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空水と水琴
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ある時、空水(うつみ)という女性の能力者が、幼子を連れて『母なる都』を訪れた。
歳は20代前半ほどに見えたが、実際はもっと上かもしれない。
黒茶色の豊かな髪の毛を持ち、青い海の瞳をしたその女性は、たぐいまれな美人だった。
どうしてかひどく憔悴しているようだったが、それでもそのあまりの美しさに科学者たちは見惚れた。
「紅茶を飲みますか」
見惚れていた彩地はようやく我に返ってから、幼子をしっかりと抱きしめている空水に椅子をすすめ、慌ててそう尋ねた。
「ここへ来る能力者は、疎外されることに疲れている者がほとんどだけど、あんなに憔悴しているなんて──何があったのかしら」
施設に案内する前に、そうして客間で休ませておいて、廊下に出た彩地は毬黄に話しかけた。
「あんな状態でチカラをもらうなんてできるのか? 大丈夫なのか?」
毬黄も眉をひそめたが、紫嵐が相変わらずの無表情で口を開いた。
「あの女性からチカラを提供してもらうか否かは、緑炎の判断に任せることにしました。後日、面会の予定をたてています。それまでは姉さん、面倒を任せます」
そして数時間後、空水は幼子を抱いたまま、彩地に連れられて施設に向かった。
幼子のほうは、服も顔も汚れてはいたけれど、初めて見る施設の様子に目を大きくして感動している様子だった。
あてがわれた部屋につくと、空水はようやく幼子を降ろし、木製の青い椅子に腰かけた。
「おかあさん、ここ、きれいね」
話しかけられて、空水は娘を見る。
ふと立ち上がり、洗面所からタオルを見つけて持ってくると、娘の汚れた顔を拭いてやった。
「つらい思いをさせてごめんね、水琴……」
空水は言ったが、水琴はかぶりを振った。
「あたしつらくないわ。あの藍色の髪の毛のお姉ちゃん、優しかったもの。でもね、どうしておとうさんは一緒にこなかったの?」
それを聞いたとたん、空水はみるみる泣き顔になり、床に大粒の涙をこぼした。
幼い水琴は驚き、どうしたの、どこか痛いの、とおろおろしたが、空水は、
「水琴、お願い。おとうさんのことは、言わないで……琴藍(きいん)のことは、決して口に出さないで──」
水琴はわけが分からなかったが、母がこんなにも哀しむのなら、もう父親のことは決して言うまいと、口を閉ざした。
◇
翌日、空水の部屋を緑炎が訪れた。
昨日空水がこの研究所へ到着したときには、彼は自分の研究所にこもっていたので、これが初対面である。
「責任者の緑炎です。入ってもよろしいだろうか」
扉をノックして言うと、中から「どうぞ」とか細い声がした。
鍵はかかっていない。
扉を開けた緑炎は、中にいた空水を見てわずかに動きを止めた。
「少しお話してもいいかしら?」
共にいた彩地が言うと、空水はうなずいた。
もうひとり、助手として同行した妹の紫嵐が最後に部屋に入って扉を閉める。
緑炎と空水が向かい合う形で椅子に座り、彩地と紫嵐はそれぞれ左右に立った。
「なるほど、ずいぶんお疲れのようだが」
緑炎が口火を切る。
あまりに相手が疲労していると認めたせいか、言葉の調子が心持ち優しげだ。
「チカラをいただいても、大丈夫だろうか?」
「かまいません」
空水はうつむき加減に答える。
「そうしなければわたし、申し訳なくてここに住むことができませんもの」
「では、体力が回復してからにしよう。一ヶ月もあれば充分ですか?」
「わたしはいつでもかまいませんわ。いえ、むしろ早いほうが思い切りがついていいですわ」
きっぱりした口調で、空水は言う。
「でも少し休んだほうがいいわ」
彩地が口を挟む。
「あなた、相当疲れてるみたいだもの。ね、そうしましょう」
