゃない?」
「そうだな。とりあえず言ってみるわ」
「……誠一さんって、意外とテキトーだよね」
「え、そう? わりと全体的にテキトーだけど」
「そっち?」
「気づかなかった?」
きゅっと唇を尖らせるのは、周が考え事をするときの癖だ。そんな些細なことに気づけるくらい一緒にいるのだと思ったら、愛おしさが込み上げてくる。
周は――周だけは、手放したくない、と。
愛おしさの奥で鳴った痛みに気づかないふりをする。
「そう言われると、最初にお店に来たときもだいぶテキトーな格好だったような」
「ああ、そうかも。まさかこんな可愛い子に出会うと思ってなかったからな」
洗面台の鏡越しに合っていた目が、直に向かい合う。周の唇はまだ少し尖ったままだ。
「二回目以降はちゃんとしてたでしょ?」
「まあ……」
ほんの一瞬、洗面台に置かれたドライヤーへ落とされた視線が戻ってくる。頬が赤いのはシャワーのせいか、ドライヤーのせいか、それとも……。
「俺もシャワー浴びるね。冷蔵庫にある飲み物勝手に飲んでいいから。リビングでも寝室でも好きなところにいて」
「好きなところも何もないと思うんだけど……まだ」
「そう?」
「やっぱりテキトーだ」
ふわりと湿った空気が近づく。ボディソープの香りが鼻に触れ、柔らかな唇が重なる。
「早くしないと寝ちゃうよ」
「りょーかい」
互いに出勤準備を終え、玄関で靴を履いていたとき。周が天井を見上げた。
「あのさ」
靴ベラを戻し、視線の先を追えば、丸いライトが煌々と光っている。
「幽霊ってことはないよね?」
「え」
予想外の言葉に、周の顔を確かめれば、冗談で言ったのではないのが表情でわかる。
「故障とか不具合とか説明がつくならいいけど。つかなかったら、そういう可能性もあるかなって……誠一さん?」
「ふ、ふふ、ごめん」
「ちょっと、ひとが真面目に心配してるのに」
「だって、まさか周が『幽霊』なんて言うと思わなくて」
見た目こそ派手ではあるが、実家の経済状況と自分の将来を考えて美容師免許の取れる通信制高校を選んだことや、実家から送られる食材で休みの日に作り置きしていることを知っていたので、俺の中の周は「堅実」で「現実的」な青年だった。
だからこそ非現実的である「幽霊」という言葉が周から出てきたことにびっくりしたし、自分以上に気にしてくれていたのだとわかって嬉しかった。
「いや、俺だって見えるわけじゃないし、心から信じてるわけでもないけど」
でも、と周が眉を寄せたのは俺に笑われて怒っているからじゃない。言葉どおり「真面目に心配して」くれているから。
「心配してくれてありがとう。じゃあ、管理会社に一度見てもらって、それでも原因がわからなかったら、お祓い付き合ってよ」
おはらい、と口の中で繰り返す周の頬にキスをして、ドアを開ける。
「周はどこか行きたいところある? 車でも新幹線でもいいよ。何なら飛行機でも。俺のお祓いのためだから、費用は俺が持つし」
「それって、ただの旅行じゃ……」
「せっかくだし両方兼ねてるほうが得でしょ」
「やっぱりテキトーだ」
キーケースを手にした俺を制し、周がリュックの中からキーホルダーを取り出す。
真新しい鍵が差し込まれ、金属音が小さく鳴る。今この瞬間にどうしても必要だったわけではない。けれど周は今使うことを選んだ。俺の部屋だけど、俺だけの部屋じゃない。そう、周に言われた気がした。
***
――まだ誕生日じゃないんだけど。
ベッドに寝転がりながら、携帯電話でメールの返事を打つ。スマートフォンよりも分厚くて小さい、片手で収まるサイズ。画面をスライドさせることでキーボタンが出てくる。タイムラグがあるのは当たり前で、返信が来るまで何度も問い合わせていた。
懐かしいな。二十年以上前だろう。夢と呼ぶにはあまりにも鮮やかで、記憶の欠片が溶けているのだとわかる。
眠りにつく寸前までメールのやり取りをしていた。翌日の朝練のことなんて考えもせず。寝不足で体が動かなくなるなんて全くなかった頃。
――フライングしてまで一番に送りたかった俺の気持ちを汲んでくれ。
――十二時まで起きてる自信がなかっただけだろ。
そう送りながらも、本当はとても嬉しかった。誕生日を覚えていてくれたこと。メールをくれたこと。フライングをしてでも一番にこだわってくれたこと。全部が嬉しくてくすぐったくて、でも素直に伝えられる性格ではなかった。
センターに問い合わせている途中で、着信が来る。え、電話? わざわざ?
