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イルカは高く回転し
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退院してからの私は自室から出ることはなくなった。高校にも行っていない。自暴自棄という言葉がちょうど当てはまる。何もする気にならないのだ。両親が心配して扉越しで声をかけてくるが、それに反応するのも面倒である。
一日の大半はベッドで寝ころび、ただ時間が過ぎるのを待つ。まだ受け入れられない現実。悪夢かと思いもしたが、部屋にある義足が現実だと語りかける。
トイレや風呂に向かうとき、仕方がなく義足を付けるがそれは冷たく、装着も痛く感じた。次第に付けるのをやめ、トイレや風呂の頻度も減っていった。たまに、右足に痛みが走る。ないと分かっていても、確認してしまう。膝から下にかけて、私の右足は確かになくなっていた。それでも脳が作り出した痛みは、紛れもなく私に届いている。
私は何度枕を濡らしただろうか。高校の卒業も危うくなっていたが、そんなことはどうでもよかった。両親たちは次第に声をかける頻度は減っていき、私が回復するのを待っていただろう。
私は知らぬ間に、この部屋だけで半年以上過ごしていた。同級生はいつの間にか卒業している。私も卒業できていたらしい。そんなことを両親が扉越しで言っていた。部屋の隅に置いてある卒業証書の入った筒は、未だに開封していないけど。
私は今日も扉の前に置かれた食事を二、三口食べる。私はどんな声をしていたか。この口は生きるために必要な最低限の栄養しか補給しないツールとなっていた。生きる意味を見出せなかったが、死ぬのは怖かった。こんな生きているのか、死んでいるのか、分からない状況でも。
それからまた一年が経った。扉の向こうに、聞き覚えのある声がする。おそらく、監督だと思う。入院してから退院後も、定期的に様子を見に来ていたのだ。私の異常に気がつかなかったのと、プレッシャーを与えていたことに罪悪感があったそうだ。正直、どうでもよかった。私自身が見て見ぬふりをして平然を装っていたのだから、他人が気づくことはできないに決まっている。
「調子はどうだ。今日は紹介したい人がいるんだが」
私は反応しない。というより、そんな気力がない。今度は監督ではなく、別の人の声がした。
「初めまして。私と彼は大学の友人でね。以前から君の話を聞いていたよ。どうかな、もう一度競技をしてみては。よかったらここに詳細を書いておくから、気が向いたら読んでくれ。興味がなければ、破り捨ててもいいから」
もう一度競技? この人は何を言っているのか。私の姿を見ていないから、そんな冗談を言えるのだ。久しぶりの苛立ちであった。気がつくと私は扉に向かって枕を投げていたが、それは虚しくも扉の前で落ちる。この三年間で筋力が落ちた証拠。私はそのまま布団を被り、声が聞こえなくなるのを待った。
扉の前に置かれた食事を取ろうとすると、その横には封筒が置かれていた。そのまま無視をしようとしたが、私は食事と一緒に手に取っていた。理由は分からないが。
今日も変わらず、わずかな栄養補給。封筒は開けることもなく、そのまま床に置いた。私はどこか未練があったのかもしれない。そして、このままではいけないと。それは封筒を捨てないこの状況が、そう物語っていた。この日から惰性で生きていた私に変化が起き始めていた。
いつ寝て、いつ起きたのか。閉ざされたままのカーテンからわずかにこぼれる光で、朝か夜かを知る毎日であった。そんな日々に、封筒が私の中に加わっていた。
一日数回、床に落ちている封筒をただ見つめる。次第に回数は減っていき、その代わりに見つめる時間が長くなる。ただ見つめるだけ。開封する勇気はまだ持ち合わせていない。そう、まだ。
