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パン屋の夫婦に訪れたこと
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かちゃり、という小さな音で水琴は目を覚ました。
窓から射し込む日の光に目をしばたたかせているところへ、たった今鍵を開けて盆を片手に入ってきた秦銀は頭を下げた。
「おはようございます」
水琴は頬を膨らませて返事をしない。
白いテーブルの上に朝食を乗せた盆を置く使用人を、恨めしそうに見上げる。
「あたし、いつまでここにこうしていなければならないの」
秦銀は短く、
「存じません」
と答えただけで、出ていこうとした。
「待って!」
水琴は布団をはねのけ、扉を閉めようとする秦銀の腕をつかむ。
「もう五日目よ、こんなところに閉じ込められて、唯一接触してるあなたはこうしてご飯を運んでくるだけで!」
「私は紅凪様のご命令通りに行動しているだけです」
「じゃあ紅凪と会わせて! 紅凪はどこにいるのよ!」
「失礼致します」
「秦銀っ……」
水琴の手を丁寧に振り払い、秦銀は退室した。
扉が閉まり、鍵がかけられる。
水琴は唇を噛みしめたが、あきらめたように白いテーブルに向かった。
椅子に座り、淋しい朝食をとり始める。
五日前、白い塔から連れ戻された水琴は、紅凪にいろいろな話を聞かされた。
白い塔には神など住んでおらず、街の人間が作り上げた伝説だということ。
白い塔に入った者で出てきた人間がひとりもいないことから、白い塔は「不思議なもの」とされ、そこから尾ひれ背びれがつき、そんな伝説がうまれたのだということ。
実際に白い塔に住んでいるのは、水琴が出会った落ちぶれた──というのは紅凪の表現だが──科学者だけだということ。
彼は翠陸という名前だということ。
なによりも驚いたのは、白い塔の内部は世界よりも時の流れが遅い、ということだった。
事実、水琴が街に戻ってみると二ヶ月が過ぎていたのだ。
白い塔では、数時間しか経っていないはずなのに。
白い塔に入った人間は、中に流れる『時』に惑わされて迷ってしまい、それで二度と外に出ることができないのだ。
翠陸についてもっと聞きたかったのだが、紅凪はそれ以上は教えてくれず、水琴を部屋に閉じ込めたのだ。
水琴は朝食を残した。
部屋にばかりいるせいでろくなことができず、運動不足になっていて食欲もない。
できることといえば、読書くらいなのだ。
ぼうっとしているうちに、ふとパン屋の夫婦のことを思い出した。
なぜなのかははっきり分からないが、紅凪は白い塔のことを皆に口止めしていた。
なのに庵白は水琴に教えてくれた。
──無事なのだろうか?
「……!」
がたんと椅子が音を立てる。
立ち上がった水琴の背中に、冷たい汗が流れた。
どうして気づかなかったのだろう。
紅凪に逆らった庵白がただですむはずはないということに。
水琴はあのとき、あまりにも夢中になりすぎていたのだ。
チカラを持つことができる可能性を教えられて、紅凪の残虐行為をとめられる可能性に夢中になって。
庵白は、どうなったのだろう?
