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序章 緑亡き星
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その街は、『世界の中心』と呼ばれていた。
その名の通り、そこは実際に世界の中心だった。
ただ、そんな大層な名を持っているにしては、街の人口はあまり多くなかった。
何よりも世界全体の人口自体が、その街の人口そのものだった。
すべては巨大流砂のせいだった。
何十年か前か、いつからか出現した巨大流砂のために次々に街がのみ込まれていき、砂漠に変えられていったのだ。
巨大流砂がなぜ発生し始めたのか、学者たちの研究が追いつかぬまま、人々は犠牲になっていった。
突然出現する流砂には為す術もない。
知らぬ間に街を中心に、円を描くように瞬く間に広がり、沈んでいってしまうのだ。
加工された地面も、むき出しの土もどういった構造なものか、すべてが砂に変化していった。
逃げようにも、巨大流砂がどこに出現するか分からないからそれもできない。
かといって出現し始めてから避難しようにも、その速度に勝つことができる人間はごく稀なのだった。
首都も小さな農村も、巨大流砂に吸い込まれていった。
……そしていつしか、『世界の中心』だけが、世界に取り残されたのだ。
◇
街で一番の早起きは、パン屋の主人だった。
まだ日も出ぬうちに起きて熱めの風呂に入り、軽い朝食のあとにパンを焼くのが彼の日課だった。
その日もいつも通りの時間に起床し、彼は熱めに沸かした風呂に入っていた。
風呂には小窓がついていた。
風呂場に充満した湯気を逃がすため、彼は少しだけ窓を開けた。
外はとても寒い。
昨夜からの雪が今も降り続き、何の加工もされていないむき出しの地面を白く覆っている。
──雪など、本来降ることはないはずだった。
街の周りは砂漠で、雪が降るなどありえない。
しかし現に、こうして雪は降っていた。
砂漠でも、世界は暑いどころか気温は年々下がり続けていた。
季節を感じさせるものは何もなく、毎日が真冬のように風は肌を突き刺した。
この街も、いつか巨大流砂に呑まれるのだろう。
いや、おそらくそう遠くない未来に、それは確実に予想された。
最後に他に残されていた街が呑み込まれていったのは、もう二年も前のことだ。
逃げられるものなら、今すぐにも逃げ出したい。
だが、どこへ?
どこを見渡しても、視界に映るのは砂ばかりだ。
しかも逃げている最中に、いつ気紛れな巨大流砂に沈められるか分からない。
結局、街と命運を共にするしかないのだ。
パン屋の主人は重苦しい気持ちになり、ため息をついて風呂場を出た。
仕事着に着替え、パン生地を手に取ったとき、ガタンと店の入り口の扉が音を立てた。
――風が叩いたにしては、音が重い。
パン生地をそこに置き、彼は入り口を開けた。
微風と共に、粉のような雪が入ってくる。
「あ……っ」
何気なく下を見た彼は、慌てて妻を呼びにいった。
無理矢理起こされてきた妻は不機嫌だったが、それでも夫が指差すものを見て驚いた。
子供がふたり、そこに倒れていたのだ。
少年がひとりと、少女がひとり、どちらも十四、五歳ほどだ。
少年は大切そうに少女を抱きかかえ、雪から守るように
まだ発育も充分でないその小さな身体で覆っていた。
少女のほうは、安らかな夢でも見ているように、うっとりと少年の胸に頬をくっつけている。
パン屋の主人は妻と協力してふたりをベッドに寝かせ、タオルで濡れた身体を拭き
服を脱がせて何重にも布団でくるんだ。
主人は使用人がくるまでの間だけパンを焼くと、あとはすべて使用人に任せ、妻とふたりで看病をした。