この日もいつもと同じ夢を見た。スタートの合図と同時に、一斉に走り出す選手たち。先頭を走る私は、いつまで経ってもゴールできない。次第に右足だけがトラックの中に沈んでいき、私の横を他の選手が走り去っていく。私はそのまま選手の背中に手を伸ばし、走り去っていく選手たちを見ていることしかできない。この悪夢を見るたびにうなされ、いつしか眠るという当たり前の行動に恐怖を抱いた。しかし、今日は続きがあった。
トラックの下から水が広がり、競技場全体が水に包まれる。気がつくとそこは海になっており、私はイルカに姿を変えていた。イルカになった私は海面から飛び出て、高く一回転してから再度海に戻る。回転に魅了された私は、何度も何度も続けた。
私はいつもと違う、心地よい目覚めを迎えることができた。いつぶりだろうか。今でも夢のことは覚えている。あれは何だったのか。たしかに水泳と体操は小学生のころまで習ってはいたが、そこまで思い入れはない。それでも、あの夢は魅力的で脳内を刺激してきた。
私は床に落ちてある封筒を見つめる。深呼吸をし、生唾を飲む。震える手で封筒を拾い、中を確認する。そこには、障害者向けの飛込競技の説明が書かれていた。
私は何度この紙を読んだろうか。これを破棄しなかったということは、私の中で興味が湧いている証拠だ。それでも恐怖が先行していた。変に期待を持って、それが崩れてしまうこと。飛込競技の経験もなく、数える程度しか見たことがない。それも画面越しで。高所は別に苦手でもないが、右足のない私が本当にできるのか。こんな私でも、できる競技なのか。
葛藤が部屋を埋め尽くす。右足を失った三年間、絶望しかないこの部屋に小さな光がもたらされたのは事実であった。その光に気づいたのは、ここから一週間後の朝であった。
私はこの日も夢を見た。イルカの夢だ。無我夢中で高く舞い、海に戻ると海面には綺麗な波紋が起こる。私の脳内に小さな水しぶきが浮かぶと、すっと目を開けた。いつものように、母が扉の前に朝食を置く音が聞こえる。
私は緊張しながら、声を発した。のどに力が入る。いつぶりであろう。うまく発音できているか。声は出るのか。私は自分の声を久しぶりに聞いた。
「お母さん」
母は自分の娘の声に驚き、少し涙声になっていた気がした。
「どうしたの?」
私はゆっくりと喋った。
「あのね…」
一日の大半はベッドで寝ころび、ただ時間が過ぎるのを待つ。まだ受け入れられない現実。悪夢かと思いもしたが、部屋にある義足が現実だと語りかける。
トイレや風呂に向かうとき、仕方がなく義足を付けるがそれは冷たく、装着も痛く感じた。次第に付けるのをやめ、トイレや風呂の頻度も減っていった。たまに、右足に痛みが走る。ないと分かっていても、確認してしまう。膝から下にかけて、私の右足は確かになくなっていた。それでも脳が作り出した痛みは、紛れもなく私に届いている。
私は何度枕を濡らしただろうか。高校の卒業も危うくなっていたが、そんなことはどうでもよかった。両親たちは次第に声をかける頻度は減っていき、私が回復するのを待っていただろう。
私は知らぬ間に、この部屋だけで半年以上過ごしていた。同級生はいつの間にか卒業している。私も卒業できていたらしい。そんなことを両親が扉越しで言っていた。部屋の隅に置いてある卒業証書の入った筒は、未だに開封していないけど。
私は今日も扉の前に置かれた食事を二、三口食べる。私はどんな声をしていたか。この口は生きるために必要な最低限の栄養しか補給しないツールとなっていた。生きる意味を見出せなかったが、死ぬのは怖かった。こんな生きているのか、死んでいるのか、分からない状況でも。
それからまた一年が経った。扉の向こうに、聞き覚えのある声がする。おそらく、監督だと思う。入院してから退院後も、定期的に様子を見に来ていたのだ。私の異常に気がつかなかったのと、プレッシャーを与えていたことに罪悪感があったそうだ。正直、どうでもよかった。私自身が見て見ぬふりをして平然を装っていたのだから、他人が気づくことはできないに決まっている。
「調子はどうだ。今日は紹介したい人がいるんだが」
