滲む墨痕

莇 鈴子

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第五章 泡沫夢幻

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「野島さん。お名前は?」
 問いの意図がわからない。向けられる神妙な表情になぜか責められている気分になり、沈黙してしまう。
「潤」
 ふいに隣から深みのある声で呼ばれ、飛び上がりそうになった。
「はっ、はい」
 上擦った声で返事をして勢いよく首をひねると、名前を呼んだ張本人であるはずの藤田が目を丸くして静止した。
 一瞬のあと、彼は噴き出した。
「ははっ、あはは……」
 肩を揺らすほどに笑われる覚えはない。怪訝に思いながら白石のほうを見れば、彼女も口元を手で隠して小刻みに震えていた。
「うふふ。本当にかわいいアシスタントさんね。従順な子犬みたい」
 褒めているのか貶しているのか愉快そうに言った白石が、ふと居住まいを正した。
「野島……潤さん」
「はい」
「藤田千秋展、『潤』はご覧になったわね?」
「……はい」
 返事を聞いた白石は納得したようにひとつ頷き、ゆっくりと唇をひらいた。
「あの作品と、あなたの名前。同じなのは偶然かしら」
 藤田と潤を交互に見ながら意味ありげに語ると、「ねえ、昭俊」と呼びかけて首を傾げる。
「あれを揮毫しているあいだ、なにを考えていたの」
 見透かしたようなまなざしを向けられた藤田は、「そうだなあ」と間延びした声を発して腕組みした。今日ここを訪れてからは初めて見せる気取らない態度で、彼は白石に余裕のある笑みを返した。
「作品のことだけを考えていたよ」
「ふふ。作品、ね」
「なにかおかしいかな」
「いいえ。でもまあ、字は人を表すとはよく言ったものだわ。豪快で、感情が昂るとすごく激しくなるんだから」
 したり顔で言い放った白石は、藤田の様子を細目で眺めながら続ける。
「荒っぽい欲を潤さんにぶつけてはだめよ。こんなに繊細そうな子、簡単に壊れてしまうわ」
「そういう言い方はやめたほうがいい。とても君らしいが、よくない」
「お説教は結構よ。私は忠告してあげているの。あなたの狂った愛を振り下ろして、その子を真っ黒に染めるつもり?」
「潤さんと作品は別だよ」
「どうかしら。あれは作品と呼ぶには生々しすぎたと思うわ。人の身体が見えた気がしたもの」
「相変わらず想像力豊かだな」
「あなたがそうさせたのよ。たった一年の結婚生活だったけれど、私はすっかり毒されてしまった。あなたが生み出す余白の美しさに。そうね……見えないものを想像する快感を知ってしまったの」
 彼らの言い合いを黙って聞きながら、潤は混乱していた。
 あの『潤』は、単なる作品名である。白石は勝手に結びつけ、揶揄しているだけだ。そうであるはずなのに、藤田は核心を掴ませないためにわざと本筋から逸れた返答をしているように思える。彼女の意図を彼は理解しているのだろうか。
「見えないものを追い求めるあまり、見るべきものすら目に入らなくなる。そうでしょう?」
 責め立てるような問いを、藤田は無言で受け止める。
「潤さんのことは、ちゃんと見えているのかしら」
 ふたたび唐突に名前を出され、潤は息を凝らして藤田を見つめた。
 眉ひとつ動かさない横顔。恐ろしいほどの静けさを目の当たりにして、心にさざ波が広がっていく。
「あなたは、手に入れたものを自ら手放す人。足りないなにかを探しつづけるために、孤独を選ぶ人。そうしないと保っていられないのよ、藤田千秋という書家は」
 白石の演説めいた主張に藤田はまったく反応を示さない。その沈黙は肯定か、否定か、あるいは単なる無関心か。
 潤もやはり押し黙ることしかできずにいると、痺れを切らした白石の激情を孕んだまなざしが迫ってきた。
「野島潤さん。くれぐれも気をつけて。この人の視界に映りつづけるには、すべての感情を受け止める白紙でありつづけなければならないの。全身に墨を浴びるほどの覚悟がなければ、この人のテリトリーには存在していられない。言っていること、わかる?」
 鋭利な言葉に、目が眩むような感覚に陥る。
 そして、ふいに甦る。野島家で女将から投げられた、似たような言葉。
――この場所で夫に尽くすことができなければ、あなたの居場所はない。
 夫からの残酷な行為。
――足りないか! 俺は!
 誠二郎のどす黒い感情を物言わず浴びつづける白紙でいられなかった自分が悪いのか。藤田との関係も、いつかそんなふうに終わりを迎えてしまうのか。
 心に吹く風が強まり、乱れ、さざ波はやがて白波に変わり砕け散る。
 唯一の居場所を奪われ、ひとり大海原に放り出されるようだ。悲観的な思考に引きずり込まれそうになったとき、ふっ、と小さな笑いが隣から聞こえた。
「愚かしいほど観念的なところも相変わらずだね、真波さん」
「なっ……」
 下の名を呼ばれた白石が面食らった表情で唇を震わせる。
 見事に隙をついた藤田は、穏やかな笑みを浮かべながら容赦なく反撃を続けた。
「僕が潤さんから目をそらすことはない。僕の視界から彼女が消えることがあるとすれば、それは彼女が自ら僕の前からいなくなったときだ」
 淀みのない言葉が、画廊に入る直前に彼が言ったことを思い出させる。
――僕を信じてくださいね。
 今この人を信じられなければ、自分がここにいる意味がわからなくなる。そう感じ、潤は顎を引いて白石を見据えた。
「私は、いなくなりません。……あ、アシスタントですから」
 ふたりの視線を痛いほどに感じながら、真っ白になりそうな頭の中に浮かんだ言葉を喉から絞り出す。
 わずかに眉をひそめた白石がブラウンレッドの唇をひらきかけたとき、藤田が優しい笑い声をこぼした。そうして、白石に諭すように言った。
「足りないなにかを探し求めるのは、僕だけではないはずだ。潤さんも同じさ。そして君も」
「違うわよ、私は」
「君にはなにが足りない」
「は……?」
「君はなにを求めている」
「そうやって、また私に想像する悦びを与えるつもり?」
「いや。はっきり言っておくよ」
「……なんなの」
「君が今も想像し、追い求めているものは、この先も決して目に見えることのない未来だ」
 低くそう言った彼は、なにも返せず唇を噛む白石に一瞬だけ哀れみを含んだ微笑を向けると、テーブルの上に放置され冷めてしまったであろうお茶を一気に飲み干して腰を上げた。
「ごちそうさま。それでは失礼します」
「ちょっと待っ……」
 立ち上がろうとする白石をよそに、藤田は呆然とソファに座りつづける潤を見下ろした。
「行こう」
 優しく言い、そっと手首を握る。軽く引っぱり潤を立たせた彼は、すがるような目を向ける白石に柔和な笑みを返した。
「僕の個展、手を抜いたら許しませんよ」
 そう言い残し、潤の手を引いて部屋を出ると入り口まで淡々と歩く。そのままガラス扉を開けて画廊の外に出た。
「また会いましょう……っ、野島潤さん……」
 後ろから切迫した声に呼ばれ、潤はとっさに振り返った。
 ゆっくりと閉まるガラス越しに見えたのは、片手で目元を覆い俯きながら横を向く女の姿だった。
 誰かに似ている、と直感的に思った。それが誰なのか、すぐには思い浮かばなかった。
 心細げな肩を見届けたあと、潤は手にしたままの名刺に目を落とした。
「はい……白石真波さん」
 美しすぎる名が心に波風を立てると知りながら、それを小さく呟いた。
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