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願いごとひとつだけ-LOVE PHANTOM番外編(半分本編)-
夢妖精(プリンス・マブ)(空水・琴藍編)
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夢のように、あなたは舞い降りた。
天使のように、わたしの前に。
◇
暗い闇を映す窓の向こうに、思わぬ人影を見た。
月光を背に、その人は「おいで、おいで」をした。
──でも、と空水(うつみ)は拘束された自分の身体を見下ろす。
硬い鎖で椅子に縛りつけられた、自分の身体を。
チカラはあるのに、コントロールが出来ない。
ゆえにこんなに重要な時にもチカラは働かない。
普段必要のない時にばかり、勝手に出てくるくせに。
「あなたはなぜここへ来たの?」
窓の外の人影に、空水は尋ねる。
小さな呟きだから、彼に聞こえているはずはない。
「馬鹿ね──ただの使用人のあなたがわたしを逃がしたりしたら、確実に罰されるわ」
空水は哀しそうにかぶりを振る。
月光で顔ははっきり分からないけれど、彼女にはそれが誰なのか分かっていた。
空水を支配する愚かな権力者、その末裔に仕える若者。
名前は琴藍(きいん)といった。
彼が庭の手入れをしているのを、彼女はよく見かけた。
庭師、なのだろう。
いつも薔薇や綺麗な花を持って、権力者の玩具になっている空水にそれをくれた。
彼だけが、空水に笑顔をくれた。
……チカラを持つ化物としてではなく、人間として──。
扉の外で足音が聞こえた。
ハッとして振り向いた空水の目に、一人の男が入ってくるのが映った。
街を四つ五つ持っているだけで世の中の人間すべてを支配した気でいる、……愚かな権力者だ。
「少しは頭が冷えたか?」
鼠邑(そゆう)は空水の前にしゃがみこみ、彼女の顔を覗き込む。空水は目をそらした。
「お前は俺が買ったんだ。村の連中から疎外されていたお前を、こうして邸に住まわせてやってるんだぜ。歯向かう真似なんて、してくれるなよ」
顎にのびてきた手に、噛みついた。
鼠邑は「つっ」と顔をしかめ、反対の手で空水の頬を叩いた。
「綺麗な顔をして、案外気が強いぜ──なあ、聞けよ。お前さえよけりゃ、目をかけてやってもいいんだぜ……」
鼠邑は空水の後頭部に手を回し、自分のほうへ引き寄せた。
無理矢理の口づけから辛うじて逃れた彼女は、強く相手を睨みつける。
「わたしにだってプライドはあるわ」
鼠邑は鼻で笑った。
顔が整っている分、その仕草は余計憎らしく見えた。
「化物にプライドだと? それは何かの冗談か? このままじゃお前は一人前に子供を産むことも出来ないんだぜ。なにしろ空水、お前は化物だからな! 誰もお前に触ろうとなんてしないさ。それを俺が人間の女にしてやろうっていうのに──」
鼠邑の言葉は、硝子の割れる音で遮られた。
さっきの人影が植木鉢で窓を破り、侵入してきたのだった。
「──あなた」
空水は驚いた。まだいたなんて!
「誰だっ!」
鼠邑は室内灯をつけ、侵入者を見て驚いた。
「お前──琴藍」
「これ以上は黙認出来なかった」
琴藍は穏やかに鼠邑を見つめる。
「彼女をもらっていくよ。……いいね、兄さん」
「────!」
自分の誤解に、初めてその時空水は気づいた。
琴藍はいつも腰が低くて──呑気で穏やかで、権力なんてものから無縁に見えた。
だからてっきり使用人だと思っていたのだ。
「ここから出ていくというのか?」
鼠邑は唇の片端を上げて笑う。
「ここにいれば次の支配者になれたのに! 馬鹿な奴だぜ。親父はお前を後継者にと選んでたんだ」
「知ってたよ」
鎖を解きながら、琴藍。
「勝手にするがいいさ。化物一匹と引き替えに、俺は次の座が手に入るんだからな。──親父には言っておいてやるぜ、お前が家出したってな」
鼠邑は部屋を出ていく。
所詮彼にとっては空水を「飼っていた」のもただの余興でしかない。
◇
「さて、どこへ行こうね」
のんびりと車を運転しながら──もちろん運転しているのは彼なのだが──琴藍はそんなことを言った。
後部座席には、前から用意していたのか荷物が積みこんである。ただし、袋ひとつだけだ。
窓からの風に髪の毛を押さえながら、空水はうつむいた。
「……わたし、あなたのこと使用人だって……思ってたわ」
「うん、そうらしいね」
ゆったりしたその答えを聞いて、空水は穴があったら入りたいくらい恥ずかしくなる。
小さくなる空水に、琴藍は笑いかけた。
「ああ、気持ちいいね! 今夜の風は、隣に好きな人がいるから尚更だ」
きょとんとする空水に、琴藍はわざわざ車を停めて振り返る。
草原を突き抜けて作られた広い車道に、他に車の影はない。
「ぼくはね、きみが好きだったんだよ。なんて綺麗な人なんだろうって──兄さんがきみを連れてきたとき、そう思った。……ごめんね、すぐに助けてあげられなくて。いろいろと準備があってね、……」
