青に染まった世界で、藍を叫ぶ。

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青に染まった世界で、藍を叫ぶ。

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 あたしは目が覚めたら、青と白しかない世界にいた。

 白い机。白い壁。白い天井。白い蛍光灯。
 白は眩しくない。目が痛いんじゃなくて、**“手触りのなさ”**が怖い。
 教室って、本当はもっと——匂いがするはずだ。チョークの粉、ワックス、濡れた雑巾。誰かの柔軟剤。プリントのインク。
 なのにここは、吸い込んでも吸い込んでも、何も入ってこない。空気が薄いわけじゃない。世界が薄い。

 触れたら崩れそうな紙の世界に、たった一色だけが残っている。

 青。

 澄んだ青じゃない。
 プールの青でも、夏空の青でもない。
 もっと深い。底が見えない。沈んだら戻ってこれない、深海の青だ。息を吸うたび、肺の奥が冷たくなる。音まで青くなる。

 ——その青の中で、あたしの髪が、白かった。

「……は?」

 指先に絡んだそれは、いつもの明るい栗色じゃない。
 腰まで伸ばしていたはずの髪は、同じ長さのまま、色だけを抜かれて、雪みたいに淡い。
 指を通すと、さらさらとほどける。軽い。軽すぎる。現実感が薄い。
 白い髪って、こんなに——こわい。

 机の上に落ちた毛先は、影を作らない。
 影がないって、こういうことか。物がそこにあるのに、そこにある証拠が一つ欠けてる。
 世界が、二次元に近い。

「……あかりちゃん」

 右隣。
 振り向くと、翠が机に突っ伏した姿勢のまま、こちらを見ていた。目だけ動いてる。
 白いセーラー服。そこに落ちる髪が——青い。黒のはずのボブが、世界の残り色に染め直されたみたいに。

「……すい。いる?」

「いるよ。……いるけど、ここ、変」

 翠の声は低くて落ち着いてる。なのに語尾が、少しだけ震えている。
 その震えが、教室の静けさに溶けず、青い空気の中で浮いていた。

「ねえ、あかりちゃん。……それ、髪」

「見れば分かるでしょ」

「いや、分かるけど……分かるのが怖いんだよ」

 翠の言い方が、ちょっとだけ怒ってるみたいで、あたしは鼻で笑いそうになる。
 こういうときまで、あたしにツッコミを入れるんだ。翠は。

 あたしは喉を鳴らして、息を一度整えた。
 空気が冷たい。胸の奥が、ほんの少しだけぜえ、と鳴った。
 ——この世界の冷え方は、身体の内側に直接触ってくる。

(やば。……今、音、聞こえた?)

 自分の呼吸音って、普段はこんなに意識しないのに。
 青が静かすぎて、呼吸の失敗が目立つ。

「大丈夫?」

 翠が机越しに身を乗り出して、あたしの顔を覗き込む。
 心配の速さが、昔のままだ。ほんと、昔のまんま。
 過去のあたしがそこに立ってるみたいな目をする。

「だいじょぶ。……たぶん」

「“たぶん”って言う顔じゃないよ」

 言い返そうとして、笑いの息が漏れた。
 笑うと、胸の奥の青が少し薄くなる気がした。気のせいでもいい。
 笑ってないと、翠が今にも泣きそうになるのが分かるから。

 教室の窓の外が、青に満ちている。
 運動場も、校舎の向こうも、空も、全部が水槽みたいに揺れて見える。
 遠景が、輪郭を持ちたがらない。世界が“描かれる”のをサボっているみたいに。

「……ねえ」
 翠が小さく言った。
「これ、夢……じゃないよね」

「夢だったら、すいがこんなにちゃんと怖がってない」

「それ、どういう意味」

「夢の中のすいって、もっと雑だから」

「雑って何!? 私、いまも雑じゃないし!」

「いまは丁寧に怖がってる」

「丁寧に怖がるって何!?」

 ——こういう会話ができるうちは、まだ大丈夫。
 そう思う。そう思って、思い込む。

 翠が、ふっと声を落とす。

「……映画館」

 その単語だけで、記憶が引っ張り上げられる。

 ◆

 朽ちた映画館。
 廃墟探索同好会。部員二人。
 “やるの? これ”って毎回言う翠と、“やるよ”って毎回言うあたし。
 ——毎回、最初に足を踏み出すのはあたしで、最後に背中を押すのは翠だった。

 入口のチェーンは切れていた。切れたところが、妙に綺麗だった。誰かが最近触ったみたいに。
 そこが一番気持ち悪かった。廃墟は“放置されてる”から廃墟なのに。
「最近」の匂いが混じると、急に生き物になる。

 館内は埃の匂いで、息を吸うたび喉がざらついた。
 床を踏むと、古いカーペットがふわりと沈み、音が薄く逃げた。
 音が逃げる場所って、心まで落ち着かない。

「帰ろう」
 翠がすぐ言った。
「ここ、絶対……」

「絶対、何?」
 あたしは懐中電灯を揺らして、暗闇の奥を覗く。
「絶対、面白いやつ?」

「絶対、面白くないやつ」
 翠の声が硬い。
「あかりちゃん、そういうの、分かってて進むでしょ」

「分かってるから進むんだよ」
 あたしは笑って言った。
 笑いの中に、ほんの少しだけ緊張が混じってるのも分かってる。

 誰もいないはずなのに、上映が始まっていた。

 映写機のカタカタが、天井の奥で生き物みたいに動いていて。
 スクリーンの白が、暗闇の中で浮かび上がっていた。
 “光がある”というだけで、館内が嘘みたいになる。
 廃墟なのに、現役みたいになる。