甲斐があったか、真夜中を過ぎてから少年が目を覚ました。
妻を先に寝かせ、自分は起きて様子を見ていた主人は、起き上がった少年に目を奪われた。
少年は、とても美しかった。
看病をしている間は気づかなかったが、恐ろしいほどに整った顔立ちをしている。
前髪だけは赤かったが、他は輝かんばかりの黄金だ。
そして、髪の色と同じ金の瞳は、何故かとても冷たい印象を受けた。
「おじさん……助けてくれたんだね。ありがとう」
少年は言い、傍らで眠っている少女を見下ろす。
「彼女は大丈夫だよ、身体はよく暖まったから、あとは目を覚ますのを待てばいい」
安心させるために主人が言うと、少年はうなずいた。
「分かってるよ。――この子はね、とても疲れている。それで目覚めが遅いんだ」
主人は、ミルクを温めるために部屋を出ていった。
少年は、愛しそうに少女を見下ろしたままだ。
手がそっと、その髪の毛にのびた。
少女の黒茶色の髪の毛は顎の下辺りまでしかなく、少年の手はあっけなく滑り落ちてしまう。
「ねえ……目をお覚ましよ。寝顔も可愛いけど、起きているきみに早く会いたいよ。ぼくの水琴(みこと)――」
パン屋の主人は温めたミルクをベッドの脇の台に置き、「何か用があったら遠慮なく呼ぶように」と言って、眠るために部屋を出ていった。
間もなくして、少女の目蓋がかすかに動いた。
ミルクには手もつけず、少女を見守っていた少年の顔に笑みが浮かぶ。
「…………」
少女は、自分を覗き込む少年を不思議そうに見返した。大きな瞳は、黒水晶のように美しい。
少年は、声をかけた。
「目が覚めたかい? 頭がぼうっとしてはいないかい?」
少女は応えない。じっと少年を見上げてからゆっくり身体を起こす。
毛布が滑り落ち、空気にさらされた肌を、少女は慌てて両腕で隠した。
少年は微笑んで、改めて毛布をかけてやる。
「ぼく達が行き倒れていたのを、この家の人が助けてくれたんだ。……ぼくの声が聞こえているかい、水琴?」
「……あなた、あたしの『何』? 行き倒れていたって……あたし、どこからきたの?」
申し訳なさそうに、少女――水琴は尋ねる。
少年は目を見開き、それから可笑しそうに、くっと喉を鳴らした。
「水琴、きみ記憶を失くしてしまったのかい? ――これは傑作だ!!」
軽快に笑う少年にムッとしないでもなかったが、水琴はそれよりも自分の記憶を探ろうとしてみた。
覚えていること……生まれてから、これまでの……今さっき目を覚ますまでの間の記憶。
何故、覚えていないのだろう。
自分の名前すら分からない。この少年は自分のことを知っているようなのに、彼のことも記憶にない。
笑い終わった少年は、赤い前髪をかき上げた。
「大丈夫だよ水琴、きみが記憶を失くしても、ぼくがきみのことを知っている。これからはぼくと一緒に暮らすんだよ――」
言って、少年が水琴に手をのばしたとき──突然、外から叫び声が聞こえてきた。
ビクリとした水琴をのばしていた手で抱き寄せ、少年は耳をそばだたせる。
パン屋の主人が、起きだしてくる気配。
主人が扉を開けたとたん、叫び声を上げていた男の声が、よりはっきりと聞こえてきた。
「巨大流砂だぁっ!!」
その言葉に、あとから起きてきた妻が、倒れそうになって主人に抱きかかえられる。
他の家からも、声に起きてきた者達が男に駆け寄った。
「確かか!? どこに見えた!?」
男はがくがくと震えながら、やっとの思いで口を開く。
「四方から砂が崩れながら迫ってくるのが見えた……もう終わりだ! 俺達もここで終わるんだ!」
男は人工牛乳配達の途中だったらしい。
走ってくる途中で落としてしまったのだろう、ミルクの雫が服にこびりついていた。
