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願いごとひとつだけ-LOVE PHANTOM番外編(半分本編)-
入相の鐘(藤雅・翠陸編)
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世界は青い。限りなく青い。あんまり青いので、
「青いなあ」
などと当たり前のことを、間の抜けた声でつぶやいてみたりする。
視界のすべてが青に染まっている。空も陸も。
……そう、陸も。
うめき声が聞こえたのはそのときだ。
このうめき声、なんだか聞き覚えがある。
「と……と……と」
「と」から始まるうめき声なんて初めてで、一体誰の声かと辺りを見渡してみる。
「と、う、が」
うめき声が進化して、「なんだ、俺の名前じゃないか」と、藤雅(とうが)はようやく声の主を発見する。
意外に近くにいた。
背後の低い位置から、見覚えのある藍色の髪の毛がちらちら覗いている。
「よ、翠陸(すくい)。お前さんも昇ってきたのか?」
飄々(ひょうひょう)とした顔で、藤雅は翠陸の小さな身体をひっぱり上げてやる。
白い塔の屋上、柵も何もない、縁から足を滑らせたら確実に一巻の終わり。
そんな物騒なところに立って平然としていられるのは、藤雅くらいのものだろう。
昇ってきたのはいいものの、すっかり身を竦ませてしまっている翠陸を、藤雅は肩に抱き上げる。
一瞬悲鳴を上げかけた翠陸だったが、すばらしい見晴らしに息を呑んだ。
「どうだ、始めて外の空気に触れた感想は? ん?」
「気持ちいい」
「そうだろう、そうだろう」
藤雅はにこにことうなずく。
外見的には二十代そこそこにしか見えないが、その実とっくに百歳は越えている。
やけに落ち着いたこの態度は、しかしそのせいではなく、子供の頃からの性質らしい。
「外って、あまり色がないね。曇りの白と、雪の透明、砂漠の黄金。それだけ」
翠陸は祖父に似たのか、子供のくせに、物事の中に理屈を探そうとする。
藤雅は自由なほうの手で眼鏡を外し、翠陸にかけさせた。
とたん、翠陸は目をみはる。
「青……!」
「ずっと昔はな、世界はこんなだったんだぜ。いや、実際はもっと綺麗なはずさ。こんな作り物の青じゃなくて、天然の青だなあ」
「天然の青って、何色?」
藤雅は返答に窮し、ポケットからナイフを取り出す。
考え込む時の必需品だ。
「うーん、そうだな、うーん」を幾度か繰り返していると、やがて翠陸のほうが別のものに興味を示した。
「さっきからぼくに触るもの、これは何?」
「ほ?」
触るもの?
彼に触れているのは藤雅しかいない。
しかしやがて藤雅は、くすっと笑った。
風が吹いた瞬間をつかまえて、逆に質問。
「“これ”のことか?」
「そう。何の生きもの?」
「これはな、風さ。ほら、本で読んだだろう。『その時風が吹いて、麦藁帽子が飛んでしまいました』。あれがこいつさ。この星の息吹さ」
「ああ! 星も生きものだものね。呼吸するものね」
理屈屋とはいえ、やはり五歳児の発言である。
可愛さあまって思わず抱きつぶし、「痛いよ」と抗議の声を上げられてしまった。
◇
さて、藤雅が翠陸を抱いて塔内に戻ってくると、むっつりと緑炎が待ち構えていた。
実質年齢はさておき、外界と時間の流れが違う白い塔に住んでいるため、外見的にはまだ三十代の彼は、科学者にしておくのがもったいないほどに美しい。
翠陸を床におろしながら、藤雅はささやく。
「おじいちゃんがお怒りのようだぞ」
「今日の宿題は終わらせたのに? どうして、お祖父様」
わずかに。
──本当にわずかに、緑炎の片眉が動いたのを、藤雅は見逃さなかった。
美しい科学者の口から、滑らかな声が発される。
「外には出るなと言った。失態は一度限りだ。二度と繰り返すな」
「はい、お祖父様」
翠陸のすごいのは、こういうところだ。
むくれるでも泣き出すでもなく、祖父のいうことを聞き入れる。
そして必ず実行する。
「紫嵐(しらん)が倉庫の整理をしている。手伝ってやれ」
「はい」
穏やかな返答をして、部屋を出ていく。
藤雅は肩をすくめた。
「教育ジジイ」
「新しい眼鏡は気に入ったか」
藤雅の悪口を無視して、緑炎は本棚に向き直る。
「世の中青く見えたらどんなにいいかなあ」、と、しつこくねちっこくねばっこく三日三晩こぼし続けた結果
根負けしたのかうんざりしたのか緑炎が「世の中青く見えてすごくいいだろう色眼鏡」を数時間で製作してくれたのは今朝のことである。
藤雅はその色眼鏡で緑炎の姿を見据え、にっと笑ってみせた。
「おお、見える見える。空も陸も翠陸も“お前さん”もな、みーんな青で、俺幸せさ!」
「それは良かった」
藤雅の皮肉もなんのその。
うるさく催促されて研究の邪魔をされた腹いせに、文字通り「すべてが青く見える眼鏡」を作った緑炎の根性も相当ねじ曲がっている。
「俺はさー、空のことを言ったのよ。早く言えばさ。ずーっと昔に見た風景をもう一度見たいなあ、っていう俺の純粋な願望をさ、お前さんよく踏み躙(にじ)れるよな」
「純粋という言葉は言って然るべき人物が口にしてこそ美しく、また実感がある。実感があってこそ相手にも伝わるというものだ。お前にはその色眼鏡で充分だ」
探していた資料を見つけ、数冊手にして部屋から出ていく。
「……じゃあ俺は純粋って言葉が似合わない姿してるってわけ?」
ぽつんとつぶやく藤雅を慰める者は、残念ながらいなかった。
◇
塔内は人工太陽光の設備があるため、その気になれば日がな明るくしていることができる。
だがそれでは体内時計がどうとかかつて彩地(あやち)が意見したため、いわゆる「夜」になると人口太陽光は消え、必要に応じて暗くなるという原始的な生活が行われていた。
藤雅の部屋は翠陸の部屋と隣同士で、最上階に近いところにあった。
たまに翠陸は、寝る前に藤雅の部屋にくることがあった。
そういうとき、たいてい「ナイフの遊び方を教えてもらいたい」というのは口実で、藤雅のベッドで眠ってしまうのだ。
しかし藤雅はいやな顔はしない。
むしろこの少年の数少ない子供っぽさが見られて嬉しいらしく、自分はいそいそと床に横になる。
この晩、翠陸は藤雅の部屋に入ってくるなり、青年が持っている不思議なガラス玉を見て立ち尽くした。
興味深いものを見るとき、彼は無言になる。
息すらするのも忘れたように、またたきもせず、ただじっと対象になるものを観察する。
「こいつが珍しいかい?」
声をかけられて、翠陸はようやく現実に立ち戻った。
ゆっくり歩んで、藤雅の持つガラス玉を下から見上げる。
きらきら透明なガラス玉。
中の青い灯が、ゆらゆら揺れている。
「お嬢ちゃんからの預かりものさ。石薬(しゃくやく)ってんだ」
「それ、生きもの?」
「そうさ。よく分かったな」
「だって青い光が、風みたいに動いているから」
へえ、と感心したように藤雅は少年を見下ろした。
「そういうところは彩ちゃん似かな。もっとも俺、お前さんの親父さんのこともおふくろさんのことも、親友ってほどにはよく知らねえから、な」
藤雅はそして、ふと目を細めた。
先刻の翠陸の台詞で、自分の過去(むかし)を思い出したのだ。
「生きものなら、分解して調べることできないね。残念だな」