扉に駆け寄り、無駄とは分かっても拳をつくって叩いた。
「開けて! 開けてちょうだい! 聞きたいことがあるの、開けて!」
今更遅いのだろう。こんなことを聞いても、遅すぎるのだろう。
そんな恐ろしい予感はあったが、確かめなければいけないと思った。
叩きすぎて手の側面がしびれを感じてきたとき、鍵の開く音がした。
はっとしたところへ、紅凪が入ってくる。
「元気だったかい、ぼくの水琴」
かちゃりと後ろ手で扉を閉める紅凪に、水琴は尋ねた。
「庵白がどうしてるか、知りたいの。会いたいの。あたしを外に出して」
「冷たいなあ。五日ぶりに会ったっていうのに、その可愛らしい口から出るのは他の男の名前かい?」
「庵白が元気か知りたいの、だってもう二ヶ月も会ってない──」
水琴は言葉を途切らせた。
紅凪の金色の瞳が、冷酷な笑みを浮かべていた。
その意味を悟った水琴の顔から血の気が引いた。
「だって……あたしたちを助けてくれたのよ。雪の日に行き倒れていたあたしたちを助けてくれたのよ……、──その庵白をあなた……」
「頭にきたんだから仕方ないだろう? ……おっと」
倒れかけた水琴を、紅凪の手が支える。
「大丈夫かい?」
紅凪の腕にしがみついてなんとか意識を保ちながら、水琴は気持ちを落ち着かせようとした。
庵白に白い塔のことをしゃべらせたのは水琴だ。
庵白は水琴のために、紅凪に殺されたのだ。
こみあげる嗚咽を必死にこらえた。
泣くところなど、この少年に見せたくなかった。
出て行って、と言いかけて踏みとどまった。
悔しいけれど、紅凪に頼まなければ。
この部屋から出して、庵白の店に行かせてもらえるように。
行って何をしようとは思わない、けれど行かなくては──あの店に。
なによりも、ひとり残されてしまった金音に会いに。
「あなたに頼むのは悔しいけど」
紅凪の腕から顔を上げて、水琴は口を開いた。
「今現在あたしを閉じ込めているのはあなただし、あなたはチカラも持ってるわ。あなたには逆らえない、だからお願いする。あたしをここから出して。街に行かせて」
「それはもちろんきみひとりで、ということかい?」
「ええ」
「それは駄目だよ。また翠陸のところへ行くかもしれない」
「──行かないって約束する」
「街を歩いているうちに、きみの気が変わるかもしれない」
水琴は紅凪の顔を見上げた。
「どうしてそんなにあの人を警戒するの? どうしてあたしをあの人のところへ行かせたくないの?」
「さあ、どうしてだろうね」
むっとして尚も問いかけようとした水琴の後頭部を紅凪は優しく押さえ、無理矢理に視線を合わせた。
「どうしたのさ、ムキになって? そんなにあの男が気になるの? あの落ちぶれた科学者に惚れでもしたかい?」
反論する余裕も与えずに口づける。
無機質な唇。冷たくて、まるで体温を感じない。
機械の匂いすらしてきそうで、水琴は必死で逃れた。
テーブルの上に乗っていた食器を投げつける。
紅凪は避けなかったが、彼の発動したチカラのつくった見えない壁のおかげで食器はむなしく砕け散り、残っていた朝食と共に絨毯の上にばらまかれた。
ふいの口づけが悔しくて、水琴は薄衣の袖で血が出るほど唇を拭う。
一年あまり一緒に暮らしていて、こんなことをされるのは初めてだった。
紅凪は肩をすくめる。
「心外だなあ。ぼくは『きみのためにここにいる』のに」
「近づかないで!」
水琴は棚に並べてあった中からできるだけ分厚い本を取り、歩み寄ってくる紅凪めがけて投げる。
紅凪の目前で、それも細切れにちぎれて部屋の中を舞った。
さらにベッドの脇に置いてあった花瓶を持ち上げた水琴の手を、紅凪はつかんだ。
「言っただろう? ぼくを傷つけることはできないって」
ふと覚えた違和感に、水琴は着ていた薄衣を見下ろした。
そのところどころがひきつれたように突っ張っている。
紅凪のしわざだと顔を挙げた瞬間、突っ張った個所が同時に破け散った。
恥ずかしさをこらえて、水琴はあらわになった身体を隠すこともせずに紅凪を睨みつけた。
紅凪は、くすくす笑い声を立てた。金色の瞳が愛おしげに細められる。
「珍しい、本気で怒ってるみたいだね。でも可哀想に。きみにどんなことができるんだい? 可愛い水琴」
殴ろうとした手を押さえこまれる。強い力で抱きしめられた。
「ぼくがどれだけきみを愛してるか分かる? ぼくはね、きみさえいれば他はどうだっていいんだ。ぼくはきみだけのために存在しているんだから──」
どうにかしてこの少年を傷つける方法はないものかと、水琴は考えを巡らせた。
力ではとてもかなわない。
たとえここに剣があっても無駄なことは、この前の草咲の件で分かっている。ではどうやって?