「もしもし」
『誕生日おめでとー』
「だから、まだなってないって」
『俺が一番? 一番だよな?』
「フライングだからな」
『よし。じゃあ、これから毎年この時間にお祝いするな』
「は?」
突然の宣言に驚き、体を起こす。カーテンの隙間からは半分になった月が見えた。
『いいだろ。一時間得したと思えば』
「得なの?」
『得だろ。俺とお前の間でだけは、誕生日が一時間長いんだから』
「まあ、そうだけど」
でも、この一時間で何ができるってわけでもないじゃん。そう付け加えようとしたとき。僅かに早く声が届いた。
『今は何もできないけどさ。何年か後には、この時間もきっと一緒にいるだろ。そのときにちゃんと一時間多くてよかったって思わせるから』
いつもと変わらないやり取りのはずだったのに。機械越しの声はいつもより柔らかくて、「友達」ではなく「恋人」なのだと実感してしまう。
毎年お祝いすること。何年か後には、こんな時間でも一緒にいること。なんの不安も躊躇いもなく、当たり前の未来として語られるのが、嬉しくてたまらなかった。
『え、泣いてる?』
「……泣いてねー」
『まあ、もうちょっとの辛抱ってことで』
「――うん」
半年後には、二人とも上京しているはずだ。ここから通える大学はないに等しく、進学を希望するひとはみな都会に出ていく。それまではただの「友達」でいないといけない。ひとの噂が何より速く伝わるこの場所で、周りの目を気にする大人たちの前で、俺たちが「恋人」であることは許されないのだから。
『これから毎年誠一の誕生日は前日の二十三時からってことで』
「わかったよ」
おやすみ、と声をかけ合う頃には日付が変わっていた。
「……幸せ、だったのにな」
この先に何があるのか知らなかったから。自分たちの思い描く未来が簡単に壊れてしまうことに気づいていなかったから。いや、でも。あいつは何か気づいていたのかもしれない。気づいていたからこそ、強く未来を語って見ないふりをしたのかもしれない。
***
「誠一さん?」
はっきりとした輪郭のある声だった。夢でも思い出でもない。現実を生きる声に、意識が引き寄せられる。
見慣れた自分の部屋よりも早く、周の顔が視界に入った。ベッドの中で顔が向かい合う。
「こわい夢でも見たの?」
隣から心配そうな表情で見つめられる。明日(もう今日か)からの旅行のため、前日から泊まりに来てもらったのだ。すぐに車で出発できるから、と。
「あ、いや。こわい夢じゃなくて、昔のことを思い出しただけで」
「でも、泣いてるよ」
「え」
周の指が目の下に触れる。そっと拭われ、自分が泣いていることをようやく理解する。
「年を取ると涙もろくなるって言うからな」
あれは幸せだった頃の記憶だ。泣きたくなるような出来事なんてまだ何もなかった頃の。でも、泣いている。胸の奥が痛みを鳴らしている。
「大丈夫?」
大丈夫だよ、といつものように答えようとして、うまく声が出なかった。大丈夫。もう大丈夫。あいつがいなくなってから二十年も経っているのだ。手がかりも探す気力もとっくに尽きている。俺は目の前の周を大切にすると決めたのだ。
「大丈夫だけど、ぎゅってしてほしいな」
「誠一さんが甘えるなんて珍しいね」
「我慢してたからね」
「そうなの?」
「十も上のおじさんに甘えられたら困るだろうなって」
「そんなことないのに」
ふふ、とくすぐったそうに笑いながら周が近づく。タオルケットから出た細い腕が背中に回され、きゅっと空気が押し出される。温かな体温と柔らかな匂いに、鳴っていた痛みが遠くなっていく。
「これでいいの?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
くすくすと揺れる胸に顔を埋めながら、今が一番「幸せ」だと思った。
目の前の信号が赤へと変わる。緩やかに速度を落とし、停止線手前で停車する。高速道路に入る前、景色はまだ見慣れた街のままだ。
「そういえば、ライトどうなったの?」
「一応、管理会社に言って取り替えてもらったんだけど」
「え、もしかしてまだ点くの?」
「そうなんだよなあ」
「……やっぱり、おばけかな」
そうか、おばけか。幽霊よりは可愛く聞こえるな。自動点灯させるおばけ? しかも決まった時間に? どんな理由で? 理由なんかないのか? と考えたところで、小豆を洗う妖怪がいたなと思い出す。あれは音で人間を誘い出すのだっけ。