「解剖ってて手もあるぜ」
悪戯っぽい目つきをする藤雅に、翠陸は顔をしかめてみせた。
「そんなこと、したくない」
「そういうとこは親父さん似かなあ。萌天(ほだか)は虫も殺さなかったもんな」
「この石薬、あと何年生きるの」
「さあて、な。俺の血が入ってるから、そう簡単にはくたばらないだろうぜ」
「輸血したの?」
ぷっと吹き出しそうになるのを堪えたが、敏感な翠陸には分かってしまった。
恥ずかしさに頬を染めて、別の質問に切り替える。
「藤雅って子供の頃から、そんな性格だったの」
「そんな大昔のことは忘れたさ、な」
「じゃあ藤雅は、いつから自分のチカラを自覚したの」
笑いを堪えたために浮かんだ目尻の涙を拭いていた藤雅は、「おや」、という表情になった。
こんなに幼いうちから、緑炎は既にチカラに関したレポートを孫に見せていた。
その成果が現れ始めたのだろうか。
「ながあい話になるぜ。ながあい、ながあい、な。それでも聞きたいかい、翠陸坊ちゃん?」
「夜が明ける?」
ちょっとだけ心配そうに首を傾げる翠陸の可愛さに負け、「じゃあ思い切りはしょってやろうな」、と抱き上げてベッドに腰かける。
話の途中で翠陸が眠くなっても困らないように、赤ん坊を抱っこするように自分が背もたれになった。
「俺が子供だった頃、世界はまだ青に包まれていた。青と緑と、そんな自然と共存していた。むかし、むかあしのことさ」
◆
藤雅の住んでいた街は、ごく小さなところだった。
田舎でのんびりとしていて、丘と森に囲まれ、車で一時間も行けば海があった。
交通は多少不便だけれども、空気はおいしい。
熱帯でも極寒でもなく、春になれば色とりどりの花が咲いたし、冬になればちょうど子供たちが遊べるくらいの雪が降った。
そして、この街の人々は大人になってもめったに外に出ていかない。
一度は出ていっても、歳をとれば必ず戻ってくる。
皆がひとつのことを、懐かしんで。
それは、鐘の音だった。
『鐘集い街』というだけあって、この街の中央にある寺院では、日の出から午後3時までの間、2時間おきに鐘を鳴らす。
腹の底に響くような重低音ではなく、適当に低い、滑らかな耳に心地よい音だ。
街の者はこの鐘の音を聞いて日々を過ごす。
いつのまにかそれが日常となっているので、街の外に出るとなにか物足りなくなるのだ。
ただし、寺院は日暮れには決して鐘を鳴らさない。
日暮れの鐘は物悲しく、胸を切なくさせる。
だからあえて、この街では日暮れ前を最後の鐘にしているのだ。
◇
日の出と共にその日最初の鐘が鳴ると、よほどの寝たがりでなければ住人は目を覚ます。
藤雅もまた、意外というか、例外ではなかったりする。
カラン……カラン……、と、可愛らしく鐘の音が、まだぼうっとする頭の中で心地よく鳴り響くと、いつものとおりに藤雅はベッドからおりて朝の支度を始める。
13歳の彼は、まだ学生だったので寝坊は許されない。
「学校へ行く前に、桃氷(とおり)を探してくれんか」
スープをすする藤雅の前に、祖父の梗赤(こうか)がコーヒーを置く。
両親はとある事情で離婚したため、彼と姉妹を育てているのはこの祖父だった。
「桃氷? またいないのか」
じゃあ早めに出るか、というわりにスプーンを口に運ぶペースは変わらない。
しかしよく見ると、そこに乗せられる食物の量が二倍増しになっていた。
よく分からない急ぎ方である。
「見つけるまで学校行っちゃいかんぞ」
祖父は孫娘を目に入れても痛くないほど可愛がっていた。
「ちゃんと連れて帰るよ」
藤雅もまた、妹をとても可愛がっていた。
もっとも弟の虹香(にしかが)に言わせると、「猫可愛がり」だそうだが。
家を出た藤雅、見当はついていたので足の運びは早かった。
小走りに、だが呑気に鼻唄混じりに林檎をかじる。
「遅れんぞ、藤雅!」
向こうから走ってきた同級生が、通り過ぎざま声をかけていく。
「元より覚悟してますよォ」
気だるげな返答をしたときには、もう同級生の姿は点ほどになっている。
既にこの頃からこの性格は育まれていたらしい。
町外れ、丘の上の小屋までくる。
どうひいき目に見ても「半壊」しているその小屋の扉をノックした。
「あのう、桃氷が来てませんか」
返答なし。
一拍置いて、みしりと扉が傾き、ずん、と音を立てて小屋の中に倒れた。
──腐っていたらしい。
「あ、どうも」
別に誰が開けたわけでもないのに、何を考えているのか。
藤雅は倒れた扉を乗り越えて、小屋の中に入る。
「おにいちゃん」
4、5歳の少女が笑顔で駆け寄ってきた。
抱きつく前に、「とおり♪ 駄目じゃないか、黙って家を出てきたら♪」と、愛情たっぷりに抱き上げる。
「クロさんと遊んでいたの」
桃氷はあどけなく後ろを指差す。
何か黒い大きなものが歩いてきた。
「やあ、黒樹(くろづき)さん」
果たして彼は、人間の限界をこえた馬鹿力の持ち主ゆえ、街の者が「化物」と恐れ、石を投げる大男だったのだが、藤雅は微笑んだ。
大男の目はとても優しげだったから、藤雅は彼が好きだったのだ。
「去れ。ここはだめ」
黙って賢そうな顔つきをしているが、黒樹は生まれつきなのか、言葉をうまく話せない。
桃氷がきょとんとすると、藤雅は通訳した。
「もう行きなさい。ここにいると街の人に嫌われるから長くいちゃだめだって」
そのとおりのことを言いたかったらしい。
黒樹の優しげな目が更に和む。
「じゃあ、また来るよ」
桃氷を抱いて、藤雅は小屋を出る。
小走りに駆けて、家へ到着。
「とおり♪ おじいちゃん心配したぞー♪」
扉を蹴破らんばかりに出てきた梗赤、さっそく孫娘を藤雅からもぎ取る。
……どこか似ている。
──と、車庫から少年を乗せたバイクが勢いよく出てきた。
「乗れよ、バカ藤雅!」
弟の虹香だ。
兄が戻るのを持っていたらしい。
「虹香! バイクは駄目だと言ったじゃろう!」
梗赤が叱る。
「危ないから、車にしなさい」
……そういう問題ではないと思うが。
まだ12歳の虹香、「もうエンジンあっためちゃったよ!」と言い返し、兄が後ろに乗ったのを確認して発進させた。
すさまじいほどの土埃を上げて学校へ向かっていく。
「ひょええ……」
藤雅の情けない声が、耳に残った。
◇
「バカ藤雅! 眼鏡のスペアくらい持ってろよ!」
学校の帰り。
校舎裏で、なにやら物騒な少年たち(早い話が不良上級生)に囲まれた虹香が兄に悪態をついていた。
ひとつ言い忘れていたが、藤雅は普段眼鏡をしている。
度は入っていないのに何のためか。
目つきが鋭すぎるため、いわれのない喧嘩をかってしまうのを避けるためだ。
もっとも彼自身は喧嘩が大好きだったのだが、たいてい行動を共にしている弟からしてみれば「たいへん迷惑」極まりないのである。
「お前があんなにすっ飛ばすとは思わなかったからなあ」
つまりは先ほどのバイクでの「ひょええ」は、「眼鏡が飛んだぞォ」という意味だった。
「なにごちゃごちゃ喋ってんだあ?」
「余裕こいてんじゃねえよ!」
藤雅の目つきの鋭さを「睨まれた(?)」と誤解した少年たち、胸倉をつかみあげる。
「虹香」
気だるそうな声に目をやると、兄は肩をすくめた。
次の瞬間、兄弟は同時に動いた。
藤雅は自分の胸倉をつかむ少年Aの顎に頭突きをかまし、虹香は背後の少年Bの腰にタックルをかけ、倒れた彼を踏みつけて駐車場へ全速力。