「……やばいって」
 翠が袖を掴んだ。
「ほんとに、だめ。警察案件。ていうか、心霊案件」

「心霊って言った? 今、心霊って言ったよね?」

「言ったよ! 言うよ!」
 翠は半ギレみたいに言った。
 その声が震えてるのが、余計に刺さる。

 スクリーンに映ったのは、青と白だけの作品。

 真っ白な塔。
 空も白い。地面も白い。塔だけが白を重ねて白い。
 白って、重ねるほど“無”になるんだなって思った。
 その頂上に、青いツインテールの少女が立っていた。

 振り向かない。瞬きもしない。
 ただ遠くを見ている。遠く——たぶん、こっちじゃないどこかを。

(……きれい)

 そう思った瞬間。
 “美しい”って言葉の中に、冷たい針が混じってるのが分かった。
 綺麗すぎるものって、怖い。
 人間の手触りがないから。

 世界がふっと遠のいた。
 眠気が落ちてきた。布みたいに、重く。
 翠の「帰ろう」が遅れて聞こえた。あたしの「一分だけ」が喉の奥でほどけた。
 懐中電灯の光が、床に白い円を作って、それが滲んでいく。

 青が満ちた。

 ◆

「……入ったんだ」

 あたしはいまの青を見て言った。
「映画の中に」

 翠は一度だけ目を伏せて、窓の外を見る。
「……そういう話、あるよ。昔観た。入った人が戻れなくて、ずっとその世界に——」

「やめて」

「……うん。ごめん」

 謝るのが早い。
 翠は“怖い”を先に言葉にして、それで自分の足場を作る。
 足場ができると、今度は不思議なくらい前に進める。
 怖いのに、前に出る。怖いから、前に出る。そういう子だ。

「とりあえず、外」

 あたしは立った。椅子の脚が床を擦っても音がしない。
「ここが学校っぽいなら、屋上。高いところ。セオリー」

「待って、あかりちゃん——!」

 翠の静止が背中に届く前に、あたしは廊下へ出た。

 廊下も白い。掲示物の色が全部抜けて、文字の形だけが貼り付いている。
 “文化祭のお知らせ”とか、“進路指導室”とか、そういう生活の字面だけが残ってるのに、生活がない。
 床のワックスの光沢すら、白い膜みたいに平らだ。

 そして——影がない。

 窓枠の影も、手すりの影も、人の影も。
 自分の足元に“自分”が落ちてこない。
 影って、こんなに安心をくれてたんだなって思う。世界が立体だと教えてくれるものだった。

「ねえ、あかりちゃん」
 背後から翠の足音。薄い。
「走らないで。息……」

「走ってないって」
 あたしは笑って、呼吸をわざと静かに整える。
 大丈夫を見せる。そうしないと翠の不安が増える。

(……ぜえ、って、また言ったら、すいがわめく)

 喉の奥が乾く。
 空気が冷たい。冷たいのに乾いてる。矛盾してる。
 矛盾が普通になる世界が怖い。

 屋上の扉は閉まっていた。
 白い鉄扉。取っ手だけが青い。青いというより、青に“させられている”。
 取っ手の青は、まるで“逃げるな”って言ってるみたいだった。

 翠が首を振る。
「無理だよ。鍵——」

「鍵探してる間に、何か変わったら嫌じゃん」

「それは嫌だけど……壊すのはもっと嫌だよ!」

 言いながら翠は扉から一歩離れる。
 止めたいのに、止めきれない距離を取る。その動きが、あまりにも翠で、あたしは少しだけ優しくなった。

「一回だけだから」
 あたしは言って、息を吸う。
 冷たい青を吸い込んで、身体の芯に火を灯す。短い集中。
 足裏に力を溜めて、蹴る角度を決める。

「待って、ほんとに——」

「だいじょぶだって。扉ってさ、案外——」

「扉の構造を語り始めるのやめて! 今、語り始めたら止まらないでしょ!」

「止まらないのはすいの心配だよ」

「そうだよ!!」

 ——蹴る。

 金属が鳴るはずなのに、音が薄い。
 それでも扉は、紙みたいに歪んだ。
 世界の物質が軽い。軽すぎて、怖い。
 “現実の硬さ”がない。身体に返ってくる痛みが薄い。薄いのが怖い。

 二発目で留め具が外れた。
 扉がゆっくり開く。開いた先の光が白すぎて、目を細める。

「……あかりちゃん」
 翠が呆れた声を出して、でもすぐに続ける。
「……怪我してない?」

「してない。ほら」
 あたしはわざと大げさに両手を広げる。
「無傷!」

「……無傷じゃなくても、顔で誤魔化すでしょ」

「誤魔化さないよ」
 誤魔化すけど。

 屋上へ出る。

 風がない。
 あるのは冷たい空気と、静かな青だけ。
 空は不気味なくらい澄んでいて、そこに太陽の白が刺さっている。眩しいのに暖かくない。
 肌に当たるのは光じゃなくて、透明な針みたいな冷たさだ。
 光に刺される、ってこういう感じ。

 見下ろす。

 世界が、水に沈んでいた。

 二階の高さくらいまで、透明な水が満ちている。
 建物の低い部分は飲まれて、屋根だけが白く浮いている。
 高いビルは白い幹みたいにそびえ立っていた。無機質で、木のようで、墓標みたいだ。
 動くものがない。音もない。
 なのに水だけがそこにある。動かない水がある。
 それがいちばん怖い。

