LOVE PHANTOM-罪深き天使の夢-

希彗まゆ

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すべての『時』

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白い塔には、願い事をかなえてくれる神が住んでいる。
人々がそんな幻想を、夢を抱いたのも当然だ。

なのにどうして神はいなかったのだろう。
この絶望的な世に人間がすがることができたのは、唯一神だけだったのだろうに。

水琴は街の中をうつむいて歩いていた。
なにに対してか申し訳なくて、とても顔を上げてはいられなかった。
母親に手を引かれていた幼子が泣いている水琴を見つけ、「おねえちゃん……」と声をかけかけて、母親に口をふさがれた。

「見るんじゃない、殺されるよ!」

────。

水琴にはかかわらないほうがいい。紅凪に殺されてしまうから。

いつも水琴の陰にいるのは紅凪。
金色の瞳の恐ろしい美少年。

なんなのだ。紅凪は水琴にとって、なんだというのだ!

「金音に会えたっていうのに、どうして泣いているの、水琴?」

突然の声に、顔を上げる。
街灯の一本に背中をもたせかけて、今、水琴のもっとも憎悪する少年が立っていた。

──尾(つ)けていたのか。
すべてを、覗(み)ていたのか……!

水琴は紅凪に走り寄り、その真っ白な頬めがけて右手を閃かせたが、案の定それはいとも簡単に押さえこまれた。

「きみは怒ってばかりいるね。そんなにぼくが憎いかい、嫌いかい?」

そんなこと、言うまでもない。
もしここに紅凪を殺せる何かがあったなら、たとえ自分自身の命が引き換えになろうとも、それを手にしていただろう。

ああそれとも、この瞳でこの少年を殺せたなら。
この自分の視線が何にも負けぬ刃となって、紅凪を切り裂くことができたなら──!

「声を返してほしい?」

紅凪は、抱きしめた少女の耳元でささやいた。

「二度とぼくに逆らわないなら──ぼくの言うとおりの、素直ないい子になるのなら、返してあげるよ」

水琴の黒い瞳を覗き込み、そこに激しい拒絶の色を見てとると、困ったようにため息をつく。

「なんて気が強いんだろう、きみは。……仕方ないなあ」

言ったとたん、街の一方で音が弾けた。
驚いて目をやる水琴の耳に、人々の悲鳴が届く。
どこかの家が爆発したようだ。

「はっきり言ってね、水琴。ぼくはきみさえいれば世界中に誰もいなくなったって、少しもかまわないのさ」

再び、違う方向から爆発音が聞こえる。
水琴は紅凪の腕の中で、大きくかぶりを振った。

「ぼくのいうことをきくかい?」

繰り返される、残酷な質問。
うなずくしか、なかった。

「いい子だね」

嬉しそうに、紅凪は水琴を抱き上げた。
宙を飛び、廃墟の入り口までくると、水琴を膝に抱いた形で石のひとつに座り込む。

「ここなら、あの科学者にもよく見えるだろうね」

なにが言いたいのか分からずに、水琴は眉をひそめた。

──ふと空気が張り詰め、見えない刃に切り裂かれた赤い服が、血のように空を舞った。

驚く水琴の肩をつかんで、紅凪は石の破片の上に押し倒す。
背中に尖ったものが何個も当たり、水琴は顔を歪めた。
紅凪は小柄な外見に反して意外に重く、水琴のやわらかな肌は石に刺されて血で朱に染まった。

「あの科学者は、ぼくに挑戦したんだ。愚かだと思わないかい? なんの力もないくせに、水琴、きみを抱こうとしたそのことで、このぼくに喧嘩を売ったんだ。あの男はね、きみに惚れてるのさ、可愛い水琴──」
「うそだわ……」

声が出たことに一瞬驚いたものの、水琴は言葉を続ける。

「あたし、あの人にこの前初めて会ったんだもの。そんなはずないわ」
「きみは自分が記憶をなくしていることを、忘れたの?記憶がないのに、どうしてそれまでに会ったことがないなんて断言できるの?」