私は反応しない。というより、そんな気力がない。今度は監督ではなく、別の人の声がした。
「初めまして。私と彼は大学の友人でね。以前から君の話を聞いていたよ。どうかな、もう一度競技をしてみては。よかったらここに詳細を書いておくから、気が向いたら読んでくれ。興味がなければ、破り捨ててもいいから」
もう一度競技? この人は何を言っているのか。私の姿を見ていないから、そんな冗談を言えるのだ。久しぶりの苛立ちであった。気がつくと私は扉に向かって枕を投げていたが、それは虚しくも扉の前で落ちる。この三年間で筋力が落ちた証拠。私はそのまま布団を被り、声が聞こえなくなるのを待った。
扉の前に置かれた食事を取ろうとすると、その横には封筒が置かれていた。そのまま無視をしようとしたが、私は食事と一緒に手に取っていた。理由は分からないが。
今日も変わらず、わずかな栄養補給。封筒は開けることもなく、そのまま床に置いた。私はどこか未練があったのかもしれない。そして、このままではいけないと。それは封筒を捨てないこの状況が、そう物語っていた。この日から惰性で生きていた私に変化が起き始めていた。
いつ寝て、いつ起きたのか。閉ざされたままのカーテンからわずかにこぼれる光で、朝か夜かを知る毎日であった。そんな日々に、封筒が私の中に加わっていた。
一日数回、床に落ちている封筒をただ見つめる。次第に回数は減っていき、その代わりに見つめる時間が長くなる。ただ見つめるだけ。開封する勇気はまだ持ち合わせていない。そう、まだ。
この日もいつもと同じ夢を見た。スタートの合図と同時に、一斉に走り出す選手たち。先頭を走る私は、いつまで経ってもゴールできない。次第に右足だけがトラックの中に沈んでいき、私の横を他の選手が走り去っていく。私はそのまま選手の背中に手を伸ばし、走り去っていく選手たちを見ていることしかできない。この悪夢を見るたびにうなされ、いつしか眠るという当たり前の行動に恐怖を抱いた。しかし、今日は続きがあった。
トラックの下から水が広がり、競技場全体が水に包まれる。気がつくとそこは海になっており、私はイルカに姿を変えていた。イルカになった私は海面から飛び出て、高く一回転してから再度海に戻る。回転に魅了された私は、何度も何度も続けた。
私はいつもと違う、心地よい目覚めを迎えることができた。いつぶりだろうか。今でも夢のことは覚えている。あれは何だったのか。たしかに水泳と体操は小学生のころまで習ってはいたが、そこまで思い入れはない。それでも、あの夢は魅力的で脳内を刺激してきた。
私は床に落ちてある封筒を見つめる。深呼吸をし、生唾を飲む。震える手で封筒を拾い、中を確認する。そこには、障害者向けの飛込競技の説明が書かれていた。
私は何度この紙を読んだろうか。これを破棄しなかったということは、私の中で興味が湧いている証拠だ。それでも恐怖が先行していた。変に期待を持って、それが崩れてしまうこと。飛込競技の経験もなく、数える程度しか見たことがない。それも画面越しで。高所は別に苦手でもないが、右足のない私が本当にできるのか。こんな私でも、できる競技なのか。
葛藤が部屋を埋め尽くす。右足を失った三年間、絶望しかないこの部屋に小さな光がもたらされたのは事実であった。その光に気づいたのは、ここから一週間後の朝であった。
私はこの日も夢を見た。イルカの夢だ。無我夢中で高く舞い、海に戻ると海面には綺麗な波紋が起こる。私の脳内に小さな水しぶきが浮かぶと、すっと目を開けた。いつものように、母が扉の前に朝食を置く音が聞こえる。
私は緊張しながら、声を発した。のどに力が入る。いつぶりであろう。うまく発音できているか。声は出るのか。私は自分の声を久しぶりに聞いた。
「お母さん」
母は自分の娘の声に驚き、少し涙声になっていた気がした。
「どうしたの?」
私はゆっくりと喋った。
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