──ことば。
ふと、その考えが浮かんだ。
言葉でなら──うんときつい言葉でなら、紅凪を傷つけることができるかもしれない。
息を吸い込み、彼女は小さく言った。
「人殺し」
と。
水琴の首筋に顔を埋めていた紅凪は、彼女の突然の言葉に笑みを浮かべた。
水琴の考えていることなどお見通しだった。
「人殺しの怪物! 殺人鬼! 卑怯者!」
それ以上の言葉は、思い浮かばなかった。
みはからったように、紅凪はその顔を覗き込む。
「ねえ水琴。ぼくが嫌いかい?」
──当たり前だわ!
その言葉が、なぜか喉にはりついた。驚いて喉に手を当てる。
どうして? ……声が出ない。
「言ってごらん、ぼくが嫌いだって。さあ?」
いくらだって言ってやる。
──大嫌い!
「どうしたの、早くお言いよ」
おかしそうに紅凪の声が震える。
戸惑う水琴の様子を心底楽しそうに見物している。
やがてどうにかしてこみあげる笑いを押さえこんで、ベッドから薄い布団を取り、水琴に押しつけた。
「行っておいで、庵白の店に。太陽が沈むまでには戻っておいで」
──いいの?
尋ねようとして、声が出ないことに顔を歪める。
憎しみをこめて水琴は、金色の瞳を睨みつけた。
「言っておくけど、きみの声を戻せるのはぼくだけだからね。ぼくを怒らせるようなことはしないほうがいい。ぼくだってきみを傷つけたくないんだ……分かったね?」
ぷいと横を向く水琴に微笑みかけ、紅凪は部屋を出た。
鍵をかける音はしない。本当に外出を許したのだ。
出なくなった声のことは、ひとまずおいておこう。原因は分かっているのだ、なんとかなる。
それよりも。
クローゼットの中から黒い服を取ろうとし、ちょっと考えてから赤い服を選んだ。
なんの模様もない、ただ真っ赤なワンピースだ。
靴も赤いものを履いて、上着も同じ色にした。全身赤ずくめだ。
玄関で秦銀に会った。
紅凪に聞いていたのだろう、軽く会釈をして水琴を見送った。
外は曇り空になっていた。
また雪が降るのだろうか。昨夜に積もった雪もまだ溶けきっていないというのに。
街の人間は、皆水琴を振り向いた。
ただでさえ水琴が歩くだけでも注目を浴びるというのに、目立つ色を着ていたのでなおさら視線が集まっていた。
パン屋は開いていた。
扉をくぐって中に入ると「いらっしゃい」、と言いかけた使用人が水琴を見て硬直し、慌てて厨房へ駆けていった。
まもなくして金音が顔を見せた。
まだ三十歳前なのだろうにしわがくっきりとできて、まるで中年のようだった。
「……お久し振りでございます」
死人のような声に、水琴は耳をふさぎたくなった。
金音はのろのろと紅茶の用意をし、テーブルの上に置く。
いつまでも立ったままでいる水琴を椅子へとうながした。
今までに水琴が自ら店の中にまで入ったことはない。
なのになぜ彼女が訪れたのか、金音は尋ねようとしなかった。
使用人のひとりに葡萄パンの仕上げを指示してから、金音は向かいに腰かけた。
重苦しい沈黙を予想したが、すぐに金音は口を開いた。
「庵白のことを聞きに来たのですね」
顔をあげることもできずに、水琴は身体をかたくした。
「庵白は紅凪様に殺されました。わたしの目の前で肺をつぶされ、死にました。けれど水琴様」
口元を覆う水琴に、金音は続ける。
「誤解なさらないで。わたしも庵白も紅凪様を憎みはしてもあなたを憎みはしません」
かすかな微笑みを、金音は浮かべている。
ようやく顔を上げることができた水琴はそれを見て、目の奥が熱くなった。
「白い塔から戻ることができたら、きっと水琴様はここに尋ねてくると思っていました。あのときはお気づきにならなかったことを悔やんで、わたしを案じてきっときてくださると。そのとおりでしたわ」
──ああ──!!
