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第二話 手痛い傷と蒼い涙
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(婚約直前で破談か……平井さんじゃなくても、泣くわなぁ)
初めて見たゆりえの写真に少し陰があったのは、そのためだろうか。
良治の知り合いでそこまで泥沼の話は聞いたことがなかった。ゴタゴタがあっても、なんとか挙式すると元通りの仲良し夫婦になっているケースが多い。ただ、最近はスピード離婚も増えてしまっているけど。
ゆりえの場合は、どちらかにそれ相応の原因があったはずだ。彼女は結婚に浮かれたりしそうにないし、何かあっても両親の存在があるので簡単には破談に応じないはずだ。
良治は再びコーヒーを一口含んだ。さっきとは違う苦さだ。同じコーヒーなのに、気持ち次第で味も変わることを舌で実感する。
「彼……二股かけてたんです……別れたって言ったのに」
良治はペットボトルを取り落としそうになって慌てて持ち直した。
「私と付き合って、しばらくして、別の女がいるらしいって感じました。ある時のデートで彼のスマホに頻繁に通知があって……トイレのスキに見てしまって……確信に変わりました」
元彼の浮気相手は、職場の後輩とのことだった。休日出勤に示し合わせて仕事の後に楽しんでいたらしい。
ずいぶん車内が冷えてきているように思えた。日差しは柔らかくて暖かいはずなのに。
良治には口を差し込む気は起こらなかった。誰にも言えない傷を抱えたまま、ゆりえは2年もの間、辛い事実と向き合って来たのだ。
「その後、彼を問いただしました。そして、数週間経ってから別れたと聞きました。アカウントも削除されていました……でも」
元彼は二股を継続していたらしい。職場で浮気しているのだ。すぐ近くに相手がいるのである。そんな環境の男女がそう簡単に別れるわけがない。安易に元彼を信じてしまったゆりえもゆりえだが、元彼の事が好きだったので、きっと信じたかったのだろう。
交際継続がバレたのは、お互いの両親に挨拶に行ってからのことであった。ゆりえの両親に挨拶に行ったことを、どこかで知った浮気相手が激昂して元彼に連絡してきたのである。
この時点でも元彼は、ゆりえと浮気相手をのらりくらりと天秤にかけていたのだ。鳴り止まない電話と、そこから漏れ聞こえる、女性の喚き声で事態を悟ったゆりえは、慰謝料とともに元彼との結婚話を破談とした。
「結局、私も次があるかわからないので……彼のことを信じたかったんです。でも、現実を突きつけられて……悩んで悩んで、別れることにしました」
明るく爽やかな晴天が、ゆりえの言葉をより重くする。
良治は、黙って頷くだけに決めた。数回デートをしたけど、彼女が内面をここまで語ってくれた覚えはない。デートの話題は仕事のことや趣味の絵画や写真の話などが多く、詰めそうで詰めきれない距離を感じていたのだ。それはきっと、ゆりえも同じなのだろう。
それにしても、ずいぶんと思い切った距離の詰め方である。人によっては話題の重さに耐えきれず、車を降りて帰ってしまうのでないか、と思う。
(どうして、こんな触れたくもないことを、俺に言うんだろう……?)