「うーん、さすがにまだ引っ越さないよね?」
「一か月しか経ってないよ」
「だよね」
「そんなに気になる?」
自分にとっては毎日のことで、もはやライトが点こうが点かなかろうが気にならなくなっている。何か困ったことがあるわけでもない。電気代もたかが知れている。
「むしろ、どうしてそんなに気にせずにいられるのかわからないんだけど」
「俺の分まで心配してくれてありがと」
眉を寄せた周の頭に軽く触れてから、ゆっくりアクセルを踏んだ。
温泉街から少し離れた旅館は、あたりを山に囲われていて、運転こそ気を遣ったが、窓からの風が心地よかった。周も「都会とは全然違う」と声を弾ませていて、それだけで来てよかったと思う。
「こちら当館から誕生日のお祝いです」
「えっ、あ、ありがとうございます」
チェックインの最後、鍵と一緒に手渡されたのはお菓子の詰め合わせだった。
「誠一さん、誕生日なの?」
格子の引き戸を開ければ、二人では広すぎる玄関がある。襖が閉じられているので部屋はまだ見えない。広さや景色を確かめる間もなく、周に見上げられ、「あー」と声が出る。まだ靴すら脱いでいない。
「正確には明日だけど。いや、すっかり忘れてて……。まさかこんな形で祝われるとは」
「なんで教えてくれないの。俺が一番にお祝いしたかったのに」
「いや、だから忘れてて」
荷物も下ろさず、部屋に興味も示さず、周が俯く。
「……ひどい」
絞り出すように落とされた声は、消えそうなくらい小さかった。誕生日を祝う、という習慣すら薄れている俺にとっては「そんなに落ち込まなくてもいいのに」と思ってしまうが。これが自分の誕生日ではなく周の誕生日だったなら、張り切っていろいろ用意したに違いない。あー、愛されてんな、俺。
「ごめん。でも、周といられることが俺にとってはプレゼントだから、結果オーライというか」
「でもここを見つけたのも予約したのも支払いだって、全部誠一さんがしたよね。運転だって。俺なんにもしてない。いつもしてもらうばっかりで、なんの役にも立ってな」
「周」
声色の変化を感じ取ったのだろう、周がパッと顔を上げる。
「それ以上言ったら、怒るよ」
視線を繋いだまま、顎へと手を伸ばす。触れても周は逃げない。ただじっと不安げに見上げてくる。もっと揺らしたいとも、二度と揺らしたくないとも思う。不安な顔をさせたくないのに。俺のことで不安になっているのが嬉しくもあって。矛盾する気持ちを抱えたまま「周」と名前を呼ぶ。
「っ、でも……んっ」
小さく動いた唇を塞ぐ。言葉も気持ちも俺の中で溶かしてしまえばいい。周の中身まるごと俺に注いでくれればいい。そうしてできた空白に俺だけを置いてほしい。
「ほんとに、俺は周がいてくれるだけでいいんだよ」
呼吸が重なる距離のまま言葉を紡ぐ。
「できればずっと、そばにいてほしい」
「そんなの俺だって」
思ってる、と呟いた声をそっと吸い込む。それは周の匂いと一緒に広がり、じんと胸を熱くさせた。
この部屋だけで十分では? と思うほど広い和室の左奥には、ベッドが二台置かれた寝室がある。荷物を置き、二人でひと通り見て回ると、周は畳の上にある座布団でも、広縁に置かれた籐椅子でもなく、ベッドに腰を下ろした。
「誠一さん」
隣に座るか、向かいに座るか、という一瞬の逡巡を周の手が消し去る。二人分の体重を受け止めたベッドの振動が、繋いだ手にまで伝わる。
「しばらく俺のところに来ない?」
指先から熱を滲ませる周は、いつもより早口だった。
「誠一さんの部屋より狭いし、古いし、オートロックもないけど。でも、二駅しか変わらないし、駅からの距離も同じくらいじゃん?」
「そうだけど」
周の部屋は何度も訪れているが、狭さも古さも気になったことはない。むしろ周が生活しているのを感じられて、居心地がいいくらいだった。
引っ越し先を同じ駅にするか迷い、一緒にいるための適度な距離を考え、敢えて二駅隣の物件を選んだ。近づきすぎることがこわかったのかもしれない。口では「ずっと」と言いながら、どこかで「おわった」ときを考えてしまう自分がいた。
「ライトひとつで、って思うかもしれないけど。でも、やっぱりなんか嫌なんだよ」
なんか嫌、というのはあまりにも直感的で、周から出てくる言葉にしては珍しかった。
