滲む墨痕

莇 鈴子

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第二章 雪泥鴻爪

十二

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 それからしばらく手本選びに集中した。無理にでもそうしないといけない気がしたからだ。
 じっくりと、そこにある文字をひとつずつ観察する。一点一画を丁寧に見ていくと、楷書は楷書でも作者によってその姿はまったく異なることが素人目にもわかった。理知的な字、洗練された字、悠然とした字、切れ味のよい字、妙味に富んだ字……。
 潤がその奥深さに唸りながら法帖をめくっているあいだ、藤田は隣で静かにそれを見守っていた。潤が自ら感想を口にするまでは決して先に説明をしない。その無言には、先入観を持たず感じたとおりに評してほしいという想いが込められているように思えた。
 残すところあと三冊となった。やはり藤田からは事前に情報を与えられることなく、潤はページをひらいた。
「ああ……」
 思わず感嘆のため息がこぼれる。そこに堂々と構える雄健な字に、一瞬にして心奪われた。
 全身を強風が吹き抜ける。まるで腹の底をくすぐられているような浮遊感が率直な想いを口にさせる。
「先生。私、これが好きです」
 確固たる意志を受け取った藤田は愉しげな含み笑いを浮かべた。そうして、残された二冊のうち潤が手にしている法帖と似たタイトルのものを選び取った。
「僕も好きですよ、顔真卿」
「がんしんけい……という人が書いたのですね」
「そう。中国の唐時代の政治家です。潤さんが見ていたのが顔勤礼碑がんきんれいひ、こちらは顔氏家廟碑がんしかびょうひ。いずれも顔真卿の晩年の書で、彼が編み出した書法の特徴がよく表れています。顔法がんぽうと呼ばれるものです」
 言いながら藤田は『顔氏家廟碑』と記された表紙をひらき、ページをめくって見せてくれた。
 潤はわずかに身を寄せ、縮まった互いの顔の距離に色めき立つ心を抑えつつその書を見つめた。
 大胆不敵な雰囲気を醸し出す肉太な文字が並んでいる。一見、バランスを考えず勢いにまかせて書いただけに思える特異な字形である。しかしそこには頑固なほどのたくましさと重厚さが宿り、不思議と違和感なく穏やかさが同居している。
「全体的に線が太いですね。縦の線に丸みがあるような……」
 感覚的に述べてみると、藤田は「そうですね」と肯定してくれた。
「向かい合う姿勢と書いて向勢。相対する縦画が互いに外側へ膨らむようにして向き合う書風をそう呼びます。たとえば、これ」
 男らしい人差し指が文字列の中にある『國』という字を指し示す。
「左右の縦画が両サイドに丸く膨らんでいるでしょう」
「はい」
「顔真卿の楷書の大きな特徴のひとつです。これに対し、潤さんが最初に見た欧陽詢の九成宮醴泉銘によく見られるのは、背勢。縦画が互いに背を向け合うように内側に反っています」
 両手の人差し指でくびれを描く動きを見せながら藤田は説明した。
 潤が納得して頷くと、微笑んだ彼はふたたび書に目を落とす。その鋭く引き締まった横顔をさりげなく見つめたあと、潤もまた同じように視線を書に戻した。
「それまでは、東晋時代の王羲之おうぎしという書家の優美で貴族的な書風が好まれていました。欧陽詢の書は、王羲之の伝統に倣って確立された厳密な書法に基づいているのです。顔真卿の書はその古法を継承しながらも、それとは異なる美意識のもとに培われました。人間性を重んじる革新的な書道で、特に楷書はかなり個性の強いものですから、現代でも評価は二分されています」
 ゆったりとした口調で藤田は語った。
「賛否両論あるということですか」
 静かに尋ねると、彼は「まあそういうことです」と答える。
「行書においては王羲之に匹敵すると文句なしに称賛されているのですがね。それはまた今度」
 そう言って法帖を机の上に置いた彼は、残された最後の一冊を手に取った。
 『多寳塔碑』と題されたそれが丁寧にひらかれていく。紙をめくる繊細な音さえ、その無骨な指によるものだと思うと湿り気を帯びて甘美に響く。
「これも顔真卿の楷書です」