モヤモヤとした良治の疑問をよそに、赤信号で停止したと同時にゆりえはウィンカーを点灯させた。『雲が浦入り口』と書かれた案内標識が見える。
ほどなく、雲が浦の駐車場にレモンイエローのゆりえの軽自動車が入り、入り口から最も遠い隅の一角に駐車した。もともと車がまばらな駐車場である。周囲は時折吹く風の音以外は無音であった。キラキラと光を反射する湖がよく見える。
サイドブレーキを引いて停車すると、ゆりえはハンドルを握りしめたまま、押し黙っていた。
「初めてきたけど、アタマを空にしたい時に来る……納得の景色だな」
ポツリと良治が呟いた。視界の端では、ゆりえが心なしか震えている。
ギュギュ、とハンドルの皮部分が擦れる音がしたと同時に、鼻をすする音。
「ご……ごめんなさい……こんなこと、市川さんに話すことじゃないのに……」
「大丈夫です……今まで、一人で抱えてらしたんですよね、ずっと」
「……明るくて、優しくて……とっても好きだったんです……あの時は本当に悔しくて……お金よりも彼の『ごめんなさい』がほしかった……それだけで良かったのに」
ぽたり、とダークブラウンのスラックスに涙がこぼれ、次第に粒が増えていく。
カチャリ、とダッシュボードにサングラスが置かれ、嗚咽が漏れる。
ブルルル、とアイドリングしたままのエンジン音と、顔を覆ったゆりえの押し殺した泣き声。
「どうして……どうして……新しい人に出会えたのに……整理がついていたはずなのに……」
良治はわずかに窓を開けた。だだっ広い駐車場で、ゆりえの泣き声が誰かの耳に入ることはあるまい。
彼女の胸中はわからないが、一人でずっと抱えるには辛い傷である。きっと打ち解けた誰かに吐き出したかったのだろう。
良治なりに思いを巡らせながら、嗚咽で震える彼女の肩をゆっくりとさすり、黙って外をぼんやり眺める。
湖に水鳥が着水し、湖の光が少し歪んだ。自分はここまで相手の事を想ったことは皆無に等しい。
合コンで出会った女性たちも、関係を結んだ後はそれきりで、お互い仕事が忙しいという理由でデートなど殆どなかった。ただ、隣のゆりえを見た時、多忙なのは単なる言い訳であることを悟った。
結局、良治は、ゆりえの様に「相手を想う」ことを避けていたのだ。手痛い傷を負いたくなくて、必要以上に深入りすることから逃げ続ける自分に気が付かないフリをしていのだ。
駐車場に植えられている並木が揺れて、ヒュウと窓から隙間風が入る。
手首で涙を拭うゆりえを見て、良治はゴソゴソとポケットからハンドタオルを差し出した。
「今朝、待ち合わせ前にコンビニで買ったから、まだキレイだよ」
コーヒーを買う時に、ハンカチがないのに気がついたのであった。流石にデートでズボンをタオル代わりにするわけにもいかない。独特のデザインが特徴のこのハンドタオルを良治はすでに5枚持っており、6枚目を購入したのだが、今回はゆりえのものになりそうだった。
少しはにかんで受け取るゆりえ。涙声で「洗って返す」というのを押し留め「コンビニタオルだから、あげますよ」ととだけ返して、良治は肩に触れたままぼんやりと湖を眺めていた。
少し日差しが傾いただろうか。
ゆりえのしゃくりあげも収まり、スンスンと鼻音が聞こえる程度だ。良治が添えた手にゆりえの手が重なる。
「市川さん……ありがとう……」
「そこら辺、散歩しましょうよ、大切な場所なんでしょ? 平井さんにとって」
本当は車内の空気があまりに重たかったので、外の空気を吸いたかったのである。
良治は大きく伸びをして、少しひんやりする湖畔の空気を思い切り吸い込んだ。ダウンジャケットのチャックを引き上げながら『遊歩道』と書かれた看板に向かって歩き出し、後ろを振り返る。
ゆりえは後部座席からアイボリーのマウンテンパーカーを取り出して羽織り、小さな皮ポシェットを肩にかけながら良治に歩み寄ってきたが、うつむき加減であるのが気になった。覗き込むと、顔をそむけてしまう。
「ちょっと……ボート乗り場のトイレで……お化粧直したいです……」
涙で化粧が崩れてしまったのだ。デートはこれからという時に、ぐしゃぐしゃの化粧では、ゆりえでなくても化粧直しをしたくなる。「どうぞ」と告げて、良治は彼女のパーカーのフードを被せてあげた。
思わず顔をあげるゆりえ。涙でシャドウが崩れて、いわゆる「パンダ目」になってしまっている。しかし、クリっとした目元は、パンダでも充分な愛らしさであった。
「うつむいたままだと、危ないよ? こうすれば、多少は前向いて歩けると思って」
こっくりとうなずいて、回れ右したゆりえは『ボート乗り場』と書かれた色あせた看板が掲げられている建物に小走りで向かっていった。良治は踏みしめるような歩調で、雲が浦を眺めながら建物に歩を進める。
ゆりえの後ろ姿を追いながら、時間がゆったりと流れる場所だな、と思う。なぜ、こんなにも時間の流れが違うのだろう。
慌ただしい日常から離れて、心身ともにリフレッシュするには良い場所だ、と率直に感じた。
乗り場の建物のすぐ近くにたどり着き、フェンスにもたれかかって湖面を見渡す。
愛用の一眼レフを置いてきたのを後悔しながら、ポケットからスマホを取り出して、数枚撮った。
「深い傷に、大切な場所か……」