喧嘩はさして強くないが、足の速い虹香。
少年Bは追いかけるのを断念し、少年Cと共に少年Aの加勢に入る。
藤雅の手元を見て顔を強張らせた。
「あんまりこの技、披露したくないんだけどなあ」
言っていつのまにかナイフを二本どこからか取り出していた藤雅、にやにや笑いで同時にそれを空へ放り投げた。
少年たちが気を取られた隙に、少年Aの弁慶の泣き所を蹴る。
少年Bの攻撃をかわしざまその背中をちょっと押してやり、少年Cのタックルを利用して投げ技をひとつ。
ちょうど落ちてきたナイフは、それぞれ少年BとCの頭上へ。
「わあっ!」
ごつんと鈍い音がして、少年BとCは気絶した。
少年Aが逃げるところを、バイクに乗った虹香が通り過ぎざまアッパーをかます。
「お見事」
「早く乗れってば!」
「ほいほい」
兄を乗せた虹香、倒れた少年たちのそばに転がるナイフを見てギョッとする。
藤雅は呑気に、
「ただのペーパーナイフさ」
「じいちゃんの教え、無駄なことに使うなよな!」
虹香はバイクを走らせる。
じいちゃんの教えとは、「ちょっと過激な護身術」であったのだが。
◇
喧嘩のことは、数時間後に虹香の口から梗赤の耳に知らされた。
「飽きもせず、よくやるのう」
藤雅を部屋に招んだ梗赤、コーヒーを飲みながら笑う。
新しい眼鏡の具合を確かめていた藤雅は、満足したらしくようやく椅子に腰かける。
「虹香にも、もう言っておいたほうがいいかもしれんの。お前さんが、あと数年でこの街を出ていくことをのう」
「そんなこと言ったらあいつ、絶対理由を聞くぜ」
「言えばいいさな」
「なんて?」
「ありのままをじゃ」
ずーっと音を立ててコーヒーをすする。
「お前さんは人とは違う。治癒力が並外れておる。その代わりかしらんが、事故に遭う確率も人より多いがなあ」
意地悪い笑みを浮かべる老人から、藤雅はぷいとそっぽを向く。
こりもせず、梗赤は指を折って数え上げた。
「赤ん坊のころ、車の中に閉じ込められて丸二日おっても無事じゃったし、二歳の頃には五階建て窓から落ちて重傷を負ったが数時間後にはぴんぴんしとったし、三歳の頃には──はて、なんじゃったかの? 毎年なにかあって、いちいち覚えとらんのう」
「じいちゃんだけだな。そうしてただ笑ってくれるのはさ」
人よりも大人びていると定評のある(ただ呑気なだけかもしれないが)藤雅も、祖父の前では13歳の少年に戻る。
「こんなことがバレたら、俺も黒樹さんのように『化物』って言われるんだろうけどなあ」
「そんな奴がいたら、わしが食ってやるわい」
にっと笑う老人の歯は、まだ真っ白で健在だ。
空恐ろしいと大仰に身震いした藤雅、ふと耳をすませた。
遠くでざわめきが聞こえる。
少し遅れて、カンカンカン、とせわしなく寺院の鐘が鳴った。
いつもの鐘の音ではない。
「じいちゃん!」
ばたんと扉が開き、息せききった虹香が報告した。
「沙檬(さもん)の家が火事だ! 桃氷が遊びにいってるんだ!」
言葉の終わりを待たず、藤雅が部屋を飛び出した。
◇
風が強く、火のまわりが早い。
ごうごうと家を焼くすさまじい火の手に、街の消防団も手が出ない。
途方に暮れる人々の横を、少年が走り抜けた。
「あっ、きみ!?」
誰かが声をかけたが、少年は燃え盛る炎の中に飛び込んでいった。
人々のざわめきが増す。
「男の子が入っていったぞ!」
次の瞬間、家の半分が金切り声にも似た音を立てて地面に崩れる。
「藤雅!」
騒ぐ人垣をかきわけて、虹香が兄の名を呼ぶ。
「藤雅ぁ!」
その呼び声が聞こえたのか。
がらん、とつぶれかけた玄関の柱が落ちる。
そこに人影を認めて駆け寄ろうとした虹香は、はっと息を呑んだ。
出てきた人影は、確かに藤雅だった。
しかし服は炎に焼かれ、身体全体から煙を噴いている。
それでも妹をしっかり抱きかかえて頼りない足取りで近づいた藤雅は、人垣から数メートルのところで力尽きた。
「水を! 早く!」
誰かが命じて水がかけられ、待機していた医者が傍らに座りこむ。
「女の子はまだ息がある。病院で手当てをさせよう」
医者の声に、助手たちが担架で桃氷を連れていく。
「少年のほうは……残念だが、もう」
離れたところで足の竦んだ虹香が、震えている。
しかし誰の目にも藤雅の死は明らかだった。
医者は立ち上がる。
「ここが住宅街でなくて良かった。ここらに家はこの一軒しかない。被害がこれだけで済んで……」
医者の言葉は、女性の悲鳴に遮られた。
振り向いた彼の目に、信じられないものが映った。
全身に火傷を負い、たった今息を引き取ったはずの少年がそこに立っている。
身体の爛(ただ)れがみるみる治り、正常な肌の色になっていくのが、破れた服の隙間から見えた。
「いやああっ!」
女性が叫ぶ。
恐れ戦いた人々はそれぞれに悲鳴を上げ、散り散りになっていく。
勇気のある者は石を取り、少年に投げつけた。
「化物!」
石に身体を、言葉に心を傷つけられた藤雅は、ふと振り向いて弟を見つめた。
視線が合ったとたん、虹香はびくりと身体を竦ませた。
おびえたような、その瞳。
「…………」
何も言わず、藤雅は目を伏せる。
地を蹴り、人垣と反対方向に駆け出した。
◇
「待って! ……待てよ……!」
声が追いかけてきたとき、耳を疑った。
驚いて足を止めると、俊足の虹香が追いついた。
息を切らし、まだおびえた目で、しかし強く藤雅を見上げる。
「どこ行くんだよ。そっちは町外れだぜ」
「……このまま街を出る」
目を見開く虹香に、つけ加えた。
「俺はな、いずれここを出ていくつもりだった。強すぎるこの生命力じゃひとところにはいられないさ」
「だからって故郷を捨てるのか!?」
怯えていたのも忘れ、兄の肩をつかむ。
「お前が生まれたのはここだろ!? 家も家族もここにあるのに!」
「だからさ」
今日は本当に風が強い。
眼鏡をかけていない目に、しみて痛いほど。
「家も家族も、犠牲にできない」
だから行く。
動きを止めた弟の身体を抱きしめ、やわらかに言った。
「俺が行ったら、みんなにこう言うんだ。俺は拾われた子供で、実は兄弟なんかじゃない他人だったって。あんな化物と一緒にされたら、迷惑だってな」
うっ、と虹香はしゃくり上げた。
「言えるかよぉっ……そんな嘘!」
藤雅は突然身体を離し、拳固をつくると弟の頬をはり飛ばした。
倒れたところに、律儀にも追いかけてきた男ふたりが駆け寄る。
藤雅をつかまえようと、ひとりが手をのばした。
身をひねって、彼は再び駆け出した。
「大丈夫か虹香!? なんてことするんだ、あいつは!」
「仕方がないさ、化物が本性を表したってところだな」
男の声が遠ざかる中、「違う」と泣きじゃくる虹香の声が風に乗って届く。
走る藤雅の耳に、何度も何度も、やがて消え失せるまで、同じ言葉をしゃくり上げていた。
ひとつしか歳の違わない弟。双子のように思っていた。
バカはお前さ、虹香。
小さくて交通の便が悪いこの街は、例にもれず閉鎖的。
そんなところで、あくまで「藤雅は兄だ」と言い続ける気か。自ら軽蔑されるのを望むのか。
出ていくと決めて正解だ。
あの優しい弟を、犠牲にせずに済むのだから。
◇
街外れまで来ると、少しだけ街を振り返った。