そこに集まってきていた若い女が、顔を覆って泣きだした。それを皮切りに、人々は騒ぎだす。
「逃げることはできないのか!」
「ムリだろう、それができるなら他の街の者だってむざむざ沈んでいくことはなかった!」
「あたし達で終わりだわ、世界にはもう砂しかなくなるのよ……」
ふと、壮年の男が進み出た。自然、皆の視線が集まる。
ひとりが、「長殿」とつぶやいた。その通り、壮年の男はこの街の長だった。
髪の毛にいくぶん白いものがまじってはいたが、その身体は頑丈な筋肉でかためられ、精悍な顔立ちからは爽やかな若さすら感じられた。
皆の中心まできたところで立ち止まると、長は口を開いた。
「取り乱しても仕方がない。この日がくるのは分かっていた。……むしろ遅すぎたくらいだ」
「長殿……!」
「我々が世界で最後の生き残り。ふさわしい終わり方をしようではないか」
それは、他に残されていた最後の街が沈んだ直後、長が街の皆に言った言葉だった。
そこにいた人々は、それを思い出した。
いつのまにか街のすべての人間が集まり、恐慌状態に陥りかけていた空気が、徐々に消え去っていった。
「愛する者の手を取り、最期の抱擁を――」
長の言葉に、ある男は長年連れ添った妻の手を取った。未亡人は子供の手を握り、みなしご達は互いの手を強く握りしめた。
次第に、砂の落ちる音が聞こえてきた。もうすぐで、夜明けだ。
若い母は、子供達が可哀想で泣いた。老人は、静かな瞳で朝日の昇る方向を見つめていた。子供のひとりはわけが分からずに親にしがみつき、幼子はきょとんと父親に抱き上げられた。
街が小刻みに震え始めた、だがそのとき、場違いに明るい声が響き渡った。
「ばっかだなあ、希望も何もありゃしないじゃないか!」
乾いた服を着て、同じく服を着せた水琴を連れた少年が立っていた。
巨大流砂のことを知らぬはずはないのに、なぜかその顔には余裕の笑み。
「ぼくならこの街を救えるよ」
くすくす笑う少年を、大半の人間は相手にせず、すぐに朝日の方向に視線を戻した。残りの者達は、その少年の明るい口調に、不思議そうに彼を見つめる。
「せっかくだから、見せてあげるよ。――ぼくの、チカラ」
言ったかと思うと、少年はふらりと宙に浮いた。
息を呑む者もいれば、悲鳴を上げる者もいた。長もパン屋の夫婦も、驚いて少年を見上げる。水琴も、目を見開いて美しい少年を見つめた。
少年の片眉が、何かの合図のようにわずかに上がったと同時に、街がぐらりと浮き上がった。
人々は立っていられず、倒れこむ。
ほんの数メートルほど浮いたところで、街の上昇は停止した。
少年は地面に降り立ち、驚く人々の視線を一身に浴びて、得意そうに微笑んだ。
「巨大流砂から逃れるには? 街ごと浮かせてしまえばいいんだよ、簡単なことだよね」
「お……お前」
振動に耐えられずに倒れていた牛乳配達の男が、興奮して起き上がる。
「お前……今、何をやったんだ? 砂の音が、わずかだがさっきよりも遠くなっている!」
「だから、チカラだってば」
少年の言葉に、長が歩み寄った。
「聞いたことがある……何十年前か何百年前か分からないが、通常の人間は普通持たないような不思議なチカラを持つ、能力者と呼ばれる者達がいたと――まだ、残っていたのか」
少年は、くすっと笑う。仕草は、まるで少女のように可愛らしかった。
「ねえ、おじさん。ぼくと水琴のために邸を建ててよ。使用人も何人かつけてね。そうしたら、ずっとこの街を浮かせ続けて、巨大流砂から守ってあげる」
とたん、人々の間から歓声が沸き起こる。喜びのその声に押されたように、長はうなずいた。
「名前は、なんという」
自分と街の人々とを見比べる水琴の肩を抱いて、少年は名乗った。