「こんなわたしをあなたに見せるのはつらいです。すっかりおばさんのようになってしまって……まだ二十七なんて、自分でも思えないわ」
水琴は口を開いたが、紅凪に奪い取られてしまった今、声は少しも出ない。
不思議そうに、金音は首を傾げた。
遅れ馳せながら、今までの会話に水琴が口を挟まないでいたことに気づいたのである。
「水琴様……? まさか、」
水琴はうなずく。
そして、「そのことはいいの」というふうにかぶりを振った。
金音は目を伏せる。
「紅凪様──どこまで残酷な方なのでしょう」
──紅凪のことはいい。金音のことを聞きたい。あなたの気持ちが聞きたい。
そんな少女の無音の言葉を察し、金音は再び唇を開いた。
「見てのとおり、今はわたしが庵白のあとを継いでパンを焼いております。……ええ、今でこそ。二ヶ月前はとても立ち直れないと思っていました。
昼も夜も泣いて暮らしていました。水の代わりに涙を、食物のかわりに叫びを呑み込んで──。
でも、ようやく思いきることができました。わたしはもう大丈夫です」
金音はいつか、涙が途切れて街の端まで行ったのだ。
街の端……この街は地上から浮いているために、死んだ者を埋めることはできない。
街の端まで行って、そこから下に渦巻いている巨大流砂へと落とすのだ。
庵白の死はすぐに街の人々の知るところとなり、死んだ翌日にはすでに長の手によって巨大流砂へ沈められていた──街にただひとつの温室で栽培された、いっぱいの切り花と共に。
腫れて痛む目を押さえ、金音はそこから巨大流砂を見下ろした。
身を投げようとは思わなかった。
そんな時期は過ぎてしまっていた。
……泣いていても死んだ者は戻ってこない。
いいえ、それよりも。
「庵白……庵白、わたしこれから笑って暮らすわ。すぐにはとても無理だろうけど、少しずつ笑う数を増やしていくの。そのうちいつも微笑んでいられるようになるわ。だって、なんだか笑っていればあなたが戻ってくる気がするの」
街の端にひざまずいて、これ以上はかがみこめないというほどに身体を地面に引き寄せて、彼女は愛する夫へ言葉をかけた。
笑っていれば、愛する者がそばにいてくれる気がする。
それは、愛する者に遺されてしまっても、これから生きていく決意をした彼女の、必死のすべだった。
水琴は口元を押さえた。
しかし、嗚咽をどうして堪えることができただろう。
声もなく、少女はしゃくり上げた。
あたしはなんてことをしてしまったんだろう。
誰よりも守るべき恋人たちを、愛し合っている者たちを、犠牲にしてしまった。
たとえ直接手をかけたのが水琴ではないにしても。
──許されることでは、ない。
はじかれたように椅子を蹴った。
かじかんだように動かぬ指を懸命に動かして、扉を開けて外に出た。
なぜ今、声が出ないのだろう。
こんなときに声を奪った紅凪を、水琴は恨んだ。
──いや、おそらくそれは計算されたこと。
紅凪は水琴が苦悩することを予測して、わざと声を奪ったうえで金音のところに行くのを許したのだ。
謝ることも、慰めることもできない苦しみを、わざと水琴に与えた。
こうして滝のように、涙はこぼれるのに、口から出るはずの叫び声は出ないのだ。
逃げるように去っていく水琴の後ろ姿を、金音は窓越しに見ていた。
使用人が、厨房から顔を出す。
