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10、新しい主人
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温かい暖炉の温かさで目覚める頃には、外はもう真っ暗だった。一瞬にして現実に引き戻され、絶望に打ちひしがれる。こんな悲しみを思い出すくらいなら寝ていた方がましだった。
肩には柔らかい毛布が掛けられていた。首には包帯が巻かれている。冷静になって部屋を見渡すと知らない場所だった。壁に備え付けられた本棚には大量の医学に関する本がぎっしり並んでいる。しばらくすると店じまいした花がお盆にゆげのたつスープを運んできた。
「お母様は下で眠っていますから、安心してください。朝からなにも食べていないでしょう、夕飯を召し上がってください。話はそれからにしましょう」
「ありがとうございます。けがの手当てまで。つい、眠ってしまって……商屋さんはお昼に一度戻ってこられたんですか?」
「はい。ですが、気になさらないでください。次男さんならもうじき戻ってきます。あなたのことも、事前に話しておきました。だから、安心してください」
スープを飲んでから、有之助はしばらく誰もいない部屋の中で過ごした。なにも考えないでいる方が楽なのに、黙っていると協会であったことを思い出す。母とともに生きようと思っても、1人でいると心が簡単に折れる。
偶然か、必然か。ふと、そんな言葉が思い出された。でも、信之助の死が必然だなんて思いたくもなかったし、偶然と考えれば考えたで気が狂いそうになる。
協会で出会った善三郎という男は若くして達観した考えを持っていたが、今の有之助には良薬にもなりそうになかった。善三郎と出会ったのは、単なる偶然であったのだろうか。あの日、協会の空き地で会った時以外、彼を見掛けたことは一度もなかった。なぜ、彼は逃げ場所を教えてくれたのだろうか。
有之助は瞬きも忘れ、焦点も合わずに空間をただじっと見ていた。下に行けば母に会えるが、今会ったら情けない自分をさらしそうで怖かった。
有之助はベランダに出て月をながめた。冬の冷たい風が体を冷やしたが、自分の体を心配する気力さえ奪われていく。
ベランダの柵は足で越えられる程度の高さで、有之助は深く考えず柵の上に立っていた。地面が遠くに見える。月の光に照らされる町がきれいだ。
生きるというのは、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
目の前には、どこまでも広い平野が続いている。春の風に吹かれ、小鳥の鳴き声とともにすあしで柔らかい草を踏む。心地がいい。気がフッと楽になるのが分かった。どこまでも歩いて行こう、きっといつか穏やかな水辺にたどり着くだろう。有之助は気分よく足を踏み出した。しかし――
そこには、なにもなかった。
背後から何かが近づいてくる。誰かが覆いかぶさるようにして襲い掛かり、有之助は床に激しく転がった。痛い。重い。
瞼を開けると見覚えのある青年が髪をたらして馬乗りになっていた。どこか、軽蔑するような、同時に激しい怒りのこもった目をしていた。
走ってきたのか?
ここまで?
「なぜ死のうとした」
ツーッと頰に生暖かいものが垂れた。自分が今、なにをしようとしていたのか冷静に思い出した。
唇が震えてうまく言葉が出せないのは寒さのせいだけではなかった。眉間にグッと力が入り、顔中の筋肉が硬直していた。
「僕は……」
目がやけどするほどに熱く、鼻の奥もツンとして痛い。一語一語、自分が生きていることへの罪悪感で発音が定まらなかった。
「死ぬために来たのか」
目の前の青年は真剣な目で言葉をぶつけた。彼は船の中で見掛けた商屋次男(じお)という名の男だった。有之助は重力に従い下にたれる涙をとめどなくもらし、羞恥心も忘れて嗚咽した。
「あと一歩遅れていたら、お前はどうなっていた。頭を、体を、強く打っただろう。徐々に意識を失い、死に絶えただろう。そうだ。お前は死んでいた」
次男は真っすぐ有之助を見た。
「命を懸けて守ってくれたんだろ。お前の兄は。救ってくれたんだろ? そいつの思いを無駄にするつもりか」
「そんな……」
「俺が、単なるきれい事を言うために、お前を止めたと思うか。今、この瞬間も、ささいな判断一つで未来は変わっていく。お前がこの世に生まれたのは、当たり前じゃない。兄が殺されたのは残念だった。でも、ここで死ねばお前の兄は無駄死にだぞ」
有之助は唾を飲み込んだ。
「生きる意味が分からない? なら、しかと刻め。生きることは奇跡だと。そして――人間の最大の敵は絶望だ。奇跡を享受する心を、人間から徐々に蝕んでいくのだ」