たまらなくなって、空水はその胸に抱きついていった。
……初めて、初めて人間として扱ってくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて泣いた。
背中にあたたかな手が回り、あやすように撫でる。
「ひどい目にあったね……空水、きみさえよければ、ぼくたち一緒にいよう。これからずっと、ずっと暮らそう」
月光の見守る中、二人はこうして結ばれた。
◇
家を提供してくれる村が見つかったのは、ようやく一ヶ月目のことだった。
それでも郊外に追いやられ、小さな小さな小屋だった。
琴藍の邸に比べたら、馬小屋のようなものだ。
申し訳なくて、空水はいつも「ごめんなさい」ばかり言っていた。
それでも──彼らに娘が生まれた。
娘の誕生は、自然空水を明るくした。
「この子……名前、水琴にしましょう」
生まれたばかりの赤ん坊を愛しそうに抱いて、彼女は夫に言った。
「わたしたちの名前を一文字ずつ取って、水琴よ。あなたとわたしの希望の星だもの」
「いい名前だね」
琴藍は微笑みながら空水から赤ん坊を抱き上げる。
「音がとてもいい。……ねえ空水、ミコトという発音はね、昔ある国で命という意味だったんだよ。
水琴──お前はきっと幸せになる」
幸せになれる──何者も、憎むことがなければ。純粋であるならば。
◇
水琴は5歳になり、教育を受ける歳になった。
けれど公共の教育施設は「化物」である空水の娘を拒否し、通うことは出来なかった。
水琴の勉強は、琴藍が見た。
空水も同様の理由でろくな教育も受けてこなかったので、ちゃんとしたことを教えられるのは彼しかいなかったのだ。
朝、水琴は父から宿題のノートをもらう。
一日中かかりきりで──無論おやつとお昼寝の時間は取るけれど──空水と一緒に、問題を解く。
仕事から戻ってきた琴藍が、添削をする。
夕食後、復習と予習だ。
琴藍の教え方は面白くて、水琴はすぐに色々なことを覚えた。
夜眠る前に数える羊の習性について、星の瞬きについて、宇宙の理について。
そんなことを琴藍はとても分かりやすく教えてくれた。
休日には家族で車で出かけて、ちょっと遠い草原でピクニックをした。
星の季節のことや、空を翔ぶ鳥のこと。
琴藍はそんな「野外授業」の達人だった。
「この星は色々なものに愛されてる。とりわけ風と水と、緑に。それはね、生命に愛されてるってことなんだよ。だから水琴、この星も彼らを愛し続けているんだ。そうでなくては、すぐに生命も途絶えてしまう。愛して愛されて、それがあるからこそ風も水も緑も変わらずにここに在る。もちろん、ぼくたち人間もね」
「じゃあお父さん、もし星が誰も愛さなくなったら、世界はどうなっちゃうの?」
「きっと何もなくなってしまうだろうね。砂が覆って何も生えなくなる。太陽も姿を消してしまうよ」
「琴藍」
いさめるように空水がふたりの会話の邪魔をした。
「水琴にそんなこと吹きこまないでちょうだい。大丈夫よ水琴、星の生命の続く限り、愛も永遠よ」
はい、と渡されたシュークリームの柔らかさに、水琴はすぐに目を輝かせた。
琴藍は笑って、娘のふわふわしたほっぺたを軽くつまむ。
「こら、そんなに食べると本当にシュークリームになるぞ」
「シュークリームにならなってもいいもん!」
「ぼくの娘は壮大な思考(ゆめ)を持っているらしい」
琴藍は空水を抱き寄せて、可笑しそうに囁く。「あなたの教育の成果よ」と笑い返す空水。
村人に会えば石を投げられる。自分を守る琴藍はいつも傷だらけだ。
でも、幸せだった。
──幸せだった。
◇
「水琴まで石を投げられるようになったの」
ある晩、空水はそう打ち明けた。
「同い年の男の子に、一番ひどくあたられるらしいの……ねえ琴藍、あたしどうしたらいいのかしら」
空水は泣いていた。琴藍が抱いてやったが、泣きやまなかった。
自分のために娘にまで被害が及び始めたのが、よほどショックなのだろう。
空水は村にとって害を及ぼすだけの人間だった。
隣村とを繋ぐ大事な橋を壊し、井戸を枯らす。
そのすべてがコントロール不能のチカラによるものだ。
彼女にもどうすることも出来ないのだ。だってチカラは、いつ飛び出てくるか分からない。
「わたし……恐いわ。自分が恐くてたまらない。わたしの中の化物が、いつ出てきて暴れ出すか分からないもの」
「そんなことを言うんじゃない」
琴藍は優しく諭す。頬にキスを送りながら、囁いてくれる。
「きみの中にあるものも、ぼくにとっては愛の対象だよ。きみが憎むきみのすべてを、ぼくは愛してる」
──彼はそう言ったけれど。
やがて運命の歯車は、大きく回転する。
◇
その冬は大量の雪が降った。
それまでにも深刻な問題を抱えていた小さな村の村長は、これ以上この土地ではやっていけないと判断し、村民に「南の地へ移動する」と指示した。
人々は家と別れを告げ、家畜はよほどの例外を除いて雪の中に置いていかれた。
琴藍も少ない荷物を持ち、仕事場の親方から幌馬車を譲ってもらって家族を連れて出た。
