32 / 198
第一部
32.舞踏会の裏側で(後編)
しおりを挟む(ああ、そうだ。俺にはそんな言葉を口にする資格はない。たとえ嘘でも、言えるはずがない)
自分が酷い夫であることは、誰の目から見ても明らかだ。
それに、ジークフリートの話を信じるならば、エリスは祖国でとても辛い思いをしてきたはずだ。
沢山の傷を負ってきたはずだ。
その傷にとどめを刺したのは自分。
「お前を愛する気はない」と冷たく吐き捨て、逃げ場を封じてしまったのは、夫である自分自身。
だからエリスは家族の話をしなかったのだのだろう。
自分のことも、シオンのことも、彼女は話さなかったんじゃない。話せなかったのだ。
――そう。
(言えないようにしたのは……この、俺だ)
その過ちを、今さら悔いてももう遅い。
エリスは自分を恐れている。その現実は変わらない。
ならば、自分ができることは一つしかないではないか。
シオンの言うとおり、エリスをここから解放してやる。それが、最善の道。
――なのに。
「……っ」
どうしても、手放したくないと思ってしまう自分がいる。
彼女を失いたくないと、強く心が訴えている。
(なぜだ。……どうして)
もしや自分は、彼女を自分の所有物だとでも思っているのだろうか。
だからこんなに不快な気持ちになるのだろうか。
玩具を取り上げられたときの、子供のように――。
――すると、そのときだった。
何の前触れもなく、パンッ、と空気を切り裂くような音が大きく鳴り響き――三人は揃って動きを止めた。
その音が銃声とよく似ていたからだ。
――だが幸いなことに、それは銃声ではなく、ただの拍手だった。
三人が音のした方に顔を向けると、そこに立っていたのは第二皇子のクロヴィス。
クロヴィスは、武装した側近と灯りを携えたセドリックを引き連れて、胸の前で両手を合わせながら、呆れた様に三人を見据えていた。
「やめなさい、君たち。ここは王宮だよ」
クロヴィスの声はいつも以上に落ち着いていた。
まるで幼い子供の喧嘩をやんわりと注意するかのごとく、冷静な声だった。
けれどその瞳は氷の様に凍てついていて、確かに怒っていることがわかる。
「兄上、なぜここに……」
「セドリックに呼ばれてね。大方説明は受けたが……なるほど、確かにこれは穏やかじゃない」
クロヴィスはまず地面に横たわるエリスに視線を向けてから、続いてジークフリートとシオンの顔を順に見やった。
すると、まるで蛇に睨まれた蛙のように、二人は一瞬で口を閉ざした。
ジークフリートはピクリと眉を震わせ黙り込み、シオンも唇を固く引き結んだのだ。
(相変わらず、兄上の眼光は恐ろしいな)
――クロヴィスの絶対零度の眼差し。
普段は穏やかな彼だが、ほんの極たまに、その青い瞳に静かな殺気を湛えることがある。
アレクシスの怒りが動であるとするなら、クロヴィスは静の怒り。
アレクシスを燃え盛る炎にたとえるなら、クロヴィスは極寒の氷雪。それも、空間ごと氷漬けにしてしまいそうな。
相手の心を一瞬で凍らせ、同時に畏怖を抱かせる。
何人たりと口答えは許さない――そういう空気を、今のクロヴィスは纏っていた。
アレクシスは兄クロヴィスから放たれる殺気をビリビリと全身で感じ取りながら、兄の言葉を待つ。
するとクロヴィスは数秒何かを考える素振りをして、薄く微笑んだ。
「アレクシス、ここは私が引き受けよう。お前はエリス妃を連れて宮に戻りなさい。このままでは彼女が風邪をひいてしまう」
「……!」
“私が引き受けよう”――その言葉に、アレクシスはさっと顔を強張らせた。
なぜならクロヴィスの提案は、二人の処分は私が行う、という意味に他ならなかったからだ。
「この二人を……どうするつもりです?」
つい、そんなことを口にしてしまう。
この期に及んで敵の心配をするなど我ながら馬鹿げているが、クロヴィスは時として驚くほどに残酷だ。
だからアレクシスは、クロヴィスがどのような采配を下すのか咄嗟に不安を抱いたのだ。
が、アレクシスの予想に反し、クロヴィスは「ははは!」とさもおかしそうに声を上げる。
「お前は優しい子だね。だが心配はいらない。ここは王宮で、彼らは他国の王侯貴族。少し話を聞かせてもらうだけだ。――だから、さあ、お前はもう帰りなさい」
「…………」
ここまで言われてしまっては、反論の余地はない。
アレクシスはエリスの元へ歩み寄ると、地面に跪いた。
――外傷はない。脈も呼吸もしっかりしている。薬が切れればきっとすぐに目を覚ますだろう。
アレクシスは安堵しながら、エリスをそっと抱き上げる。
シオンの方を振り向けば、彼は苦虫を嚙み潰したような顔でこちらを睨んでいた。
が、手を出してくる気配はない。
アレクシスは、再びクロヴィスに向き直る。
「では、これにて。あとはよろしく頼みます、兄上」
その声に、にこりと微笑んだクロヴィスの笑顔を最後に、アレクシスは王宮を後にした。
483
あなたにおすすめの小説
本日、貴方を愛するのをやめます~王妃と不倫した貴方が悪いのですよ?~
なか
恋愛
私は本日、貴方と離婚します。
愛するのは、終わりだ。
◇◇◇
アーシアの夫––レジェスは王妃の護衛騎士の任についた途端、妻である彼女を冷遇する。
初めは優しくしてくれていた彼の変貌ぶりに、アーシアは戸惑いつつも、再び振り向いてもらうため献身的に尽くした。
しかし、玄関先に置かれていた見知らぬ本に、謎の日本語が書かれているのを見つける。
それを読んだ瞬間、前世の記憶を思い出し……彼女は知った。
この世界が、前世の記憶で読んだ小説であること。
レジェスとの結婚は、彼が愛する王妃と密通を交わすためのものであり……アーシアは王妃暗殺を目論んだ悪女というキャラで、このままでは断罪される宿命にあると。
全てを思い出したアーシアは覚悟を決める。
彼と離婚するため三年間の準備を整えて、断罪の未来から逃れてみせると……
この物語は、彼女の決意から三年が経ち。
離婚する日から始まっていく
戻ってこいと言われても、彼女に戻る気はなかった。
◇◇◇
設定は甘めです。
読んでくださると嬉しいです。
余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~
流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。
しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。
けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。
お飾り王妃の死後~王の後悔~
ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。
王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。
ウィルベルト王国では周知の事実だった。
しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。
最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。
小説家になろう様にも投稿しています。
【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~
塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます!
2.23完結しました!
ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。
相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。
ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。
幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。
好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。
そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。
それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……?
妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話
切なめ恋愛ファンタジー
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます
おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。
if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります)
※こちらの作品カクヨムにも掲載します
白い結婚に、猶予を。――冷徹公爵と選び続ける夫婦の話
鷹 綾
恋愛
婚約者である王子から「有能すぎる」と切り捨てられた令嬢エテルナ。
彼女が選んだ新たな居場所は、冷徹と噂される公爵セーブルとの白い結婚だった。
干渉しない。触れない。期待しない。
それは、互いを守るための合理的な選択だったはずなのに――
静かな日常の中で、二人は少しずつ「選び続けている関係」へと変わっていく。
越えない一線に名前を付け、それを“猶予”と呼ぶ二人。
壊すより、急ぐより、今日も隣にいることを選ぶ。
これは、激情ではなく、
確かな意思で育つ夫婦の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる