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第8話

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 大した成果も得られず、必要以上に疲れ果ててしまった柊一は、居間のソファに座り溜息をついた。
 それが感情から発した物ではなく、顕かに体力的な理由でこぼれ出ている事に気付き、柊一は眉根を寄せる。
 行為の時に使われたあの薬品によって、自分は自分で思うよりも疲れている。
 動いている時には、刺激の強い足の痛みに紛れて気付かなかったが、こうして落ち着いてみると、全身にズッシリとのしかかってくるような怠さをヒシヒシと感じた。

「…ったく、あのバカ…」

 先程とは意味の違う、呆れたような溜息をついて柊一は無闇に己の髪をかき回す。
 苛立ったような態度と吐き捨てるような言葉で、こうして多聞を罵ってはいるけれど。
 でも実を言えば、言うほどに多聞に対して腹立たしさを感じているわけでもなく。
 ワザとそうした行動にでも出なければ、それこそ戻ってきた多聞と何気なく日常会話を交わしかねない。
 でも、実を言えば別にその事にさえも、柊一は疑問を抱いていなかった。
 多聞が、柊一に対して必要以上に気を使っている事を知っている。
 食事の内容にしろ、寝室のテレビにしろ、少しばかりズレてはいるが多聞が柊一を気遣っている事がにじみ出ている。
 強制的な行為ではあるが、性行為にしても多聞は最大限の気遣いを示していた。
 あの薬品を使う事を、本当のところ多聞はあまり望んでいないのだろう。
 口では、乱れる柊一を望んでいると言っていたが。
 それはあながち嘘ではないのだろうが、しかしあの薬品を使う一番の目的は、柊一に精神的な逃げ道を用意する事なのではないか?
そこまで自分を思う多聞が、判ってしまっている柊一は、本気で多聞を否定する事も腹立たしく思う事も出来ないのだ。
 どんなに悪者のフリをしたところで、多聞の性格では柊一を欺けるものではない。
 柊一はもう一度、今度は感情的な理由で深く大きな溜息をついた。

「俺…なんであんなバカと一緒にバンドやってんだ?」

 思わず呟き、柊一が多聞に対する悪態をつこうとした、その時。
 『ガタンッ!』
という、大きな物音がした。
 柊一以外に誰もいないこの山小屋の中は、自分の動く音がいたたまれないような気がしてくる程の静寂に包まれている。
 故に、その音に柊一は酷く驚いて、振り返ったのだが。
 そこには、誰がいる訳でもなくて、先程と同じ静寂があった。
 必死になって音の原因を探す目が、扉の脇のボックスで止まる。
 団地の扉にある新聞受けがもっと巨大になったような、表と裏に開き戸のついた木箱。
 相手の顔を見る事も無く、荷の受け渡しが出来るボックス。
 立ち上がって側に行くと、そこには白い手提げのビニール袋に入った食料品が詰まっていた。
 何気なくそれに手を掛けて、柊一はふと動きを止める。
 不意に感じた、人の気配。
 咄嗟に柊一は、息を潜めてしまった。
 しばしの沈黙の後、ハッとなる。
 もし本当にこの壁の向こうに人がまだいるのなら、自分は助けを求めるべきなのではないだろうか?
だが同時に、もうひとつの考えが浮かぶ。
 荷を配達に来た人間が、その用事を済ませた後に何故その場に止まってこちらの気配を伺う必要があるのか?
柊一は判断に迷い、またしばしの間そこでジッとしてた。
 だが、相変わらず壁の向こうで誰かがこちらの様子を窺っているような気がする。
 それは、己が助け出されるという希望よりも、薄気味悪さを感じさせる方が強かった。
 意を決し、柊一は膝をつくと、ボックスのこちらの扉をかなり乱暴に開く。
 ボックスの中の荷を大きな音で取り出し、そしてやはり大きな音を立てて扉を一度閉めた。
 それから今度はそっと音を立てぬように扉を開き、ボックスの中に頭を入れて表に繋がる扉を細く開く。
 無理な姿勢と足の痛みを我慢しつつ、隙間から表を窺い見る。
 そこには、人の足が見えた。
 設置されている牛乳配達の箱から、空瓶を取り出して立ち去っていく背中。
 その人物は、単に自分の業務を果たしていただけだったのだ。
 バイクに跨り走り去る姿が一瞬だけ見えて、後は遠ざかるエンジン音が聞こえる。
 頭をボックスから抜き出して、柊一はホッと安堵の息をつき、それから慌てたように振り返った。

「おいっ!」

 扉を激しく叩いてみるが、バイクで走り去った相手に聞こえるワケも無い。

「俺も、相当バカだよ…」

 柊一はガックリと肩を落とした。
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