くすくす笑う、紅凪。水琴はその金色の瞳を見上げた。

「あたし、あの人に会っているの?」
「さあね」
「教えて──ずっと聞きたかったの。あなたは知っているんでしょう? 何もかも」
「こんな時にする話じゃないよ、水琴。きみはおしゃべりが過ぎる。雰囲気が台無しじゃないか」
「やめて!」

紅凪の冷たい口づけを頬に受けながら、水琴は激しく身をよじる。

「教えて! あたしは誰なの? あたしはどこからこの街にきたの? あたしはあなたの何なの? あたしはどうして記憶をなくしてしまったの? 答えて!」
「お黙りよ。声を戻してあげたのは、きみの泣き声が聞きたかったからなんだよ?」

冷たい唇が、水琴の唇を塞いだ。まるで機械の一部のような、体温のない紅凪の唇。

「ほら、翠陸が、ぼくたちを見ているよ……」

口づけの合間に、紡がれる言葉。
ハッとして、水琴はそこから見える白い塔を振り向いた。

あそこから──あの青年が、自分たちを見ている?

水琴の脳裏に、青年の静かなまなざしが蘇る。
紅凪を押しのけようとした手を、水琴はあきらめたように石の上におろした。

涙で視界が曇る。

もう、どうあっても紅凪に立ち向かうことはできないのだ。
街の人々の命を握られて、言いなりになるほか、水琴に何ができよう。

──否。

水琴は、そっと手の中に鋭く尖った石の破片を握りしめた。
この少年を傷つけることはできなくても、自分を傷つけることはできる。
自分がいなくなることはできる。

「あなたなんか、嫌いよ」

水琴の言葉に、紅凪は彼女の胸元から顔を上げた。
残酷で美しい少年。
──この言葉で、愛しているというあたしの言葉で、少しでもあなたが傷つくのなら。

「あなたが憎いわ。憎くて悔しくて、涙が出るくらい」
「──言うんじゃない、水琴。また声を取り上げるよ」
「いいえ、あたしは死ぬの。そしてあなたに声を取られる前にこれだけは言うわ! あなたが大嫌い! あなたなんか、この世からいなくなってしまえばいいのよ!」

紅凪の目が大きく見開かれた。
まるで、何かに怯えているような──彼のこんな表情を見るのは、初めてだ。

「あなたなんか……」

不思議なことに声はそのままだ。
紅凪は震える指で、自分の肩を抱き、身をかがめた。

水琴は初めて自分が紅凪を傷つけることができたのだと、夢中になって身体を起こす。
紅凪はふらりと立ち上がり、苦しげに大きく息をついた。

「よすんだ……水琴……」

本当に、水琴の言葉によって傷ついているかのように、紅凪は喘ぐ。

「きみがそんなことを言ったら……ぼくは……ぼくのチカラは──!」

──ブツッ。

“何か”が切れる音が、空気を走った。
それも、水琴と紅凪の間で。

不審に思う間もなく、水琴は自分の中に何かが急激に流れ込んで来るのを感じた。

「なに……なんなの……?」

紅凪を見る。
──確かにこれは、紅凪から流れてきている。
しかし、それは少年が意図して行っているわけではないようだ。
金の瞳の少年は今、膝を折って地面に崩れ落ちるところだった。

合図にしたように、流れ込む何かの量が増す。
耐えられなくなり、水琴は自分の身体を抱きしめた。

「いや……入ってこないで──いやあっ!!」

地面がぐらりと傾いだ。
次の瞬間、支えていた見えない柱が崩れていくように、街が徐々に落下していった。
とても立っていられない。水琴はたまらずに倒れ伏す。

どうなっているのだ?