「……嘘でしょ」
 翠が呟いて、フェンスを掴む。白い指が震える。

 そして、あたしは気づく。

「……簡素になってる」

「え?」

「全部。建物が——“のっぺり”してる」

 窓の枠がない。外壁の凹凸がない。
 線が省かれて、面だけが残っている。
 まるで、世界の作画が崩壊して、背景だけ手抜きになったみたいに。

 近くのマンションを目を凝らして見る。
 ベランダがない。物干し竿がない。室外機がない。
 “生活の細部”だけが削ぎ落とされて、建物が建物の記号に戻っている。

「……ねえ、これ」
 翠が声を落とす。
「ほんとに……世界が“省略”されてる」

「うん」
 あたしは笑って言う。
「省略されてるくせに、水はちゃんと二階まである。嫌がらせかよ」

「嫌がらせって言い方……」

「嫌がらせだよ。絶対そう。映画の中ってさ、だいたい理不尽じゃん」

「理不尽って言うなら、あかりちゃんが扉を蹴破るのも理不尽だよ……」

「それは合理的」

「どの口が……」

 翠が呟いた「……気持ち悪い」が、風のない屋上で落ちていった。

 屋上のフェンスの向こう、遠くを探す。
 白い塔。
 どこにもない。

 白い幹の群れ。
 白い屋根の群れ。
 青い水の膜。

「降りよう」
 翠が言う。
「探そう。手がかりを。……屋上から見える範囲じゃ無理」

「うん」

 屋上から見える限り、白い塔は見つからない。
 見つからないからこそ、世界は広い。
 広いからこそ、二人しかいない。
 その実感が、背中に冷たく貼りついた。

 学校中を回った。

 職員室。
 机の上は空っぽで、椅子は整然と並び、ホワイトボードは白いまま。
 “誰かがいた”気配だけが、皮だけ残っている。
 引き出しを開けても、紙の匂いすらしない。
 職員室って本来、コーヒーと紙と汗の匂いが混じってるのに。
 ここは無臭。無音。無影。

「先生たち、ほんとに——いない」
 翠が言って、声が小さくなる。
「……いない、っていうか、最初から置かれてないみたい」

「最初から置かれてない世界、ね」
 あたしは軽く言う。
 軽く言わないと、声が沈む。沈むと、青に飲まれる。

 廊下の窓から外を見る。
 透明な水の中で白い魚と青い魚が、ゆっくりと泳いでいる。
 鱗の光は白い点になって瞬く。点の動きだけが時間を作っている。
 魚はちゃんと魚で、ちゃんと生きてるのに、世界は生きてない。
 その矛盾が、息を止めたくなるほど怖い。

 生徒会室。
 棚の扉を開けても、記録も、資料も、何もない。
 ただ棚の一番下に、古いラジオがあった。黒いはずの樹脂が青に染まって、白い埃が薄く積もっている。

「持ってく?」
 あたしが持ち上げると、意外に軽い。
 世界が軽い。物も、現実も。

「……電池、あるかな」
 翠が覗き込む。
 目が真面目だ。こういうときの翠は、知識の棚を必死にひっくり返してる顔をする。

 引き出しを開ける。
 引き出しの中で、パンがひとつ、じっとしていた。
 机の中に隠されていたみたいに、ぴったり収まっている。
 パンが“隠されてた”という事実が、逆に映画っぽい。
 この世界、誰かが“置いた”んだ。

「……パン」
 翠が小さく言って、笑いそうになって、笑うのをやめる。

「食べ物は正義」
 あたしは明るく言って、パンを手に取る。
「正義は救う。すいも救う」

「パンが先に救われるの、なんか悔しい……」

 焼き色がない。白い。
 でも手触りは、ちゃんとふわっとしている。そこが余計に気持ち悪い。
 “色”だけが抜け落ちている。触覚は現実のままなのに、視覚だけが嘘をつく。

 教室を回る。
 どの教室も、もぬけの殻。
 黒板も白い。チョークの粉の輪郭だけが残っている。
 掲示板の紙も白い。文字だけ浮いてる。
 窓の外の青に、教室が溶けていく。

「ここさ」
 翠が言った。
「“教室”って分かるのに、教室じゃない」

「人がいないから?」

「それもあるけど……人がいない、っていうより」
 翠は言葉を探す。
「……人がいた痕跡が、ない」

 机の天板に傷がない。
 椅子の脚の擦れがない。
 落書きがない。
 時間がない。

 体育館は音が吸われた巨大な空洞だった。
 バスケットゴールの赤も青い。ラインの緑も青い。
 “赤”と“緑”が、全部、青に塗り潰されている。
 赤いはずの世界が青い、緑のはずの世界が青い。
 灯里、翠。名前だけが、色の記憶として胸に残る。

 そして、最後に。
 狭い部室へ辿り着いた。

 ドアを開けた瞬間、少しだけ“いつも”の匂いがした。
 布と金属と、乾いた土。
 二人の寝袋。ランタン。ワンバーナー。非常食の缶詰。
 そこだけが現実みたいに、ちゃんと“物”をしている。

「……ここは残ってるんだ」
 翠が言う。声が少しだけ落ち着く。
 “自分の場所”があると、心もそこに座れる。

「残ってる、っていうか」
 あたしは部室の壁を指でなぞった。
 白い塗装が紙みたいに薄い。
「ここだけ、世界が“丁寧”」

 翠が苦笑いする。
「丁寧な世界、もっと増やしてほしい」

「増やす方法、分かったら教えて」
 あたしは軽く言って、窓を見る。

 窓の外を見ると、空が少しずつ濃い青になっていた。
 夕方というより、深海に沈んでいくみたいに、色が深くなる。
 昼の青が“表面”なら、夜の青は“底”。
 底に沈む速度が、ゆっくりで、だからこそ怖い。

「今日は屋上で寝よう」
 翠が言った。
「ここで寝てもいいけど……水位、上がったら怖い」

「賛成」
 あたしは即答した。

 怖い、という言葉を翠が口にしてくれるのは助かる。
 あたしの中にも同じ怖さがある。
 それをあたしは、表に出さないようにしてるだけだ。

「……あかりちゃん」
 翠が、缶詰を抱えたまま言う。
「ほんとに、無理しないでね」

「分かってるって」
 分かってる。分かってるけど、分かってる顔をしないといけない。

 荷物をまとめて、屋上へ戻る。

 屋上に上がった頃、空は青黒くなっていた。
 夜——と言っていいのか分からない。黒がない。
 その代わり、空に白い点が、ぽつぽつ浮かんでいた。星みたいに。
 星にしては白すぎて、点にしては静かすぎる。
 貼り付けたみたいな星。