「庵白さんが死んで初めての訪問だってのに、水琴様も考えなしだ。なんだってまた黒でなく赤い服なんか」
「……よしなさい」
静かにいさめられて、使用人は肩をすくめて顔を引っ込める。
金音には分かっていた。
「水琴様、あなたは庵白の死のために、血を流すほど哀しんでくださったのですね──」
全身の赤は、水琴の心そのもの。
言葉のかわりにそうして伝えた。
水琴の優しさに少しだけ視界をにじませて、金音はパンを焼くために仕事場へ戻っていった。
窓から射し込む日の光に目をしばたたかせているところへ、たった今鍵を開けて盆を片手に入ってきた秦銀は頭を下げた。
「おはようございます」
水琴は頬を膨らませて返事をしない。
白いテーブルの上に朝食を乗せた盆を置く使用人を、恨めしそうに見上げる。
「あたし、いつまでここにこうしていなければならないの」
秦銀は短く、
「存じません」
と答えただけで、出ていこうとした。
「待って!」
水琴は布団をはねのけ、扉を閉めようとする秦銀の腕をつかむ。
「もう五日目よ、こんなところに閉じ込められて、唯一接触してるあなたはこうしてご飯を運んでくるだけで!」
「私は紅凪様のご命令通りに行動しているだけです」
「じゃあ紅凪と会わせて! 紅凪はどこにいるのよ!」
「失礼致します」
「秦銀っ……」
水琴の手を丁寧に振り払い、秦銀は退室した。
扉が閉まり、鍵がかけられる。
水琴は唇を噛みしめたが、あきらめたように白いテーブルに向かった。
椅子に座り、淋しい朝食をとり始める。
五日前、白い塔から連れ戻された水琴は、紅凪にいろいろな話を聞かされた。
白い塔には神など住んでおらず、街の人間が作り上げた伝説だということ。
白い塔に入った者で出てきた人間がひとりもいないことから、白い塔は「不思議なもの」とされ、そこから尾ひれ背びれがつき、そんな伝説がうまれたのだということ。
実際に白い塔に住んでいるのは、水琴が出会った落ちぶれた──というのは紅凪の表現だが──科学者だけだということ。
彼は翠陸という名前だということ。
なによりも驚いたのは、白い塔の内部は世界よりも時の流れが遅い、ということだった。
事実、水琴が街に戻ってみると二ヶ月が過ぎていたのだ。
白い塔では、数時間しか経っていないはずなのに。
白い塔に入った人間は、中に流れる『時』に惑わされて迷ってしまい、それで二度と外に出ることができないのだ。
翠陸についてもっと聞きたかったのだが、紅凪はそれ以上は教えてくれず、水琴を部屋に閉じ込めたのだ。
水琴は朝食を残した。
部屋にばかりいるせいでろくなことができず、運動不足になっていて食欲もない。
できることといえば、読書くらいなのだ。
ぼうっとしているうちに、ふとパン屋の夫婦のことを思い出した。
なぜなのかははっきり分からないが、紅凪は白い塔のことを皆に口止めしていた。
なのに庵白は水琴に教えてくれた。
──無事なのだろうか?
「……!」
がたんと椅子が音を立てる。
立ち上がった水琴の背中に、冷たい汗が流れた。
どうして気づかなかったのだろう。
紅凪に逆らった庵白がただですむはずはないということに。
水琴はあのとき、あまりにも夢中になりすぎていたのだ。
チカラを持つことができる可能性を教えられて、紅凪の残虐行為をとめられる可能性に夢中になって。
庵白は、どうなったのだろう?
