LOVE PHANTOM-罪深き天使の夢-

希彗まゆ

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LOVE PHANTOM

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『紅凪』は歩く。
使命をその身体に執念として刻み込んでしまったかのように、流砂の中心へ向けて。
揺れる地面を一歩一歩、踏みしめながら。

やがて渦を目の前にした彼は、赤ん坊の泣き声を耳にした。

人間たちは高い建物に避難していたはずだったが、逃げ遅れたのだろう、倒れた母親のそばで、12、3歳の少年が、生まれたばかりで盛んに泣く妹を抱えて途方に暮れていた。

少年はそして、『紅凪』に気がついた。

金色の瞳──紅凪。
彼がいかに残酷であるか、少年も知っていた。

目の前に流砂の渦と紅凪とを見て、守るように妹をしっかり抱きしめた少年は、自分の上に影が落ちたのに気づき、顔を上向けた。
崩れた近くの建物から、破片の塊が落下してくる。

目をつぶったのと同時に、寸前で破片が粉砕した。
恐る恐る見ると、紅凪が片手をこちらに突き出していた。
チカラを放ったのだ。

──助けてくれた?

「紅凪様……」

驚く少年の目の前で、紅凪はゆっくり背を向ける。
がく、と重く膝をついた。

立ち上がろうとしても足の部分のバネがいうことをきかず、何度目かの試みで耳障りな軋み音を立てながら、やっと紅凪は体勢を立て直した。
ぎしぎしと妙な音を立てながら流砂の渦中に歩いていく紅凪の姿を、赤ん坊を抱いた少年は見ていた。

「紅凪様?」

あれは本当に、あの残虐な紅凪なのだろうか。
それに、一体何をしようとしているのだろう。
流砂の中に、自分から入っていくなんて。

そうしているうちに、少年自身も砂に足を取られた。
妹を離しはしなかったが、もう駄目だと観念した。

「────!」

すがるように紅凪の姿を目で追った少年は、目を見開いた。

紅凪が渦中に呑み込まれ、消えるところだった。



──風火。
──風火……。

砂の渦中で、紅凪は遠い昔に聞いた声を思い出していた。

──風火はきれいね。お花もとてもよく似合うわ。

遠い遠い昔──まだ自分が、「風火」と呼ばれる人間だった頃。
小さな女の子と、自分は出会った。
黒茶色の髪の毛と、真っ黒な綺麗な瞳の女の子。

──それに、とっても優しい。いつもあたしを守ってくれる。

彼女の名前は、……「命(みこと)」をつかさどるもの。

──あたし、あなたが大好きよ。

それまで誰からも笑いかけられたことのなかった自分に、彼女はいつも笑顔をくれた。

紅凪は落下しながら、チカラを中和し始める。
しかし消滅はさせない。
中和したチカラを、そのまま放出した。

──それが、水琴の知らなかった緑炎の計画(いし)。

中和し、放出されたチカラにより、砂が別のものに変わり始めた。
別のもの──水と、土に。

これで、この街も救われるだろう。
こうして深く浸透したチカラにより、やがて世界のすべてが水と土に帰るだろう。緑に帰るだろう。

紅凪は水の中を、ゆっくりと落ちていった。

(いつも守っているよ。いつまでも。
幸せにおなり、ぼくの水琴──……)



