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3、兄との約束
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有之助の兄、信之助が会いにやってきたのは3日後のことだった。有之助は彼のことを信と呼んでいる。四つ年が離れているが、よく話を聞いてくれるいい兄だ。
彼は1週間に数回こっそり会いに来てくれる。今回は向こうが遠出していたのでおよそ1カ月ぶりの再会となった。
おいしいご飯や生活に必要なものを恵んでくれたり、一晩中くだらないことを話すこともある。宝屋に見つかれば面倒なので、信之助は決まって夜中にやってきて屋根裏部屋の窓から顔をのぞかせる。
ひどい目にあっていることは彼も知っていたが、全部は知らない。有之助はこの間の、水に頭を入れられたことも言うつもりはなかった。なぜなら、母が言った通り逃げ出すというのは現実的ではないと諦めかけていたからだ。
母といつもみたいに話していると、ちょうど信之助が窓から入ってきた。美しい青地に銀の鶴が刺しゅうされた着物をまとい、腰には銀の刀を下げている。ツヤツヤした黒髪に、りりしい眉。有之助はこの時間が来るのをいつも楽しみにしていて、彼の顔を見れば嫌なことはすべて吹き飛ぶくらいだった。
「母さん、信が来てくれた!」
信之助はひょいと窓枠をつかんで中に忍びこむと、風呂敷をドサッと布団の上に広げた。今はやりのお菓子、古本、非常食、着物、目移りしそうなほど楽しいものが詰まっていた。
「3日分の新聞に生活用品もろもろ。そうだ、これはお土産。俺の主人が買ってくれたんだ。ほら、新しい着物もあるし――」
「いつも悪いね」母は言った。
信之助は着物そっちのけで母の顔を見て驚いた。
「母さん」
信之助は持っていた着物を落とし、ちょうちんを母の顔に近づけてショックを受けた。
「なんでこんなにやつれてるんだよ。俺が最後にあった時はこんなんじゃなかったろ」
有之助も母も力なく目を伏せた。沈黙を破ったのは信之助だった。
「あいつが苦しめてるんだろ。許せない。俺が言ってやる!」
「信之助、宝屋に近づいては駄目」
母の一言に信之助は怒りをにじませた。
「あいつは最低な主人だ。宝屋は使用人の健康なんて気にしない。自分のことばかり考える。ここから逃げ出そう。少なくとも、ここよりいい場所、主人もいる。俺がもう一度、協会に相談する。新しく会頭になった人は、俺をいい主人に推薦してくれた人なんだ。あの人に言えば、きっとよくしてくれる」
「でも、信。協会に請願書を出すためにはお金が必要なんだ。すごく高いし、そんなお金、どこにもない」
「心配するな」
「本当に?」
「あぁ」
有之助は信之助の言葉がうれしくてたまらなかった。鳥かごの中に入れられた自分たちを解き放ってくれる、そんな日が来ることを待ち望んでいたからだ。
信之助が協会を頼ろうとしたのはこれが最初ではなかった。1年前、宝屋の傲慢な話を聞いた信之助は主人の変更を求める書類を協会側に提出した。でも、その時は請願金(協会への請願書と同時に納めるお金)が足りず、受け入れられなかった。
請願金は使用人が受け取った給与所得の中から捻出しなければならない。主人の援助は得られないということだ。でも、今回は彼が言う通り望みはあるのかもしれない。
いざという時のために信之助はお金をためておいてくれたみたいだし、冷血漢で知られた前会頭は現役を退いた。今、この状況で協会に頼めばうまく事が進むかもしれない。
母が布団で横になっている間、2人は屋根の上に座り肩を並べた。月が高く昇り町全体をぼんやりと照らしていた。
「また殴られたのか」
信之助は途端に顔を真剣にした。黙り込んでいると、信之助は有之助の頰に残る殴られた跡に触れた。
「平気だよ、このくらい」