模型のように家が並んでいる。何事もないように。
数キロ離れたここからも、寺院の鐘が小さく見えた。あと数十分すれば、今日最後の鐘が鳴る。
まだ治癒したばかりの身体を鞭打ったあおりが今頃きた。
疲れ果て、丘の上に大の字に寝転ぶ。
悠々と、雲が流れる。いつもより流れが速いことを抜かせば、普段と変わらない。
このまますっかり街を出てしまったら、どこまでも歩いていこう。
一番はじめに行き着いた街で、いっとき休もう。
そしてまたすぐに出発しよう。
歩いて歩いて、ずっとそれを繰り返そう。
歩き疲れて倒れることはあっても、すぐに回復するから心配いらない。
やがて世界の果てまで行ったら、その街で少しだけとどまろう。
5年くらいは、いられるだろう。
「とーが。風邪ひく」
低い声が、天から降ってきた。驚く元気もない。
視線だけをやると、黒樹が鍬(くわ)を持って見下ろしている。
いつもより早く、畑から戻ってくる最中だったのだろう。
そういえばこの近くに、彼の小屋があるのだった。
黙って空に視線を戻した藤雅のひどい姿を見ても、黒樹は何も言わなかった。
隣に腰を下ろすと、ゆったりと膝を抱えて空を仰ぐ。
「俺も化物だった」
しばらくして、藤雅は乾いた唇を開いた。
「なんでか分からないけどなあ」
はは、と小さく笑ってみせる。
怪力の大男は少年を見下ろした。
「能力者、を、知っているか」
「能力者?」
藤雅は少し考え、「さあなあ」とつぶやく。
「お前がそれ。俺と同じ。お前に会ったとき、同じにおい感じた」
黒樹はそして、哀れむように目を伏せた。
「でもお前、俺よりもお前、もっとかなしい。かなしいもの背負ってる」
普段彼のいうことを通訳できる藤雅も、今回ははっきりと分からなかった。
けれど、なぜだか今だけこの大男に頼りたくなって、「少しだけ、小屋に寄っていってもいいかな」と尋ねてみた。
黒樹は微笑んでうなずいた。
◇
小屋に入ると、寺院の鐘が聞こえてきた。
カラン……カラン……この鐘の音とも、今日でお別れだ。
こんなに薄暗いのに、電気もない。
よく見ると、箪笥(たんす)の上に蝋燭立てがあり、半分ほどの長さの蝋燭が残っていた。
「じいちゃんは、俺のことを分かってくれてた」
沈黙の帳(とばり)を破ったのは藤雅だった。
なにかしゃべっていないと、胸が押しつぶされそうだ。
「でも、こんなふうに小さな街は、大体異端なものに敏感で許容しない。いつか出ていかなきゃならないって、俺に護身術を覚えさせた」
黒樹は、その言葉で思い出したように、ふと立ち上がって箪笥の引き出しをごそごそやった。
やがて出したものを藤雅に放る。
鞘のついた、三本のナイフだった。
「それ、いつも錆びない。やる」
出してみると、刀身はまだぴかぴか光っている。
こんなものを使わなくても、自分は怪我をすることはないのに。どんな怪我でも、治ってしまうのに。
ついさっき、……生き返ることもできるのだと証明された。
「……俺は」
あの時に、気づいてしまった。
「たぶん人よりも長く生きるんだ。もちろんじいちゃんよりも、虹香や……桃氷よりも。そうしたら、俺はどうすればいい?」
虹香の死に、桃氷の死に、自分は耐えられるか。ちゃんとみとることができるのか。
「でも……今出ていけば、いつまでもあいつらが生きていると思い込むことができる」
百年経っても、それ以上が経つのだとしても。
自分の中で、いつまでも家族を思い描くことができる。
「────」
突然、藤雅は顔を上げた。
古ぼけた時計を見ると、ここに来てからもう一時間が経っていた。
なんだろう。空気がピリピリしている。こんな感覚は、今までに体験したことがない。
黒樹も、もたれかかっていた壁から身を起こし、窓に近寄った。
──途端。
空気が激しく震動した。
普通の者にも、はっきりと分かるほど。
小屋の窓が粉砕し、外から大量の砂が襲ってきた。
なぜ、と思う余裕もない。
気がつくと黒樹に担ぎ上げられていた。
小屋の反対側から逃れようというのだ。
しかし、外からの砂の圧迫で裏戸が開かない。
玄関と窓から侵入した砂に追いつめられた黒樹は、残っていた窓を肘で割った。
「行け」
そこから藤雅を外へ出す。
「黒樹さんは!?」
「行け。はしれ!!」
窓から突き出した腕に、どんと強く押された。力の限り。
坂になっていたことも手伝って、数メートルも背後に転がった藤雅は、木がつぶれる音、そしてそれを呑み込むほどの流砂の音を耳にした。
起き上がると、数メートルもの大蛇のような砂が、高波のように、小屋の最後の切れ端を呑み込むところだった。
「黒樹さ──」
名を、最後まで呼べなかった。
背後から襲う砂に、藤雅もまた呑み込まれた。
◇
カ、ラン……カ、ラン……
鐘が鳴っている。
少しひび割れたようでも、可愛く澄んだ音だ。
くぐもったように聞こえるのは、どうしてだろう?
瞼が何かに圧迫されて開かない。
いやに重い手をどうにかして動かして、自分は砂に埋もれているのだ、とようやく気づいた。
普通の人間ならば、とうに窒息しているはずだ。
また生き返ったのか、と心の中で自分を嘲った。
なぜ、砂が襲ってきたのだろう。砂漠など、この近くにはないのに。
普段の三倍ものろい動きで、それでも地上に出られたのは奇跡的だった。
空は夕焼け。朱に染まっている。
そこにあったのは、広大に拡がる砂の海と、どうかして取り残された寺院の鐘塔。
バネか歯車が故障したのか、鐘は動き続けている。
砂を払うのも忘れて、後ろを振り返る。
黒樹の小屋はそこにない。
オルゴール人形のように、気の抜けた動きでまた前を見る。
──そこに街はない。
あるのは砂。すべてが砂。金色の地面──。
思い出した。
数年前から、巨大流砂が出現し始めたと、世界中に報道されていた。
いつ、どこに現れるのか分からない、狂暴な砂の群れ。
これがそうなのだ。
これが、そうなのだ……。
「ふ…………」
乾いた唇から、嗚咽が漏れた。
リラ色の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「う……ああ……あああ!!」
声の限りに泣き叫んだ。
じいちゃん。虹香。桃氷。
夢ならばいいのに。こんなこと。
夢ならばよかったのに。自分の存在も、すべて。
カ、ラン……カ、ラン……
入相(いりあい)の鐘が鳴る。
決して鳴らないはずの、日没の鐘が。
◆
話し終わると、藤雅は黙ったままの翠陸をそっと見下ろした。
──このまま、ベッドに運んでしまおう。
「みとってあげたかったんでしょう」
突然の声に、仰天して取り落としそうになる。
その腕にしがみつきながら、翠陸は黒い瞳でまっすぐに見上げた。
「本当は、家族みんな、みとってあげたかったんでしょう?」
「お前さん──」
心底驚いて、どんぐり眼になってしまった藤雅、二の句が告げない。
5歳の子供の口から、そんな発言を聞かされるとは。
「もう寝ろ、な? 子守唄代わりの話が、無駄になっちまったなあ」
自分のベッドに寝かせて、小さな手に石薬を握らせる。
「寝坊すると、おじいちゃんに怒られるからなあ」
翠陸はしばらく石薬を見つめて、撫でたりさすったりしていたが、やがて寝息を立て始めた。
本当は眠たかったのだろう。
──本当は、みとってあげたかったんでしょう?