「そんなに心配?」
「うん。だから、できるだけ俺のそばにいればいいのにって思う」
「……なんだよ、急にカッコイイこと言うなよ」
「惚れ直した?」
「――とっくにベタ惚れだよ」
ほんの少し重心をずらしただけで伝わってしまう。声とともに距離を手放せば、いつもとは違う感触に沈むだけだった。
夕飯を大広間ですませたところで、スマートフォンが振動した。
こんなときに誰だよ、と確かめれば、実家からだった。ここで無視したら、いいところで邪魔されかねない。
「ごめん。実家から」
エレベーターホールに向かう足を止め、自動販売機の前に置かれた椅子に視線を向ける。
「じゃあ、先に戻ってるね」
「悪い。すぐ行くから」
「いいよ。ゆっくり話して」
浴衣姿の周を見送ってから画面をタップする。
「もしもし」
「誠一? あのね、落ち着いて聞いてほしいんだけどね」
今忙しいから、と切るはずが、思いがけず真剣な声を出され、言葉が引っ込む。
「佐藤さんとこの修吾くん、覚えてる? 高校の頃に仲のよかった」
「あ、ああ。卒業間近に父親が亡くなって、それで、急に引っ越した」
まだ大人に振り回されるしかなかった頃。修吾とはその後一切連絡が取れなくなった。
「そう、その修吾くんがね、亡くなったの」
「――は?」
どこに行ったかもわからない。携帯も繋がらない。消息不明。それがどうしていきなり生死を確認できるのか。
「二週間前に……交通事故で」
え、と開いた口からは音さえ出なかった。
「名前が変わっていたからニュース観てもわからなかったんだけど。誠一が住んでるところの近くで、バイクとトラックの事故、あったじゃない」
うちの近くって、言われても……。テレビは流し見る程度で、記憶に留めようと思うこと自体が少ない。
「それでね、修吾くんの遺品に手紙があったらしくて、うちに送ってくれたの」
遺品という言葉に、ドンと強い衝撃が心臓に走った。
「手紙って」
「誠一宛てだったからって」
「どうして」
「どうして出さなかったのかなんて、お母さんにもわからないわよ」
そうじゃなくて、と言いかけて、口を噤む。今「どうして出さなかったのか」と言わなかったか? つまり、そう疑問に思うほど、手紙が古いものだったということでは? そこに書かれている文面を想像しようとして、一文字も浮かばなくて。それなのに、心臓が一回り縮んでしまったような苦しさを感じる。
「送ろうと思ったんだけど、誠一の新しい住所聞きそびれてたから」
修吾の死。修吾の手紙。何から考えればいいのかわからないまま、覚えたての住所をどうにか伝える。
「じゃあ、送っておくわね」
「……うん」
「あ」
「なに?」
「誕生日おめでとう。ちょっとだけフライングだけど」
ありがと、と衝撃の余韻を抱えたまま通話を切る。
気づけば飲み物を買うのも忘れ、部屋に辿り着いていた。格子の引き戸に鍵はかかっていない。俺が鍵を持っていないので開けておいてくれたのだろう。
「ただいま」
静かな空間に響く自分の声。奥からは薄くテレビの音が聞こえるが、返事はない。
「周?」
声が聞きたい。肌に触れたい。周に触れてほしい。胸を占める切実な願望のまま、スリッパを揃えることなく、襖を開ける。
視界で捉えられる範囲に周の姿はなかった。
トイレだろうか、と確認するがいない。スニーカーもスリッパも二人分揃っている。まさか裸足で出ることはないだろう。
「周? どこにいるの?」
広縁にもベッドにもいない。残るは……と視線を巡らせたとき。テレビが突然消えた。リモコンに触った覚えもなければ、停電でもない。え、と戸惑う間もなく、今度はカタ、と小さな音が耳に届く。
「周?」
振り返った先には露天風呂がある。脱衣所の明かりは消えていて真っ暗だ。誰かがいるとは思えない。けれど、ほかに確かめるべき場所も浮かばない。足を進める。あとで一緒に、と約束したはずだけど。先に一人で入っているのだろうか。
脱衣所に浴衣はなかったが、引き戸の向こうからは明かりがわずかに漏れている。
「周? いるの? 露天入るなら俺も誘っ――あまねっ!」
むわりと包み込むような湿気も、ヒノキの香りも、飛び込んできた光景に吹っ飛ばされる。洗い場の先、広めのお風呂の中になぜか浴衣を着たままの周がいた。どうにか縁に頭が残っているが、今にも沈みそうだ。
