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83、視聴の払霧師
しおりを挟む翌日、具視は病院の敷地内にある緑豊かな公園にやって来ていた。
5月の爽やかな風が木々を揺らし、遠くには高層ビルが針山のように立っているのが見えた。木陰に重なったベンチに腰を下ろし、しばらく遠くの青い空を見つめていた。聴具は事件以降、具視の前に出てこなくなった。でも、確かに影の中にいるという感覚はあった。
具視はメモ帳と鉛筆を持っていた。なぜこうしているかというと、先日陽にこんなことを言われたからだ。
”そういえば、具視くん。払霧師になった時の呼び名は考えてる?”
そもそもそんなものがあるなんて知らなかったので、言われた時は驚いた。払霧師には本名、座長名以外にも払霧師名というものが存在するらしい。例えば、龍太郎なら地獄谷の払霧師。波戸場青藍なら青の払霧師。~の払霧師というのが主流らしく、現役の払霧師は大抵そういう名前が多い。
(こういうの、苦手なんだよな)
創作とやらには昔からうとかった。具視はいくつかアイデアを書き出してみたが、どれもイマイチで恥ずかしくなるものばかりだった。やがて何も思いつかなくなり、具視は諦めてメモ帳をポケットにしまった。
具視の手元には、紺碧双紅剣がある。この剣がなければ、今頃どうなっていたか分からない。本当に不思議な払霧具だ。魚ノ神に払霧三技を教えてもらった時は、たしかに黄金色の光だったはずなのに、この剣からは青と赤の色が出た。なぜだろう。
「いい天気、だね」
ベンチに座る具視の後ろで、ふわりと優しい風を感じた。
(この声――)
具視はバッと振り返った。
大きな木の下に聴具の姿があった。
「お姉ちゃん……」
自然と顔がほころんだ。
「いい天気、ですね」
聴具は具視と背中合わせになった。
「陽ちゃん、見つかってよかったね」
「はい」
「私、安心しちゃった」
「え?」
「みんな、無事でよかったなって」
うれしさがにじみでた声。
「あなたのおかげです」
具視はチラッと姉の後ろ姿を見た。
「……あの時、縄を解いてくれたのはお姉ちゃんですよね。あんなことができるなんて、驚きました」
「あの女を蹴り飛ばしてやってもよかったんだけど」
本当にやりかねないぞ、と具視は思わず苦笑いした。
「できなかった」
かつて頭首の麗一を吹っ飛ばし壁に穴を開けたほどの聴具が? 具視は一瞬驚いたが、すぐにその理由は分かった。彼女は怖かったのだ。初めて目にした人ならざる者、紫奇霧人
を前にして、部屋を埋め尽くす霧を前にして……
「私の力だけじゃ勝てない気がした」
「勝てましたよ」具視ははっきり言った。「紫奇霧人を殺す条件、それは守護影から払霧師に通じる光。紺碧双紅剣の鞘が消えたのは、お姉ちゃんの力のおかげですから」
「そんなこと言われたって、分からないよ」
具視はついおかしくなって笑った。
「俺もです」
「具視も?」
「はい」
聴具もクスッと笑った。
そうして、2人はしばらく心地いい風を浴びながら青空の下寄り添っていた。
「勝てたのは、呼んでくれたからだよ」
聴具は無邪気な声で言った。
「あの時ね、私は影の世界から出られずにいた。だけど、具視の声がした。何も見えない。何も、聞こえない。そんな中で、具視の声が聴こえたの」
聴具は大きな幹の前で立ち止まった。
「守護影になってあなたの前に現れた時も、同じ声が聞こえた」
(聴具が俺の前に現れた時?)
時が止まったみたいだ。
20回目の審査会場に1人向かって歩いた日のこと。
呼んでいた?
俺が……
聴具を?
具視は両手で顔を覆った。
呼んだ覚えはなかった。
だけど、今……何と言った?
”同じ声が聞こえた”
具視ははぁーっと息を吐いた。
死んだ姉が守護影として現れたのは、
弟が助けを求め、呼んだからだというのか。
それが事実だとしたら、
やっぱり情けない。
駄目な弟だ。
ごめんなさい?
ありがとう?
――何て言えばいい。
具視は行き場のない感情を心の奥に閉じこめ、炎天下に照らされる芝生を見つめた。こんなにいい天気なのに心は雨模様だ。唐突に湧き起こった負の感情に肩を震わせ、具視はグッと唇をかみしめた。
「具視?」
やめてくて。
「どうかしたの?」
そんな優しい声を掛けないでくれ。
具視は声を押し殺した。それでもこらえきれない声が口から漏れて、本当に情けないほど涙と鼻水が垂れ出た。
「……情けねぇっ」
具視は振り返らずに言葉を吐いた。
死んだ姉にまで心配かけさせて、
記憶までなくさせて、
守られてばっかりで、
「こんな弟で……」具視はかすれた声で言った。「ごめんっ」
透き通った黒い両腕が具視の肩にかけられた。
「謝るのは違うよ」
聴具は穏やかな声で言った。
「悪いこと、してないでしょ」
すっと聴具の両手が離れた。
具視はベンチから立ち上がり、聴具の前でゆっくり片膝をついた。具視は深々と頭を下げ、しばらくそうしていた。感謝してもしきれない、そんな思いからだった。聴具は歩み寄ると、具視の頭にキスした。一瞬のような、永遠のような時間だった。具視は顔を上げて、ほほ笑む聴具の顔を見た。
「私たちの未来は笑顔、だよ」
思ってもみなかった言葉に具視は目をしばたいた。
「こんなにかわいい弟がいてくれて、幸せ者だな。ありがとう、具視」
ありがとうって、そう言いたいのは俺の方なのに。具視は目の前で笑顔を絶やさない姉の姿から目を離せなかった。
「あなたには、かないません」
柔らかい光に包まれた昔の記憶。
いつも目の前にはにこにこ笑う聴具がいて、具視はそれを追い掛けていた。
3年もあれば人は変わる。
確かにその通りだ。具視はその間、誰にでも敬語で話すようなひねくれた人間になった。自分を守るために必死で、人と深いところで関わるのが怖かった。心のえぐられた傷を見られるのが怖かった。
だけど――
変わったつもりでいただけだ。敬語で話しても、背が伸びても、どんなに立派な言葉を並べ立てても、何一つ変わらない。どんなに取り繕ったって、この人の前では昔の自分に戻ってしまう……
具視は病室の片隅で5年日記にペンを走らせた。
もう、何を書きたいのかは決まっていた。
聴具に言われて忘れかけていたことを思い出した。きっと、何も知らない人からすれば、この言葉にいったいどんな意味が込められているかなんて、知る由もないだろう。
だけど、これでいいのだ。
【2023年 6月10日】
「視聴の払霧師」、それが俺たちの新しい名前だ。
具視は日記を閉じて瞼を下ろした。外の夕焼けが、街全体に長い影を落としていく。
もうじき深い夜が訪れる。
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