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32、葉牡丹
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寝台特急は3日間の日程を終えて終点の貝浜駅に到着した。有之助と穂海は荷物持ちで、次男を先頭にホームまで出るとすぐに馬車を見つけて乗り込んだ。
「どこに行くの?」
荷物に寄り掛かりながら穂海が尋ねると、次男は手に地図を広げながら指で目的地を示した。
「白門荘という宿だ」
白門半島の貝浜は坂道の多い町で、白い塗装のされた木造の家が軒を連ねている。海が広がる坂を下った先に目的地の白門荘はあった。築数十年の古い3階建ての宿で、中に入るとおかみが2階にある潮風の間に案内してくれた。
「海が見える!」
穂海は荷物を置くなり窓から身を乗り出して言った。有之助は金の盾の事務所から見えた海を思い出したが、こっちの海はまた雰囲気が違った。次男は部屋の電話を引っ張るとさっそく番号を回してかけた。しばらくして電話の向こうから女の人の声がした。そばにいた有之助は間違いない、花だと思った。そう考えただけで心がウキウキ躍った。
「ねぇ、有之助。誰から?」
「きっと花さんだよ。僕がお世話になった人なんだ。次男さんの店で長年働いている人で、すごく優しい人だよ」
花「次男さん、無事に着いたんですね」
次男「あぁ。今、白門荘にいる」
花「有之助さんもお元気?」
次男「問題ない」
花「今朝、有之助さんのお母様の見舞いに行ってきました。実は、申し上げにくいことなんですけど……」
受話器を握る次男はみるみる顔色を悪くし、そのまま力なく壁にもたれかかった。
「次男さん?」
不安げに尋ねる有之助とは目も合わせず、次男は目を伏せて唇をかんだ。こんなにショックを受けた彼の顔を見たことは一度もなかった。単純な怒り、悲しみともちがう、もっと心の奥底に眠る良心の痛みのようなものだ。しばらく口をつぐんだ次男はやがて静かに言った。
「葉牡丹が死んだ」
あの愛らしい灰色猫が?
有之助は、あまりに突然のことで言葉も出なかった。
いつも、ふすまをカリカリやって遊びにやってきた葉牡丹。本を読むときは隣で手足を伸ばしてのんきに昼寝をし、猫じゃらしをたらせばポテポテした手で真剣にじゃれて遊んでくれた。柔らかい毛並み、クリクリした宝石のような瞳、感情豊かな鳴き声。一番お気に入りの場所は、もちろん大好きな次男の膝の上だった。
「車にはねられた」
次男の一言で有之助は現実に引き戻された。途中で次男が有之助に受話器を渡すので、心の準備ができていなかった。
有之助「花さん」
花「有之助さん」
有之助「葉牡丹が……死んだって」
花「次男さんに、お伝えした通りです」
有之助「一体いつ? まさか、あの後……屋敷を出たあの日?」
花「その翌朝です」
電話越しに花の切ない声が響いた。
ついこの間まで生きていたのに、突然、死んだ。
次男が受け取りを拒否したので有之助は受話器を静かに置いた。受話器の置かれた電話をいつまでも眺め、言葉にならない思いを胸の中にしまい込んだ。
さっきまで出掛ける気満々だった次男は、急に畳の上で背を向けて横になった。話し掛けないでくれオーラが醸し出されているせいで、穂海も有之助も彼に掛ける言葉はなにもなかった。
「穂海、少し外に行こうか」
有之助はそう提案して宿の外に出た。2人ともしんみりして公園にあるいすに座った。
「葉牡丹って?」
遠慮がちに穂海は言った。
「猫だよ。次男さんによく懐いてた灰色猫。死んじゃったんだ……車にはねられて」
そのころ、次男は1人目を閉じて考えていた。電話口から聞こえてきた信じられない言葉をのみ込むのに時間が必要だった。葉牡丹はもともと捨て猫で、ごみと一緒に捨てられていたのを次男が拾った。それからよく懐くようになって、庭で生える猫じゃらしで遊んでやるのが日課だった。屋敷からは普段出ないはずなのに、今回は屋敷の外へ出て車にはねられた。長く戻らないことを悟ったように追い掛けてきていた。葉牡丹は、分かっていたのだろうか。
次男は座布団を枕替わりにして天井をぼんやりと眺めた。こうして横になっていると、よく腹の上にのってきてうたたねを打っていたのを思い出す。
葉牡丹は季節の花から取った名だ。冬の寒さに強く、それにより鮮やかな色味を増していく。寒さに震える子猫を見て、寒さにも負けない強い子になってほしいと願い名付けた。
葉牡丹。
ちゃんと語り掛けてやればよかった。猫だからとないがしろにして、説明もせずに家を空けることをしなければ、葉牡丹は利口に屋敷で待っていたのかもしれない。
次男さん、相当ショックを受けているだろうな。有之助は意味もなく地面を見つめながら彼のことを思った。