扉に駆け寄り、無駄とは分かっても拳をつくって叩いた。
「開けて! 開けてちょうだい! 聞きたいことがあるの、開けて!」
今更遅いのだろう。こんなことを聞いても、遅すぎるのだろう。
そんな恐ろしい予感はあったが、確かめなければいけないと思った。
叩きすぎて手の側面がしびれを感じてきたとき、鍵の開く音がした。
はっとしたところへ、紅凪が入ってくる。
「元気だったかい、ぼくの水琴」
かちゃりと後ろ手で扉を閉める紅凪に、水琴は尋ねた。
「庵白がどうしてるか、知りたいの。会いたいの。あたしを外に出して」
「冷たいなあ。五日ぶりに会ったっていうのに、その可愛らしい口から出るのは他の男の名前かい?」
「庵白が元気か知りたいの、だってもう二ヶ月も会ってない──」
水琴は言葉を途切らせた。
紅凪の金色の瞳が、冷酷な笑みを浮かべていた。
その意味を悟った水琴の顔から血の気が引いた。
「だって……あたしたちを助けてくれたのよ。雪の日に行き倒れていたあたしたちを助けてくれたのよ……、──その庵白をあなた……」
「頭にきたんだから仕方ないだろう? ……おっと」
倒れかけた水琴を、紅凪の手が支える。
「大丈夫かい?」
紅凪の腕にしがみついてなんとか意識を保ちながら、水琴は気持ちを落ち着かせようとした。
庵白に白い塔のことをしゃべらせたのは水琴だ。
庵白は水琴のために、紅凪に殺されたのだ。
こみあげる嗚咽を必死にこらえた。
泣くところなど、この少年に見せたくなかった。
出て行って、と言いかけて踏みとどまった。
悔しいけれど、紅凪に頼まなければ。
この部屋から出して、庵白の店に行かせてもらえるように。
行って何をしようとは思わない、けれど行かなくては──あの店に。
なによりも、ひとり残されてしまった金音に会いに。
「あなたに頼むのは悔しいけど」
紅凪の腕から顔を上げて、水琴は口を開いた。
「今現在あたしを閉じ込めているのはあなただし、あなたはチカラも持ってるわ。あなたには逆らえない、だからお願いする。あたしをここから出して。街に行かせて」
「それはもちろんきみひとりで、ということかい?」
「ええ」
「それは駄目だよ。また翠陸のところへ行くかもしれない」
「──行かないって約束する」
「街を歩いているうちに、きみの気が変わるかもしれない」
水琴は紅凪の顔を見上げた。
「どうしてそんなにあの人を警戒するの? どうしてあたしをあの人のところへ行かせたくないの?」
「さあ、どうしてだろうね」
むっとして尚も問いかけようとした水琴の後頭部を紅凪は優しく押さえ、無理矢理に視線を合わせた。
「どうしたのさ、ムキになって? そんなにあの男が気になるの? あの落ちぶれた科学者に惚れでもしたかい?」
反論する余裕も与えずに口づける。
無機質な唇。冷たくて、まるで体温を感じない。
機械の匂いすらしてきそうで、水琴は必死で逃れた。
テーブルの上に乗っていた食器を投げつける。
紅凪は避けなかったが、彼の発動したチカラのつくった見えない壁のおかげで食器はむなしく砕け散り、残っていた朝食と共に絨毯の上にばらまかれた。
ふいの口づけが悔しくて、水琴は薄衣の袖で血が出るほど唇を拭う。
一年あまり一緒に暮らしていて、こんなことをされるのは初めてだった。
紅凪は肩をすくめる。
「心外だなあ。ぼくは『きみのためにここにいる』のに」
「近づかないで!」
水琴は棚に並べてあった中からできるだけ分厚い本を取り、歩み寄ってくる紅凪めがけて投げる。
紅凪の目前で、それも細切れにちぎれて部屋の中を舞った。
さらにベッドの脇に置いてあった花瓶を持ち上げた水琴の手を、紅凪はつかんだ。
「言っただろう? ぼくを傷つけることはできないって」
ふと覚えた違和感に、水琴は着ていた薄衣を見下ろした。
そのところどころがひきつれたように突っ張っている。
紅凪のしわざだと顔を挙げた瞬間、突っ張った個所が同時に破け散った。
恥ずかしさをこらえて、水琴はあらわになった身体を隠すこともせずに紅凪を睨みつけた。
紅凪は、くすくす笑い声を立てた。金色の瞳が愛おしげに細められる。
「珍しい、本気で怒ってるみたいだね。でも可哀想に。きみにどんなことができるんだい? 可愛い水琴」
殴ろうとした手を押さえこまれる。強い力で抱きしめられた。
「ぼくがどれだけきみを愛してるか分かる? ぼくはね、きみさえいれば他はどうだっていいんだ。ぼくはきみだけのために存在しているんだから──」
どうにかしてこの少年を傷つける方法はないものかと、水琴は考えを巡らせた。
力ではとてもかなわない。
たとえここに剣があっても無駄なことは、この前の草咲の件で分かっている。ではどうやって?