心にもないうそをついた。兄の勘というやつだろうか、信之助はうそを見抜いたように目を細めた。
「ごめんな」
陽気な兄らしからぬ弱気な言葉だった。このまま重苦しい空気を引きずるかと思ったが、信之助は途端に気の抜けた顔になってごろんとあおむけになった。
「俺は運のいい使用人さ。十分過ぎるほどの待遇、優しい主人、まさに文句なし。でも、お前たちが幸せじゃなきゃ俺は幸せじゃない。有之助。俺が、必ずなんとかする。だから、それまで母さんのそばにいてくれ」
月の光に照らされた兄の顔を見て有之助は静かにうなずいた。信之助は、すっかり表情の堅くなった有之助の頭にポンと大きな手をのせてワシャワシャした。
「待っててくれ」
有之助は大きな手の下で自信なくうつむいた。
「……分かった。だけど僕は、信みたいに強くない。刀も、振れない」
少し驚いたような目で見られた。
「俺は少し振れるだけだ。それ以上でも、それ以下でもないよ」
「昔、道場に通ってたろ? 今度、僕にも教えてよ!」
身を乗り出して懇願すると、信之助はきょとんと目を丸めてから頭をかいた。
「分かった。今度な」
にっこり笑う信之助の顔を見て安心した。
「でも、勘違いするな。刀を持ったから強くなれるわけじゃない。自分を尊大に振舞うには便利な道具だが、持ち主次第で宝の持ち腐れにもなる。心と力が伴って初めて強くなれる。やみくもに刀を振るだけじゃ駄目なんだ。お前の敵はなんだ? なにを守りたい? 常に理由を忘れるな」
宝屋の元で過ごす日々は毎日が地獄のようだった。まだ仕事が終わってもいないのに、1日ではどう考えても終わらないような仕事を押し付けられる。
休みは一カ月のうちほとんどない。仕事の出来栄えが気に入らないと怒鳴られ、押し倒され、閉じ込められたこともあった。
水に沈め殺されかけた日以来、有之助はなるべく反抗しないようにと努めた。
もし、また同じようなことになれば、母はもっとひどいことをされるに違いない。きっと信之助が協会に請願書を届けて話をつけてくれる。だからそれまでは言われた通り母のそばにいて、助かる方法だけを考えればいい。
彼は1週間に数回こっそり会いに来てくれる。今回は向こうが遠出していたのでおよそ1カ月ぶりの再会となった。
おいしいご飯や生活に必要なものを恵んでくれたり、一晩中くだらないことを話すこともある。宝屋に見つかれば面倒なので、信之助は決まって夜中にやってきて屋根裏部屋の窓から顔をのぞかせる。
ひどい目にあっていることは彼も知っていたが、全部は知らない。有之助はこの間の、水に頭を入れられたことも言うつもりはなかった。なぜなら、母が言った通り逃げ出すというのは現実的ではないと諦めかけていたからだ。
母といつもみたいに話していると、ちょうど信之助が窓から入ってきた。美しい青地に銀の鶴が刺しゅうされた着物をまとい、腰には銀の刀を下げている。ツヤツヤした黒髪に、りりしい眉。有之助はこの時間が来るのをいつも楽しみにしていて、彼の顔を見れば嫌なことはすべて吹き飛ぶくらいだった。
「母さん、信が来てくれた!」
信之助はひょいと窓枠をつかんで中に忍びこむと、風呂敷をドサッと布団の上に広げた。今はやりのお菓子、古本、非常食、着物、目移りしそうなほど楽しいものが詰まっていた。
「3日分の新聞に生活用品もろもろ。そうだ、これはお土産。俺の主人が買ってくれたんだ。ほら、新しい着物もあるし――」
「いつも悪いね」母は言った。
信之助は着物そっちのけで母の顔を見て驚いた。
「母さん」
信之助は持っていた着物を落とし、ちょうちんを母の顔に近づけてショックを受けた。
「なんでこんなにやつれてるんだよ。俺が最後にあった時はこんなんじゃなかったろ」
有之助も母も力なく目を伏せた。沈黙を破ったのは信之助だった。
「あいつが苦しめてるんだろ。許せない。俺が言ってやる!」
「信之助、宝屋に近づいては駄目」