疑念を吐き出すかのように、空を見上げて大きくため息をつく。
澄み切った冬の青空。湖面から吹き付ける風が冷たい。ダウンジャケットのチャックを喉元まで引き上げてブルッと身震いした。
数艇のボートが湖面に浮かんでいる。今も桟橋からカップルらしき男女が漕ぎ出していったばかりであった。ボートのオールさばきに四苦八苦している男性。揺れるボートにきゃあきゃあ言いながら相手を応援している女性を見て、良治の顔がほころんだ。
「市川さん……お待たせしました……メイク、変じゃないですか?」
声をかけられ、振り向くとゆりえがポシェットを抱えてモジモジしながら、待ち人を見ている。
良治がうなずいて、ゆりえに歩み寄った時、桟橋から歓声が聞こえた。
声の方に顔を向けると、家族連れがスワンボートから降りてきたところだった。父親が先に降り、幼稚園くらいの男の子と母親を迎え入れるように手を貸していた。男の子が桟橋で興奮気味にぴょんぴょん跳ねる。両親からたしなめられつつ、手を繋がれてご満悦の表情であった。
視線を戻してゆりえを見る。ポシェットを握りしめたまま、家族連れに見入っていた。
「ボート、乗船受付が15時半だって。平井さん、急ぎましょ」
ゆりえを促すように歩調を早めて、良治は受付に向かう。現在15時15分。「え? え?」と状況が飲み込めない彼女だが、パタパタと音を立てて良治に続く。
受付を済ませた良治がゆりえを桟橋に招き入れて、二人揃って立つ。チケットを受け取った係員のおじさんが曳いて来たのは、白鳥が愛らしいスワンボートだ。良治が先に入って、ゆりえを手招きする。
「て……手漕ぎボートじゃないんですか?」
「それもいいんですけどね……俺、オール漕ぐとか慣れてないし。それに」
良治はボートのペダルを思い切り踏み込んだ。バシャッ、バシャッと重い水音を立てながらボートがゆっくりと進み出す。
「平井さん……ゆりえさんと、一緒に前向いて進みたいから、コレにしました」
真っ赤な顔をしてハンドルを握りしめて、良治はペダルを漕ぎ続けた。次第に水音が小気味好い音を立て、ボートの速度が上がっていく。
ゆりえも腕まくりをしてハンドルを握ってペダルを踏むと、水音は激しくなり、周囲の景色がどんどんと後ろに流れていった。
初めて見たゆりえの写真に少し陰があったのは、そのためだろうか。
良治の知り合いでそこまで泥沼の話は聞いたことがなかった。ゴタゴタがあっても、なんとか挙式すると元通りの仲良し夫婦になっているケースが多い。ただ、最近はスピード離婚も増えてしまっているけど。
ゆりえの場合は、どちらかにそれ相応の原因があったはずだ。彼女は結婚に浮かれたりしそうにないし、何かあっても両親の存在があるので簡単には破談に応じないはずだ。
良治は再びコーヒーを一口含んだ。さっきとは違う苦さだ。同じコーヒーなのに、気持ち次第で味も変わることを舌で実感する。
「彼……二股かけてたんです……別れたって言ったのに」
良治はペットボトルを取り落としそうになって慌てて持ち直した。
「私と付き合って、しばらくして、別の女がいるらしいって感じました。ある時のデートで彼のスマホに頻繁に通知があって……トイレのスキに見てしまって……確信に変わりました」
元彼の浮気相手は、職場の後輩とのことだった。休日出勤に示し合わせて仕事の後に楽しんでいたらしい。
ずいぶん車内が冷えてきているように思えた。日差しは柔らかくて暖かいはずなのに。
良治には口を差し込む気は起こらなかった。誰にも言えない傷を抱えたまま、ゆりえは2年もの間、辛い事実と向き合って来たのだ。
「その後、彼を問いただしました。そして、数週間経ってから別れたと聞きました。アカウントも削除されていました……でも」
元彼は二股を継続していたらしい。職場で浮気しているのだ。すぐ近くに相手がいるのである。そんな環境の男女がそう簡単に別れるわけがない。安易に元彼を信じてしまったゆりえもゆりえだが、元彼の事が好きだったので、きっと信じたかったのだろう。
交際継続がバレたのは、お互いの両親に挨拶に行ってからのことであった。ゆりえの両親に挨拶に行ったことを、どこかで知った浮気相手が激昂して元彼に連絡してきたのである。
この時点でも元彼は、ゆりえと浮気相手をのらりくらりと天秤にかけていたのだ。鳴り止まない電話と、そこから漏れ聞こえる、女性の喚き声で事態を悟ったゆりえは、慰謝料とともに元彼との結婚話を破談とした。
「結局、私も次があるかわからないので……彼のことを信じたかったんです。でも、現実を突きつけられて……悩んで悩んで、別れることにしました」
明るく爽やかな晴天が、ゆりえの言葉をより重くする。
良治は、黙って頷くだけに決めた。数回デートをしたけど、彼女が内面をここまで語ってくれた覚えはない。デートの話題は仕事のことや趣味の絵画や写真の話などが多く、詰めそうで詰めきれない距離を感じていたのだ。それはきっと、ゆりえも同じなのだろう。
それにしても、ずいぶんと思い切った距離の詰め方である。人によっては話題の重さに耐えきれず、車を降りて帰ってしまうのでないか、と思う。
(どうして、こんな触れたくもないことを、俺に言うんだろう……?)
