滲む墨痕

莇 鈴子

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第四章 尤雲殢雨

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 地方の田舎に住んでいたころの話だ。
 五歳の夏だった。これからは父や祖父母と離れて東京で暮らすのだと母から言い聞かされた翌日、潤はふたつ年上の姉と一緒に家出をした。
 平日の午後。父と祖父は仕事、祖母は婦人会の集まり、母は引越しの荷造りや片付けに忙しそうだった。小学校と幼稚園は夏休みで、姉妹はふたりきりで遠足ごっこをしていた。
 活発な姉の提案に一抹の不安を覚えながらも、従順な妹はそれに賛同した。リュックの中にたくさんのお菓子、ハンカチにティッシュ、一番大切にしていた人形を詰め込み、水筒を肩から斜めにかけて、母の目に入るあいだは怪しまれないよう縁側の外で遊びながら様子を窺い、母が二階へ上がるのを見計らって家の裏手に回った。
 畑を突っ切って砂利道に出ると、しばらく必死に走った。疲れたら、青田風の吹き抜ける細い畦道で長く伸びた稲に隠れるように身を屈めて水筒のお茶を飲んだ。冒険者になったような高揚感と、もう二度と帰ることができないのではないかという恐怖が小さな胸の鼓動をいっそう速めた。
 それからどのくらい走ったのか。いつも通る道を避けながらとにかく遠くを目指した。しかし、どこまでも広がる田園風景は幼い勇気を軽々と呑み込み、炎天は冒険心を容赦なく削いだ。
 詰め込みすぎたリュックの重さに負けそうになり、妹は思わず道端にしゃがみ込んだ。
――お姉ちゃん! 待って!
 遠ざかる赤いリュックに向かって半泣きで叫んだ。
 振り返った姉の顔はすでにくしゃくしゃに歪み、涙を流していた。
――早くしないとお母さん来るよ! とーきょー連れてかれちゃうよ!
 そう言い放つと、背を向けてふたたび走りだした。
 父のことが大好きだった姉は本気で逃げようとしていたのだろう。たとえ妹を置き去りにしても。
 見知らぬ場所にひとり取り残される恐怖は臆病な妹を跳び上がらせた。
――お姉ちゃ……!
 だが駆けだしたとたん、わずかに盛り上がった地面につまずき勢いよく転んだ。
 一瞬の衝撃、そして妹は大声で泣きだした。じんじんと痛む膝はみるみるうちに血を滲ませ、赤く染まった。
 怖い、寂しい、もう帰りたい、家に帰りたい――。言いようのない感情が混じり合い、涙になった。
 立ち上がらず泣きつづける妹に観念したのか姉はとぼとぼ歩いて戻ってくると、張りつめていた糸が切れたように突然泣き声をあげはじめた。
 姉妹による決死の脱走劇は、その後あっさりと幕を閉じた。
 通りかかった見知らぬおばさんが、子供たちが道に迷って泣いていると思って自宅に連れ帰り、姉妹の家に電話をして母に知らせたのだ。母が車で迎えにくるまでのあいだ、彼女はけがの手当てをしてくれたり甘いジュースを出してくれたりした。
 ずいぶん遠くまで来たと思っていた。だがそれは車なら十分もかからない近所だった。おばさんは祖母の婦人会仲間で、姉妹の顔もよく知っていた。知らないと思っていたのはふたりだけだった。
 迎えにくる母はきっと心配しているだろう。自分たちの無事を目にすれば、安心して笑顔を見せてくれるかもしれない。幼心にもそんなふうに期待していた。
 痛かったね、もう大丈夫よ――そう言ってくれると。
 しかし、母の第一声は娘たちではなくおばさんに向けられた。
――お騒がせしてすみません。
 おおらかな笑みを返す彼女に、母は矢継ぎ早に話しつづけた。
――こんな……たいしたけがでもないのに大泣きしたんでしょう。まったく、愚図で困ります。
 吐き捨てるように言ったあとに初めてこちらに向けられた母の視線は、静かな怒りと失望に支配されていた。
――お母さんが大変なときに勝手なことばかりして! いい子にしないなら東京連れていかないわよ!
 家に連れ戻されたとたんに頭上から降ってきたのは、すべてを壊す金切り声だった。
 打ち砕かれた願望を胸に隠したまま立ちすくんで泣く妹の隣で、姉は「じゃあ行かない。お父さんたちといるほうがいい」と言い放った。母が泣き崩れるのを姉は冷めた目で見つめていた。
 その一件が決め手となり、姉妹は離ればなれに暮らすことになった。
 東京の母の実家で母とその両親と暮らしはじめてから、おとなしかった少女はさらに息を殺すようになった。父方の祖父母には感じなかった軋んだ空気も、厳しさの増した母から強制される習い事も、早く家族の一員になるため、家族に喜んでもらうため、受け入れた。
 絶叫マシンに乗る姉妹を描いた『夏の思い出』は、両親が離婚してから最初の再会の日だった。
 父と姉、母と妹は、姉が望んだという遊園地に現地集合した。両親のぎこちない空気に取り込まれそうになりながらも、面倒見がよくなった中学生の姉とはすぐに打ち解け、ふたりで様々なアトラクションを楽しんだ。
――また会おうね。
 そう固く約束して別れた。
 だが、休み明けの学校で友人たちが「家族で海に行った」、「家族でバーベキューをした」、「家族で花火を見た」と次々に声をあげるたび、ざらついたものが心を削った。
 家族――自分以外が持つ“当たり前”を、自分も持っていると主張したかった。こんなに楽しかったよ、お姉ちゃんと仲良しだよ、と皆に見せたかった。
 色塗りに失敗したことは唯一の拠り所だった思い出を台無しにし、繊細な心を粉砕するには充分すぎた。
 寒さに身体が震え、潤は思わず足を止めた。凍える手を吐息であたためると、その場に呆然と立ち尽くした。
 なにかあるたびに思い出すのは、人生の岐路に立たされた五歳のあの夏の日。
 姉には意志があった。幼いながらも自らの意志で状況を変えようとし、自らの意志で居場所を選んだ。
 あの田舎町で、彼女は地元の男性と結婚した。子宝にも恵まれ、すでに当時の自分たちと同い年くらいになる姉弟がいる。
 いつか彼女は言っていた。自分の選択を後悔していない、と。綺麗な笑顔で。彼女は自分で自分を解き放つことができたのだろう。
 どうしようもなく逃げたくなったとき、どこへ行けばよいのか自分にはわからない。姉のように意志を持つことができなかった事実がふとした瞬間に甦り、いまだに過去の呪縛から自分を解放できず何者にもなれない自分を嘲笑い、足をすくませるのだ。
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