「そうだな」
緑炎もうなずく。
「では、二週間後ということでどうだろうか?」
「……はい。それでけっこうです」
空水がうなずいたとき、奥の扉が開いて水琴が顔を出した。
「おかあさん……、何のお話?」
「いいから寝てなさい、……眠れないの? おかあさん、お歌、歌おうか」
「うん」
「では、我々はこれで」
緑炎が立ち上がり、空水は軽くお辞儀をした。
奥の部屋へ入っていく彼女を見つめていた緑炎を、彩地が微笑して急かす。
「緑炎、行きましょう」
「……ああ」
奥の扉が閉まったのを合図に、緑炎は部屋を出た。
「驚いたわ。緑炎でも人に見惚れることってあるのね」
研究室に入ってから、彩地は感心したようにため息をついた。
なにやらレポートを作成していた毬黄が、聞きとめて顔を上げる。
「見惚れた? あいつが? なにかの間違いじゃねえか?」
「あらあそんなことないわ! 空水さんを見た瞬間、緑炎ったら息を呑んだもの。瞬きもしてなかったわ、ねえ紫嵐?」
黙々と書類の整理をしていた紫嵐は、「さあどうでしたか」、と知らぬふりをする。
「あんただって見てたでしょ? 緑炎、最後まで空水さんから目を離さなかったじゃないの」
「たとえそうだとしても、わたしには何の関係もありません。関係のないことには興味がありませんから、よく観察しなかった、だから分かりません」
それから紫嵐は倉庫のほうへ行き、書類を納めてしまうと、ひとたばだけを持って出て行ってしまった。
「なんなのかしら、あの子」
子供のように口を尖らす彩地に、ペンを走らせながらぽつりと毬黄。
「惚れてんだよ」
「あの子が? 誰に?」
目をぱちくりさせる彩地は、「鈍いな」という毬黄の視線を受けて声を裏返した。
「緑炎に!? まさか!」
「俺の判断に狂いはねえよ」
それはそうだろう──特に、紫嵐のことに関しては。
彩地はそっと毬黄をうかがい見た。
彼がずいぶん前から紫嵐を想っているのを、彩地は知っている。
そしてまた、そのことを毬黄も分かっているのだ。
なんと返していいものか迷う彩地に、毬黄はふと微笑を見せた。
「俺のことより、お前はどうなんだ? お前も緑炎が好きだったろ」
「……昔の話だわ」
「──そうか」
彩地が嘘をついているのは分かったが、知らぬふりをした。
そして仕上がったレポートを束にしてまとめ、ファイルケースに入れると立ち上がる。
「じゃあ、俺はこれを上(トップ)に提出して帰る。お前も遅くならないようにな」
「ありがとう」
毬黄が出ていき、パタンと扉が閉まると、彩地はぼんやりと部屋を見渡した。
雑然とした研究室。
さっき紫嵐が片づけていったからいくらかはきれいだけれど、それでもまだそこここに資料の小山が積み重なっている。
その大半が、緑炎が研究に使用したものだ。
──確かにわたしは緑炎が好きだった。
でも、それもとうにあきらめたはず。
だって緑炎には、とてもかなわなかった。
常に冷静で表情を崩すことがなく、「恋愛」の二文字からは縁遠い美青年。
そんな人を相手に恋愛を続けるには、すべての望みを捨てなくてはならなかったから。
いつかこの気持ちが報われる、という希望も。
いつかは振り向いてもらえる、という甘い期待も。
決してその可能性はないと分かってしまったから。
だから彩地は自分の気持ちを殺してしまった。
希望も期待もなく恋愛を続けるだけの勇気も覚悟も、自分にはなかったから。
けれど。
まだ、こうして胸が痛むのは……緑炎のことを考えるとこうして痛むのは……。
彩地はひとりかぶりを振り、きれいに手入れされたコーヒーメーカーに歩み寄った。
そして、いくつか操作して機械がコーヒーをつくってくれるのを待っている間、彩地は妹のことを考えた。
──紫嵐。
「……いつから?」
ぽつりとつぶやく。
あの子はいつから緑炎が好きだったのだろう。
まだ彩地が彼を好きだった頃から? それともあきらめたあと?