 寒くない。
 水に囲まれているのに、湿気もない。
 ただ、静かで、冷たくて、薄い。
 薄い世界で、あたしたちの体温だけが濃い。

 寝袋を広げる。
 ランタンを灯すと、光は白い円になる。影ができないから、円の境界がぼやける。
 世界が輪郭を持ちたがらない。
 輪郭がないと、心もほどけてしまいそうで、あたしはランタンの光をやけに見つめた。

 翠はワンバーナーに火をつけ、缶詰を温め始めた。
 火の色も白い。
 それでも熱だけはちゃんと熱い。湯気が上がるたびに、“ここだけ現実”が増える。

「水、沸騰させちゃうね」
 翠が言う。
「お腹壊すの怖いから」

「ありがとう、すい」
 あたしはラジオを膝に置いた。
 指でつまみを回す。
 電池が入っていた。奇跡みたいに。

「……誰が電池入れたんだろ」
 翠がぼそっと言う。
「この世界のスタッフさん?」

「スタッフさん、気が利くじゃん」
 あたしは笑って、つまみを回し続ける。
 使えるかは分からない。
 でも、希望ってこういう形をしている。小さくて、丸くて、手のひらに収まる。

 ——じじっ。

 ノイズが鳴った。
 鳴った瞬間、あたしの心臓が跳ねた。

「……っ!」
 翠が缶詰を持ったまま固まる。

 ——じじじ、ぷつ。

 ノイズの向こうから、音が、形を持って出てきた。

 音楽。

 知らない洋楽。ひどい音質。その中でも存在感を放つ、美しい女性の歌声。
 でも、その汚れた音が、逆に“世界の手触り”みたいに感じた。
 青と白しかない世界に、音だけが色を持ち込んだみたいに。
 耳の奥に、温度が生まれる。

「……っ、ついた!」
 あたしの声が明るく跳ねる。
 胸の奥が熱くなる。顔が——きっと、赤くなってる。赤は存在しないのに。

 次の瞬間、翠が飛びついてきた。

「わっ」

 背中に、温かい重み。
 白いセーラーの布越しに、翠の体温が伝わる。
 世界が冷たいから、その温かさが現実に刺さる。

「よかった……!」
 翠の声が震えて、笑って、泣きそうになる。

「すい、重いって」
 あたしは冗談めかして言って、翠の手を軽く叩く。
 叩いた自分の手が、少し震えているのは、見ないふりをした。

「私重くないもん! 重いのは、安心の重さ!」
 翠が言い返してきて、あたしは吹き出す。
 こういうところ、ほんと——翠だ。

 ラジオから流れるのは、二人だけのコンサートみたいだった。
 青い世界を、二人占めしている。
 その錯覚が、怖さを薄くしてくれる。

 翠が缶詰を開ける。湯気が白い。
 パンをちぎる。白い。
 煮た水をカップに注ぐ。熱い。甘い香りがかすかに上がる。
 甘い匂いが夜に混じると、脳が少しだけ安心する。
 “生きてる”匂いがする。

「……なんかさ」
 あたしが言う。
「最高に変なディナーだね」

「うん」
 翠が頷く。
「でも……変においしい」

 鯖缶は生暖かい。パンは冷えてる。水は熱すぎる。
 なのに世界一のごちそうに感じた。
 “明日がある”っていう味がするからだ。

 食べ終えて、寝袋に潜り、屋上の床に寝転がる。
 影がないから、寝転がると空に溶けるみたいな気分になる。
 白い床と、青い空と、白い点。
 自分がどこにいるのか分からなくなる。
 それが怖いのに、ちょっと綺麗で、余計に怖い。

「ふぅ……おいしかった。ありがとね、すい」
 あたしは大の字になって言った。

「温めただけだよ……でも、お粗末様」
 翠は小さく笑って、すっと近づいて隣に横になった。
 距離が近い。幼馴染の近さ。
 昔、熱が出たときみたいな近さ。
 その近さが、いまは救いだ。

 星みたいな白い点が増えた気がした。
 増えたんじゃなく、目が慣れただけかもしれない。
 でも“慣れ”って怖い。
 こんな世界に慣れたくない。

 ——そのとき。
 あたしの口から、ぽろっと落ちた。

「……帰れるのかな。あたしたち」

 言った瞬間、胸がきゅっと締まる。
 しまった、って思う。
 弱音は言わないようにしていた。翠を安心させるために。
 自分を保つために。

 翠の返事は、意外なほど落ち着いていた。

「分からないよ。私はあかりちゃんみたいに頭良くないから」
 少しだけ間を置いて、翠は空を見る。
「でも……帰れなくても、今この時間、私はすごく楽しい」

「え」

「怖いし、嫌だし、泣きそうだけど」
 翠は笑う。
「それでも、あかりちゃんと二人で、世界の端っこみたいなところにいるの、ちょっと……わくわくしてる」

「……それ、ほんと?」
 あたしは思わず聞いた。
 翠の“分からない”は、本当に分からないんじゃない。
 分からないって言いながら、いつも大事なところは見てる。

「ほんと」
 翠が即答した。
「だから、あかりちゃんも、ちゃんと怖がっていいよ」

 その言葉が、あたしの中の青を、そっと撫でた。
 あたしの理屈でも、あたしの強がりでもない、翠の“根っこ”の柔らかさが、あたしを温める。

「……そっか」
 あたしは息を吐いて、笑った。
「じゃあ、明日も頑張れるね」

「うん。だから——無理しないでね! あかりちゃん、身体弱いんだから!」

「まあ、努力していく方針で検討を加速させていくよ……」

「はいはい」

 翠の「はいはい」に、いつもより強さが混じっていて、あたしはそれが嬉しかった。
 会話は少しずつ減っていき、最後には寝息だけが静かに世界に溶けていった。
 ラジオは小さく鳴り続けて、音が夜の青に染まっていく。
 青い世界に、音だけが“人間の線”を引いてくれていた。