──ことば。
ふと、その考えが浮かんだ。
言葉でなら──うんときつい言葉でなら、紅凪を傷つけることができるかもしれない。
息を吸い込み、彼女は小さく言った。
「人殺し」
と。
水琴の首筋に顔を埋めていた紅凪は、彼女の突然の言葉に笑みを浮かべた。
水琴の考えていることなどお見通しだった。
「人殺しの怪物! 殺人鬼! 卑怯者!」
それ以上の言葉は、思い浮かばなかった。
みはからったように、紅凪はその顔を覗き込む。
「ねえ水琴。ぼくが嫌いかい?」
──当たり前だわ!
その言葉が、なぜか喉にはりついた。驚いて喉に手を当てる。
どうして? ……声が出ない。
「言ってごらん、ぼくが嫌いだって。さあ?」
いくらだって言ってやる。
──大嫌い!
「どうしたの、早くお言いよ」
おかしそうに紅凪の声が震える。
戸惑う水琴の様子を心底楽しそうに見物している。
やがてどうにかしてこみあげる笑いを押さえこんで、ベッドから薄い布団を取り、水琴に押しつけた。
「行っておいで、庵白の店に。太陽が沈むまでには戻っておいで」
──いいの?
尋ねようとして、声が出ないことに顔を歪める。
憎しみをこめて水琴は、金色の瞳を睨みつけた。
「言っておくけど、きみの声を戻せるのはぼくだけだからね。ぼくを怒らせるようなことはしないほうがいい。ぼくだってきみを傷つけたくないんだ……分かったね?」
ぷいと横を向く水琴に微笑みかけ、紅凪は部屋を出た。
鍵をかける音はしない。本当に外出を許したのだ。
出なくなった声のことは、ひとまずおいておこう。原因は分かっているのだ、なんとかなる。
それよりも。
クローゼットの中から黒い服を取ろうとし、ちょっと考えてから赤い服を選んだ。
なんの模様もない、ただ真っ赤なワンピースだ。
靴も赤いものを履いて、上着も同じ色にした。全身赤ずくめだ。
玄関で秦銀に会った。
紅凪に聞いていたのだろう、軽く会釈をして水琴を見送った。
外は曇り空になっていた。
また雪が降るのだろうか。昨夜に積もった雪もまだ溶けきっていないというのに。
街の人間は、皆水琴を振り向いた。
ただでさえ水琴が歩くだけでも注目を浴びるというのに、目立つ色を着ていたのでなおさら視線が集まっていた。
パン屋は開いていた。
扉をくぐって中に入ると「いらっしゃい」、と言いかけた使用人が水琴を見て硬直し、慌てて厨房へ駆けていった。
まもなくして金音が顔を見せた。
まだ三十歳前なのだろうにしわがくっきりとできて、まるで中年のようだった。
「……お久し振りでございます」
死人のような声に、水琴は耳をふさぎたくなった。
金音はのろのろと紅茶の用意をし、テーブルの上に置く。
いつまでも立ったままでいる水琴を椅子へとうながした。
今までに水琴が自ら店の中にまで入ったことはない。
なのになぜ彼女が訪れたのか、金音は尋ねようとしなかった。
使用人のひとりに葡萄パンの仕上げを指示してから、金音は向かいに腰かけた。
重苦しい沈黙を予想したが、すぐに金音は口を開いた。
「庵白のことを聞きに来たのですね」
顔をあげることもできずに、水琴は身体をかたくした。
「庵白は紅凪様に殺されました。わたしの目の前で肺をつぶされ、死にました。けれど水琴様」
口元を覆う水琴に、金音は続ける。
「誤解なさらないで。わたしも庵白も紅凪様を憎みはしてもあなたを憎みはしません」
かすかな微笑みを、金音は浮かべている。
ようやく顔を上げることができた水琴はそれを見て、目の奥が熱くなった。
「白い塔から戻ることができたら、きっと水琴様はここに尋ねてくると思っていました。あのときはお気づきにならなかったことを悔やんで、わたしを案じてきっときてくださると。そのとおりでしたわ」
──ああ──!!