「紅凪(くない)」
紅凪の唇には、無邪気な笑みが浮かんでいた。
だが、その瞳の奥にある残虐な輝きには、誰が気づくこともなかった。
その名の通り、そこは実際に世界の中心だった。
ただ、そんな大層な名を持っているにしては、街の人口はあまり多くなかった。
何よりも世界全体の人口自体が、その街の人口そのものだった。
すべては巨大流砂のせいだった。
何十年か前か、いつからか出現した巨大流砂のために次々に街がのみ込まれていき、砂漠に変えられていったのだ。
巨大流砂がなぜ発生し始めたのか、学者たちの研究が追いつかぬまま、人々は犠牲になっていった。
突然出現する流砂には為す術もない。
知らぬ間に街を中心に、円を描くように瞬く間に広がり、沈んでいってしまうのだ。
加工された地面も、むき出しの土もどういった構造なものか、すべてが砂に変化していった。
逃げようにも、巨大流砂がどこに出現するか分からないからそれもできない。
かといって出現し始めてから避難しようにも、その速度に勝つことができる人間はごく稀なのだった。
首都も小さな農村も、巨大流砂に吸い込まれていった。
……そしていつしか、『世界の中心』だけが、世界に取り残されたのだ。
◇
街で一番の早起きは、パン屋の主人だった。
まだ日も出ぬうちに起きて熱めの風呂に入り、軽い朝食のあとにパンを焼くのが彼の日課だった。
その日もいつも通りの時間に起床し、彼は熱めに沸かした風呂に入っていた。
風呂には小窓がついていた。
風呂場に充満した湯気を逃がすため、彼は少しだけ窓を開けた。
外はとても寒い。
昨夜からの雪が今も降り続き、何の加工もされていないむき出しの地面を白く覆っている。
──雪など、本来降ることはないはずだった。
街の周りは砂漠で、雪が降るなどありえない。
しかし現に、こうして雪は降っていた。
砂漠でも、世界は暑いどころか気温は年々下がり続けていた。
季節を感じさせるものは何もなく、毎日が真冬のように風は肌を突き刺した。
この街も、いつか巨大流砂に呑まれるのだろう。
いや、おそらくそう遠くない未来に、それは確実に予想された。
最後に他に残されていた街が呑み込まれていったのは、もう二年も前のことだ。
逃げられるものなら、今すぐにも逃げ出したい。
だが、どこへ?
どこを見渡しても、視界に映るのは砂ばかりだ。
しかも逃げている最中に、いつ気紛れな巨大流砂に沈められるか分からない。
結局、街と命運を共にするしかないのだ。
パン屋の主人は重苦しい気持ちになり、ため息をついて風呂場を出た。
仕事着に着替え、パン生地を手に取ったとき、ガタンと店の入り口の扉が音を立てた。
――風が叩いたにしては、音が重い。
パン生地をそこに置き、彼は入り口を開けた。
微風と共に、粉のような雪が入ってくる。
「あ……っ」
何気なく下を見た彼は、慌てて妻を呼びにいった。
無理矢理起こされてきた妻は不機嫌だったが、それでも夫が指差すものを見て驚いた。
子供がふたり、そこに倒れていたのだ。
少年がひとりと、少女がひとり、どちらも十四、五歳ほどだ。
少年は大切そうに少女を抱きかかえ、雪から守るように
まだ発育も充分でないその小さな身体で覆っていた。
少女のほうは、安らかな夢でも見ているように、うっとりと少年の胸に頬をくっつけている。
パン屋の主人は妻と協力してふたりをベッドに寝かせ、タオルで濡れた身体を拭き
服を脱がせて何重にも布団でくるんだ。
主人は使用人がくるまでの間だけパンを焼くと、あとはすべて使用人に任せ、妻とふたりで看病をした。
甲斐があったか、真夜中を過ぎてから少年が目を覚ました。