    ◆

 二日目。

 早朝。
 空の青が、まだ浅い。
 夜の底から、ゆっくり浮上するみたいに、色が軽くなる。
 それでも白い太陽は冷たいままだ。

 眠りから浮かび上がると、屋上の端に、白い光が浮かんで見えた。

 星じゃない。
 星は点だ。あれは、もっと……意志がある。
 呼び水みたいに、目を引く。
「ここへ来い」って言ってる。

「……あれ」
 翠が指をさす。
 指先が少し震えてる。
 怖いのに、指が出る。翠の前進の癖だ。

 遠い。
 遠すぎる。
 でも、あれだけは確実に“何か”だ。

「行こう」
 あたしが言うと、翠は一拍だけ遅れて頷いた。

 行く方法がない。
 水しかない。
 水は透明で、静かで、甘い。
 甘い水が怖い。甘いものは安心の味なのに、ここでは麻痺の味だ。

 しばらく二人で黙って、水面を見た。
 水の下に白い魚と青い魚が、ゆっくりと泳いでいる。
 まるで“背景の動き”みたいに、淡々と。
 彼らは不安を知らないみたいに。

 翠が、ぽつりと言った。

「……船、作ろう」

「……は?」

「学校にあるもの使って。簡素でもいい。行くしかないでしょ」

 突拍子もないのに、翠の目は真剣だった。
 怖さが言葉になりきる前に、行動で押し流そうとしている顔。
 そういうところ、翠は強い。
 普段はあたしが引っ張ってるけど、“本当に必要なとき”は、翠が引っ張る。

「すい、天才?」
 あたしが笑うと、翠は眉をひそめた。
「今、馬鹿にした?」

「褒めた」

「褒め方が雑」

「雑って言うな、雑のくせに」

「私、雑じゃない!」

 言い合いながら、でも足は校内へ向かって動いていた。
 怖いから動く。動くから怖さが追いつけない。
 二人の癖だ。

 二人は校内へ戻り、ありったけを集めた。
 体育館のマット。長い板。ロープ。工具箱。脚立。
 白くなった素材は軽すぎるほど軽い。
 その軽さが船作りを助ける。世界が自分で“都合よく”なっている気がして、逆に怖い。
 都合が良いのは、だいたい罠だ。

「ねえ、これさ」
 翠がマットを持ち上げながら言う。
「軽いの、嬉しいけど……怖い」

「分かる」
 あたしは板を肩に担いで答える。
「軽すぎると、壊れやすい。……人も」

 翠が一瞬だけ、あたしの顔を見る。
 何か言いかけて、言わない。
 そういうところも、昔のままだ。

 マットを浮力にして、板を骨組みにする。
 ロープで締める。結び目がずれないよう、翠が何度も確認する。
 あたしは結び目の位置を変え、重心が沈まないように微調整する。
 視界が青白すぎて距離感が狂うから、指先の感覚だけが頼りになる。

「そこ、もう一回」
 翠が言う。
「結び目、甘い」

「すい、厳しい」
 あたしが言いながら結び直す。

「厳しいのは、優しさ」
 翠が真顔で言ってきて、あたしは噴きそうになる。
「落ちたら死ぬんだよ?」

「死なないよ。泳げないのすいだけじゃん」
 あたしは反射で言って、すぐ後悔した。
 死ぬ。普通に死ぬ。水は冷たい。世界は静かすぎる。

「……あかりちゃん」
 翠が低い声で呼ぶ。

「はい、すみません」
 あたしは即座に頭を下げる。
 こういうやりとりも、いつものテンポでやる。
 怖さを、テンポで殴る。

 汗をかく。
 汗の色は分からない。白いのか青いのか、そもそも色があるのか。
 でも汗の塩気だけはちゃんと苦い。苦いのは、安心する。嘘じゃない味。
 舌の上の苦さは、“現実”の証拠だ。

 昼過ぎ。
 屋上から水面へ降ろせる簡素な船ができた。
 オールの代わりに長い板。
 船というより、浮く“床”に近い。

「沈まない……よね」
 翠が言う。
 声が震えてるくせに、目は決まってる。

「沈まない沈まない。沈んだら——」
 あたしは言いかけて、笑いに変える。
「泳ぐ」

「私、泳げないの知ってるでしょ!」

「じゃあ、あたしが引っ張る」

 そう言ってから、胸の奥でぜえ、と小さく鳴った。
 ——水の冷たさは、たぶん、容赦ない。
 水の冷たさが、息を奪う冷たさだって、分かってる。

 翠があたしの胸元を見て、目を細めた。
「……ほんとに、無理しないで」

「だから、分かってるって」
 分かってる。分かってるけど、分かってるだけじゃ足りない。

 船を水面へ。
 水は静かに受け入れた。波が立たない。
 静かすぎて、逆に怖い。
 水が“生き物”じゃなく、“画面”みたいに見える。

 屋上が遠ざかると、世界は一気に広くなる。
 二人の学校が、孤島みたいになる。
 白い四角が、青い膜の上に浮かんでいるだけ。
 戻る場所が小さくなると、帰り道も小さくなる。
 小さくなると、怖い。

 こぎ出す。
 白いビルの幹が、遠くに並んでいる。
 のっぺりした壁。省かれた窓。
 世界が“背景”になっていく感覚が、じわじわと怖い。

 時間が伸びる。
 漕いでも漕いでも、景色が変わらない。
 遠景の白い幹が、少しだけ位置を変えるだけ。
 世界が動かないせいで、自分の体力だけが削れていくのが分かる。
 削れる音だけが、現実だ。