「出掛けるぞ」
突然声がしたので驚いた。振り返ると、部屋から出てきた次男が立っていた。
「どこに行くの?」
荷物に寄り掛かりながら穂海が尋ねると、次男は手に地図を広げながら指で目的地を示した。
「白門荘という宿だ」
白門半島の貝浜は坂道の多い町で、白い塗装のされた木造の家が軒を連ねている。海が広がる坂を下った先に目的地の白門荘はあった。築数十年の古い3階建ての宿で、中に入るとおかみが2階にある潮風の間に案内してくれた。
「海が見える!」
穂海は荷物を置くなり窓から身を乗り出して言った。有之助は金の盾の事務所から見えた海を思い出したが、こっちの海はまた雰囲気が違った。次男は部屋の電話を引っ張るとさっそく番号を回してかけた。しばらくして電話の向こうから女の人の声がした。そばにいた有之助は間違いない、花だと思った。そう考えただけで心がウキウキ躍った。
「ねぇ、有之助。誰から?」
「きっと花さんだよ。僕がお世話になった人なんだ。次男さんの店で長年働いている人で、すごく優しい人だよ」
花「次男さん、無事に着いたんですね」
次男「あぁ。今、白門荘にいる」
花「有之助さんもお元気?」
次男「問題ない」
花「今朝、有之助さんのお母様の見舞いに行ってきました。実は、申し上げにくいことなんですけど……」
受話器を握る次男はみるみる顔色を悪くし、そのまま力なく壁にもたれかかった。
「次男さん?」
不安げに尋ねる有之助とは目も合わせず、次男は目を伏せて唇をかんだ。こんなにショックを受けた彼の顔を見たことは一度もなかった。単純な怒り、悲しみともちがう、もっと心の奥底に眠る良心の痛みのようなものだ。しばらく口をつぐんだ次男はやがて静かに言った。
「葉牡丹が死んだ」
あの愛らしい灰色猫が?
有之助は、あまりに突然のことで言葉も出なかった。
いつも、ふすまをカリカリやって遊びにやってきた葉牡丹。本を読むときは隣で手足を伸ばしてのんきに昼寝をし、猫じゃらしをたらせばポテポテした手で真剣にじゃれて遊んでくれた。柔らかい毛並み、クリクリした宝石のような瞳、感情豊かな鳴き声。一番お気に入りの場所は、もちろん大好きな次男の膝の上だった。
「車にはねられた」
次男の一言で有之助は現実に引き戻された。途中で次男が有之助に受話器を渡すので、心の準備ができていなかった。
有之助「花さん」
花「有之助さん」
有之助「葉牡丹が……死んだって」
花「次男さんに、お伝えした通りです」
有之助「一体いつ? まさか、あの後……屋敷を出たあの日?」
花「その翌朝です」
電話越しに花の切ない声が響いた。
ついこの間まで生きていたのに、突然、死んだ。
次男が受け取りを拒否したので有之助は受話器を静かに置いた。受話器の置かれた電話をいつまでも眺め、言葉にならない思いを胸の中にしまい込んだ。
さっきまで出掛ける気満々だった次男は、急に畳の上で背を向けて横になった。話し掛けないでくれオーラが醸し出されているせいで、穂海も有之助も彼に掛ける言葉はなにもなかった。
「穂海、少し外に行こうか」
有之助はそう提案して宿の外に出た。2人ともしんみりして公園にあるいすに座った。
「葉牡丹って?」
遠慮がちに穂海は言った。
「猫だよ。次男さんによく懐いてた灰色猫。死んじゃったんだ……車にはねられて」
そのころ、次男は1人目を閉じて考えていた。電話口から聞こえてきた信じられない言葉をのみ込むのに時間が必要だった。葉牡丹はもともと捨て猫で、ごみと一緒に捨てられていたのを次男が拾った。それからよく懐くようになって、庭で生える猫じゃらしで遊んでやるのが日課だった。屋敷からは普段出ないはずなのに、今回は屋敷の外へ出て車にはねられた。長く戻らないことを悟ったように追い掛けてきていた。葉牡丹は、分かっていたのだろうか。
次男は座布団を枕替わりにして天井をぼんやりと眺めた。こうして横になっていると、よく腹の上にのってきてうたたねを打っていたのを思い出す。
葉牡丹は季節の花から取った名だ。冬の寒さに強く、それにより鮮やかな色味を増していく。寒さに震える子猫を見て、寒さにも負けない強い子になってほしいと願い名付けた。
葉牡丹。
ちゃんと語り掛けてやればよかった。猫だからとないがしろにして、説明もせずに家を空けることをしなければ、葉牡丹は利口に屋敷で待っていたのかもしれない。
次男さん、相当ショックを受けているだろうな。有之助は意味もなく地面を見つめながら彼のことを思った。
「出掛けるぞ」
突然声がしたので驚いた。振り返ると、部屋から出てきた次男が立っていた。
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