次男は怒りで震える手で有之助の胸倉をつかんだ。有之助は腕で目元を覆い、悲しみのあまりけいれんした腹部をもう片方の手で押さえた。涙に濡れた袖を払い、赤く腫れた目で次男の顔を見た。
「死からなにを学んだ」
心臓に突き刺さるような鋭い言葉。もう、ズタズタにされ過ぎて刺さる場所なんてないと思っていたのに、なおも有之助は心臓は音を立てて悲鳴を上げていた。
有之助は乱れた呼吸で泣き叫んだ。同時に自分の醜さを思い知らされた。兄は最期になんと言った。
”生きてくれ”
そう言った。
死んでも構わないなんて言う僕を、信は絶対に許さないだろう。信だって、命が尽きる直前まで、一生懸命生きようとしていた。生きたいと願っていたはずなんだ。
次男は涙に濡れる有之助の目から片時も視線をそらさず、一言一言力を込めてこう言った。
「お前が死を選ぶのは間違ってる。それはな、国に殺されたも同然になるからだ」
この国に? 天と地をひっくり返されたような衝撃的な言葉だった。有之助は開けた口をふさぐことさえできず、憎しみのこもった彼の表情をただじっと見つめていた。
「この国がまともなら、兄はあんな死に方をしなかった。お前も、人生を狂わされることはなかった。俺は名切り同盟の頭だ。その宿命は、この国から忌まわしき名の世襲制度を断ち切ること。それを果たすために、俺は生きている。母親を救いたければ抗え」
熱い目、こんなに燃え盛る思いを見たのは初めてだった。それは、この青年を初めて見たときから感じていた。凍り付くような視線とは裏腹に、隠しきれない強さ。宝屋とも、あの細見男とも全く違うものだ。心が揺さぶられる。右にいったと思ったら、次は左。この青年の心を先回りすることはできなかった。
次男はすっと有之助の上からどいて裾を払った。まだ胸が痛い。有之助は涙に濡れた顔を手でごしごし拭った。
有之助は床に手をつき、震える体に鞭打って立ち上がった。
「生きる覚悟を持て、使有之助。両方助かる方法を考えろ。それが誓えるなら俺についてこい」
有之助は彼の背中を見上げた。
「俺が主人になる」
言葉に覚悟を持った次男はひざまずく有之助に手を差し伸ばした。
肩には柔らかい毛布が掛けられていた。首には包帯が巻かれている。冷静になって部屋を見渡すと知らない場所だった。壁に備え付けられた本棚には大量の医学に関する本がぎっしり並んでいる。しばらくすると店じまいした花がお盆にゆげのたつスープを運んできた。
「お母様は下で眠っていますから、安心してください。朝からなにも食べていないでしょう、夕飯を召し上がってください。話はそれからにしましょう」
「ありがとうございます。けがの手当てまで。つい、眠ってしまって……商屋さんはお昼に一度戻ってこられたんですか?」
「はい。ですが、気になさらないでください。次男さんならもうじき戻ってきます。あなたのことも、事前に話しておきました。だから、安心してください」
スープを飲んでから、有之助はしばらく誰もいない部屋の中で過ごした。なにも考えないでいる方が楽なのに、黙っていると協会であったことを思い出す。母とともに生きようと思っても、1人でいると心が簡単に折れる。
偶然か、必然か。ふと、そんな言葉が思い出された。でも、信之助の死が必然だなんて思いたくもなかったし、偶然と考えれば考えたで気が狂いそうになる。
協会で出会った善三郎という男は若くして達観した考えを持っていたが、今の有之助には良薬にもなりそうになかった。善三郎と出会ったのは、単なる偶然であったのだろうか。あの日、協会の空き地で会った時以外、彼を見掛けたことは一度もなかった。なぜ、彼は逃げ場所を教えてくれたのだろうか。
有之助は瞬きも忘れ、焦点も合わずに空間をただじっと見ていた。下に行けば母に会えるが、今会ったら情けない自分をさらしそうで怖かった。
有之助はベランダに出て月をながめた。冬の冷たい風が体を冷やしたが、自分の体を心配する気力さえ奪われていく。
ベランダの柵は足で越えられる程度の高さで、有之助は深く考えず柵の上に立っていた。地面が遠くに見える。月の光に照らされる町がきれいだ。
生きるというのは、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
目の前には、どこまでも広い平野が続いている。春の風に吹かれ、小鳥の鳴き声とともにすあしで柔らかい草を踏む。心地がいい。気がフッと楽になるのが分かった。どこまでも歩いて行こう、きっといつか穏やかな水辺にたどり着くだろう。有之助は気分よく足を踏み出した。しかし――
そこには、なにもなかった。
背後から何かが近づいてくる。誰かが覆いかぶさるようにして襲い掛かり、有之助は床に激しく転がった。痛い。重い。
瞼を開けると見覚えのある青年が髪をたらして馬乗りになっていた。どこか、軽蔑するような、同時に激しい怒りのこもった目をしていた。
走ってきたのか?