「休む?」
 翠が言う。

「あたしが言うまで休まない」
 あたしは冗談を言って、冗談のまま板を押し続ける。
 板が水を切る音も薄い。
 それでも腕は重くなる。背中が張る。息が冷たくなる。

「冗談、やめて」
 翠の声がきつい。
「……死んじゃうよ」

「死なないって」
 あたしはまた言いそうになって、飲み込む。
 代わりに笑う。笑いで誤魔化す。

 日が傾いたのかどうか分からない。
 太陽の白が、ずっと同じ角度で刺さっている気がする。
 でも空の青だけが、少しずつ深くなっている。深くなる青は、時間の代わりだ。

 一日目が終わった。
 二日目も、終わった。

 船の上で食糧は尽きた。
 水はある。甘い水。
 飲むたび、身体が少しだけ軽くなる気がする。
 軽くなるぶん、眠気が増す気もする。
 甘さが脳の奥を撫でて、意識の縫い目をほどいていく。

「眠くない?」
 翠が言う。
 声が掠れている。唇が白い。目の下が青い。
 青い世界の中で、翠の顔色が本当に青く見えて、あたしは少し笑えなくなる。

「眠い」
 あたしは正直に言った。

「寝たら落ちるよ。たぶん」
 翠の声は怖がってるのに妙に冷静だ。

「起きてる」
 あたしは笑って、板を握る。
 指が白い。
 手のひらが冷たい。
 心臓が、たまに変なタイミングで跳ねる。呼吸が浅くなる。

(……だめだ。ここで)

 ——息、吸って。

 自分に命令する。
 肺を広げる。
 胸が痛む。ぜえ、って鳴る。
 それでも吸う。吐く。吸う。
 ゆっくりと、呼吸を“技”にする。
 呼吸が乱れたら、負け。青に負ける。

「……あかりちゃん、いま」
 翠が言いかける。

「大丈夫」
 あたしは早口で遮る。
「大丈夫だから、オール、代わって。すい、体力あるでしょ」

「体力あるけど、筋力はない!」
 翠が泣きそうな声で怒る。
「……でも、分かった。代わる。だから、ちゃんと座って」

「はいはーい」
 あたしは従って座る。
 従うふりをして、膝を抱える。
 膝を抱えると、少しだけ体が小さくなって、呼吸が楽になる。

 遠い光は逃げない。
 ずっとそこにある。
 まるで「来い」と言っているみたいに。

 そして三日目。
 ……時間の感覚は曖昧だったけど、とにかく、果てしないこぎ続けのあと。

 光の近くに、小さな岩場が見えた。
 水面から、ほんの少しだけ顔を出した白い岩。
 そこに——レコードが一枚、引っかかっていた。

「あ……」

 あたしの声が落ちる。

 塔じゃない。
 白い塔なんて、どこにもない。
 ただの岩場。レコード。
 肩から力が抜けた。
 ここまで来たのに。
 ここまで来て、これだけ?

「……嘘だ」
 あたしは笑ってしまう。笑いが乾く。
「ねえ、すい。これ、スタッフの悪ふざけ?」

 翠がレコードをそっと拾い上げた。
 傷ひとつない。白と青の模様だけが刻まれている。
 溝の一本一本が、やけにくっきりして見える。世界が単純だからだ。

「……探そう」
 翠が言う。
「まだ、何かある。……ここ、終点じゃない」

 翠が岩場を歩き回る。
 非力なはずの翠の足取りは、意外に粘る。体力がある。
 あたしは座り込んだまま、空を見上げる。青が深い。
 目の奥が痛い。
 世界の色が少なすぎて、脳が疲れている。

(……もう、やだ)

 そう思った瞬間。

「……あかりちゃん!」

 翠の声が跳ねた。
 振り向くと、翠が地面に落ちていたものを抱えている。

 手動のレコードプレイヤー。

「これ……!」

 あたしは立ち上がる。
 胸の奥が痛い。でも、痛いなんて言ってる場合じゃない。
 痛いのは後回し。いつもの癖。いちばん悪い癖。

 レコードをはめる。
 翠がハンドルを回す。

 ——ぎ、ぎ、ぎ。

 音が鳴った。
 最初はノイズみたいな薄い音。
 それが、形を持つ。

 歌だ。

 知らない言語。
 でも声は、胸の骨に触れる。
 綺麗すぎて、世界が一瞬立体になる。
 白い岩が“岩”になり、水が“水”になる。空気に温度が戻る。
 さっきまで薄かった世界に、急に重さが出る。

 そして——

 レコードが勝手に回り始めた。

 翠の手を離れても回る。
 音が増幅される。
 光がレコードの溝から漏れ、空気を切って形を作り始める。

 白い線が螺旋を描く。
 青い光がその隙間を埋める。
 光が“固まる”音がする気がした。薄い世界に、硬さが生まれる。
 空気が、骨を持つ。

 ——塔。

 目の前に真っ白な塔が立ち上がった。
 スクリーンで見た、あの塔。
 “本物”というより、“映像の正しさ”だけで立っている塔。

 あたしと翠は顔を見合わせた。
 言葉はいらない。
 怖いのも、行くのも、同じ。

「……行く?」
 翠が小さく聞く。

「行く」
 あたしは即答する。
 即答してから、翠の手を見る。震えてる。
 その手を、あたしは握った。
 握ると、体温が伝わって、世界が少しだけ現実になる。

「……離さないでね」
 翠が言った。

「離すわけないじゃん」
 あたしは言って、笑った。
 笑って、また胸が少し鳴った。
(……だいじょぶ)