「おい、大丈夫か? 周、周ってば」
強く揺すってでも起こしたかったが、頭を打っているかもしれないので、頬を叩くにとどめ、体を引き上げる。
水を吸った浴衣が引き止めるように、重みとなって周の肌に貼りつく。抱えた体は熱かった。
「なんで……いつも、俺のいないときに……」
ぎゅっと抱きしめれば、震えにも似たわずかな反応が返ってきた。周の瞼が薄く開かれる。
「――せい、いち、さん」
「周! 大丈夫か? どこか痛いとこないか?」
ぼんやりとした表情ではあるものの、声を発してくれたことに安堵する。
「大、丈夫……誠一さん?」
震えていたのは自分の体だった。濡れた浴衣が二人の間でだけ熱を持つ。寒いのか暑いのかわからない。ただ、周を放すのがこわかった。あのときとは違うのに。修吾がひとり呆然と佇んでいた、あのときとは。
「足、滑らせた?」
「……ううん」
「じゃあ、なんで浴衣のままなの?」
周の視線が俺の顔を通り越す。向けられていたのは、洗い場の真上に設置された照明だった。
「ライトが、点いた、から」
「点いたって」
「十一時ちょうどに」
「そんな、だって、ここは」
俺の部屋じゃないし。そう口にするより早く、周が話し出す。
「俺、少しだけ寝ちゃって。目が覚めたときに、ちょうど明かりが点いたから、誠一さんが帰ってきたのかと思って」
「部屋からこの明かりは見えないだろ?」
「うん。見えたのは、ここじゃなくて、あっちの明かりだったけど」
周が指差したのは、俺が開け放った引き戸の先、脱衣所の明かりだった。扉さえ開いていれば、部屋からでも確認できる距離ではある。
「行ったら、こっちも点いてたから、お風呂に入ってるのかなって思って……でも、誰もいなくて……それで」
不意に周の声が途切れる。
「周?」
「……ごめん……なんか、うまく思い出せない」
「いいよ、無理しなくて。とりあえず着替えないと」
引き上げたときは熱かった周の体が、濡れた浴衣ごと冷えていく。夏とはいえ、山の中だからか夜の空気は冷たい。
「……ごめん、なさい」
「なにが? 周は何も悪くないだろう」
体を抱え上げれば、周の手がぎゅっと俺の浴衣を握り締めた。
ベッドサイドの明かりの中、小さな寝息を立てる周を見つめる。頬に触れれば、指先が記憶している温度と変わらない。表情は穏やかで、魘されているようにも見えない。念のため病院には連れていこうと思いながら、何事もなくてよかったと息を吐く。脳裏には浴衣のまま沈む周の姿が焼き付き、何度でも胸を苦しくさせた。大丈夫。もう大丈夫。周は生きている。
はあ、と大きな息を落とせば、頭には別の名前が浮かぶ。
――……修吾、なのだろうか。
午後十一時は修吾が毎年祝うと約束した時刻で。修吾が事故に遭った二週間前は、ライトが点き始めた頃だ。亡くなった修吾が来ていると考えるのが自然かもしれない。
「俺に会いに?」
そんなわけないとどこか冷静に思いながら、そうだったら嬉しいとも思ってしまう。二十年経っても色褪せることなく残り続けた想い。「会いたい」と願っていたのは自分だけではなかったと、ただそう思いたいだけなのだ。
だけど、どうしても腑に落ちない。
周の話が本当なら、周は明かりに誘い出され、気を失ったことになる。何が起きたのかはわからないが、俺が見つけなかったら頭も沈んでいたかもしれない。つまり、誰かが周に危害を加えようとしたってことだ。鍵は開いていたのだから、別の誰かがいたとも考えられる。けれどとくに荒らされた気配もなくなった物もない。じゃあ、やっぱり修吾の幽霊が? でも――修吾がそんなことをするだろうか。
和室のテレビへと視線を向ける。周を抱えて部屋に戻れば、何ごともなかったかのように画面は光を放ち、絞られた音が流れていた。
もしもあのときテレビが消えなかったら、小さな物音に気づくことはなかったかもしれない。
――……一時間多くてよかったって思わせるから。
一時間多くてよかったと俺が思うとすれば、修吾が誕生日を祝いに来たのだと、一時間早く来てくれたから周が助かったのだと思いたい。
だってあいつは、修吾は、いつだって俺のことを考えてくれる優しいやつだったから。
――優しいから。優しすぎるから。だから、あんなことになった。
ぎゅっと唇を噛みしめ、せり上がる苦しさをやり過ごす。修吾が周を助けてくれた。それでいい。真実なんて確かめる方法もないのだ。俺は俺が信じたいように信じる。