琴藍をまともに扱ってくれたのは、この親方だけだった。
「移動中は俺と一緒に行動しろ。さもなきゃお前らおいてけぼりくらうぜ」
親方のその言葉に甘え、琴藍たちは彼と共に移動した。
親方には13歳のひとり娘がいて、水琴と歳は離れていたが、彼女もやがて水琴と接触するようになった。
荒野で夜を明かすときも、少しの間なら話をしてくれるようにもなった。
ある日、幌馬車の中で水琴が握っている一輪の花を見て、空水は尋ねた。
「珍しいわね、この季節に花なんて……それ、どうしたの?」
「これね、七架(ななか)が作ったんだって。すごいでしょ、お花も作れちゃうのよ」
よく見るとそれは本当によく出来た造花だった。
ふいに幌馬車が止まった。
思わず水琴を抱き寄せた空水の耳に、「今夜はこの街で一宿だよ」という夫の声が聞こえてきた。
そこは大きな湖沿いの街で、明日の朝に出る船で琴藍たちはその湖を渡るのだ。
「この街の人々も近いうちに移動するらしい」
飯店で遅い夕食をとりながら、親方はそう言った。
「まったく今年の雪はひどいもんだ! これじゃここら一帯どの街の農作物も駄目だろうぜ」
ふと、空水は席を立った。
「どうした、空水」
声をかけた琴藍は、彼女の顔が真っ青なことに気づいた。最近彼女は体調が良くなかったのだ。
「先に馬車へ帰っておいで。暖房器具をすべて使っていいから」
空水の噂はそこはかとなく誰かが流しているようで、宿も取れない。寒くても馬車で寝るしかないのだ。
そしてその数十分後、食べ終えた水琴を連れ、飯店を出た琴藍は不吉な音を聞いた。
──湖の背後に高々とそびえたつ雪山がある。それが唸りを上げているのだった。
街の人間は「雪崩だ、逃げろ!」と叫び、琴藍の横を走り抜けていく。
「……なんだあれは」
親方は、湖のほうから突然沸き上がった赤いものを見て目をむいた。
赤い……どう見ても炎にしか見えない。
しかしなぜ雪があるのに、あんな速度でこちらに向かってくるのか?
「街が呑み込まれる……焼かれてしまう!」
誰かが悲鳴を上げた。
「お父さん……」
心配そうに自分の袖をつかむ水琴の手を、琴藍は握ってやる。
彼には分かった──この炎が、誰が起こしているものなのか。
以前にもこんなことがあった。以前……ずっと前、まだ琴藍が権力者を父と呼び、邸に住んでいた頃。隣町で同じことがあった。
「親方」
琴藍はふと振り返り、水琴を抱き上げて彼に渡した。
「すみません、娘を頼みます。街のはずれに大きな月光樹(げっこうじゅ)がありましたね、その根元に連れて行ってください。あそこなら多分、安全ですから」
「……琴藍?」
「お父さん」
琴藍は娘の髪の毛をくしゃっと撫でる。
「大丈夫。きっと行くから」
そしてその額に口づけて、親方に一度ぺこりと頭を下げると、琴藍は駆けていく。
人々が逃げるところを逆方向に。
◇
──化物……空水、お前は化物だ!
──空水。お前は呪われた娘。
──この村から出ていきなさい! 二度と来ないで!
(……どうすればいいの)
空水の中で、また「あれ」が暴れ出した。過去の忌まわしい記憶と共に。
身体が熱くてたまらない。
入った宿屋で水瓶を見つけた。それを飲んでもまだ、熱が下がらない。
いつのまにか建物を炎が囲んでいる──いや、この炎は最初からあったのだろうか。意識がはっきりとしない。
(ねえ、わたしの意志じゃなかった)
(こんなこと望まなかったわ)
──でもいつも、「あれ」は暴れ出す。望もうが望むまいがおかまいなしに。
(琴藍、あなたのおかげで幸せだったわ)
彼女はもう、疲れていた。
夫まで娘まで巻き添えにして生きていくなんて、これ以上出来ない。
空水は炎の中に、ナイフを見つける。宿の主人がそのままにして逃げていったのだ。
ふわりと浮き上がる。
(ねえ、お願いよ。そのままこっちに来て。そのままわたしの胸へ刺さってちょうだい)
ナイフはふらふらと揺れているだけだ。
──最初からこうすればよかったのだ。
水琴が石を投げられる前にこうしていれば……そうすれば、娘は琴藍が幸せにしてくれるに違いなかったのに。
ナイフから室内へと、彼女はぼんやり視線を動かす。
なぜこんなに赤いのかしら──ああ、そうね。炎があったんだわ、ここには。
突然空水の身体を、誰かが強い力で胸に抱き込んだ。
強く強く……強すぎて、息が出来なくなるくらい。
(わたし、殺されるのね)
おぼろげにそう思った。
あのナイフのようにふらふらと定まらない頭でそう考えた空水は、呟いた。
「殺してちょうだい」
「ぼくには出来ないよ」
優しくいさめる声が、耳に響いた。
──……琴藍?
「空水……よく聞くんだ。月光樹を覚えているかい」
懐かしいその声に、彼女は思い出す──覚えている。背の高い綺麗な大樹。あれは確か、丘の上にあったはず。
「そこで水琴が待っている。きみはそこへ行って……いいね、これからは親方の言うことをよくお聞き。彼と一緒に移動するんだ」
どうして、そんなことを?