モヤモヤとした良治の疑問をよそに、赤信号で停止したと同時にゆりえはウィンカーを点灯させた。『雲が浦入り口』と書かれた案内標識が見える。
ほどなく、雲が浦の駐車場にレモンイエローのゆりえの軽自動車が入り、入り口から最も遠い隅の一角に駐車した。もともと車がまばらな駐車場である。周囲は時折吹く風の音以外は無音であった。キラキラと光を反射する湖がよく見える。
サイドブレーキを引いて停車すると、ゆりえはハンドルを握りしめたまま、押し黙っていた。
「初めてきたけど、アタマを空にしたい時に来る……納得の景色だな」
ポツリと良治が呟いた。視界の端では、ゆりえが心なしか震えている。
ギュギュ、とハンドルの皮部分が擦れる音がしたと同時に、鼻をすする音。
「ご……ごめんなさい……こんなこと、市川さんに話すことじゃないのに……」
「大丈夫です……今まで、一人で抱えてらしたんですよね、ずっと」
「……明るくて、優しくて……とっても好きだったんです……あの時は本当に悔しくて……お金よりも彼の『ごめんなさい』がほしかった……それだけで良かったのに」
ぽたり、とダークブラウンのスラックスに涙がこぼれ、次第に粒が増えていく。
カチャリ、とダッシュボードにサングラスが置かれ、嗚咽が漏れる。
ブルルル、とアイドリングしたままのエンジン音と、顔を覆ったゆりえの押し殺した泣き声。
「どうして……どうして……新しい人に出会えたのに……整理がついていたはずなのに……」
良治はわずかに窓を開けた。だだっ広い駐車場で、ゆりえの泣き声が誰かの耳に入ることはあるまい。
彼女の胸中はわからないが、一人でずっと抱えるには辛い傷である。きっと打ち解けた誰かに吐き出したかったのだろう。
良治なりに思いを巡らせながら、嗚咽で震える彼女の肩をゆっくりとさすり、黙って外をぼんやり眺める。
湖に水鳥が着水し、湖の光が少し歪んだ。自分はここまで相手の事を想ったことは皆無に等しい。
合コンで出会った女性たちも、関係を結んだ後はそれきりで、お互い仕事が忙しいという理由でデートなど殆どなかった。ただ、隣のゆりえを見た時、多忙なのは単なる言い訳であることを悟った。
結局、良治は、ゆりえの様に「相手を想う」ことを避けていたのだ。手痛い傷を負いたくなくて、必要以上に深入りすることから逃げ続ける自分に気が付かないフリをしていのだ。
駐車場に植えられている並木が揺れて、ヒュウと窓から隙間風が入る。
手首で涙を拭うゆりえを見て、良治はゴソゴソとポケットからハンドタオルを差し出した。
「今朝、待ち合わせ前にコンビニで買ったから、まだキレイだよ」
コーヒーを買う時に、ハンカチがないのに気がついたのであった。流石にデートでズボンをタオル代わりにするわけにもいかない。独特のデザインが特徴のこのハンドタオルを良治はすでに5枚持っており、6枚目を購入したのだが、今回はゆりえのものになりそうだった。
少しはにかんで受け取るゆりえ。涙声で「洗って返す」というのを押し留め「コンビニタオルだから、あげますよ」ととだけ返して、良治は肩に触れたままぼんやりと湖を眺めていた。
少し日差しが傾いただろうか。
ゆりえのしゃくりあげも収まり、スンスンと鼻音が聞こえる程度だ。良治が添えた手にゆりえの手が重なる。
「市川さん……ありがとう……」
「そこら辺、散歩しましょうよ、大切な場所なんでしょ? 平井さんにとって」
本当は車内の空気があまりに重たかったので、外の空気を吸いたかったのである。
良治は大きく伸びをして、少しひんやりする湖畔の空気を思い切り吸い込んだ。ダウンジャケットのチャックを引き上げながら『遊歩道』と書かれた看板に向かって歩き出し、後ろを振り返る。