「こんなわたしをあなたに見せるのはつらいです。すっかりおばさんのようになってしまって……まだ二十七なんて、自分でも思えないわ」
水琴は口を開いたが、紅凪に奪い取られてしまった今、声は少しも出ない。
不思議そうに、金音は首を傾げた。
遅れ馳せながら、今までの会話に水琴が口を挟まないでいたことに気づいたのである。
「水琴様……? まさか、」
水琴はうなずく。
そして、「そのことはいいの」というふうにかぶりを振った。
金音は目を伏せる。
「紅凪様──どこまで残酷な方なのでしょう」
──紅凪のことはいい。金音のことを聞きたい。あなたの気持ちが聞きたい。
そんな少女の無音の言葉を察し、金音は再び唇を開いた。
「見てのとおり、今はわたしが庵白のあとを継いでパンを焼いております。……ええ、今でこそ。二ヶ月前はとても立ち直れないと思っていました。
昼も夜も泣いて暮らしていました。水の代わりに涙を、食物のかわりに叫びを呑み込んで──。
でも、ようやく思いきることができました。わたしはもう大丈夫です」
金音はいつか、涙が途切れて街の端まで行ったのだ。
街の端……この街は地上から浮いているために、死んだ者を埋めることはできない。
街の端まで行って、そこから下に渦巻いている巨大流砂へと落とすのだ。
庵白の死はすぐに街の人々の知るところとなり、死んだ翌日にはすでに長の手によって巨大流砂へ沈められていた──街にただひとつの温室で栽培された、いっぱいの切り花と共に。
腫れて痛む目を押さえ、金音はそこから巨大流砂を見下ろした。
身を投げようとは思わなかった。
そんな時期は過ぎてしまっていた。
……泣いていても死んだ者は戻ってこない。
いいえ、それよりも。
「庵白……庵白、わたしこれから笑って暮らすわ。すぐにはとても無理だろうけど、少しずつ笑う数を増やしていくの。そのうちいつも微笑んでいられるようになるわ。だって、なんだか笑っていればあなたが戻ってくる気がするの」
街の端にひざまずいて、これ以上はかがみこめないというほどに身体を地面に引き寄せて、彼女は愛する夫へ言葉をかけた。
笑っていれば、愛する者がそばにいてくれる気がする。
それは、愛する者に遺されてしまっても、これから生きていく決意をした彼女の、必死のすべだった。
水琴は口元を押さえた。
しかし、嗚咽をどうして堪えることができただろう。
声もなく、少女はしゃくり上げた。
あたしはなんてことをしてしまったんだろう。
誰よりも守るべき恋人たちを、愛し合っている者たちを、犠牲にしてしまった。
たとえ直接手をかけたのが水琴ではないにしても。
──許されることでは、ない。
はじかれたように椅子を蹴った。
かじかんだように動かぬ指を懸命に動かして、扉を開けて外に出た。
なぜ今、声が出ないのだろう。
こんなときに声を奪った紅凪を、水琴は恨んだ。
──いや、おそらくそれは計算されたこと。
紅凪は水琴が苦悩することを予測して、わざと声を奪ったうえで金音のところに行くのを許したのだ。
謝ることも、慰めることもできない苦しみを、わざと水琴に与えた。
こうして滝のように、涙はこぼれるのに、口から出るはずの叫び声は出ないのだ。
逃げるように去っていく水琴の後ろ姿を、金音は窓越しに見ていた。
使用人が、厨房から顔を出す。
「庵白さんが死んで初めての訪問だってのに、水琴様も考えなしだ。なんだってまた黒でなく赤い服なんか」
「……よしなさい」
静かにいさめられて、使用人は肩をすくめて顔を引っ込める。
金音には分かっていた。
「水琴様、あなたは庵白の死のために、血を流すほど哀しんでくださったのですね──」
全身の赤は、水琴の心そのもの。
言葉のかわりにそうして伝えた。
水琴の優しさに少しだけ視界をにじませて、金音はパンを焼くために仕事場へ戻っていった。
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