ぼうっとしながら空水は琴藍の顔を見ようと身体を離す。
琴藍の顔は、いつもと変わらない。穏やかな微笑みを浮かべている。
「琴藍……?」
「ああ、やっとぼくの名前を呼んでくれたね。そうだ、きみの夫だよ。可愛い空水」
そして──琴藍は、崩れ落ちた。
空水の瞳に、彼の背中に刺さった幾片もの硝子片が反射した。
空水の暴走したチカラが窓硝子を破り、襲ってきたそれから……直前で琴藍が盾になったのだ。
あんなに強く抱き寄せられたわけを、ようやく空水は悟った。
「……琴藍。……あなた。……あ、──」
頭で分かるより先に、涙が落ちた。
「いや──どうして──」
どうして涙が出るの。琴藍は大丈夫よ、死んだりしないわ!
頬の涙を、震える指がのびて拭き取った。
なんでもないように、彼は微笑んでいた。──いつものように。
「お行き。……きみは水琴を守っておいで。ぼくたちの大切なあの娘(こ)を」
……そして、それきり琴藍の声は聞こえなくなった。
炎の音が不思議なほど大きく、耳に押し寄せてきた。
──キ・イ・ン。
……アナタヲ、ワタシガ、……殺シタ。
「いやあっ!! ──いや!! いや!! いや!!」
狂ったように叫んだ。
琴藍。死ぬはずがないわ。だってわたしが愛してるもの。わたしが。わたしが! わたしが!!
愛してるなら、死ぬはずがない。こんなに、こんなに愛しているの。だからお願い、お願い──。
炎が変化した。
涙のように、急に雪に変わった。
真っ白な雪。吹雪いて空水と琴藍に降り積もる。
頭の芯が冷えていく。空水はやがて立ち上がった。
──あの子、今頃震えているわ。琴藍、あなたの大切な娘──。このままではあの子も凍え死んでしまう。
琴藍が雪に隠れて見えなくなると、取りつかれたように彼女は歩き出した。
吹雪の中、虚ろな瞳で何かを小さくつぶやきながら。
丘の上に月光樹が立っていた。
──そしてその横に、大きなものと小さなものと二つ、地から生えるように氷柱が立っている。
「────」
空水には分かった。
これは親方とその娘、七架だ。ここへ来る間にも氷柱は何本も見かけた。
これは、チカラを持たない人間たちが、空水のチカラに耐え切れずに変化したものなのだ。
空水はハッとして辺りを見渡した。
娘──わたしの娘。水琴は無事だろうか?
「お母さん」
反対側のほう、半透明の幹に寄りかかっていた娘を見つけて空水はほっとした。
「お母さん」
もう一度言って、水琴は抱きついてくる。
「七架とおじさんがね、急にいなくなっちゃったの。あたし置いていかれたのかな」
「大丈夫よ。水琴、みんな先に行ってるわ」
「お父さんも?」
「……そうよ」
空水は娘を抱き上げ、歩き出す。
この子──わたしと同じチカラを持ってるのね。今は潜在しているだけだけど、そのおかげで氷柱にならずにいられたんだわ。
湖には厚い氷が張っていた。
その上に雪が積もり、空水はそこを歩いた。
長く長く、何日もかけて。
◇
あと一日で渡り終えるという晩、寒さに震えながら座り込んでいる彼女たちの前に、ひとりの青年が立った。
金髪に赤い瞳という不思議な配色の青年だった。
自分の上着を眠る水琴にかけてやっている空水を見て、彼は荷物から毛布を出して無言で渡してきた。
そんなことをすれば、自分が困るのに。
「……わたし、能力者よ」
そう言えば、誰もが逃げていくだろう。
経験で分かっていた空水の言葉に、青年は少しだけ手を止め、じっと彼女の顔を見つめてもう一度毛布を押しつけた。
「──ならば尚更、これが必要だろう。疎外されている能力者こそ、あたたかいものが必要だ」
空水は驚いた。
「……あなたも、能力者なの?」
「いや」
しかし青年はかぶりを振る。
不思議な赤い瞳で彼女を見下ろして、言った。
「弟が能力者だった。俺は愚かで、いつも弟を邪魔者にしていた。でも彼がいなくなってから、その間違いに気づいた」
「亡くなったの……?」
「家を出ていったんだ、皆の知らないうちに。家族に聞いても行き先を誰も知らない。──俺は弟を探して何年も旅を続けている」
……こんな人間もいるのだ。空水の瞳に涙があふれた。
「あなたは綺麗な人だな」
ふっと青年は笑みを浮かべた。
「泣いたらだめだ。──もし自分のチカラを悔やんでいるのなら、俺と一緒に来ないか? 『母なる都』が能力者を集めている。詳しくは知らないが、チカラを少しだけ提供すれば、一生そこで不自由のない暮らしが出来るらしい。弟もそこにいるかもしれない、俺は今そこに向かってるんだ」
「…………」
そして空水はこの時、決心をするのだった。
この呪われたチカラを、自分の存在を、消してしまうために。
「行くわ」
力強い返答に、青年は微笑んだ。
「俺の名前は陽朱(ようしゅ)。これからの旅の安全を保障しよう。俺は用心棒には最適だぜ」
陽朱と共に、この日から空水は旅を始める。
そしてそれこそが、すべての物語の始まりだった。
《完》
【追記】
のちの話は、既に本編に記したとおりである。
また、陽朱の物語はまた別の話になる。
彼が何者であるかは、恐らく読者(あなた)が想像する通りだ。
◆
