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4、大切なもの
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忙しい日々が過ぎたある日、朝目覚めると珍しく母が布団の中にいた。
「おはよう、母さん」
有之助は大きなあくびをかいていつもみたいに着替えて髪を整えた。
「母さんが僕より遅起きなんて珍しいね。遅刻したらまた宝屋に叱られちゃう。そういえば信は今頃どうしてるかな。協会に話してくれるって言ってたから、もうじき戻ってきていい報告を聞かせてくれるかもしれないね――母さん?」
母は何も言わずただじっと有之助のことを見ていた。自分の喉に手を当ててなにかを話そうとしている。
「声が……出ないの?」
有之助は顔を真っ青にして尋ねた。母は、声も出ないどころか足も動かせなくなっていた。本当に、まるで石にでもなったみたいに、硬く動かない。
有之助はすぐさま宝屋にこのことが知れればまずいと思い頭を抱えた。あの男は、母が病気だと知れば使えないと怒り出すだろう。案の定、下りてこない2人に腹を立てた宝屋がやって来た。
「いつまで準備に時間がかかっている」
宝屋は布団の中で身動きができない母を見つけると掛け布団を奪った。
「起きて働け! ただ飯は許さん」
「母さんは病気なんだ」
宝屋は前に出てきた有之助をにらんだ。
「とうとう仮病を使うようになったか!」
「ちがう! どうしてそんなこと言うんだ。母さんは今、足が動かせないんだ。それに、声だって出せない」
「あれだけ高い金を払ったのに、このありさまか」
宝屋は有之助を床に突き飛ばすと母のむなぐらをつかんで怒鳴った。
「なんて様だ!」
パッと離した勢いで母は床に転がった。母を抱き起こす有之助を見て宝屋は舌打ちした。
「そいつは使い物にならん。代わりの使用人を派遣させる。異論は認めん」
有之助はあまりの衝撃に口元を手で覆った。病院に連れて行ってくれるというわずかに抱いていた期待も、あっけなく打ち砕かれた。
宝屋は母をかつぐと階段を下り始めた。どしどし歩く宝屋を必死に追い掛けると、雪がちらつく外へ出た。あろうことか、宝屋は母をソリに乗せると引きずりながら裏路地のごみために放り投げた。通り過ぎていく住人たちは、チラッと見ては目をそらし、誰も足を止めはしなかった。人々の冷たい視線は鋭い刃物のように有之助の心に突き刺さった。
プツン。
なにかが切れる音がした。
有之助は宝屋に殴りかかろうとしたが、逆に一発殴られて地べたに顎を打ち付けた。痛みと同時に悔しさで涙があふれた。宝屋は有之助の背中を足で強く踏みつけた。
「世の中で大切なものはなんだ」
宝屋は火でも消すように踏みつけた足を動かしながら言った。有之助は歯をくいしばりながら起き上がろうともがいた。重い。宝屋の足をどかすことすらできない。
「お前たちが当然持っていないものだ。金、地位、名誉――この三つ。どうあがいたってお前には手の届かないものだろう。えぇ? この国は弱肉強食だ。この三つがある者のために、ない者は汗を流し働かねばならん。お前も、捨てられたくなければ私のためにもっと尽くせ。働け。そう、金があればお前をどうとでもできる。代えだっていくらでもある」
「金も、地位も、名誉も! 大切なのは、使い方だ」
有之助はつぶされそうな喉を懸命に動かした。
「困っている人や立場の弱い人に差し向けられ、働いている人がちゃんと報われる、心のある使い方をしなければならない。だがお前は違う。人を物みたいに買い、すべては損得勘定だけで見る。思いやりなどない」
頭がかち割れるような鈍痛が間髪いれずに襲った。考える余裕すら与えられずに有之助は頭を足で踏みつけられた。何度も、何度も。ぼろぼろになって転がっていると、ぼやける視界の中から必死に手を伸ばす母の姿が見えた。
あぁ、全てが夢であってほしい。有之助はそれでも母の手に触れようと震えながら腕を伸ばした。だが、再び頭を強く踏みつけられガッと歯が欠ける音がした。宝屋は意識がもうろうとする有之助を担ぐと空になったソリを引き母を置いて路地を後にした。
体中ひどい激痛で有之助は目覚めた。見慣れた天井。顔がはれぼったく、腕や脚はあざだらけだ。ここは屋根裏部屋だった。頬が腫れてうまくかみ合わせることができない。
有之助はよたよた歩きながら扉に近寄った。鍵が閉まっていて開かない。窓には鉄格子がはめられ、逃げ場はどこにもなくなっていた。有之助は扉を何度もたたいた。
だが、宝屋は聞いてもないだろう。早く母を助けに行かなければ、冬の厳しい寒さに凍え死ぬかもしれない。もう外は真っ暗になっていた。必死に手を伸ばす母の姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。しばらくすると、嫌な足音が扉の前で止まった。
「そこにいるんだろ、宝屋。出せ! ここから出せ!」
「しばらくその部屋でおとなしくしていろ」
「ここから出してくれ!」
ついに宝屋の声は消えた。あまりにも情けなく、無力。
扉をたたいて叫ぶことしかできない。有之助は歯をくいしばって床をたたいた。母を助けるんだ。有之助は立ち上がった。そのとき、1階ですさまじい物音が聞こえ階段を駆け上がってくる足音を聞いた。