けれど、あの妹も人を好きになることがあるのだと、意外な気分だった。
「わたしにももらえますか、コーヒー」
突然の声に驚いて振り向くと、いつのまにか紫嵐が立っている。
「ノックくらいしなさいよ!」
「一応しましたが──それに、ここは公的な場所ですから、姉さんの許可がなくても出入りは自由ですし」
彩地は出来上がったコーヒーを、先に妹に渡した。
ちょっと多めにつくっていたため、少ない量ではあったが二人分できていた。
「もう帰ったんだと思ってたわ」
「緑炎に資料を渡しに、いったん出ていっただけです。まだ整理、終わってませんし」
緑炎の名が出て、彩地はなんとなく妹を見つめた。
紫嵐は察したらしい。
「──なにか邪推しているようですね、姉さん」
「邪推じゃないんでしょ? ……あなた、緑炎のことが好きなんでしょ?」
紫嵐は答えない。無言でコーヒーをすする。
カップについた口紅を指で拭きとり、流しへ向かう妹の背に、彩地は言った。
「やめたほうがいいわ。あの人にはそんな気持ちは通用しない。見返りなんて何もないのよ」
すると紫嵐は突然振り向いた。
水色のその瞳は、かつてないほどの情熱に輝いていた。
「わたしの望みは、緑炎が今のとおりであること。けれど変わってしまうとしても、それがあの方の判断ならばわたしはどこまでもついていく。それがわたしの望む見返りです。そして幸いなことにそれは満たされている。姉さんが心配するようなことは、何もありません」
ふっと目を細める。
「……わたしは知っていましたよ、姉さん。あなたが緑炎を好きだったことも、今も好きであることも、なのにそれを押し殺そうとしていることも。わたしはこのグループが結成される前から、──姉さんと共にこの研究所に来た時から、緑炎に忠実を誓おうと思ってきた。ただし、誤解されては困ります。このわたしの気持ちを、愛などという陳腐な言葉に置き換えないでもらいたい」
彩地はコーヒーを飲むことも忘れ、紫嵐を見つめていた。
──目の前の娘が自分の妹であると、信じられなかった。
紫嵐……氷のような美女。
冷静沈着で、明晰なその頭脳は理性を重んじ、ともすれば人の感情など馬鹿にしているようにも見えた。
それなのに。
「そこにいると、なにかと整理の邪魔なのですが」
その一言を最後に黙々と書類を整理しはじめる妹の、いつもと同じ冷たい横顔を見て、彩地はコーヒーカップを置いて研究室を出た。
小走りにエレベーターの前まで行き、下に向かうボタンを押してすぐ横の壁にもたれかかる。
「氷だなんて、嘘だわ」
唇から、知らず声が漏れる。
紫嵐が「氷」だなんて、嘘。
いや、氷は氷でも、内に凄まじいほどの熱を持つ炎を宿した氷塊──。
エレベーターが来たのにも、彩地はしばらく気づかずにいた。
歳は20代前半ほどに見えたが、実際はもっと上かもしれない。
黒茶色の豊かな髪の毛を持ち、青い海の瞳をしたその女性は、たぐいまれな美人だった。
どうしてかひどく憔悴しているようだったが、それでもそのあまりの美しさに科学者たちは見惚れた。
「紅茶を飲みますか」
見惚れていた彩地はようやく我に返ってから、幼子をしっかりと抱きしめている空水に椅子をすすめ、慌ててそう尋ねた。
「ここへ来る能力者は、疎外されることに疲れている者がほとんどだけど、あんなに憔悴しているなんて──何があったのかしら」
施設に案内する前に、そうして客間で休ませておいて、廊下に出た彩地は毬黄に話しかけた。
「あんな状態でチカラをもらうなんてできるのか? 大丈夫なのか?」
毬黄も眉をひそめたが、紫嵐が相変わらずの無表情で口を開いた。
「あの女性からチカラを提供してもらうか否かは、緑炎の判断に任せることにしました。後日、面会の予定をたてています。それまでは姉さん、面倒を任せます」
そして数時間後、空水は幼子を抱いたまま、彩地に連れられて施設に向かった。
幼子のほうは、服も顔も汚れてはいたけれど、初めて見る施設の様子に目を大きくして感動している様子だった。
あてがわれた部屋につくと、空水はようやく幼子を降ろし、木製の青い椅子に腰かけた。
「おかあさん、ここ、きれいね」
話しかけられて、空水は娘を見る。
ふと立ち上がり、洗面所からタオルを見つけて持ってくると、娘の汚れた顔を拭いてやった。
「つらい思いをさせてごめんね、水琴……」
空水は言ったが、水琴はかぶりを振った。