「……そうだなあ」
あんな別れ方をするのなら、最期まで握っていてやりたかった。
しわだらけの梗赤の手を。まだ小さい虹香の手を。もみじのような桃氷の手を。
「どんなにか、恐かっただろうなあ」
それならば傍にいて、最期の一息まで安心させてやりたかった。
自分は最後まで死なないから、こうして見ていてあげる、大丈夫だよ、と。
それでももう、涙は流れない。
あれからどれだけの時が、経ったのだろう……。
◇
カラン……カラン……
目覚めのときも、眠るときも、ちょっとしたうたた寝のときにさえ。
夢うつつになると、その鐘の音が聞こえる。
決して去り得ない、胸のなかの残響。
《完》
【追記】
『入相の鐘』……夕暮れに寺でつく鐘。晩鐘。入相。
◆
翠陸──本編では死亡しない。その後については『世界の中心』の復興に力を注ぎ、緑炎を凌ぐ数々の発明をする。
藤雅──翠陸に同じく、その後は『世界の中心』において「みんなの藤(とう)ちゃん」として老若男女にひっぱりだこだが、打たれ強さを利用されていろいろな手伝いをさせられているだけ、という噂も。白い塔内とあわせても90歳近いはずだが、身体の機能が衰える兆候は一向になし。
「青いなあ」
などと当たり前のことを、間の抜けた声でつぶやいてみたりする。
視界のすべてが青に染まっている。空も陸も。
……そう、陸も。
うめき声が聞こえたのはそのときだ。
このうめき声、なんだか聞き覚えがある。
「と……と……と」
「と」から始まるうめき声なんて初めてで、一体誰の声かと辺りを見渡してみる。
「と、う、が」
うめき声が進化して、「なんだ、俺の名前じゃないか」と、藤雅(とうが)はようやく声の主を発見する。
意外に近くにいた。
背後の低い位置から、見覚えのある藍色の髪の毛がちらちら覗いている。
「よ、翠陸(すくい)。お前さんも昇ってきたのか?」
飄々(ひょうひょう)とした顔で、藤雅は翠陸の小さな身体をひっぱり上げてやる。
白い塔の屋上、柵も何もない、縁から足を滑らせたら確実に一巻の終わり。
そんな物騒なところに立って平然としていられるのは、藤雅くらいのものだろう。
昇ってきたのはいいものの、すっかり身を竦ませてしまっている翠陸を、藤雅は肩に抱き上げる。
一瞬悲鳴を上げかけた翠陸だったが、すばらしい見晴らしに息を呑んだ。
「どうだ、始めて外の空気に触れた感想は? ん?」
「気持ちいい」
「そうだろう、そうだろう」
藤雅はにこにことうなずく。
外見的には二十代そこそこにしか見えないが、その実とっくに百歳は越えている。
やけに落ち着いたこの態度は、しかしそのせいではなく、子供の頃からの性質らしい。
「外って、あまり色がないね。曇りの白と、雪の透明、砂漠の黄金。それだけ」
翠陸は祖父に似たのか、子供のくせに、物事の中に理屈を探そうとする。
藤雅は自由なほうの手で眼鏡を外し、翠陸にかけさせた。
とたん、翠陸は目をみはる。
「青……!」
「ずっと昔はな、世界はこんなだったんだぜ。いや、実際はもっと綺麗なはずさ。こんな作り物の青じゃなくて、天然の青だなあ」
「天然の青って、何色?」
藤雅は返答に窮し、ポケットからナイフを取り出す。
考え込む時の必需品だ。
「うーん、そうだな、うーん」を幾度か繰り返していると、やがて翠陸のほうが別のものに興味を示した。
「さっきからぼくに触るもの、これは何?」
「ほ?」
触るもの?
彼に触れているのは藤雅しかいない。
しかしやがて藤雅は、くすっと笑った。
風が吹いた瞬間をつかまえて、逆に質問。
「“これ”のことか?」
「そう。何の生きもの?」
「これはな、風さ。ほら、本で読んだだろう。『その時風が吹いて、麦藁帽子が飛んでしまいました』。あれがこいつさ。この星の息吹さ」
「ああ! 星も生きものだものね。呼吸するものね」
理屈屋とはいえ、やはり五歳児の発言である。
可愛さあまって思わず抱きつぶし、「痛いよ」と抗議の声を上げられてしまった。
◇
さて、藤雅が翠陸を抱いて塔内に戻ってくると、むっつりと緑炎が待ち構えていた。
実質年齢はさておき、外界と時間の流れが違う白い塔に住んでいるため、外見的にはまだ三十代の彼は、科学者にしておくのがもったいないほどに美しい。
翠陸を床におろしながら、藤雅はささやく。
「おじいちゃんがお怒りのようだぞ」
「今日の宿題は終わらせたのに? どうして、お祖父様」
わずかに。
──本当にわずかに、緑炎の片眉が動いたのを、藤雅は見逃さなかった。
美しい科学者の口から、滑らかな声が発される。
「外には出るなと言った。失態は一度限りだ。二度と繰り返すな」
「はい、お祖父様」
翠陸のすごいのは、こういうところだ。
むくれるでも泣き出すでもなく、祖父のいうことを聞き入れる。
そして必ず実行する。
「紫嵐(しらん)が倉庫の整理をしている。手伝ってやれ」
「はい」
穏やかな返答をして、部屋を出ていく。
藤雅は肩をすくめた。
「教育ジジイ」
「新しい眼鏡は気に入ったか」
藤雅の悪口を無視して、緑炎は本棚に向き直る。
「世の中青く見えたらどんなにいいかなあ」、と、しつこくねちっこくねばっこく三日三晩こぼし続けた結果
根負けしたのかうんざりしたのか緑炎が「世の中青く見えてすごくいいだろう色眼鏡」を数時間で製作してくれたのは今朝のことである。
藤雅はその色眼鏡で緑炎の姿を見据え、にっと笑ってみせた。
「おお、見える見える。空も陸も翠陸も“お前さん”もな、みーんな青で、俺幸せさ!」
「それは良かった」
藤雅の皮肉もなんのその。
うるさく催促されて研究の邪魔をされた腹いせに、文字通り「すべてが青く見える眼鏡」を作った緑炎の根性も相当ねじ曲がっている。
「俺はさー、空のことを言ったのよ。早く言えばさ。ずーっと昔に見た風景をもう一度見たいなあ、っていう俺の純粋な願望をさ、お前さんよく踏み躙(にじ)れるよな」
「純粋という言葉は言って然るべき人物が口にしてこそ美しく、また実感がある。実感があってこそ相手にも伝わるというものだ。お前にはその色眼鏡で充分だ」
探していた資料を見つけ、数冊手にして部屋から出ていく。
「……じゃあ俺は純粋って言葉が似合わない姿してるってわけ?」
ぽつんとつぶやく藤雅を慰める者は、残念ながらいなかった。
◇
塔内は人工太陽光の設備があるため、その気になれば日がな明るくしていることができる。
だがそれでは体内時計がどうとかかつて彩地(あやち)が意見したため、いわゆる「夜」になると人口太陽光は消え、必要に応じて暗くなるという原始的な生活が行われていた。
藤雅の部屋は翠陸の部屋と隣同士で、最上階に近いところにあった。
たまに翠陸は、寝る前に藤雅の部屋にくることがあった。
そういうとき、たいてい「ナイフの遊び方を教えてもらいたい」というのは口実で、藤雅のベッドで眠ってしまうのだ。
しかし藤雅はいやな顔はしない。
むしろこの少年の数少ない子供っぽさが見られて嬉しいらしく、自分はいそいそと床に横になる。
この晩、翠陸は藤雅の部屋に入ってくるなり、青年が持っている不思議なガラス玉を見て立ち尽くした。
興味深いものを見るとき、彼は無言になる。
息すらするのも忘れたように、またたきもせず、ただじっと対象になるものを観察する。
「こいつが珍しいかい?」
声をかけられて、翠陸はようやく現実に立ち戻った。
ゆっくり歩んで、藤雅の持つガラス玉を下から見上げる。
きらきら透明なガラス玉。
中の青い灯が、ゆらゆら揺れている。
「お嬢ちゃんからの預かりものさ。石薬(しゃくやく)ってんだ」
「それ、生きもの?」
「そうさ。よく分かったな」
「だって青い光が、風みたいに動いているから」
へえ、と感心したように藤雅は少年を見下ろした。