首まで砂に浸かりながら、翠陸と共に水琴をできるだけ抱き上げていた藤雅は、突然押し寄せてきた波にゴボッと溺れそうになった。

「なんだこりゃ! 砂じゃないのか!?」
「見ろ、藤雅」

立ち泳ぎをしながら咳き込む彼に、翠陸が周りを見渡しながら促した。
藤雅も、抱かれている水琴も、息を呑んだ。

今まで砂だったところがみるみるうちに、水と、そして土に変化していく。
すぐ近くでは、白い塔が沈んでいくところだった。

「紅凪が成功したんだ。流砂を中和した」

あんな身体で、紅凪は使命を果たしたのだ。

「藤雅、街を見たい」

呆然としながらつぶやく水琴を支え、藤雅と翠陸は街のほうへ泳いだ。

建物のほとんどは、半分以上の高さを水に覆われていた。
それでも残された部分は豊かな土で、そこに人々は降りてきていた。

見知った顔が、いくつもあった。
金音も、秦銀もそこにいた。
そして、街の長も。
彼は、消滅した流砂の渦の跡を、不思議そうに見下ろしていた。

長い間、人々は喋らなかった。
大人も子供も、年老いた者でさえ、これだけの豊富な水と土を見たのは初めてだった。

砂は、今は遠くのほうへ退いていた。
……いや、退いているのではなく、水と土に変化していたのだ。

ふと、静寂を破って泣き声が上がった。
少年に抱えられた生まれたばかりの赤ん坊が、泣き始めたのだった。

「かわいそうに、母親を恋しがってるんだね」

女がひとり、赤ん坊を覗き込んだ。
すると少年が口を開いた。

「紅凪様がいたんだ。ぼくとこの子を助けてくれて、そして流砂に入っていった」

思いがけない名前を聞いて、人々はざわめいた。
今になって、あの残虐な紅凪の姿が見えないことに、彼らは気づいたのだ。
少年は強い思いをこめて、皆に聞こえるように声を張り上げた。

「紅凪様が入っていったら、砂が水に変わり始めたんだ。ぼくの目の前で!」
「青汐(あしお)。……それは本当?」

少年を知っていたらしく、尋ねた金音に、青汐と呼ばれた少年は大きくうなずいた。
緑色の目には、感動に涙すら浮かんでいる。

「紅凪様、いつもと違うみたいに見えた。とても優しそうに見えた。……きっと、あれが本当の紅凪様だったんだ。最後の最後に、そうしてぼくたちを助けてくれた!」

人々のざわめきが広がっていく。
紅凪の名前が何度もささやかれ、やがて予想しなかったその真実に、再び誰もが物思い、沈黙した。

青汐の言葉に、水琴は顔を覆った。
抱き寄せてくれた藤雅の胸を借りて、必死に嗚咽を堪えた。

「水琴様……」

その時になってやっと少女の存在に気づいた金音が、そっと歩み寄ってくる。
しゃくりあげる水琴の背中を、さすってやった。

後ろのほうで、青汐が泣きやまぬ赤ん坊を抱きかかえておどおどしている。
見兼ねた女性が、赤ん坊を受け取ってあやし始めた。

「この子、名前は?」

すると、青汐は困ったように答えた。

「まだ、ないんだ。今朝、生まれたばかりだもの」

そして何かを思いついて顔を上げ、しばらくきょろきょろしていたが、水琴を見つけて顔を輝かせた。

「水琴様!」

再び赤ん坊を抱えて走ってきた青汐を見て、水琴は慌てて涙を拭った。

「なあに?」
「妹に、名前をつけてください! この街を救ってくれた紅凪様はもういないから、代わりに水琴様に頼みたいんです!」

「え」、と水琴はためらった。
赤ん坊に名前など、つけたことがない。
それにそんな大切な役、こんな自分がしてもいいのだろうか。

「つけてあげな、お嬢ちゃん。これからの第一歩、だぜ」

藤雅に言われ、その後ろから翠陸にも瞳で促されて、水琴は戸惑いながらもうなずいた。
赤ん坊は希望の星。その星に名前をつけることは、確かに何よりも大きな第一歩だ。
自然、街の者の視線が集まった。

「……透生(とこぎ)」

やがて水琴は、ひとつの名を口にした。

「何色にも染まっていない、透明な生命。この子の名前……透生」

青汐はこぼれるような笑みを見せた。
そして泣きじゃくる妹を見下ろし、優しくゆすぶった。

「透生、ごらんよ。あんなに青い空だよ。ぼくは曇っていない空を、雪の晴れた空を、生まれて初めて見たよ。
いつかきみが大きくなったら、教えてあげる。きみが生まれた日、世界は青色になったんだって。空と同じ色の地面が、世界をどこまでも広がっていたって」