母の一言に信之助は怒りをにじませた。
「あいつは最低な主人だ。宝屋は使用人の健康なんて気にしない。自分のことばかり考える。ここから逃げ出そう。少なくとも、ここよりいい場所、主人もいる。俺がもう一度、協会に相談する。新しく会頭になった人は、俺をいい主人に推薦してくれた人なんだ。あの人に言えば、きっとよくしてくれる」
「でも、信。協会に請願書を出すためにはお金が必要なんだ。すごく高いし、そんなお金、どこにもない」
「心配するな」
「本当に?」
「あぁ」
有之助は信之助の言葉がうれしくてたまらなかった。鳥かごの中に入れられた自分たちを解き放ってくれる、そんな日が来ることを待ち望んでいたからだ。
信之助が協会を頼ろうとしたのはこれが最初ではなかった。1年前、宝屋の傲慢な話を聞いた信之助は主人の変更を求める書類を協会側に提出した。でも、その時は請願金(協会への請願書と同時に納めるお金)が足りず、受け入れられなかった。
請願金は使用人が受け取った給与所得の中から捻出しなければならない。主人の援助は得られないということだ。でも、今回は彼が言う通り望みはあるのかもしれない。
いざという時のために信之助はお金をためておいてくれたみたいだし、冷血漢で知られた前会頭は現役を退いた。今、この状況で協会に頼めばうまく事が進むかもしれない。
母が布団で横になっている間、2人は屋根の上に座り肩を並べた。月が高く昇り町全体をぼんやりと照らしていた。
「また殴られたのか」
信之助は途端に顔を真剣にした。黙り込んでいると、信之助は有之助の頰に残る殴られた跡に触れた。
「平気だよ、このくらい」
心にもないうそをついた。兄の勘というやつだろうか、信之助はうそを見抜いたように目を細めた。
「ごめんな」
陽気な兄らしからぬ弱気な言葉だった。このまま重苦しい空気を引きずるかと思ったが、信之助は途端に気の抜けた顔になってごろんとあおむけになった。
「俺は運のいい使用人さ。十分過ぎるほどの待遇、優しい主人、まさに文句なし。でも、お前たちが幸せじゃなきゃ俺は幸せじゃない。有之助。俺が、必ずなんとかする。だから、それまで母さんのそばにいてくれ」
月の光に照らされた兄の顔を見て有之助は静かにうなずいた。信之助は、すっかり表情の堅くなった有之助の頭にポンと大きな手をのせてワシャワシャした。
「待っててくれ」
有之助は大きな手の下で自信なくうつむいた。
「……分かった。だけど僕は、信みたいに強くない。刀も、振れない」
少し驚いたような目で見られた。
「俺は少し振れるだけだ。それ以上でも、それ以下でもないよ」
「昔、道場に通ってたろ? 今度、僕にも教えてよ!」
身を乗り出して懇願すると、信之助はきょとんと目を丸めてから頭をかいた。
「分かった。今度な」
にっこり笑う信之助の顔を見て安心した。
「でも、勘違いするな。刀を持ったから強くなれるわけじゃない。自分を尊大に振舞うには便利な道具だが、持ち主次第で宝の持ち腐れにもなる。心と力が伴って初めて強くなれる。やみくもに刀を振るだけじゃ駄目なんだ。お前の敵はなんだ? なにを守りたい? 常に理由を忘れるな」
宝屋の元で過ごす日々は毎日が地獄のようだった。まだ仕事が終わってもいないのに、1日ではどう考えても終わらないような仕事を押し付けられる。
休みは一カ月のうちほとんどない。仕事の出来栄えが気に入らないと怒鳴られ、押し倒され、閉じ込められたこともあった。
水に沈め殺されかけた日以来、有之助はなるべく反抗しないようにと努めた。
もし、また同じようなことになれば、母はもっとひどいことをされるに違いない。きっと信之助が協会に請願書を届けて話をつけてくれる。だからそれまでは言われた通り母のそばにいて、助かる方法だけを考えればいい。
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