琴藍……呉藍月(くれあいづき)、花葉(かよう)に不慮の事故で逝去。享年26歳。『月光樹』の街、自然発生の花畑に眠る。
空水……金秋月(きんしゅうげつ)、輝白(きはく)に爆発事故に巻き込まれ、死去。享年27歳。『母なる都』の共同墓地に名を列ねる。
天使のように、わたしの前に。
◇
暗い闇を映す窓の向こうに、思わぬ人影を見た。
月光を背に、その人は「おいで、おいで」をした。
──でも、と空水(うつみ)は拘束された自分の身体を見下ろす。
硬い鎖で椅子に縛りつけられた、自分の身体を。
チカラはあるのに、コントロールが出来ない。
ゆえにこんなに重要な時にもチカラは働かない。
普段必要のない時にばかり、勝手に出てくるくせに。
「あなたはなぜここへ来たの?」
窓の外の人影に、空水は尋ねる。
小さな呟きだから、彼に聞こえているはずはない。
「馬鹿ね──ただの使用人のあなたがわたしを逃がしたりしたら、確実に罰されるわ」
空水は哀しそうにかぶりを振る。
月光で顔ははっきり分からないけれど、彼女にはそれが誰なのか分かっていた。
空水を支配する愚かな権力者、その末裔に仕える若者。
名前は琴藍(きいん)といった。
彼が庭の手入れをしているのを、彼女はよく見かけた。
庭師、なのだろう。
いつも薔薇や綺麗な花を持って、権力者の玩具になっている空水にそれをくれた。
彼だけが、空水に笑顔をくれた。
……チカラを持つ化物としてではなく、人間として──。
扉の外で足音が聞こえた。
ハッとして振り向いた空水の目に、一人の男が入ってくるのが映った。
街を四つ五つ持っているだけで世の中の人間すべてを支配した気でいる、……愚かな権力者だ。
「少しは頭が冷えたか?」
鼠邑(そゆう)は空水の前にしゃがみこみ、彼女の顔を覗き込む。空水は目をそらした。
「お前は俺が買ったんだ。村の連中から疎外されていたお前を、こうして邸に住まわせてやってるんだぜ。歯向かう真似なんて、してくれるなよ」
顎にのびてきた手に、噛みついた。
鼠邑は「つっ」と顔をしかめ、反対の手で空水の頬を叩いた。
「綺麗な顔をして、案外気が強いぜ──なあ、聞けよ。お前さえよけりゃ、目をかけてやってもいいんだぜ……」
鼠邑は空水の後頭部に手を回し、自分のほうへ引き寄せた。
無理矢理の口づけから辛うじて逃れた彼女は、強く相手を睨みつける。
「わたしにだってプライドはあるわ」
鼠邑は鼻で笑った。
顔が整っている分、その仕草は余計憎らしく見えた。
「化物にプライドだと? それは何かの冗談か? このままじゃお前は一人前に子供を産むことも出来ないんだぜ。なにしろ空水、お前は化物だからな! 誰もお前に触ろうとなんてしないさ。それを俺が人間の女にしてやろうっていうのに──」
鼠邑の言葉は、硝子の割れる音で遮られた。
さっきの人影が植木鉢で窓を破り、侵入してきたのだった。
「──あなた」
空水は驚いた。まだいたなんて!
「誰だっ!」
鼠邑は室内灯をつけ、侵入者を見て驚いた。
「お前──琴藍」
「これ以上は黙認出来なかった」
琴藍は穏やかに鼠邑を見つめる。
「彼女をもらっていくよ。……いいね、兄さん」
「────!」
自分の誤解に、初めてその時空水は気づいた。
琴藍はいつも腰が低くて──呑気で穏やかで、権力なんてものから無縁に見えた。
だからてっきり使用人だと思っていたのだ。
「ここから出ていくというのか?」
鼠邑は唇の片端を上げて笑う。
「ここにいれば次の支配者になれたのに! 馬鹿な奴だぜ。親父はお前を後継者にと選んでたんだ」
「知ってたよ」
鎖を解きながら、琴藍。
「勝手にするがいいさ。化物一匹と引き替えに、俺は次の座が手に入るんだからな。──親父には言っておいてやるぜ、お前が家出したってな」
鼠邑は部屋を出ていく。
所詮彼にとっては空水を「飼っていた」のもただの余興でしかない。
◇
「さて、どこへ行こうね」
のんびりと車を運転しながら──もちろん運転しているのは彼なのだが──琴藍はそんなことを言った。
後部座席には、前から用意していたのか荷物が積みこんである。ただし、袋ひとつだけだ。
窓からの風に髪の毛を押さえながら、空水はうつむいた。
「……わたし、あなたのこと使用人だって……思ってたわ」
「うん、そうらしいね」
ゆったりしたその答えを聞いて、空水は穴があったら入りたいくらい恥ずかしくなる。
小さくなる空水に、琴藍は笑いかけた。
「ああ、気持ちいいね! 今夜の風は、隣に好きな人がいるから尚更だ」
きょとんとする空水に、琴藍はわざわざ車を停めて振り返る。
草原を突き抜けて作られた広い車道に、他に車の影はない。
「ぼくはね、きみが好きだったんだよ。なんて綺麗な人なんだろうって──兄さんがきみを連れてきたとき、そう思った。……ごめんね、すぐに助けてあげられなくて。いろいろと準備があってね、……」
たまらなくなって、空水はその胸に抱きついていった。
……初めて、初めて人間として扱ってくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて泣いた。
背中にあたたかな手が回り、あやすように撫でる。
「ひどい目にあったね……空水、きみさえよければ、ぼくたち一緒にいよう。これからずっと、ずっと暮らそう」