「そういうところは彩ちゃん似かな。もっとも俺、お前さんの親父さんのこともおふくろさんのことも、親友ってほどにはよく知らねえから、な」
藤雅はそして、ふと目を細めた。
先刻の翠陸の台詞で、自分の過去(むかし)を思い出したのだ。
「生きものなら、分解して調べることできないね。残念だな」
「解剖ってて手もあるぜ」
悪戯っぽい目つきをする藤雅に、翠陸は顔をしかめてみせた。
「そんなこと、したくない」
「そういうとこは親父さん似かなあ。萌天(ほだか)は虫も殺さなかったもんな」
「この石薬、あと何年生きるの」
「さあて、な。俺の血が入ってるから、そう簡単にはくたばらないだろうぜ」
「輸血したの?」
ぷっと吹き出しそうになるのを堪えたが、敏感な翠陸には分かってしまった。
恥ずかしさに頬を染めて、別の質問に切り替える。
「藤雅って子供の頃から、そんな性格だったの」
「そんな大昔のことは忘れたさ、な」
「じゃあ藤雅は、いつから自分のチカラを自覚したの」
笑いを堪えたために浮かんだ目尻の涙を拭いていた藤雅は、「おや」、という表情になった。
こんなに幼いうちから、緑炎は既にチカラに関したレポートを孫に見せていた。
その成果が現れ始めたのだろうか。
「ながあい話になるぜ。ながあい、ながあい、な。それでも聞きたいかい、翠陸坊ちゃん?」
「夜が明ける?」
ちょっとだけ心配そうに首を傾げる翠陸の可愛さに負け、「じゃあ思い切りはしょってやろうな」、と抱き上げてベッドに腰かける。
話の途中で翠陸が眠くなっても困らないように、赤ん坊を抱っこするように自分が背もたれになった。
「俺が子供だった頃、世界はまだ青に包まれていた。青と緑と、そんな自然と共存していた。むかし、むかあしのことさ」
◆
藤雅の住んでいた街は、ごく小さなところだった。
田舎でのんびりとしていて、丘と森に囲まれ、車で一時間も行けば海があった。
交通は多少不便だけれども、空気はおいしい。
熱帯でも極寒でもなく、春になれば色とりどりの花が咲いたし、冬になればちょうど子供たちが遊べるくらいの雪が降った。
そして、この街の人々は大人になってもめったに外に出ていかない。
一度は出ていっても、歳をとれば必ず戻ってくる。
皆がひとつのことを、懐かしんで。
それは、鐘の音だった。
『鐘集い街』というだけあって、この街の中央にある寺院では、日の出から午後3時までの間、2時間おきに鐘を鳴らす。
腹の底に響くような重低音ではなく、適当に低い、滑らかな耳に心地よい音だ。
街の者はこの鐘の音を聞いて日々を過ごす。
いつのまにかそれが日常となっているので、街の外に出るとなにか物足りなくなるのだ。
ただし、寺院は日暮れには決して鐘を鳴らさない。
日暮れの鐘は物悲しく、胸を切なくさせる。
だからあえて、この街では日暮れ前を最後の鐘にしているのだ。
◇
日の出と共にその日最初の鐘が鳴ると、よほどの寝たがりでなければ住人は目を覚ます。
藤雅もまた、意外というか、例外ではなかったりする。
カラン……カラン……、と、可愛らしく鐘の音が、まだぼうっとする頭の中で心地よく鳴り響くと、いつものとおりに藤雅はベッドからおりて朝の支度を始める。
13歳の彼は、まだ学生だったので寝坊は許されない。
「学校へ行く前に、桃氷(とおり)を探してくれんか」
スープをすする藤雅の前に、祖父の梗赤(こうか)がコーヒーを置く。
両親はとある事情で離婚したため、彼と姉妹を育てているのはこの祖父だった。
「桃氷? またいないのか」
じゃあ早めに出るか、というわりにスプーンを口に運ぶペースは変わらない。
しかしよく見ると、そこに乗せられる食物の量が二倍増しになっていた。
よく分からない急ぎ方である。
「見つけるまで学校行っちゃいかんぞ」
祖父は孫娘を目に入れても痛くないほど可愛がっていた。
「ちゃんと連れて帰るよ」
藤雅もまた、妹をとても可愛がっていた。
もっとも弟の虹香(にしかが)に言わせると、「猫可愛がり」だそうだが。
家を出た藤雅、見当はついていたので足の運びは早かった。
小走りに、だが呑気に鼻唄混じりに林檎をかじる。
「遅れんぞ、藤雅!」
向こうから走ってきた同級生が、通り過ぎざま声をかけていく。
「元より覚悟してますよォ」
気だるげな返答をしたときには、もう同級生の姿は点ほどになっている。
既にこの頃からこの性格は育まれていたらしい。
町外れ、丘の上の小屋までくる。
どうひいき目に見ても「半壊」しているその小屋の扉をノックした。
「あのう、桃氷が来てませんか」
返答なし。
一拍置いて、みしりと扉が傾き、ずん、と音を立てて小屋の中に倒れた。
──腐っていたらしい。
「あ、どうも」
別に誰が開けたわけでもないのに、何を考えているのか。
藤雅は倒れた扉を乗り越えて、小屋の中に入る。
「おにいちゃん」
4、5歳の少女が笑顔で駆け寄ってきた。
抱きつく前に、「とおり♪ 駄目じゃないか、黙って家を出てきたら♪」と、愛情たっぷりに抱き上げる。
「クロさんと遊んでいたの」
桃氷はあどけなく後ろを指差す。
何か黒い大きなものが歩いてきた。
「やあ、黒樹(くろづき)さん」
果たして彼は、人間の限界をこえた馬鹿力の持ち主ゆえ、街の者が「化物」と恐れ、石を投げる大男だったのだが、藤雅は微笑んだ。
大男の目はとても優しげだったから、藤雅は彼が好きだったのだ。
「去れ。ここはだめ」
黙って賢そうな顔つきをしているが、黒樹は生まれつきなのか、言葉をうまく話せない。
桃氷がきょとんとすると、藤雅は通訳した。
「もう行きなさい。ここにいると街の人に嫌われるから長くいちゃだめだって」
そのとおりのことを言いたかったらしい。
黒樹の優しげな目が更に和む。
「じゃあ、また来るよ」
桃氷を抱いて、藤雅は小屋を出る。
小走りに駆けて、家へ到着。
「とおり♪ おじいちゃん心配したぞー♪」
扉を蹴破らんばかりに出てきた梗赤、さっそく孫娘を藤雅からもぎ取る。
……どこか似ている。
──と、車庫から少年を乗せたバイクが勢いよく出てきた。
「乗れよ、バカ藤雅!」
弟の虹香だ。
兄が戻るのを持っていたらしい。
「虹香! バイクは駄目だと言ったじゃろう!」
梗赤が叱る。
「危ないから、車にしなさい」
……そういう問題ではないと思うが。
まだ12歳の虹香、「もうエンジンあっためちゃったよ!」と言い返し、兄が後ろに乗ったのを確認して発進させた。
すさまじいほどの土埃を上げて学校へ向かっていく。
「ひょええ……」
藤雅の情けない声が、耳に残った。
◇
「バカ藤雅! 眼鏡のスペアくらい持ってろよ!」
学校の帰り。
校舎裏で、なにやら物騒な少年たち(早い話が不良上級生)に囲まれた虹香が兄に悪態をついていた。
ひとつ言い忘れていたが、藤雅は普段眼鏡をしている。
度は入っていないのに何のためか。
目つきが鋭すぎるため、いわれのない喧嘩をかってしまうのを避けるためだ。
もっとも彼自身は喧嘩が大好きだったのだが、たいてい行動を共にしている弟からしてみれば「たいへん迷惑」極まりないのである。
「お前があんなにすっ飛ばすとは思わなかったからなあ」
つまりは先ほどのバイクでの「ひょええ」は、「眼鏡が飛んだぞォ」という意味だった。
「なにごちゃごちゃ喋ってんだあ?」
「余裕こいてんじゃねえよ!」
藤雅の目つきの鋭さを「睨まれた(?)」と誤解した少年たち、胸倉をつかみあげる。
「虹香」
気だるそうな声に目をやると、兄は肩をすくめた。
次の瞬間、兄弟は同時に動いた。
藤雅は自分の胸倉をつかむ少年Aの顎に頭突きをかまし、虹香は背後の少年Bの腰にタックルをかけ、倒れた彼を踏みつけて駐車場へ全速力。
喧嘩はさして強くないが、足の速い虹香。
少年Bは追いかけるのを断念し、少年Cと共に少年Aの加勢に入る。
藤雅の手元を見て顔を強張らせた。
「あんまりこの技、披露したくないんだけどなあ」