この足音は……
「おはよう、母さん」
有之助は大きなあくびをかいていつもみたいに着替えて髪を整えた。
「母さんが僕より遅起きなんて珍しいね。遅刻したらまた宝屋に叱られちゃう。そういえば信は今頃どうしてるかな。協会に話してくれるって言ってたから、もうじき戻ってきていい報告を聞かせてくれるかもしれないね――母さん?」
母は何も言わずただじっと有之助のことを見ていた。自分の喉に手を当ててなにかを話そうとしている。
「声が……出ないの?」
有之助は顔を真っ青にして尋ねた。母は、声も出ないどころか足も動かせなくなっていた。本当に、まるで石にでもなったみたいに、硬く動かない。
有之助はすぐさま宝屋にこのことが知れればまずいと思い頭を抱えた。あの男は、母が病気だと知れば使えないと怒り出すだろう。案の定、下りてこない2人に腹を立てた宝屋がやって来た。
「いつまで準備に時間がかかっている」
宝屋は布団の中で身動きができない母を見つけると掛け布団を奪った。
「起きて働け! ただ飯は許さん」
「母さんは病気なんだ」
宝屋は前に出てきた有之助をにらんだ。
「とうとう仮病を使うようになったか!」
「ちがう! どうしてそんなこと言うんだ。母さんは今、足が動かせないんだ。それに、声だって出せない」
「あれだけ高い金を払ったのに、このありさまか」
宝屋は有之助を床に突き飛ばすと母のむなぐらをつかんで怒鳴った。
「なんて様だ!」
パッと離した勢いで母は床に転がった。母を抱き起こす有之助を見て宝屋は舌打ちした。
「そいつは使い物にならん。代わりの使用人を派遣させる。異論は認めん」
有之助はあまりの衝撃に口元を手で覆った。病院に連れて行ってくれるというわずかに抱いていた期待も、あっけなく打ち砕かれた。
宝屋は母をかつぐと階段を下り始めた。どしどし歩く宝屋を必死に追い掛けると、雪がちらつく外へ出た。あろうことか、宝屋は母をソリに乗せると引きずりながら裏路地のごみために放り投げた。通り過ぎていく住人たちは、チラッと見ては目をそらし、誰も足を止めはしなかった。人々の冷たい視線は鋭い刃物のように有之助の心に突き刺さった。
プツン。
なにかが切れる音がした。
有之助は宝屋に殴りかかろうとしたが、逆に一発殴られて地べたに顎を打ち付けた。痛みと同時に悔しさで涙があふれた。宝屋は有之助の背中を足で強く踏みつけた。
「世の中で大切なものはなんだ」
宝屋は火でも消すように踏みつけた足を動かしながら言った。有之助は歯をくいしばりながら起き上がろうともがいた。重い。宝屋の足をどかすことすらできない。
「お前たちが当然持っていないものだ。金、地位、名誉――この三つ。どうあがいたってお前には手の届かないものだろう。えぇ? この国は弱肉強食だ。この三つがある者のために、ない者は汗を流し働かねばならん。お前も、捨てられたくなければ私のためにもっと尽くせ。働け。そう、金があればお前をどうとでもできる。代えだっていくらでもある」
「金も、地位も、名誉も! 大切なのは、使い方だ」
有之助はつぶされそうな喉を懸命に動かした。
「困っている人や立場の弱い人に差し向けられ、働いている人がちゃんと報われる、心のある使い方をしなければならない。だがお前は違う。人を物みたいに買い、すべては損得勘定だけで見る。思いやりなどない」
頭がかち割れるような鈍痛が間髪いれずに襲った。考える余裕すら与えられずに有之助は頭を足で踏みつけられた。何度も、何度も。ぼろぼろになって転がっていると、ぼやける視界の中から必死に手を伸ばす母の姿が見えた。
あぁ、全てが夢であってほしい。有之助はそれでも母の手に触れようと震えながら腕を伸ばした。だが、再び頭を強く踏みつけられガッと歯が欠ける音がした。宝屋は意識がもうろうとする有之助を担ぐと空になったソリを引き母を置いて路地を後にした。
体中ひどい激痛で有之助は目覚めた。見慣れた天井。顔がはれぼったく、腕や脚はあざだらけだ。ここは屋根裏部屋だった。頬が腫れてうまくかみ合わせることができない。
有之助はよたよた歩きながら扉に近寄った。鍵が閉まっていて開かない。窓には鉄格子がはめられ、逃げ場はどこにもなくなっていた。有之助は扉を何度もたたいた。
だが、宝屋は聞いてもないだろう。早く母を助けに行かなければ、冬の厳しい寒さに凍え死ぬかもしれない。もう外は真っ暗になっていた。必死に手を伸ばす母の姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。しばらくすると、嫌な足音が扉の前で止まった。
「そこにいるんだろ、宝屋。出せ! ここから出せ!」
「しばらくその部屋でおとなしくしていろ」
「ここから出してくれ!」
ついに宝屋の声は消えた。あまりにも情けなく、無力。
扉をたたいて叫ぶことしかできない。有之助は歯をくいしばって床をたたいた。母を助けるんだ。有之助は立ち上がった。そのとき、1階ですさまじい物音が聞こえ階段を駆け上がってくる足音を聞いた。
この足音は……
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