月光の見守る中、二人はこうして結ばれた。
◇
家を提供してくれる村が見つかったのは、ようやく一ヶ月目のことだった。
それでも郊外に追いやられ、小さな小さな小屋だった。
琴藍の邸に比べたら、馬小屋のようなものだ。
申し訳なくて、空水はいつも「ごめんなさい」ばかり言っていた。
それでも──彼らに娘が生まれた。
娘の誕生は、自然空水を明るくした。
「この子……名前、水琴にしましょう」
生まれたばかりの赤ん坊を愛しそうに抱いて、彼女は夫に言った。
「わたしたちの名前を一文字ずつ取って、水琴よ。あなたとわたしの希望の星だもの」
「いい名前だね」
琴藍は微笑みながら空水から赤ん坊を抱き上げる。
「音がとてもいい。……ねえ空水、ミコトという発音はね、昔ある国で命という意味だったんだよ。
水琴──お前はきっと幸せになる」
幸せになれる──何者も、憎むことがなければ。純粋であるならば。
◇
水琴は5歳になり、教育を受ける歳になった。
けれど公共の教育施設は「化物」である空水の娘を拒否し、通うことは出来なかった。
水琴の勉強は、琴藍が見た。
空水も同様の理由でろくな教育も受けてこなかったので、ちゃんとしたことを教えられるのは彼しかいなかったのだ。
朝、水琴は父から宿題のノートをもらう。
一日中かかりきりで──無論おやつとお昼寝の時間は取るけれど──空水と一緒に、問題を解く。
仕事から戻ってきた琴藍が、添削をする。
夕食後、復習と予習だ。
琴藍の教え方は面白くて、水琴はすぐに色々なことを覚えた。
夜眠る前に数える羊の習性について、星の瞬きについて、宇宙の理について。
そんなことを琴藍はとても分かりやすく教えてくれた。
休日には家族で車で出かけて、ちょっと遠い草原でピクニックをした。
星の季節のことや、空を翔ぶ鳥のこと。
琴藍はそんな「野外授業」の達人だった。
「この星は色々なものに愛されてる。とりわけ風と水と、緑に。それはね、生命に愛されてるってことなんだよ。だから水琴、この星も彼らを愛し続けているんだ。そうでなくては、すぐに生命も途絶えてしまう。愛して愛されて、それがあるからこそ風も水も緑も変わらずにここに在る。もちろん、ぼくたち人間もね」
「じゃあお父さん、もし星が誰も愛さなくなったら、世界はどうなっちゃうの?」
「きっと何もなくなってしまうだろうね。砂が覆って何も生えなくなる。太陽も姿を消してしまうよ」
「琴藍」
いさめるように空水がふたりの会話の邪魔をした。
「水琴にそんなこと吹きこまないでちょうだい。大丈夫よ水琴、星の生命の続く限り、愛も永遠よ」
はい、と渡されたシュークリームの柔らかさに、水琴はすぐに目を輝かせた。
琴藍は笑って、娘のふわふわしたほっぺたを軽くつまむ。
「こら、そんなに食べると本当にシュークリームになるぞ」
「シュークリームにならなってもいいもん!」
「ぼくの娘は壮大な思考(ゆめ)を持っているらしい」
琴藍は空水を抱き寄せて、可笑しそうに囁く。「あなたの教育の成果よ」と笑い返す空水。
村人に会えば石を投げられる。自分を守る琴藍はいつも傷だらけだ。
でも、幸せだった。
──幸せだった。
◇
「水琴まで石を投げられるようになったの」
ある晩、空水はそう打ち明けた。
「同い年の男の子に、一番ひどくあたられるらしいの……ねえ琴藍、あたしどうしたらいいのかしら」
空水は泣いていた。琴藍が抱いてやったが、泣きやまなかった。
自分のために娘にまで被害が及び始めたのが、よほどショックなのだろう。
空水は村にとって害を及ぼすだけの人間だった。
隣村とを繋ぐ大事な橋を壊し、井戸を枯らす。
そのすべてがコントロール不能のチカラによるものだ。
彼女にもどうすることも出来ないのだ。だってチカラは、いつ飛び出てくるか分からない。
「わたし……恐いわ。自分が恐くてたまらない。わたしの中の化物が、いつ出てきて暴れ出すか分からないもの」
「そんなことを言うんじゃない」
琴藍は優しく諭す。頬にキスを送りながら、囁いてくれる。
「きみの中にあるものも、ぼくにとっては愛の対象だよ。きみが憎むきみのすべてを、ぼくは愛してる」
──彼はそう言ったけれど。
やがて運命の歯車は、大きく回転する。
◇
その冬は大量の雪が降った。
それまでにも深刻な問題を抱えていた小さな村の村長は、これ以上この土地ではやっていけないと判断し、村民に「南の地へ移動する」と指示した。
人々は家と別れを告げ、家畜はよほどの例外を除いて雪の中に置いていかれた。
琴藍も少ない荷物を持ち、仕事場の親方から幌馬車を譲ってもらって家族を連れて出た。
琴藍をまともに扱ってくれたのは、この親方だけだった。
「移動中は俺と一緒に行動しろ。さもなきゃお前らおいてけぼりくらうぜ」
親方のその言葉に甘え、琴藍たちは彼と共に移動した。
親方には13歳のひとり娘がいて、水琴と歳は離れていたが、彼女もやがて水琴と接触するようになった。
荒野で夜を明かすときも、少しの間なら話をしてくれるようにもなった。
ある日、幌馬車の中で水琴が握っている一輪の花を見て、空水は尋ねた。