「あたしつらくないわ。あの藍色の髪の毛のお姉ちゃん、優しかったもの。でもね、どうしておとうさんは一緒にこなかったの?」
それを聞いたとたん、空水はみるみる泣き顔になり、床に大粒の涙をこぼした。
幼い水琴は驚き、どうしたの、どこか痛いの、とおろおろしたが、空水は、
「水琴、お願い。おとうさんのことは、言わないで……琴藍(きいん)のことは、決して口に出さないで──」
水琴はわけが分からなかったが、母がこんなにも哀しむのなら、もう父親のことは決して言うまいと、口を閉ざした。
◇
翌日、空水の部屋を緑炎が訪れた。
昨日空水がこの研究所へ到着したときには、彼は自分の研究所にこもっていたので、これが初対面である。
「責任者の緑炎です。入ってもよろしいだろうか」
扉をノックして言うと、中から「どうぞ」とか細い声がした。
鍵はかかっていない。
扉を開けた緑炎は、中にいた空水を見てわずかに動きを止めた。
「少しお話してもいいかしら?」
共にいた彩地が言うと、空水はうなずいた。
もうひとり、助手として同行した妹の紫嵐が最後に部屋に入って扉を閉める。
緑炎と空水が向かい合う形で椅子に座り、彩地と紫嵐はそれぞれ左右に立った。
「なるほど、ずいぶんお疲れのようだが」
緑炎が口火を切る。
あまりに相手が疲労していると認めたせいか、言葉の調子が心持ち優しげだ。
「チカラをいただいても、大丈夫だろうか?」
「かまいません」
空水はうつむき加減に答える。
「そうしなければわたし、申し訳なくてここに住むことができませんもの」
「では、体力が回復してからにしよう。一ヶ月もあれば充分ですか?」
「わたしはいつでもかまいませんわ。いえ、むしろ早いほうが思い切りがついていいですわ」
きっぱりした口調で、空水は言う。
「でも少し休んだほうがいいわ」
彩地が口を挟む。
「あなた、相当疲れてるみたいだもの。ね、そうしましょう」
「そうだな」
緑炎もうなずく。
「では、二週間後ということでどうだろうか?」
「……はい。それでけっこうです」
空水がうなずいたとき、奥の扉が開いて水琴が顔を出した。
「おかあさん……、何のお話?」
「いいから寝てなさい、……眠れないの? おかあさん、お歌、歌おうか」
「うん」
「では、我々はこれで」
緑炎が立ち上がり、空水は軽くお辞儀をした。
奥の部屋へ入っていく彼女を見つめていた緑炎を、彩地が微笑して急かす。
「緑炎、行きましょう」
「……ああ」
奥の扉が閉まったのを合図に、緑炎は部屋を出た。
「驚いたわ。緑炎でも人に見惚れることってあるのね」
研究室に入ってから、彩地は感心したようにため息をついた。
なにやらレポートを作成していた毬黄が、聞きとめて顔を上げる。
「見惚れた? あいつが? なにかの間違いじゃねえか?」
「あらあそんなことないわ! 空水さんを見た瞬間、緑炎ったら息を呑んだもの。瞬きもしてなかったわ、ねえ紫嵐?」
黙々と書類の整理をしていた紫嵐は、「さあどうでしたか」、と知らぬふりをする。
「あんただって見てたでしょ? 緑炎、最後まで空水さんから目を離さなかったじゃないの」
「たとえそうだとしても、わたしには何の関係もありません。関係のないことには興味がありませんから、よく観察しなかった、だから分かりません」
それから紫嵐は倉庫のほうへ行き、書類を納めてしまうと、ひとたばだけを持って出て行ってしまった。
「なんなのかしら、あの子」
子供のように口を尖らす彩地に、ペンを走らせながらぽつりと毬黄。
「惚れてんだよ」
「あの子が? 誰に?」
目をぱちくりさせる彩地は、「鈍いな」という毬黄の視線を受けて声を裏返した。
「緑炎に!? まさか!」
「俺の判断に狂いはねえよ」
それはそうだろう──特に、紫嵐のことに関しては。
彩地はそっと毬黄をうかがい見た。
彼がずいぶん前から紫嵐を想っているのを、彩地は知っている。
そしてまた、そのことを毬黄も分かっているのだ。
なんと返していいものか迷う彩地に、毬黄はふと微笑を見せた。
「俺のことより、お前はどうなんだ? お前も緑炎が好きだったろ」
「……昔の話だわ」
「──そうか」
彩地が嘘をついているのは分かったが、知らぬふりをした。
そして仕上がったレポートを束にしてまとめ、ファイルケースに入れると立ち上がる。
「じゃあ、俺はこれを上(トップ)に提出して帰る。お前も遅くならないようにな」