 塔の中へ。

 階段は白い。手すりも白い。
 足音が薄い。
 でも、歌ははっきり聞こえる。上へ上へ、導くみたいに。
 導かれてるってことは、誰かの意志の上ってことだ。
 それが怖い。

 途中でふと、振り返りたくなる。
 振り返ると、下の景色はもう“背景”に戻り始めている。
 塔の外の世界が、またのっぺりしていく。
 まるで「ここだけが本編」と言われているみたいだ。
 ——ここから外れたら、存在ごと省略される。そんな気がした。

 頂上。

 そこに、少女の後ろ姿があった。

 青い髪をツインテールにした少女。
 白い塔の上で、遠くを見ている。
 スクリーンのまま。
 でも、いまは確かに“いる”。
 いるだけで、空気が変わる。世界が息をする。

 少女が振り向いた。

 顔は綺麗だった。綺麗すぎて、少し怖い。
 肌も白く、瞳の中に青い光が走っている。
 息をしているのに、息の温度がない。

「ごめんね」

 声がした。
 柔らかいのに、どこか機械みたいな響き。
 言葉の抑揚が丁寧すぎる。人が作った“優しさ”のように聞こえる。
 優しさが“プログラム”みたいに整っている。

「こんなところに呼び出しちゃって。怖い思いをさせるつもりはなかったの」
 少女は笑う。
「でも、私にはもう……ほとんど力が残ってなくて。ここまで来てくれて、本当に良かった」

 翠が一歩前に出る。
 怖いはずなのに、こういうときの翠は妙に礼儀正しい。
 怖いから礼儀正しくなる。自分を守るために形を整える。

「……初めまして、私は翠(すい)。あなたは、誰?」
 翠の声が震えない。震えないように、丁寧に言ってる。

 少女は瞬きをする。
 その瞬きが、映像みたいに綺麗で、逆に現実味がない。

「昔、歌姫って呼ばれてた」
 少女は言う。
「……歌うために作られた機械。みんなが私の声を聞いて、押して、笑ってくれて。そういう“数”で、私はここまで来れた」

 言葉が少ないのに、胸に刺さる。
 あたしは、屋上の夜のラジオを思い出した。
 汚い音質の向こうでも、確かに胸を叩いた音。
 “誰かと繋がる音”。

 少女の声は——繋がるというより、吸い込む。
 綺麗すぎて、世界の方が溶ける。
 溶けていくのに、気持ちいい。
 気持ちいいから、怖い。

「……あなたが、この世界を?」
 あたしが言う。

 少女は首を振る。
「作ったというより……残った、って感じ。色が消えて、みんなが忘れて、私は消えて。それでも少しだけ残った“上映”の中で、私は——ここに引っかかった」

 “忘れられる”という言葉が、青い空気を少しだけ重くする。
 忘れられるって、死ぬより静かだ。
 静かだから、誰も泣かない。泣かないから、終わる。

 翠が唇を噛む。
「あの映画館は……あなたの」

「うん」
 少女は頷く。
「フィルムの中だけが、私の居場所だった」

 その言い方が妙に寂しくて。
 あたしは笑うことを忘れそうになった。
 笑いが落ちたら、翠が落ちる。翠が落ちたら、あたしも落ちる。

 少女は視線を落とす。

「私ね」
 静かに言った。
「終わりにしたいの」

 空気が少し重くなる。
 青が深くなる。
 深海の底の青。
 息がしにくい青。

「フィルムを切れば、私は消える。完全に。……役目はもう終わったから。だから——私を、消してほしい」

 翠が息を呑んだ。
 あたしは——一瞬、言葉が出なかった。

 消す。
 終わらせる。
 簡単に言えるほど軽い言葉じゃない。
 でも、少女の顔はどこかほっとしていた。長い間、同じ塔の上で立ち続けた子が、やっと座れるみたいな顔。

「……分かった」
 あたしは言った。
 口が先に動いた。
 真面目な自分が勝手に答えを出した。
 “正しいこと”の方へ、反射で走る。
 走ると、息が鳴る。鳴るのに、走る。

 その瞬間、翠が一歩前に出た。

「でも」
 翠の声が少し震える。
「最後に。……お願い、してもいい?」

 少女が首を傾げる。

 翠は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せて、でも言い切った。

「……歌を。最後にあなたの歌を聞きたい」

 少女は驚いたみたいに目を丸くして。
 それから、笑った。

「いいよ」

 その笑顔が、あまりにも人間みたいで。
 あたしは胸の奥がきゅっとなる。
 人間みたいな笑顔が、いちばん残酷だ。
 “人間じゃない”って分かってしまうから。

 少女は目を閉じた。

 歌が始まる。

 声が青い空気を震わせる。
 塔の下のレコードプレイヤーが勝手に回り、伴奏を作る。
 音は世界に広がり、白いビルの幹を震わせ、水面を細かく揺らす。
 波ができる。波が“ある”という事実が、胸に刺さる。
 動く。世界が動く。音が世界を動かす。
 ——音って、こんなに強いんだ。

 その瞬間、あたしは気づいた。

 ——屋上の夜。
 ラジオから流れた歌声。
 あれも、これだ。

 汚い音質の向こうで、それでも確かに胸を叩いた声。
 この歌姫の声だった。

 翠も気づいたらしい。
 目を見開いて口元を押さえる。
 涙が溢れそうなのに、こぼさない。こぼすと歌が汚れるみたいに。

 歌は美しい。
 美しすぎて、怖い。
 美しすぎて、眠くなる。

 青がやさしい布みたいに落ちてくる。
 瞼が重い。
 意識が音に溶けていく。
 甘い水を飲んだときの眠気が、ここで完成するみたいに、ふわっと広がる。

 少女は歌いながら笑っていた。
 笑顔のまま、涙を流していた。

 その涙の色は分からない。
 白いのか、青いのか、あるいは——色そのものがないのか。
 でも、涙が熱いことだけは分かった。
 熱いものがこの世界にもある。
 熱いものが、ちゃんと、ここにある。