「珍しいわね、この季節に花なんて……それ、どうしたの?」
「これね、七架(ななか)が作ったんだって。すごいでしょ、お花も作れちゃうのよ」
よく見るとそれは本当によく出来た造花だった。
ふいに幌馬車が止まった。
思わず水琴を抱き寄せた空水の耳に、「今夜はこの街で一宿だよ」という夫の声が聞こえてきた。
そこは大きな湖沿いの街で、明日の朝に出る船で琴藍たちはその湖を渡るのだ。
「この街の人々も近いうちに移動するらしい」
飯店で遅い夕食をとりながら、親方はそう言った。
「まったく今年の雪はひどいもんだ! これじゃここら一帯どの街の農作物も駄目だろうぜ」
ふと、空水は席を立った。
「どうした、空水」
声をかけた琴藍は、彼女の顔が真っ青なことに気づいた。最近彼女は体調が良くなかったのだ。
「先に馬車へ帰っておいで。暖房器具をすべて使っていいから」
空水の噂はそこはかとなく誰かが流しているようで、宿も取れない。寒くても馬車で寝るしかないのだ。
そしてその数十分後、食べ終えた水琴を連れ、飯店を出た琴藍は不吉な音を聞いた。
──湖の背後に高々とそびえたつ雪山がある。それが唸りを上げているのだった。
街の人間は「雪崩だ、逃げろ!」と叫び、琴藍の横を走り抜けていく。
「……なんだあれは」
親方は、湖のほうから突然沸き上がった赤いものを見て目をむいた。
赤い……どう見ても炎にしか見えない。
しかしなぜ雪があるのに、あんな速度でこちらに向かってくるのか?
「街が呑み込まれる……焼かれてしまう!」
誰かが悲鳴を上げた。
「お父さん……」
心配そうに自分の袖をつかむ水琴の手を、琴藍は握ってやる。
彼には分かった──この炎が、誰が起こしているものなのか。
以前にもこんなことがあった。以前……ずっと前、まだ琴藍が権力者を父と呼び、邸に住んでいた頃。隣町で同じことがあった。
「親方」
琴藍はふと振り返り、水琴を抱き上げて彼に渡した。
「すみません、娘を頼みます。街のはずれに大きな月光樹(げっこうじゅ)がありましたね、その根元に連れて行ってください。あそこなら多分、安全ですから」
「……琴藍?」
「お父さん」
琴藍は娘の髪の毛をくしゃっと撫でる。
「大丈夫。きっと行くから」
そしてその額に口づけて、親方に一度ぺこりと頭を下げると、琴藍は駆けていく。
人々が逃げるところを逆方向に。
◇
──化物……空水、お前は化物だ!
──空水。お前は呪われた娘。
──この村から出ていきなさい! 二度と来ないで!
(……どうすればいいの)
空水の中で、また「あれ」が暴れ出した。過去の忌まわしい記憶と共に。
身体が熱くてたまらない。
入った宿屋で水瓶を見つけた。それを飲んでもまだ、熱が下がらない。
いつのまにか建物を炎が囲んでいる──いや、この炎は最初からあったのだろうか。意識がはっきりとしない。
(ねえ、わたしの意志じゃなかった)
(こんなこと望まなかったわ)
──でもいつも、「あれ」は暴れ出す。望もうが望むまいがおかまいなしに。
(琴藍、あなたのおかげで幸せだったわ)
彼女はもう、疲れていた。
夫まで娘まで巻き添えにして生きていくなんて、これ以上出来ない。
空水は炎の中に、ナイフを見つける。宿の主人がそのままにして逃げていったのだ。
ふわりと浮き上がる。
(ねえ、お願いよ。そのままこっちに来て。そのままわたしの胸へ刺さってちょうだい)
ナイフはふらふらと揺れているだけだ。
──最初からこうすればよかったのだ。
水琴が石を投げられる前にこうしていれば……そうすれば、娘は琴藍が幸せにしてくれるに違いなかったのに。
ナイフから室内へと、彼女はぼんやり視線を動かす。
なぜこんなに赤いのかしら──ああ、そうね。炎があったんだわ、ここには。
突然空水の身体を、誰かが強い力で胸に抱き込んだ。
強く強く……強すぎて、息が出来なくなるくらい。
(わたし、殺されるのね)
おぼろげにそう思った。
あのナイフのようにふらふらと定まらない頭でそう考えた空水は、呟いた。
「殺してちょうだい」
「ぼくには出来ないよ」
優しくいさめる声が、耳に響いた。
──……琴藍?
「空水……よく聞くんだ。月光樹を覚えているかい」
懐かしいその声に、彼女は思い出す──覚えている。背の高い綺麗な大樹。あれは確か、丘の上にあったはず。
「そこで水琴が待っている。きみはそこへ行って……いいね、これからは親方の言うことをよくお聞き。彼と一緒に移動するんだ」
どうして、そんなことを?
ぼうっとしながら空水は琴藍の顔を見ようと身体を離す。
琴藍の顔は、いつもと変わらない。穏やかな微笑みを浮かべている。
「琴藍……?」
「ああ、やっとぼくの名前を呼んでくれたね。そうだ、きみの夫だよ。可愛い空水」
そして──琴藍は、崩れ落ちた。
空水の瞳に、彼の背中に刺さった幾片もの硝子片が反射した。
空水の暴走したチカラが窓硝子を破り、襲ってきたそれから……直前で琴藍が盾になったのだ。
あんなに強く抱き寄せられたわけを、ようやく空水は悟った。
「……琴藍。……あなた。……あ、──」
頭で分かるより先に、涙が落ちた。
「いや──どうして──」
どうして涙が出るの。琴藍は大丈夫よ、死んだりしないわ!