言っていつのまにかナイフを二本どこからか取り出していた藤雅、にやにや笑いで同時にそれを空へ放り投げた。
少年たちが気を取られた隙に、少年Aの弁慶の泣き所を蹴る。
少年Bの攻撃をかわしざまその背中をちょっと押してやり、少年Cのタックルを利用して投げ技をひとつ。
ちょうど落ちてきたナイフは、それぞれ少年BとCの頭上へ。
「わあっ!」
ごつんと鈍い音がして、少年BとCは気絶した。
少年Aが逃げるところを、バイクに乗った虹香が通り過ぎざまアッパーをかます。
「お見事」
「早く乗れってば!」
「ほいほい」
兄を乗せた虹香、倒れた少年たちのそばに転がるナイフを見てギョッとする。
藤雅は呑気に、
「ただのペーパーナイフさ」
「じいちゃんの教え、無駄なことに使うなよな!」
虹香はバイクを走らせる。
じいちゃんの教えとは、「ちょっと過激な護身術」であったのだが。
◇
喧嘩のことは、数時間後に虹香の口から梗赤の耳に知らされた。
「飽きもせず、よくやるのう」
藤雅を部屋に招んだ梗赤、コーヒーを飲みながら笑う。
新しい眼鏡の具合を確かめていた藤雅は、満足したらしくようやく椅子に腰かける。
「虹香にも、もう言っておいたほうがいいかもしれんの。お前さんが、あと数年でこの街を出ていくことをのう」
「そんなこと言ったらあいつ、絶対理由を聞くぜ」
「言えばいいさな」
「なんて?」
「ありのままをじゃ」
ずーっと音を立ててコーヒーをすする。
「お前さんは人とは違う。治癒力が並外れておる。その代わりかしらんが、事故に遭う確率も人より多いがなあ」
意地悪い笑みを浮かべる老人から、藤雅はぷいとそっぽを向く。
こりもせず、梗赤は指を折って数え上げた。
「赤ん坊のころ、車の中に閉じ込められて丸二日おっても無事じゃったし、二歳の頃には五階建て窓から落ちて重傷を負ったが数時間後にはぴんぴんしとったし、三歳の頃には──はて、なんじゃったかの? 毎年なにかあって、いちいち覚えとらんのう」
「じいちゃんだけだな。そうしてただ笑ってくれるのはさ」
人よりも大人びていると定評のある(ただ呑気なだけかもしれないが)藤雅も、祖父の前では13歳の少年に戻る。
「こんなことがバレたら、俺も黒樹さんのように『化物』って言われるんだろうけどなあ」
「そんな奴がいたら、わしが食ってやるわい」
にっと笑う老人の歯は、まだ真っ白で健在だ。
空恐ろしいと大仰に身震いした藤雅、ふと耳をすませた。
遠くでざわめきが聞こえる。
少し遅れて、カンカンカン、とせわしなく寺院の鐘が鳴った。
いつもの鐘の音ではない。
「じいちゃん!」
ばたんと扉が開き、息せききった虹香が報告した。
「沙檬(さもん)の家が火事だ! 桃氷が遊びにいってるんだ!」
言葉の終わりを待たず、藤雅が部屋を飛び出した。
◇
風が強く、火のまわりが早い。
ごうごうと家を焼くすさまじい火の手に、街の消防団も手が出ない。
途方に暮れる人々の横を、少年が走り抜けた。
「あっ、きみ!?」
誰かが声をかけたが、少年は燃え盛る炎の中に飛び込んでいった。
人々のざわめきが増す。
「男の子が入っていったぞ!」
次の瞬間、家の半分が金切り声にも似た音を立てて地面に崩れる。
「藤雅!」
騒ぐ人垣をかきわけて、虹香が兄の名を呼ぶ。
「藤雅ぁ!」
その呼び声が聞こえたのか。
がらん、とつぶれかけた玄関の柱が落ちる。
そこに人影を認めて駆け寄ろうとした虹香は、はっと息を呑んだ。
出てきた人影は、確かに藤雅だった。
しかし服は炎に焼かれ、身体全体から煙を噴いている。
それでも妹をしっかり抱きかかえて頼りない足取りで近づいた藤雅は、人垣から数メートルのところで力尽きた。
「水を! 早く!」
誰かが命じて水がかけられ、待機していた医者が傍らに座りこむ。
「女の子はまだ息がある。病院で手当てをさせよう」
医者の声に、助手たちが担架で桃氷を連れていく。
「少年のほうは……残念だが、もう」
離れたところで足の竦んだ虹香が、震えている。
しかし誰の目にも藤雅の死は明らかだった。
医者は立ち上がる。
「ここが住宅街でなくて良かった。ここらに家はこの一軒しかない。被害がこれだけで済んで……」
医者の言葉は、女性の悲鳴に遮られた。
振り向いた彼の目に、信じられないものが映った。
全身に火傷を負い、たった今息を引き取ったはずの少年がそこに立っている。
身体の爛(ただ)れがみるみる治り、正常な肌の色になっていくのが、破れた服の隙間から見えた。
「いやああっ!」
女性が叫ぶ。
恐れ戦いた人々はそれぞれに悲鳴を上げ、散り散りになっていく。
勇気のある者は石を取り、少年に投げつけた。
「化物!」
石に身体を、言葉に心を傷つけられた藤雅は、ふと振り向いて弟を見つめた。
視線が合ったとたん、虹香はびくりと身体を竦ませた。
おびえたような、その瞳。
「…………」
何も言わず、藤雅は目を伏せる。
地を蹴り、人垣と反対方向に駆け出した。
◇
「待って! ……待てよ……!」
声が追いかけてきたとき、耳を疑った。
驚いて足を止めると、俊足の虹香が追いついた。
息を切らし、まだおびえた目で、しかし強く藤雅を見上げる。
「どこ行くんだよ。そっちは町外れだぜ」
「……このまま街を出る」
目を見開く虹香に、つけ加えた。
「俺はな、いずれここを出ていくつもりだった。強すぎるこの生命力じゃひとところにはいられないさ」
「だからって故郷を捨てるのか!?」
怯えていたのも忘れ、兄の肩をつかむ。
「お前が生まれたのはここだろ!? 家も家族もここにあるのに!」
「だからさ」
今日は本当に風が強い。
眼鏡をかけていない目に、しみて痛いほど。
「家も家族も、犠牲にできない」
だから行く。
動きを止めた弟の身体を抱きしめ、やわらかに言った。
「俺が行ったら、みんなにこう言うんだ。俺は拾われた子供で、実は兄弟なんかじゃない他人だったって。あんな化物と一緒にされたら、迷惑だってな」
うっ、と虹香はしゃくり上げた。
「言えるかよぉっ……そんな嘘!」
藤雅は突然身体を離し、拳固をつくると弟の頬をはり飛ばした。
倒れたところに、律儀にも追いかけてきた男ふたりが駆け寄る。
藤雅をつかまえようと、ひとりが手をのばした。
身をひねって、彼は再び駆け出した。
「大丈夫か虹香!? なんてことするんだ、あいつは!」
「仕方がないさ、化物が本性を表したってところだな」
男の声が遠ざかる中、「違う」と泣きじゃくる虹香の声が風に乗って届く。
走る藤雅の耳に、何度も何度も、やがて消え失せるまで、同じ言葉をしゃくり上げていた。
ひとつしか歳の違わない弟。双子のように思っていた。
バカはお前さ、虹香。
小さくて交通の便が悪いこの街は、例にもれず閉鎖的。
そんなところで、あくまで「藤雅は兄だ」と言い続ける気か。自ら軽蔑されるのを望むのか。
出ていくと決めて正解だ。
あの優しい弟を、犠牲にせずに済むのだから。
◇
街外れまで来ると、少しだけ街を振り返った。
模型のように家が並んでいる。何事もないように。
数キロ離れたここからも、寺院の鐘が小さく見えた。あと数十分すれば、今日最後の鐘が鳴る。
まだ治癒したばかりの身体を鞭打ったあおりが今頃きた。
疲れ果て、丘の上に大の字に寝転ぶ。
悠々と、雲が流れる。いつもより流れが速いことを抜かせば、普段と変わらない。
このまますっかり街を出てしまったら、どこまでも歩いていこう。
一番はじめに行き着いた街で、いっとき休もう。
そしてまたすぐに出発しよう。
歩いて歩いて、ずっとそれを繰り返そう。
歩き疲れて倒れることはあっても、すぐに回復するから心配いらない。
やがて世界の果てまで行ったら、その街で少しだけとどまろう。
5年くらいは、いられるだろう。
「とーが。風邪ひく」
低い声が、天から降ってきた。驚く元気もない。