「……せいいち、さん」
「ん?」
薄く目を開けた周が、ゆっくり口角を上げ、優しく微笑む。
「誕生日、おめでとう」
ベッドサイドの置時計へと視線を向ければ、いつのまにか午前零時を過ぎていた。
「……周」
「俺が一番だよね? だって誕生日は今日だもんね?」
「うん。周が一番だよ」
そっと額を撫でると、ふわりと周が笑った。
病院で検査を受けたが、とくに問題はなく、周は翌々日から仕事に行った。よく覚えていないことが幸いしたのか、周はいつも通りだった。
むしろ心配になったのは俺のほうで、周にまたなにかあったら……と、しばらくは周の部屋から通うことにした。
「なんだか反対になっちゃったね。結局、お祓いも行けなかったし」
「俺のことは周が心配してくれて、周のことは俺が心配するんだから、ちょうどいいよ」
リモコンで明るさを調整し、周の隣に潜り込む。
「お祓いはまた今度、二人で行こう」
「……うん」
周の部屋にあるライトは人感センサー付きではない。午後十一時に勝手に点くことはなくなった。
「ベッド買い替えようかな」
「確かに狭いよな」
いくら周が小柄でも。シングルベッドに二人で眠るのは狭い。寝返りも満足にうてないし、起きると体のどこかが凝っている。それでも別々に寝るという選択肢が出てこないほど、心は満たされていた。
「でもこの部屋だとこれが限界なんだよね」
「じゃあ、ベッドじゃなくて部屋探すか?」
「え」
寄り添っていた体が、小さく振動する。
「誠一さん、引っ越したばっかなのに? いいの?」
窺うような言葉を使いながら、周の声には期待が滲む。わかりやすすぎて、隣で触れるだけでは足りなくなる。腕を伸ばし、体を抱き寄せる。
「うん。周と一緒にいられるほうがいいから」
ありがとう、と呟いた周の声は音よりも熱を持って胸に届いた。
何度座っても、美容室の椅子は慣れない。後ろへと倒れたときの位置が合っているのか自信が持てない。何も言われないのだからいいのだろうけど。
爽やかな香りとともに、泡が膨らむのを感じる。
「こだわりですか?」
「ええ。何かあるかなって」
周以外のひとに洗ってもらうのは久しぶりだった。同じ店内にはいるのだが、周は別の客の髪を切っている。シャンプーだけほかのひとが担当するのはよくあることだが、周を指名するようになってからは初めてだった。
「部屋っていうか、外から操作できるのに慣れると、もう戻れなくなりますね」
「ああ、スマートフォンひとつで何でもできるから」
「そうなんですよ。今だとエアコンを入れておくのが便利ですね」
九月になっても気温は相変わらず高いままだ。
「でも昔、彼女が部屋にいたのに気づかなくて外から操作しちゃったことがあって」
周より力が強いが、これはこれで心地いい。
「心霊現象かと思った、ってめっちゃ怒られましたね」
そういえばライトの話を初めてしたとき、周も『知らない誰かが外から操作してるってこと?』と言っていたっけ。
「そのあとめちゃくちゃ謝って許してもらったんですけど、周さんに言ったら『そのまま心霊現象にしてもよかったんじゃない?』って言われましたね」
「ん? どういうこと?」
「『一人でいるのがこわいなら、一緒に住む? って言えるじゃん』って」
頭皮を行き来していた指が止まる。
「洗い足りないところありますか?」
「――いや、大丈夫」
微かな震えは、シャワーの音とともに流れていった。
美容室の前、慣れた調子で周が「またよろしくお願いします」と頭を下げる。いつもなら俺もただの客の顔をして別れる。だけど、今日はできなかった。シャンプーのときに聞いた話が耳に残っている。今日は一人になるべきだと思った。
「周」
名前を呼べば、すぐに周が顔を上げる。
「今日はちょっと自分の部屋に戻ろうと思う」
浮かんだのは微かな不安の色。それでも「何かあったらすぐに連絡して」と付け加えれば、すぐに「うん。わかった」と周は頷いた。
自分の部屋に帰るのは一週間ぶりだった。ポストの中には広告やダイレクトメールがぎっしり詰まっている。一枚一枚確かめながら、備え付けのゴミ箱に捨てていく。
「ん?」
見慣れない水色の封筒に並ぶのは、母の字だった。
「あ、そっか。修吾の……」
話をした直後に周をお風呂場で見つけ、手紙のことをすっかり忘れていた。