「ありがとう」
毬黄が出ていき、パタンと扉が閉まると、彩地はぼんやりと部屋を見渡した。
雑然とした研究室。
さっき紫嵐が片づけていったからいくらかはきれいだけれど、それでもまだそこここに資料の小山が積み重なっている。
その大半が、緑炎が研究に使用したものだ。
──確かにわたしは緑炎が好きだった。
でも、それもとうにあきらめたはず。
だって緑炎には、とてもかなわなかった。
常に冷静で表情を崩すことがなく、「恋愛」の二文字からは縁遠い美青年。
そんな人を相手に恋愛を続けるには、すべての望みを捨てなくてはならなかったから。
いつかこの気持ちが報われる、という希望も。
いつかは振り向いてもらえる、という甘い期待も。
決してその可能性はないと分かってしまったから。
だから彩地は自分の気持ちを殺してしまった。
希望も期待もなく恋愛を続けるだけの勇気も覚悟も、自分にはなかったから。
けれど。
まだ、こうして胸が痛むのは……緑炎のことを考えるとこうして痛むのは……。
彩地はひとりかぶりを振り、きれいに手入れされたコーヒーメーカーに歩み寄った。
そして、いくつか操作して機械がコーヒーをつくってくれるのを待っている間、彩地は妹のことを考えた。
──紫嵐。
「……いつから?」
ぽつりとつぶやく。
あの子はいつから緑炎が好きだったのだろう。
まだ彩地が彼を好きだった頃から? それともあきらめたあと?
けれど、あの妹も人を好きになることがあるのだと、意外な気分だった。
「わたしにももらえますか、コーヒー」
突然の声に驚いて振り向くと、いつのまにか紫嵐が立っている。
「ノックくらいしなさいよ!」
「一応しましたが──それに、ここは公的な場所ですから、姉さんの許可がなくても出入りは自由ですし」
彩地は出来上がったコーヒーを、先に妹に渡した。
ちょっと多めにつくっていたため、少ない量ではあったが二人分できていた。
「もう帰ったんだと思ってたわ」
「緑炎に資料を渡しに、いったん出ていっただけです。まだ整理、終わってませんし」
緑炎の名が出て、彩地はなんとなく妹を見つめた。
紫嵐は察したらしい。
「──なにか邪推しているようですね、姉さん」
「邪推じゃないんでしょ? ……あなた、緑炎のことが好きなんでしょ?」
紫嵐は答えない。無言でコーヒーをすする。
カップについた口紅を指で拭きとり、流しへ向かう妹の背に、彩地は言った。
「やめたほうがいいわ。あの人にはそんな気持ちは通用しない。見返りなんて何もないのよ」
すると紫嵐は突然振り向いた。
水色のその瞳は、かつてないほどの情熱に輝いていた。
「わたしの望みは、緑炎が今のとおりであること。けれど変わってしまうとしても、それがあの方の判断ならばわたしはどこまでもついていく。それがわたしの望む見返りです。そして幸いなことにそれは満たされている。姉さんが心配するようなことは、何もありません」
ふっと目を細める。
「……わたしは知っていましたよ、姉さん。あなたが緑炎を好きだったことも、今も好きであることも、なのにそれを押し殺そうとしていることも。わたしはこのグループが結成される前から、──姉さんと共にこの研究所に来た時から、緑炎に忠実を誓おうと思ってきた。ただし、誤解されては困ります。このわたしの気持ちを、愛などという陳腐な言葉に置き換えないでもらいたい」
彩地はコーヒーを飲むことも忘れ、紫嵐を見つめていた。
──目の前の娘が自分の妹であると、信じられなかった。
紫嵐……氷のような美女。
冷静沈着で、明晰なその頭脳は理性を重んじ、ともすれば人の感情など馬鹿にしているようにも見えた。
それなのに。
「そこにいると、なにかと整理の邪魔なのですが」
その一言を最後に黙々と書類を整理しはじめる妹の、いつもと同じ冷たい横顔を見て、彩地はコーヒーカップを置いて研究室を出た。
小走りにエレベーターの前まで行き、下に向かうボタンを押してすぐ横の壁にもたれかかる。
「氷だなんて、嘘だわ」
唇から、知らず声が漏れる。
紫嵐が「氷」だなんて、嘘。
いや、氷は氷でも、内に凄まじいほどの熱を持つ炎を宿した氷塊──。
エレベーターが来たのにも、彩地はしばらく気づかずにいた。
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