頬の涙を、震える指がのびて拭き取った。
なんでもないように、彼は微笑んでいた。──いつものように。
「お行き。……きみは水琴を守っておいで。ぼくたちの大切なあの娘(こ)を」
……そして、それきり琴藍の声は聞こえなくなった。
炎の音が不思議なほど大きく、耳に押し寄せてきた。
──キ・イ・ン。
……アナタヲ、ワタシガ、……殺シタ。
「いやあっ!! ──いや!! いや!! いや!!」
狂ったように叫んだ。
琴藍。死ぬはずがないわ。だってわたしが愛してるもの。わたしが。わたしが! わたしが!!
愛してるなら、死ぬはずがない。こんなに、こんなに愛しているの。だからお願い、お願い──。
炎が変化した。
涙のように、急に雪に変わった。
真っ白な雪。吹雪いて空水と琴藍に降り積もる。
頭の芯が冷えていく。空水はやがて立ち上がった。
──あの子、今頃震えているわ。琴藍、あなたの大切な娘──。このままではあの子も凍え死んでしまう。
琴藍が雪に隠れて見えなくなると、取りつかれたように彼女は歩き出した。
吹雪の中、虚ろな瞳で何かを小さくつぶやきながら。
丘の上に月光樹が立っていた。
──そしてその横に、大きなものと小さなものと二つ、地から生えるように氷柱が立っている。
「────」
空水には分かった。
これは親方とその娘、七架だ。ここへ来る間にも氷柱は何本も見かけた。
これは、チカラを持たない人間たちが、空水のチカラに耐え切れずに変化したものなのだ。
空水はハッとして辺りを見渡した。
娘──わたしの娘。水琴は無事だろうか?
「お母さん」
反対側のほう、半透明の幹に寄りかかっていた娘を見つけて空水はほっとした。
「お母さん」
もう一度言って、水琴は抱きついてくる。
「七架とおじさんがね、急にいなくなっちゃったの。あたし置いていかれたのかな」
「大丈夫よ。水琴、みんな先に行ってるわ」
「お父さんも?」
「……そうよ」
空水は娘を抱き上げ、歩き出す。
この子──わたしと同じチカラを持ってるのね。今は潜在しているだけだけど、そのおかげで氷柱にならずにいられたんだわ。
湖には厚い氷が張っていた。
その上に雪が積もり、空水はそこを歩いた。
長く長く、何日もかけて。
◇
あと一日で渡り終えるという晩、寒さに震えながら座り込んでいる彼女たちの前に、ひとりの青年が立った。
金髪に赤い瞳という不思議な配色の青年だった。
自分の上着を眠る水琴にかけてやっている空水を見て、彼は荷物から毛布を出して無言で渡してきた。
そんなことをすれば、自分が困るのに。
「……わたし、能力者よ」
そう言えば、誰もが逃げていくだろう。
経験で分かっていた空水の言葉に、青年は少しだけ手を止め、じっと彼女の顔を見つめてもう一度毛布を押しつけた。
「──ならば尚更、これが必要だろう。疎外されている能力者こそ、あたたかいものが必要だ」
空水は驚いた。
「……あなたも、能力者なの?」
「いや」
しかし青年はかぶりを振る。
不思議な赤い瞳で彼女を見下ろして、言った。
「弟が能力者だった。俺は愚かで、いつも弟を邪魔者にしていた。でも彼がいなくなってから、その間違いに気づいた」
「亡くなったの……?」
「家を出ていったんだ、皆の知らないうちに。家族に聞いても行き先を誰も知らない。──俺は弟を探して何年も旅を続けている」
……こんな人間もいるのだ。空水の瞳に涙があふれた。
「あなたは綺麗な人だな」
ふっと青年は笑みを浮かべた。
「泣いたらだめだ。──もし自分のチカラを悔やんでいるのなら、俺と一緒に来ないか? 『母なる都』が能力者を集めている。詳しくは知らないが、チカラを少しだけ提供すれば、一生そこで不自由のない暮らしが出来るらしい。弟もそこにいるかもしれない、俺は今そこに向かってるんだ」
「…………」
そして空水はこの時、決心をするのだった。
この呪われたチカラを、自分の存在を、消してしまうために。
「行くわ」
力強い返答に、青年は微笑んだ。
「俺の名前は陽朱(ようしゅ)。これからの旅の安全を保障しよう。俺は用心棒には最適だぜ」
陽朱と共に、この日から空水は旅を始める。
そしてそれこそが、すべての物語の始まりだった。
《完》
【追記】
のちの話は、既に本編に記したとおりである。
また、陽朱の物語はまた別の話になる。
彼が何者であるかは、恐らく読者(あなた)が想像する通りだ。
◆
琴藍……呉藍月(くれあいづき)、花葉(かよう)に不慮の事故で逝去。享年26歳。『月光樹』の街、自然発生の花畑に眠る。
空水……金秋月(きんしゅうげつ)、輝白(きはく)に爆発事故に巻き込まれ、死去。享年27歳。『母なる都』の共同墓地に名を列ねる。
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