ドクドクと心臓が不穏に揺れ出す。
頬を撫でるのは湿った冷たい風。夏から秋へと季節は変わろうとしていた。
ドアを開けば、一瞬遅れてライトが点く。
靴を揃えることなく進み、部屋中の窓を開け放つ。冷蔵庫に残していたミネラルウォーターをグラスに注ぎ、一気飲みしたところでテーブルの上に置いた郵便物を手に取る。
「……修吾」
携帯が繋がらなくなり、俺から修吾に連絡することはできなくなった。でも、修吾は俺の実家の住所も電話番号も知っていて、連絡をとる手段はあった。それなのに、何もしてこなかった。それが修吾の「答え」だと思った。俺を巻き込まないための優しさなのだと。
水色の封筒を開ける。ハサミを使わなかったので、糊付けされた部分が歪な波線を描く。
中には黄ばんだ封筒と、水色の一筆箋。
――たまには実家にも顔を出しなさい。
母の言葉に、周を連れていこうという考えがごく自然に浮かぶ。少し気になることはあるけど。周とこれからも一緒にいたいという気持ちは変わらない。尋ねられたら、今度こそ正直に言おう。修吾をただの「友達」としか言えなかった自分ではもうない。何を言われても、どんな反応をされても、周がいてくれるなら生きていける。
そっと息を吸い込み、封筒の上部を破く。乾いた紙の音だけが静かな部屋に響く。テレビすら点けていなかった。
入っていたのは便箋が一枚だけ。いざ読もうと顔を下げたところで、ふっと視界の端が明るくなった。
リビングと廊下を隔てる扉を開けたままにしていたので、顔を動かすだけで玄関まで一直線に見通せる。三和土の真上のライトが点いている。何を照らしているのか、俺には何も見えない。
――一人でいるのがこわいなら、一緒に住む? って言えるじゃん。
「周?」
――これから毎年誠一の誕生日は前日の二十三時からってことで。
「修吾?」
腕がぶつかり、ミネラルウォーターのペットボトルが倒れる。トプトプと広がった液体がテーブルから床へと流れていく。
――幽霊ってことはないよね?
幽霊だとしたら、心当たりはもう一人いる。
「……おじさん、なの?」
亡くなった修吾が訪ねているのではなく、修吾が亡くなったことによって、今度は俺を訪ねるようになったのかもしれない。
***
塾が終わったのは午後十時すぎ。携帯電話に修吾からの返信はなく、電話しても出ない。寝てしまったのだろうか。塾が終わった頃に連絡を取り合うのが当たり前になっていたので、どうにも落ち着かない。明日には学校で会える。そう思いながらも、自転車の前輪を修吾の家へと向けていた。
チャイムを鳴らすが、応答はない。けれど、部屋から漏れる明かりはある。そっとドアノブを回せば、あっさりと開く。
「――おじゃまします」
最初に聞こえたのは水音だった。
「修吾―?」
声をかけながら、音のするほうへと進む。
「せい、いち……?」
一目で状況を把握することは不可能だった。お風呂場には水音と修吾の声だけが反響する。裸のまま、修吾はタイルの上に佇む。視線を向けられたのは一瞬で、すぐに修吾は顔を戻した。
「……ごめん」
絞り出された声だけが落ちていく。
あと半年だと、もうちょっとの辛抱だと言ったのは、ほんの一週間前だ。
「救急車……呼んで、くれる?」
そうだ、救急車だ。ズボンのポケットから携帯電話を取り出すが、うまく指が動かない。
「ごめん、待って、すぐ」
指だけでなく声も震える。とにかく救急車を。それで、それで……混乱する頭のまま視線を戻せば、修吾は同じ姿勢のまま佇んでいる。
「……修吾? とりあえず、こっちに」
声をかけても返事どころか微動だにしない。ただじっと浴槽を――服を着たまま沈む自分の父親を見ていた。
水は止まることなく注がれ続け、浴槽の表面を滑っていく。救急車よりも水を止めることが先ではないか。そう思ったところで、お風呂場を満たす空気のどこにも熱がないことに気づく。裸のまま佇む修吾の体は微かに震えていた。
「修吾っ! お前、いつから」
靴下のまま踏み込み、修吾の腕を掴む。あまりの冷たさに、反射的に放してしまいそうだった。
「待っ、て……え、なんで……」
なんで、と零れ落ちた言葉が何を指したものだったのか、自分でもわかってはいなかった。目の前の状況すべてに「なんで」と言えた。それでも、目に入った瞬間ではなく、修吾の腕を掴んだ瞬間に零れたのだから、俺は修吾を信じていたのだろう。