揺れる世界に紅凪の姿をとらえるが、少年はうつぶせに倒れたまま、ぴくりとも動かない。

──気を失っているのだろうか。
だから、チカラまでなくなってしまって街が落ちているのだろうか。

「紅凪……起きて。街が落ちるわ──紅凪!」
「無駄だ。紅凪はもう動かない」

顔を上げると、いつのまに来ていたのか、白い塔の青年がそこにいた。
大揺れの地面に、平気な顔で立っている。
翠陸は黙って上着を脱いで水琴に着せてやると、そのまま抱き上げ、白い塔に向かって歩き出した。

次第に、巨大流砂の音が近づいてくる。
このまま街は沈んでしまうのだろうか。

紅凪はもう動かないという。
なのに……なぜ、この青年はこんなに落ち着いているのだろう。すべてを悟ったような顔をして。

翠陸は水琴を抱いたまま、片腕で器用に白い塔の扉を開けた。
流砂の音が、突然途切れる。
しかし、揺れは同じように感じられた。

「どこへ行くの?」

聞くと、階段を昇りながら翠陸は答えた。

「最上階へ。この世界の過去を知っている、すべての『時』のところへ」
「すべての『時』……? でも、街がこんなときに──!」

白い塔は外界よりも時間の流れが遅い。
水琴が今度外に出たとき、どれだけの時間が経っているか心配だった。

「先ほど、この塔の内部の時の流れを数十倍に速めた。次に外界に出たときにも、時間はそう変わっていないだろう」

翠陸の声に、水琴は口を閉ざした。
身体が熱くなっている。
先ほどから流れ込んできていた何かが、今度は身体の中で渦巻き始めているのだ。

彼女の様子に気づいてか、翠陸はちらりと一瞥したが何も言わなかった。
水琴がこの青年と初めて会った部屋を通り過ぎ、反対側の奥にあった階段へ移動する。
更に上へと昇る。

途中、揺れがひときわ大きくなり、青年は足を立ち止めた。
街の落下が終わったようだ。

翠陸はそれからまた、ゆっくりと足を運ぶ。
やがて、ひとつの部屋に辿り着いた。
そこが最上階だった。

部屋の奥は真っ暗で、どのくらいの広さなのか分からない。
その闇の中を一本の線のように、光が左右に走っていた。

「その光に触れれば、お前の過去が分かる。──いや、お前だけではなく、お前に関係したすべてのことが」
「あたし」

水琴は火照る身体を抱き、荒い息をつきながらかぶりを振った。

「あたし、恐いわ」
「お前は知りたかったのではないのか? 自分のことを、記憶を知りたかったのではないのか?」
「ここにきたら、急に恐くなったの。……知らないほうが、いいわ。知ってしまったらあたし、とても哀しい思いをするような気がするの」

翠陸は水琴の肩を抱き、共に光へ向けて歩き出す。
水琴は身体を強張らせたが、翠陸は強い力でそれを許さなかった。

「大丈夫だ、俺も一緒にいる。お前は知らなければならない」

水琴は観念したように力を抜き、青年に伴い、自らの意志で光に触れた。
瞬間、視界が真っ白になった。

「4人の科学者がいた。250年ほど前のことだ」

翠陸の、静かな声が響く。
顔を上げてみると、すぐ隣にいるはずの彼の姿がない。

「俺はそばにいる。『時』に入ってしまうと、互いに相手の姿は見えなくなるんだ。……安心して見るがいい」

水琴の不安を察したように、翠陸は言葉を紡ぐ。
水琴はうなずき、前を向いた。

小さな点が見える。
次第にそれは近づいて視界いっぱいに広がる画面のようになり、何人かの人間を映し出した。

「右端にいる女性が彩地(あやち)。その左にいるのが彼女の妹の紫嵐(しらん)。真ん中の男性が毬黄(いがき)。その左の男性が、彼の研究所でのパートナーである緑炎(ろくえ)。──彼らは、能力者の研究をしていた」

翠陸の説明と共に、過去が流れ始めた。
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