妻を先に寝かせ、自分は起きて様子を見ていた主人は、起き上がった少年に目を奪われた。
少年は、とても美しかった。
看病をしている間は気づかなかったが、恐ろしいほどに整った顔立ちをしている。
前髪だけは赤かったが、他は輝かんばかりの黄金だ。
そして、髪の色と同じ金の瞳は、何故かとても冷たい印象を受けた。
「おじさん……助けてくれたんだね。ありがとう」
少年は言い、傍らで眠っている少女を見下ろす。
「彼女は大丈夫だよ、身体はよく暖まったから、あとは目を覚ますのを待てばいい」
安心させるために主人が言うと、少年はうなずいた。
「分かってるよ。――この子はね、とても疲れている。それで目覚めが遅いんだ」
主人は、ミルクを温めるために部屋を出ていった。
少年は、愛しそうに少女を見下ろしたままだ。
手がそっと、その髪の毛にのびた。
少女の黒茶色の髪の毛は顎の下辺りまでしかなく、少年の手はあっけなく滑り落ちてしまう。
「ねえ……目をお覚ましよ。寝顔も可愛いけど、起きているきみに早く会いたいよ。ぼくの水琴(みこと)――」
パン屋の主人は温めたミルクをベッドの脇の台に置き、「何か用があったら遠慮なく呼ぶように」と言って、眠るために部屋を出ていった。
間もなくして、少女の目蓋がかすかに動いた。
ミルクには手もつけず、少女を見守っていた少年の顔に笑みが浮かぶ。
「…………」
少女は、自分を覗き込む少年を不思議そうに見返した。大きな瞳は、黒水晶のように美しい。
少年は、声をかけた。
「目が覚めたかい? 頭がぼうっとしてはいないかい?」
少女は応えない。じっと少年を見上げてからゆっくり身体を起こす。
毛布が滑り落ち、空気にさらされた肌を、少女は慌てて両腕で隠した。
少年は微笑んで、改めて毛布をかけてやる。
「ぼく達が行き倒れていたのを、この家の人が助けてくれたんだ。……ぼくの声が聞こえているかい、水琴?」
「……あなた、あたしの『何』? 行き倒れていたって……あたし、どこからきたの?」
申し訳なさそうに、少女――水琴は尋ねる。
少年は目を見開き、それから可笑しそうに、くっと喉を鳴らした。
「水琴、きみ記憶を失くしてしまったのかい? ――これは傑作だ!!」
軽快に笑う少年にムッとしないでもなかったが、水琴はそれよりも自分の記憶を探ろうとしてみた。
覚えていること……生まれてから、これまでの……今さっき目を覚ますまでの間の記憶。
何故、覚えていないのだろう。
自分の名前すら分からない。この少年は自分のことを知っているようなのに、彼のことも記憶にない。
笑い終わった少年は、赤い前髪をかき上げた。
「大丈夫だよ水琴、きみが記憶を失くしても、ぼくがきみのことを知っている。これからはぼくと一緒に暮らすんだよ――」
言って、少年が水琴に手をのばしたとき──突然、外から叫び声が聞こえてきた。
ビクリとした水琴をのばしていた手で抱き寄せ、少年は耳をそばだたせる。
パン屋の主人が、起きだしてくる気配。
主人が扉を開けたとたん、叫び声を上げていた男の声が、よりはっきりと聞こえてきた。
「巨大流砂だぁっ!!」
その言葉に、あとから起きてきた妻が、倒れそうになって主人に抱きかかえられる。
他の家からも、声に起きてきた者達が男に駆け寄った。
「確かか!? どこに見えた!?」
男はがくがくと震えながら、やっとの思いで口を開く。
「四方から砂が崩れながら迫ってくるのが見えた……もう終わりだ! 俺達もここで終わるんだ!」
男は人工牛乳配達の途中だったらしい。
走ってくる途中で落としてしまったのだろう、ミルクの雫が服にこびりついていた。
そこに集まってきていた若い女が、顔を覆って泣きだした。それを皮切りに、人々は騒ぎだす。
「逃げることはできないのか!」