 それが最後に見えた。

 目を開けると、埃の匂いがした。

 廃れた映画館。
 客席。
 スクリーンは白い。
 隣で翠が息をしている。髪は黒に戻っている。
 あたしの髪も栗色に戻っていて、腰に重い。
 その重さが、泣きそうなくらい安心だ。
 “重い”って、いい。現実は重い。

 二人は無言で顔を見合わせた。

 頷く。

 言葉が出ないのに、頷きだけで全部伝わる。
 怖かった。綺麗だった。悲しかった。
 そして——まだ終わってない。

 映写室へ向かう。
 鍵は閉まっている。
 翠が「器物破損だよ」と言う。声が弱い。止める気力がない声。

「知ってる」
 あたしは言って、扉に手を掛ける。

「……止めないの?」
 翠が聞く。

「止めてほしいの?」
 あたしは聞き返す。

 翠は一拍、黙ってから、首を振った。
「……止めたい。けど」
 声が小さい。
「止めたら……あの子が、ずっと、ここに引っかかったままになる」

「だよね」

 あたしは扉をこじ開けた。
 金属が鳴るはずなのに、現実の音はちゃんと鳴った。
 ギギ、と、汚い音。
 汚い音が、ありがたい。

 中には古い機械と、フィルムと、レコード。
 あのレコード。
 白と青の模様のレコードが、ここにある。

「……壊す?」
 翠が小さく聞く。

 あたしはレコードを手に取った。
 ひんやりしている。
 でも冷たさの中に、屋上の夜の温かさが残っている気がした。
 あの汚い音質の音楽。
 背中に飛びついてきた翠の熱。
 それが全部、まだここにある。

 壊せば、あの子は終わる。
 終わらせるのが優しさかもしれない。

 ——でも。

「……持って帰ろ」
 あたしは言った。

 翠が目を見開く。
「え」

「気に入っちゃった」
 あたしは笑う。
 笑顔のまま、胸の奥が少し痛い。
「すい、楽しいって言ったじゃん。……あたしも、楽しかった」

 翠の目が潤む。
 泣きそうで、でも笑いそうで、ぐちゃぐちゃになる顔。

「……あかりちゃん」
 翠は息を吸って、言う。
「……悪い子」

「うん。悪い子」
 あたしは頷く。
「でも、悪い子の方が、誰かを忘れない」

 翠が息を止めて、それから、ふっと笑った。
「……それ、ずるい」

 悪い子は、レコードを抱えて帰る。

 家に持ち帰ってから、二人は試行錯誤を続けた。

 再生機器。取り込み。ノイズ除去。
 波形はあまりにも綺麗で、逆におかしかった。
 音が“残っている”というより、音が“生きている”。
 録音じゃなく、存在。

「これ、ほんとにレコード?」
 翠がパソコン画面を覗き込む。
「データが……変。綺麗すぎる」

「すい、オタクみたい」
 あたしが言う。

「みたいじゃない! オタクだよ! ゲームも本もアニメも大好きだし!」
 翠が即答して、あたしは笑う。
 笑えるうちは大丈夫。
 そう思って、何度も笑う。

 夜、パソコンの画面がふっと青くなる。
 青が、あの世界の青と同じ深さで、部屋の壁を染める。
 電気を消してないのに、青が勝手に暗くなる。
 青が部屋に“来る”。

「あかりちゃん」
 翠が小さい声で呼ぶ。
 いつもの“注意”じゃない。
 “本気の怖さ”の声。

 画面の中に、小さな白い塔が映った。
 塔の上に、青いツインテールの少女。

「……え?」

 少女が目を瞬いた。
 驚いた顔をして、こちらを見た。
 声が出ないように口が動いて、それからようやく音になる。

「あ……れ?」

 翠が椅子からずり落ちそうになる。
「あかりちゃん……! いる! いるよ……!」

 あたしは口の端を上げた。
 いたずらな笑み。
 胸の奥の罪悪感を、わざと笑いで押し潰す。
 押し潰さないと、泣く。泣いたら、翠が壊れる。

 画面の中の少女が震える声で言った。

「……どうして。私、終わったはずじゃ——」

 あたしは画面に顔を近づけて、にっこりする。
 屈託のない、いちばん悪いやつの笑顔で。

「終わってないよ」
 あたしは言った。
「だってさ。あんたの歌、気に入っちゃったんだよね」

 少女の瞳が揺れる。
 揺れ方が、人間みたいで。
 また胸が痛む。
 優しさを裏切ってる痛みじゃなく、“忘れない”痛み。

 翠が半泣きで笑いながら、画面に手を伸ばす。
 触れないのに、指が宙で止まる。
 その指先が少し震えている。

「あかりちゃん……ほんとに……」
 翠の声が、責めてるのか、嬉しいのか、分からない。
 分からないまま、泣いてる。

「だから」
 あたしは続ける。
「逃がさない。……あんたの歌で、一儲けさせてもらうから」

 言い切った瞬間。
 画面の中の少女は、呆れたように、でもどこかほっとしたように息を吐いた。

「……ひどい」

「ひどいよ」
 翠が涙声で言って、笑ってしまう。
「でも……よかった」

 あたしは笑った。
 翠も笑った。
 画面の中の歌姫も、少しだけ笑った。

 青い光が、部屋の壁を薄く染める。
 それは怖い青じゃなくて、屋上で聞いた音楽みたいな青だった。
 二人だけのコンサートの青。
 “明日がある”青。

 ——こうして、あたしたちは一つ、世界から消えたはずの声を、自分たちの部屋に縛り付けた。

 青に染まった世界で、藍を叫ぶ。
 その物語は、たぶん、ここから始まる。
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