滲む墨痕

莇 鈴子

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第二章 雪泥鴻爪

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 午後三時半を過ぎてすぐ、玄関のチャイムが鳴った。がらがらと重い戸を開ける音がして、「こんにちは」という聞き慣れた女性の高い声がする。
「今日は一段と早いな」
 ひそかに呟いた昭俊は、書棚からいくつか選び取っていた法帖を机の上に置き、書斎をあとにした。長い廊下を突き当たりまで進み、左右に分かれた廊下を右に曲がると玄関を目指す。
 土間に佇む親子が見えた。書道バッグを手から提げた小学五年生の小川綾華おがわあやかと、いつものように上品に着飾った母親だ。
千秋せんしゅう先生、こんにちは」
「はい、こんにちは」
 おとなしいが礼儀正しく挨拶する綾華に笑みを返すと、彼女の隣で頬を綻ばせた母親が「先生」と色っぽい声を出した。
「お菓子を持ってきたのですが、もしよかったら……」
 恥ずかしげに言いながら、その手に持っている小さな紙袋を遠慮がちに差し出す。
「綾華と一緒に作ったんです。もうすぐクリスマスですし」
「手作りですか。わざわざすみません」
「甘いものは大丈夫ですか」
「ええ。ありがたく頂きます」
 微笑んで式台に足を下ろせば、嬉しそうに目を細めた母親が綺麗に巻かれた肩までの髪を揺らして一歩こちらに近づいた。ふわ、と甘い香水の匂いが鼻をかすめる。
 昭俊は紙袋を丁寧に受け取ると、母親の少し後ろでその様子を眺めている娘に視線を落とした。
「綾華さんもありがとう」
 いつも冷静な十一歳の少女は、特に表情を崩すことなく首を横に振る。
「ほとんどお母さんが作ったので」
「綾華……っ、先生にお礼したいって言っていたでしょう」
 慌てて訂正させようとする母親に「お母さんがね」とそっけなく返した綾華は、靴を脱いで式台に上がると、しっかりと靴の向きを直してから静かに教室に向かう。
 あんぐりと口を開けて子供の背中を目で追った母親は、眉を下げてため息をついた。
「もう、あの子は」
「綾華さんはクールですからね」
「すみません、生意気で。先生にも失礼なことを言っていないか心配です」
「いいえ。いつも僕の話を真剣に聞いてくれますよ。いざ筆を持ったら、僕のことなど見えていないかのように目の前のことに真摯に向き合う、とても真面目な生徒です」
「まあ……」
 求めている答えが得られたのか感嘆の声をあげた母親は、ふいに意味深げな表情を浮かべた。
「先生……なにか違うと思ったら、髭を剃られたのですね」
「え、ああ、はい」
「やっぱりそのほうが素敵」
「今までが汚らしすぎましたから。子供たちに怖がられていなかったのが不思議なくらいです」
「とんでもない! 先生はもともと優しいお顔立ちですもの。お人柄が表われています」
 自信ありげに言い切った彼女は熱弁を続ける。
「こちらの教室はとても評判がいいんですよ。先生のところに預けてから子供の集中力が上がったとか、落ち着きが出てきたとか、ほかのお母さんたちも言っています。先生のお人柄が子供たちにいい影響を与えているんです、きっと」
「いやいや……」
「私も子供と一緒に学ばせていただきたいくらいです。でも大人の生徒は受け入れていないのでしょう?」
「ええ、まあそうですね」
 曖昧に答え、熱風のごとく押し寄せる気迫にたじろいでいると、今度はなぜか色気を増した視線を向けられた。
「あの……先生は再婚なさらないのですか」
「は?」
 唐突に不躾な質問をされ、思わず失礼な返事をしてしまった。ふさわしい言葉を探してみるも思い浮かばない。
 そのとき、後ろから「千秋先生」と呼ぶ声がした。振り返れば、綾華が呆れ顔で柱に寄りかかっている。だが自分の役目は終えたとばかりにすぐ背を向け、すっきりとひとつに結われた髪と黒のプリーツスカートの裾を揺らして部屋の中に消えた。
「小川さん、すみません。そろそろほかの子供たちも来る頃ですので」
 母親に向き直り極力優しい声色で言うと、彼女は諦めを示す息を吐いた。
「そうですね。私、余計な話までしてしまって……気になさらないでくださいね」
「いえ。ではまたのちほど」
「はい……」
 母親はかすかに気まずそうな声を返したが、気を取り直したように強いまなざしと笑みを向け、「綾華をよろしくお願いします」と言い残し帰っていった。
「もうすぐクリスマス、か」
 静かになった玄関でひとり呟いた昭俊は、手にしている紙袋をひらいて中を覗いてみた。
 ピンク色のリボンで飾られた透明なラッピング袋にカップケーキが入っている。個包装されたものが四つ。小学生の女の子が一生懸命作ったものだと言われればそう見えるが、おそらくこれは母親に言われるがまま作らされた少女の苦労の証である。
 綾華はここ以外にピアノ教室や英会話教室にも通っているという。どれも彼女の意志ではない。彼女にとってはすべてが決定事項なのだ。はじめからそう決められているから、やる。
 年齢のわりに大人びて賢い彼女はそれをどう捉えているのだろうか。窮屈に感じてはいないだろうか。以前、気になって綾華に尋ねてみたことがある。「習い事は愉しいか」と。
――愉しいです。書道だけ。
 彼女は、ほんの少しだけ表情を緩めてそう答えたのだった。
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