「ムリだろう、それができるなら他の街の者だってむざむざ沈んでいくことはなかった!」
「あたし達で終わりだわ、世界にはもう砂しかなくなるのよ……」
ふと、壮年の男が進み出た。自然、皆の視線が集まる。
ひとりが、「長殿」とつぶやいた。その通り、壮年の男はこの街の長だった。
髪の毛にいくぶん白いものがまじってはいたが、その身体は頑丈な筋肉でかためられ、精悍な顔立ちからは爽やかな若さすら感じられた。
皆の中心まできたところで立ち止まると、長は口を開いた。
「取り乱しても仕方がない。この日がくるのは分かっていた。……むしろ遅すぎたくらいだ」
「長殿……!」
「我々が世界で最後の生き残り。ふさわしい終わり方をしようではないか」
それは、他に残されていた最後の街が沈んだ直後、長が街の皆に言った言葉だった。
そこにいた人々は、それを思い出した。
いつのまにか街のすべての人間が集まり、恐慌状態に陥りかけていた空気が、徐々に消え去っていった。
「愛する者の手を取り、最期の抱擁を――」
長の言葉に、ある男は長年連れ添った妻の手を取った。未亡人は子供の手を握り、みなしご達は互いの手を強く握りしめた。
次第に、砂の落ちる音が聞こえてきた。もうすぐで、夜明けだ。
若い母は、子供達が可哀想で泣いた。老人は、静かな瞳で朝日の昇る方向を見つめていた。子供のひとりはわけが分からずに親にしがみつき、幼子はきょとんと父親に抱き上げられた。
街が小刻みに震え始めた、だがそのとき、場違いに明るい声が響き渡った。
「ばっかだなあ、希望も何もありゃしないじゃないか!」
乾いた服を着て、同じく服を着せた水琴を連れた少年が立っていた。
巨大流砂のことを知らぬはずはないのに、なぜかその顔には余裕の笑み。
「ぼくならこの街を救えるよ」
くすくす笑う少年を、大半の人間は相手にせず、すぐに朝日の方向に視線を戻した。残りの者達は、その少年の明るい口調に、不思議そうに彼を見つめる。
「せっかくだから、見せてあげるよ。――ぼくの、チカラ」
言ったかと思うと、少年はふらりと宙に浮いた。
息を呑む者もいれば、悲鳴を上げる者もいた。長もパン屋の夫婦も、驚いて少年を見上げる。水琴も、目を見開いて美しい少年を見つめた。
少年の片眉が、何かの合図のようにわずかに上がったと同時に、街がぐらりと浮き上がった。
人々は立っていられず、倒れこむ。
ほんの数メートルほど浮いたところで、街の上昇は停止した。
少年は地面に降り立ち、驚く人々の視線を一身に浴びて、得意そうに微笑んだ。
「巨大流砂から逃れるには? 街ごと浮かせてしまえばいいんだよ、簡単なことだよね」
「お……お前」
振動に耐えられずに倒れていた牛乳配達の男が、興奮して起き上がる。
「お前……今、何をやったんだ? 砂の音が、わずかだがさっきよりも遠くなっている!」
「だから、チカラだってば」
少年の言葉に、長が歩み寄った。
「聞いたことがある……何十年前か何百年前か分からないが、通常の人間は普通持たないような不思議なチカラを持つ、能力者と呼ばれる者達がいたと――まだ、残っていたのか」
少年は、くすっと笑う。仕草は、まるで少女のように可愛らしかった。
「ねえ、おじさん。ぼくと水琴のために邸を建ててよ。使用人も何人かつけてね。そうしたら、ずっとこの街を浮かせ続けて、巨大流砂から守ってあげる」
とたん、人々の間から歓声が沸き起こる。喜びのその声に押されたように、長はうなずいた。
「名前は、なんという」
自分と街の人々とを見比べる水琴の肩を抱いて、少年は名乗った。
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