青汐の言葉に、人々は改めてそれぞれに世界を見渡した。
どこを見ても、青い空と水で視界は埋まってしまう。

「我々は、最後の人間ではなかった」

長が力強い声で人々を促した。

「さあ、街を立て直そう──これが世界の創まりだ!」

そして、たちまち街はかつてない歓声に包まれた。



歓声を上げ、抱き合う人々から離れて、水琴は流砂の渦の跡へ降りていった。

そこに砂は一粒も残っていない。
やわらかな土があるだけだ。

何か思いをこめて見つめていた水琴の後ろから、小さな女の子が駆けてきて、どこからか持ってきた花の苗を、手を泥だらけにしながら渦の跡へ植えた。

少女は、街でただひとつの花屋の娘だった。
水琴を振り向いて、恥ずかしそうに笑う。

「あのね、ここをお花でいっぱいにするの。紅凪様も、きっと淋しくなくなるよね」
「──紅凪のために?」
「恐かったけど、今は大好き。きれいなお空、見せてくれたもの!」

少女は走っていく。
見送る水琴の傍に、藤雅がやってきた。

「お嬢ちゃん、忘れ物だぜ」

ポケットから出したものは、あの石薬。
風火と初めて出会った日、彼からもらった大切なガラス玉。

「俺が吹き飛ばされたとき、一緒に吹き飛んじまったんだけどな、俺と一緒にまた再生したってわけさ。……ほら、持ち主にお帰り」

水琴は石薬を受け取った。
透明な中に、青い火が息づいている。
藤雅は世界を見渡した。

「俺はさ、お嬢ちゃん。ずっと、ずーっと以前にも、こんな世界を見たことがあるぜ。まるで、お嬢ちゃんのその石薬みたいな世界を、さ。また、お目にかかれるなんてなあ」

透明な中に、青い光を宿した球体。
脆くて毀れやすくて、でも強い生命を持って、何度でも蘇る。
水琴はガラス玉を握りしめる。

──風火。
あなた、ここにいるのね。この星に。

変わらずに、いつも見守ってくれるのね。
──いつまでも。

頬に当たる風が、あたたかい。
きっとこれから、春がきて、そして星は蘇る。
憎しみよりも何よりも強い想いのもと、祈りと希望の証として。

「さて、行こうか、お嬢ちゃん。みんなを手伝わなきゃなあ」

向こうのほうで子供に話しかけられている翠陸を見ながら、藤雅は促す。
強い生命力を持つ、水琴の大切な友達。
これからも翠陸と共に、水琴を支えていってくれるだろう。

大きく息を吸い込んで、水琴は歩き出す。

植えられた一輪の花が、かつての少年の微笑みのように小さく揺れた。



《世界の創まりには必ず天使がいる。
この創まりにも天使はいた。

天使は知らぬ間に罪を重ね、
それを愛する者は望んで犠牲になった。

滔々(とうとう)と時は流れ、やがて砂は水に戻り、
星は再び再生の時を迎えた。

罪深き天使は神為らぬ者により裁かれ、
その涙とこれよりの生を引き替えに、
深遠の淵に浸されし夢を赦された。


黄金の夜が甦り、銀色の夢を紡ぐだろう。

青い汐(うしお)は眠る人の耳に打ち寄せて「生きよ」と囁き、
翠溢るる雅びな陸に、透明な生命が数多く息衝くだろう。

そして水はようやく安らかな夢を得る。
水の還るべきところ、それは地(つち)に眠る紅い炎、そこに集うものなのである。

即ちそれは、星の生命の息衝きに他ならない。


「創世記・『映し絵』より抜粋[作者不詳]」》


《完》
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