 心地よい低音とともに現れた書跡に、潤は思わず息を殺し背筋を伸ばして向き合った。
 それは充分に心を揺さぶるものであった。堅固な美しさの中にどっしりと構える気骨が滲み出ている。しかしながら、先に見た痛快な二作と比べて整然としており、個性が際立っていないように見受けられる。
「……そんなに向勢じゃない」
 ひとりごとのように呟くと、それに合わせてか「そうだね」と親しげな声が返された。
「これは真卿四十四歳のときの書で、七十二歳で書かれた顔氏家廟碑ほどの生々しい迫力は感じられません。線質はやはり力強いけれど顔法の特徴はさほど目立たない。この頃はまだ顔法が完成の域に達していないわけです」
「若い頃は主流に近い方法で書いていたということですか。万人に受け入れられそうな」
「うん。だから多寳塔碑たほうとうひは顔法入門に適した法帖といえるでしょう。真卿が伝統的な書法を学んだうえで、独自の書風を打ち立てていったのだと窺い知ることができます」
「あ、このあいだ仰っていた……書写の基礎を身につけてこその書道、ですか」
 それを思い出してとっさに口にすると、満面の笑みを浮かべた顔が頷いた。
「覚えいてくれたのですね」
「もちろんです」
「ははは。真面目だなあ」
「そんな……普通です」
「真面目です」
 なぜか愛おしげなまなざしとともにその言葉を繰り返した藤田は、手にしている法帖を机の上に戻しながらこう続けた。
「潤さんが顔真卿の書に惹かれたのはなぜでしょうね」
 穏やかな、しかし好奇心を含んだ声。それは質問のようでも、ひとりごとのようでもあった。
 潤はわずかに首をかしげ、まぶたを下ろした。その書風に心惹かれた理由を考える。
 雄大な字形、豪快な線質、そして晩年になるにつれて確固たるものになった独自性。そこに見えるのは、それを揮毫した人間の姿、その息遣い、揺るぎない想いである。
 藤田の書に出会ったときに頭に浮かんだこととよく似ている。そう気づいて目をひらいた。
 そこには、熱く優しい笑顔があった。
 どくりと跳ねる鼓動。息切れしそうになりながら、潤はじっくりと選び取った言葉を丁寧に並べた。
「まっすぐで熱い心を持った人となりが想像できたから、だと思います。誰がなんと言おうと自分らしさを貫く、そんな気迫が感じられる字だったから……」
 藤田が朗らかな笑みを返す。だがふとその目に真剣な色を宿し、語りはじめた。
「彼の生涯は、徹頭徹尾、筋を通すために捧げ尽くされたといっても過言ではありません。秩序が乱れ、揺れ動く政界の中、その剛直な性格ゆえにしばしば権力者から敬遠され左遷されるなど、彼は変転極まりない生活を強いられました。しかし何者に振りまわされようとも、唐朝への変わらぬ忠誠心、正義感と情熱を持ち、愚直に己の信念を貫きとおした。そして最期は、唐朝に対する反乱軍によって殺されます」
 最後の言葉に潤が息を呑むと、藤田はなだめるように優しい表情を浮かべる。
「書は人なり、という言葉があります。その壮絶な生き様が、墨を含んだ筆と紙の摩擦によって写し取られている。潤さんはそれを無意識のうちに感じ取ったのです」
 そうしてひと呼吸置き、こう続けた。
「ご自身と重なるものを感じたから」
 思わぬ言葉に面食らい、潤は首を左右に振る。
「私は違います。まっすぐに自分を貫きとおすことなんて、できません」
「そうでしょうか」
「そうです。だって……」
 膝の上できつく握りしめたこぶしが、ふいに大きな手のひらに閉じ込められた。ぬくもりがそこから全身を巡る。
 逃げ場のない距離感の中で、その黒く深い瞳に囚われた。
「自分らしくありたい。あなたはそう願っているのではないですか。あなたの肉筆がそれを証明しているはずです」
 自分の現状と理想の矛盾に悩み、それでも強く――。
 半紙に写し取られた、墨黒の色をした意志が脳裏に浮かぶ。
「僕は、あなたの書が好きですよ」
 どこか甘さを纏ったその声は、隠しきれない真意を白い繭に包んでいるようだった。もしそれが羽化するときが訪れたら、ゆらゆらと空を舞いながら、相思相愛という愚かな自惚れに毒された鱗粉を撒き散らすのかもしれない。
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