ゆりえは後部座席からアイボリーのマウンテンパーカーを取り出して羽織り、小さな皮ポシェットを肩にかけながら良治に歩み寄ってきたが、うつむき加減であるのが気になった。覗き込むと、顔をそむけてしまう。
「ちょっと……ボート乗り場のトイレで……お化粧直したいです……」
涙で化粧が崩れてしまったのだ。デートはこれからという時に、ぐしゃぐしゃの化粧では、ゆりえでなくても化粧直しをしたくなる。「どうぞ」と告げて、良治は彼女のパーカーのフードを被せてあげた。
思わず顔をあげるゆりえ。涙でシャドウが崩れて、いわゆる「パンダ目」になってしまっている。しかし、クリっとした目元は、パンダでも充分な愛らしさであった。
「うつむいたままだと、危ないよ? こうすれば、多少は前向いて歩けると思って」
こっくりとうなずいて、回れ右したゆりえは『ボート乗り場』と書かれた色あせた看板が掲げられている建物に小走りで向かっていった。良治は踏みしめるような歩調で、雲が浦を眺めながら建物に歩を進める。
ゆりえの後ろ姿を追いながら、時間がゆったりと流れる場所だな、と思う。なぜ、こんなにも時間の流れが違うのだろう。
慌ただしい日常から離れて、心身ともにリフレッシュするには良い場所だ、と率直に感じた。
乗り場の建物のすぐ近くにたどり着き、フェンスにもたれかかって湖面を見渡す。
愛用の一眼レフを置いてきたのを後悔しながら、ポケットからスマホを取り出して、数枚撮った。
「深い傷に、大切な場所か……」
疑念を吐き出すかのように、空を見上げて大きくため息をつく。
澄み切った冬の青空。湖面から吹き付ける風が冷たい。ダウンジャケットのチャックを喉元まで引き上げてブルッと身震いした。
数艇のボートが湖面に浮かんでいる。今も桟橋からカップルらしき男女が漕ぎ出していったばかりであった。ボートのオールさばきに四苦八苦している男性。揺れるボートにきゃあきゃあ言いながら相手を応援している女性を見て、良治の顔がほころんだ。
「市川さん……お待たせしました……メイク、変じゃないですか?」
声をかけられ、振り向くとゆりえがポシェットを抱えてモジモジしながら、待ち人を見ている。
良治がうなずいて、ゆりえに歩み寄った時、桟橋から歓声が聞こえた。
声の方に顔を向けると、家族連れがスワンボートから降りてきたところだった。父親が先に降り、幼稚園くらいの男の子と母親を迎え入れるように手を貸していた。男の子が桟橋で興奮気味にぴょんぴょん跳ねる。両親からたしなめられつつ、手を繋がれてご満悦の表情であった。
視線を戻してゆりえを見る。ポシェットを握りしめたまま、家族連れに見入っていた。
「ボート、乗船受付が15時半だって。平井さん、急ぎましょ」
ゆりえを促すように歩調を早めて、良治は受付に向かう。現在15時15分。「え? え?」と状況が飲み込めない彼女だが、パタパタと音を立てて良治に続く。
受付を済ませた良治がゆりえを桟橋に招き入れて、二人揃って立つ。チケットを受け取った係員のおじさんが曳いて来たのは、白鳥が愛らしいスワンボートだ。良治が先に入って、ゆりえを手招きする。
「て……手漕ぎボートじゃないんですか?」
「それもいいんですけどね……俺、オール漕ぐとか慣れてないし。それに」
良治はボートのペダルを思い切り踏み込んだ。バシャッ、バシャッと重い水音を立てながらボートがゆっくりと進み出す。
「平井さん……ゆりえさんと、一緒に前向いて進みたいから、コレにしました」
真っ赤な顔をしてハンドルを握りしめて、良治はペダルを漕ぎ続けた。次第に水音が小気味好い音を立て、ボートの速度が上がっていく。
ゆりえも腕まくりをしてハンドルを握ってペダルを踏むと、水音は激しくなり、周囲の景色がどんどんと後ろに流れていった。
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