ここまで?
「なぜ死のうとした」
ツーッと頰に生暖かいものが垂れた。自分が今、なにをしようとしていたのか冷静に思い出した。
唇が震えてうまく言葉が出せないのは寒さのせいだけではなかった。眉間にグッと力が入り、顔中の筋肉が硬直していた。
「僕は……」
目がやけどするほどに熱く、鼻の奥もツンとして痛い。一語一語、自分が生きていることへの罪悪感で発音が定まらなかった。
「死ぬために来たのか」
目の前の青年は真剣な目で言葉をぶつけた。彼は船の中で見掛けた商屋次男(じお)という名の男だった。有之助は重力に従い下にたれる涙をとめどなくもらし、羞恥心も忘れて嗚咽した。
「あと一歩遅れていたら、お前はどうなっていた。頭を、体を、強く打っただろう。徐々に意識を失い、死に絶えただろう。そうだ。お前は死んでいた」
次男は真っすぐ有之助を見た。
「命を懸けて守ってくれたんだろ。お前の兄は。救ってくれたんだろ? そいつの思いを無駄にするつもりか」
「そんな……」
「俺が、単なるきれい事を言うために、お前を止めたと思うか。今、この瞬間も、ささいな判断一つで未来は変わっていく。お前がこの世に生まれたのは、当たり前じゃない。兄が殺されたのは残念だった。でも、ここで死ねばお前の兄は無駄死にだぞ」
有之助は唾を飲み込んだ。
「生きる意味が分からない? なら、しかと刻め。生きることは奇跡だと。そして――人間の最大の敵は絶望だ。奇跡を享受する心を、人間から徐々に蝕んでいくのだ」
次男は怒りで震える手で有之助の胸倉をつかんだ。有之助は腕で目元を覆い、悲しみのあまりけいれんした腹部をもう片方の手で押さえた。涙に濡れた袖を払い、赤く腫れた目で次男の顔を見た。
「死からなにを学んだ」
心臓に突き刺さるような鋭い言葉。もう、ズタズタにされ過ぎて刺さる場所なんてないと思っていたのに、なおも有之助は心臓は音を立てて悲鳴を上げていた。
有之助は乱れた呼吸で泣き叫んだ。同時に自分の醜さを思い知らされた。兄は最期になんと言った。
”生きてくれ”
そう言った。
死んでも構わないなんて言う僕を、信は絶対に許さないだろう。信だって、命が尽きる直前まで、一生懸命生きようとしていた。生きたいと願っていたはずなんだ。
次男は涙に濡れる有之助の目から片時も視線をそらさず、一言一言力を込めてこう言った。
「お前が死を選ぶのは間違ってる。それはな、国に殺されたも同然になるからだ」
この国に? 天と地をひっくり返されたような衝撃的な言葉だった。有之助は開けた口をふさぐことさえできず、憎しみのこもった彼の表情をただじっと見つめていた。
「この国がまともなら、兄はあんな死に方をしなかった。お前も、人生を狂わされることはなかった。俺は名切り同盟の頭だ。その宿命は、この国から忌まわしき名の世襲制度を断ち切ること。それを果たすために、俺は生きている。母親を救いたければ抗え」
熱い目、こんなに燃え盛る思いを見たのは初めてだった。それは、この青年を初めて見たときから感じていた。凍り付くような視線とは裏腹に、隠しきれない強さ。宝屋とも、あの細見男とも全く違うものだ。心が揺さぶられる。右にいったと思ったら、次は左。この青年の心を先回りすることはできなかった。
次男はすっと有之助の上からどいて裾を払った。まだ胸が痛い。有之助は涙に濡れた顔を手でごしごし拭った。
有之助は床に手をつき、震える体に鞭打って立ち上がった。
「生きる覚悟を持て、使有之助。両方助かる方法を考えろ。それが誓えるなら俺についてこい」
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