「……我慢、できなかった」
ちがう。そんなことを聞きたかったわけじゃない。首を振るが、修吾は俺を見ない。
「ただ殴られるだけなら、耐えられた、けど、今日は、ちがう日、で」
「修吾」
「でも、はじめてじゃ、ないし」
「修吾」
「俺が、我慢すれば、よくて……でも、できな」
「修吾っ!」
抱き締めた体は体温を失くしたかのようだった。髪に触れた部分だけが濡れていく。修吾の体はひどく冷たく、肌は乾いていた。
「……救急車、呼ばないと」
修吾の声が腕の中に落ちていく。
助かるのだろうか。今ここで俺が救急車を呼べば。
「修吾」
「救急車を」
「――本当に、助かってほしい?」
修吾の声が途切れる。腕を緩めれば、ゆっくりと修吾が顔を上げる。青くなった唇は震え、瞳も不安げに揺れ続ける。それでも、きっと、答えはもうある。
「せい、いち……俺……」
知っていた。本当はずっと知っていた。だけどそれを誰かに言うことはできなかった。同情や慰めがほしいわけじゃない。ただ静かに平穏に生きていきたいだけ。すべてを話したら、修吾は父親と離れることができるだろう。だけど、それは同時に修吾に起きたことを晒すことになる。一度表に出れば、消えることはない。いつか忘れられるものだとしても。その「いつか」は保障されていないし、忘れられるものは「思い出せる」ものでもある。
――虐待。暴行。被害者。
そんな言葉を背負わせたくない。もっと自分が大人だったなら守れただろうか。二人で生きていく未来を自分たちで掴めただろうか。
「……事故、だろ」
「え」
「酔っ払ったおじさんがひとりで足滑らせて溺れた。そうだろ?」
揺れ続ける瞳が濡れていく。
「修吾のせいじゃない。俺が救急車を呼ばなかった。だから間に合わなかった」
零れ落ちた涙が頬を濡らす。
「修吾は何も悪くない」
シャツに落ちた雫は、確かな熱を持っていた。
翌日、帰宅した修吾の母親がお風呂に沈む夫を見つけ、死亡が確認された。不審な点はなかったのか、不幸な事故として処理され、俺も修吾も何も疑われなかった。
母親からの電話に答える修吾を、俺は枕に頭を乗せたまま見つめる。階下では聞き慣れた朝の支度の音がする。
「――うん。じゃあ、あとで」
通話を終えた修吾が、ゆっくりと俺に顔を向ける。カーテンの隙間から漏れる光が、修吾の上半身を縁取る。
「起きた?」
「……うん」
タオルケットから両腕を伸ばし、枕を背に座る修吾の腰へと回す。
「行ってくるね」
修吾の声はもう震えていない。
「うん」
ぎゅっと力を入れても、修吾の体は温かいままだ。記憶を追い出すように注ぎ合った昨夜の熱とは違う。ただ穏やかな熱だけが存在していた。
***
修吾との最後の記憶を思い出しながら、視線を戻す。封筒の中で時を止めていたかのように便箋は白い。何本も引かれた罫線を無視し、真ん中に文字が並ぶ。
――誠一、おわりにしよう。
「ごめん」も「ありがとう」も「好き」もない。期待した言葉はなにひとつない、別れの手紙。出そうとして出せなかった修吾の気持ちが痛いほど伝わってくる。
「なんだよ……それ」
呟きの最後、ピンポーン、と弾んだインターフォンの音が重なる。
「周?」
こんな時間に尋ねてくる相手など、周しか浮かばない。
画面の右上には『玄関』の文字。周なら合鍵でエントランスを抜けるので、いつものことだ。
「ん?」
映っているのはドアを開いて見える景色だけで、ひとの姿はない。映り込まずに鳴らすことは可能だけど。なんだ? 俺のこと驚かそうとしているのか?
「――はい」
通話を押すが、返答はない。
「周?」
呼びかけても答える声はない。
周ではないのだろうか? 部屋を間違えているとか? いずれにしても出ないことには鳴り続けるだろう。
「一体、何時だと思っ」
玄関へと向かいかけた足が止まる。
視線を向けた先は、ドアの色がはっきりとわかるくらいに明るい。
「あれ?」
ライトは点いたままだった。いつものように午後十一時に点いてから一度も消えていない。誰もいないはずの玄関を照らし続けている。
――ピンポーン。
音は鳴り止まない。
――誠一、おわりにしよう。
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