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『クリスマスイヴ』side伊織(2)
しおりを挟むつま先の感覚はすでに失われていたけれど、それでもひたすら足を動かし続けた。冷え切った両手をコートのポケットに突っ込んだまま、吐き出される自分の白い息を置き去りにして、歩き続けた。頭に残る光景を振り払いたくて、冷えきった空気を大きく吸い込んでみるが、体に残るのは一瞬の冷たさと疼き出したまま消えない胸の痛みだけで、蘇ってしまった記憶を塗りつぶしてはくれない。
「……っ、」
噛み締めた唇の先から声が漏れる。日が暮れ、下がり続ける気温とは反対に、目の奥は熱くなり、鼻の痛みは増していく。
こわい。
こわくてたまらない。
なんで、こんなに苦しいのだろう。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
どうしたら、コレは消えてくれるのだろう。
——本当はわかっている。どこかで気づいていた。大和への自分の気持ちを自覚した、その瞬間から、この不安はずっとあったのだから。ずっとあったのに、それに気づかないフリをしていた。気付きたくない、このままでいたい。そう思っていたくせに、俺はいつのまにか手を伸ばしてしまっていた。俺がちょっとくらい壊しても、大和が変わらなければ、どうにかなるのだと、そう勝手に決めつけて、自分だけがしたいように振舞って、それで……大和を傷つけた。なんの覚悟もないくせに自分勝手に動いた俺が、大和を傷つけたんだ。
手を離したのは、自分だった。
足を止めたのは、自分だった。
声をあげなかったのは、自分だ。
——まだ間に合うなんて、どうして思ったのだろう。
*
もう何度同じ仕草を繰り返しているだろう。
見慣れたメッセージアプリを起動させては、すぐに閉じる。そして表示される時刻を確かめては画面を真っ暗に戻す。
一言でいい。
いつもと同じように、何も気にせず送ればいい。
既読がつかなかったら、気づいていないだけ。
返信が来なかったら、ちょっとタイミングが悪かっただけ。
自分に都合のいい理由なんていくらでも考えられる。
——だけど、そうじゃなかったら?
見慣れてしまった、白地にシルバーのラインが入ったバッシュを並べただけのシンプルなアイコンの上を、俺の人差し指は触れることなく通過する。
一人で部室へと向かう、その背中に声をかけることも、何か言い合いをしながらも、バス停へと駆けていく二人を追いかけることも、何も、できなかった。
それでも、そのまま家に帰ることもできなくて、途切れないクリスマスソングと繰り返されるクリスマスケーキを勧める声の中に一人立ち止まったまま、消えかけていた熱を集めるように強く手を握りしめる。
電車の発車ベルとともに、階段を上って大勢の人が改札へと向かってくる。その一人一人の顔を確かめることなんて到底できない。できないけれど、それでも、どこかで俺は期待していた。あの日——大和の誕生日の時と同じように、この人混みの中でも俺たちは出会えるのだと、そう信じていた。
電車の到着を知らせる音楽が駅構内に響き渡る。
反対側のホームに吐き出された乗客が先ほどの人波に混ざり合い、線を引かれたように並ぶ改札前は一層混雑していた。それでも、その中で頭一つ分飛び抜けた、見慣れたその姿を俺は見つけ出す。
「!」
近づくにつれ、首に巻かれた紺色のマフラーとチャコールグレーのダッフルコートがはっきりと見え始め、そして——
「大……!!」
開いていた口をとっさに閉じ、出かかっていた名前を飲み込んだ俺は、体を翻し、背中を預けていた大きな柱の影へと滑り込んだ。
「……」
頭の中まで鳴り響く自分の心臓をコートの上から押さえ、そっと視線だけを振り返らせる。
改札を抜け、自由に人が行き交うその場所に、大和はいた。
隣を歩く自分よりも小さな存在を守るように、少しだけ顔を傾けて。
大きくなるざわめきと、聞き飽きたクリスマスソングと、クリスマスケーキのタイムセールを告げる声が俺の耳を塞ぐ。
流れる人を避けるように歩き出した二人の声など、聞こえるはずもない。
大和を見上げるたびにポニーテールの先が揺れる。
「!」
大和の隣で小さく笑うその横顔に、閉じ込めていた記憶の蓋が音を立てて外れた。
ドクンッ……
ずっとその後ろ姿しか見えていなかった。
まさか同じ学校だとも、こんなに近くにいるとも思わなかった。
あれはほんの一瞬の出来事。
俺だって、はっきりと覚えていたわけじゃない。
だけど、きっと、彼女だ。
あの時、あの場所にいたのは——
大和はきっと気づいていない。
彼女も、どこまで気づいていたのか、俺にはわからない。
彼女に視線を向ける大和はどこか呆れたように笑っている。
ほんの少しの間、駅ビルの入り口にあるフロアマップの前で立ち止まった二人だったが、やがて賑やかなBGMが流れる店内へと吸い込まれていってしまった。
「っ、……」
俺は二人が消えた方角とは反対の、真っ暗な夜の空が広がる出口へと歩き出した。
*
自分に都合のいい言い訳なんて、いくらでも浮かぶはずだった。
学校で二人を見送ったその後、すれ違ったバスケ部の誰かが言っていた。
「監督も鬼だよなぁ。ウィンターカップなんて29日まであるんだから、何も今日にしなくてもいいじゃんな」
「だよなぁ。ほんと、押し付けられなくてよかった」
「ほんとそれ。大和には悪いけど」
その言葉に、俺はその場に足を止め、用もないのにスマホを取り出した。
明るくなった桜の花に視線を落としたまま、意識を遠ざかっていく声へと向ける。
「……それ、本気で言ってる?」
「は?」
「あのチケット、監督からのクリスマスプレゼントだと私は思うけど」
「?」
「だって、部活の一環ってことにすれば誘いやすいじゃない」
「!」
思わず振り返った俺に気づく人はいなかった。
校門の先の坂道を下っていく彼らの姿が、俺の視界から消えていく。
「チケットだって仕組まれたように二枚しかくれないしさ」
「え、じゃあ、何?監督はイヴを潰したかったわけじゃなくて、むしろデートのお膳立てをしたってこと?」
「ま、これを押し付けられたと取るか、デートのチャンスと取るかは本人次第だけど」
「うわぁ、なに?じゃあ、あの二人付き合いだしちゃうかもってこと?」
——言い訳なんて、いくらでも浮かぶのに。
あの時の彼女の視線がどうしても頭から離れない。
バスケ部の誰かの声が耳に残ったまま消えない。
ぼやけ始める視界に逆らうように必死に顔を前に向ける。
降り始めた雪がかすめていく、その先に、いつもの分かれ道が現れる。
俺は足を止め、柔らかな光が漏れる家々が並ぶ道へと視線を向ける。
この場所に、二人で立ち止まることは、もうないのかもしれない。
「……大和、」
飲み込んだまま、口にすることのできなかった、その名前を、届くはずはないとわかっていながらも、俺は零さずにはいられなかった——
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