視線だけをやると、黒樹が鍬(くわ)を持って見下ろしている。
いつもより早く、畑から戻ってくる最中だったのだろう。
そういえばこの近くに、彼の小屋があるのだった。
黙って空に視線を戻した藤雅のひどい姿を見ても、黒樹は何も言わなかった。
隣に腰を下ろすと、ゆったりと膝を抱えて空を仰ぐ。
「俺も化物だった」
しばらくして、藤雅は乾いた唇を開いた。
「なんでか分からないけどなあ」
はは、と小さく笑ってみせる。
怪力の大男は少年を見下ろした。
「能力者、を、知っているか」
「能力者?」
藤雅は少し考え、「さあなあ」とつぶやく。
「お前がそれ。俺と同じ。お前に会ったとき、同じにおい感じた」
黒樹はそして、哀れむように目を伏せた。
「でもお前、俺よりもお前、もっとかなしい。かなしいもの背負ってる」
普段彼のいうことを通訳できる藤雅も、今回ははっきりと分からなかった。
けれど、なぜだか今だけこの大男に頼りたくなって、「少しだけ、小屋に寄っていってもいいかな」と尋ねてみた。
黒樹は微笑んでうなずいた。
◇
小屋に入ると、寺院の鐘が聞こえてきた。
カラン……カラン……この鐘の音とも、今日でお別れだ。
こんなに薄暗いのに、電気もない。
よく見ると、箪笥(たんす)の上に蝋燭立てがあり、半分ほどの長さの蝋燭が残っていた。
「じいちゃんは、俺のことを分かってくれてた」
沈黙の帳(とばり)を破ったのは藤雅だった。
なにかしゃべっていないと、胸が押しつぶされそうだ。
「でも、こんなふうに小さな街は、大体異端なものに敏感で許容しない。いつか出ていかなきゃならないって、俺に護身術を覚えさせた」
黒樹は、その言葉で思い出したように、ふと立ち上がって箪笥の引き出しをごそごそやった。
やがて出したものを藤雅に放る。
鞘のついた、三本のナイフだった。
「それ、いつも錆びない。やる」
出してみると、刀身はまだぴかぴか光っている。
こんなものを使わなくても、自分は怪我をすることはないのに。どんな怪我でも、治ってしまうのに。
ついさっき、……生き返ることもできるのだと証明された。
「……俺は」
あの時に、気づいてしまった。
「たぶん人よりも長く生きるんだ。もちろんじいちゃんよりも、虹香や……桃氷よりも。そうしたら、俺はどうすればいい?」
虹香の死に、桃氷の死に、自分は耐えられるか。ちゃんとみとることができるのか。
「でも……今出ていけば、いつまでもあいつらが生きていると思い込むことができる」
百年経っても、それ以上が経つのだとしても。
自分の中で、いつまでも家族を思い描くことができる。
「────」
突然、藤雅は顔を上げた。
古ぼけた時計を見ると、ここに来てからもう一時間が経っていた。
なんだろう。空気がピリピリしている。こんな感覚は、今までに体験したことがない。
黒樹も、もたれかかっていた壁から身を起こし、窓に近寄った。
──途端。
空気が激しく震動した。
普通の者にも、はっきりと分かるほど。
小屋の窓が粉砕し、外から大量の砂が襲ってきた。
なぜ、と思う余裕もない。
気がつくと黒樹に担ぎ上げられていた。
小屋の反対側から逃れようというのだ。
しかし、外からの砂の圧迫で裏戸が開かない。
玄関と窓から侵入した砂に追いつめられた黒樹は、残っていた窓を肘で割った。
「行け」
そこから藤雅を外へ出す。
「黒樹さんは!?」
「行け。はしれ!!」
窓から突き出した腕に、どんと強く押された。力の限り。
坂になっていたことも手伝って、数メートルも背後に転がった藤雅は、木がつぶれる音、そしてそれを呑み込むほどの流砂の音を耳にした。
起き上がると、数メートルもの大蛇のような砂が、高波のように、小屋の最後の切れ端を呑み込むところだった。
「黒樹さ──」
名を、最後まで呼べなかった。
背後から襲う砂に、藤雅もまた呑み込まれた。
◇
カ、ラン……カ、ラン……
鐘が鳴っている。
少しひび割れたようでも、可愛く澄んだ音だ。
くぐもったように聞こえるのは、どうしてだろう?
瞼が何かに圧迫されて開かない。
いやに重い手をどうにかして動かして、自分は砂に埋もれているのだ、とようやく気づいた。
普通の人間ならば、とうに窒息しているはずだ。
また生き返ったのか、と心の中で自分を嘲った。
なぜ、砂が襲ってきたのだろう。砂漠など、この近くにはないのに。
普段の三倍ものろい動きで、それでも地上に出られたのは奇跡的だった。
空は夕焼け。朱に染まっている。
そこにあったのは、広大に拡がる砂の海と、どうかして取り残された寺院の鐘塔。
バネか歯車が故障したのか、鐘は動き続けている。
砂を払うのも忘れて、後ろを振り返る。
黒樹の小屋はそこにない。
オルゴール人形のように、気の抜けた動きでまた前を見る。
──そこに街はない。
あるのは砂。すべてが砂。金色の地面──。
思い出した。
数年前から、巨大流砂が出現し始めたと、世界中に報道されていた。
いつ、どこに現れるのか分からない、狂暴な砂の群れ。
これがそうなのだ。
これが、そうなのだ……。
「ふ…………」
乾いた唇から、嗚咽が漏れた。
リラ色の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「う……ああ……あああ!!」
声の限りに泣き叫んだ。
じいちゃん。虹香。桃氷。
夢ならばいいのに。こんなこと。
夢ならばよかったのに。自分の存在も、すべて。
カ、ラン……カ、ラン……
入相(いりあい)の鐘が鳴る。
決して鳴らないはずの、日没の鐘が。
◆
話し終わると、藤雅は黙ったままの翠陸をそっと見下ろした。
──このまま、ベッドに運んでしまおう。
「みとってあげたかったんでしょう」
突然の声に、仰天して取り落としそうになる。
その腕にしがみつきながら、翠陸は黒い瞳でまっすぐに見上げた。
「本当は、家族みんな、みとってあげたかったんでしょう?」
「お前さん──」
心底驚いて、どんぐり眼になってしまった藤雅、二の句が告げない。
5歳の子供の口から、そんな発言を聞かされるとは。
「もう寝ろ、な? 子守唄代わりの話が、無駄になっちまったなあ」
自分のベッドに寝かせて、小さな手に石薬を握らせる。
「寝坊すると、おじいちゃんに怒られるからなあ」
翠陸はしばらく石薬を見つめて、撫でたりさすったりしていたが、やがて寝息を立て始めた。
本当は眠たかったのだろう。
──本当は、みとってあげたかったんでしょう?
「……そうだなあ」
あんな別れ方をするのなら、最期まで握っていてやりたかった。
しわだらけの梗赤の手を。まだ小さい虹香の手を。もみじのような桃氷の手を。
「どんなにか、恐かっただろうなあ」
それならば傍にいて、最期の一息まで安心させてやりたかった。
自分は最後まで死なないから、こうして見ていてあげる、大丈夫だよ、と。
それでももう、涙は流れない。
あれからどれだけの時が、経ったのだろう……。
◇
カラン……カラン……
目覚めのときも、眠るときも、ちょっとしたうたた寝のときにさえ。
夢うつつになると、その鐘の音が聞こえる。
決して去り得ない、胸のなかの残響。
《完》
【追記】
『入相の鐘』……夕暮れに寺でつく鐘。晩鐘。入相。
◆
翠陸──本編では死亡しない。その後については『世界の中心』の復興に力を注ぎ、緑炎を凌ぐ数々の発明をする。
藤雅──翠陸に同じく、その後は『世界の中心』において「みんなの藤(とう)ちゃん」として老若男女にひっぱりだこだが、打たれ強さを利用されていろいろな手伝いをさせられているだけ、という噂も。白い塔内とあわせても90歳近いはずだが、身体の機能が衰える兆候は一向になし。
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