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第二部
24.刺繍(中編)
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◇
その日の午後、エリスはマリアンヌに会うために皇女宮を訪れた。
今はシーズンオフで公務が少ないということもあり、ここ最近は週に二度ほどお茶をしている二人である。
庭園の東屋にてお茶会を開始して早々、エリスがアレクシスへの贈り物について相談すると、マリアンヌは途端に目を輝かせた。
「まあ! アレクお兄さまへ贈り物ですって!? 前に見せていただいたエリス様の刺繍、本当に素敵だったもの! 絶対に喜ばれるわ!」
「ありがとうございます。マリアンヌ様にそう仰っていただけて安心しました。ただ、何に刺繍を入れるか悩んでおりますの。定番はハンカチなのでしょうけど、お贈りしても演習には持参していただけないような気がして」
エリスが懸念を述べると、マリアンヌは一瞬で真顔に戻り、「確かに、そうね」と呟く。
「エリス様の言うとおりだわ。演習になんて持っていったらすぐに汚れてしまうし、アレクお兄様なら、間違いなく置いていくわね」
「やはり、そうですわよね。でもわたくし、できることなら殿下にご持参いただきたいのです。マリアンヌ様、何かいい案をいただけないでしょうか?」
「……そうねぇ、何がいいかしら」
マリアンヌは思案顔で庭園の向こうを見つめ――数秒後、思い出したように声を上げた。
「そうだわ、軍服よ!」と。
「軍服……ですか?」
「ええ。帝国では、軍人を夫に持つ妻たちが夫の無事を願って、シャツの襟と袖口に刺繍を入れる風習があるの。入れる模様は、『永遠性』や『繁栄』を意味するアラベスク模様。これならきっと、アレクお兄様だって着ないわけにはいかないわ。何せ、お守りみたいなものですもの」
「――!」
マリアンヌの提案に、エリスの瞳が興奮に揺れる。
夫の無事を願ってシャツに刺繍を入れるとは、何と素敵な風習だろうか。
「ありがとうございます、マリアンヌ様。わたくし、殿下のシャツに刺繍を入れさせていただきたいと存じます」
エリスが答えると、マリアンヌは「お役に立てて良かったわ」と顔を綻ばせた。
「シャツはわたくしの方で手配させてもらうわね。軍関連の品は、本人ないしその上官からの申請しか受け付けていないの。お兄様のシャツは黒で特別だから、尚のこと他では手に入れられないわ。でも、クロヴィスお兄様を通せば手に入るはずだから」
「……! それはとてもありがたいことですが、そこまで甘えてしまうのは申し訳ない気がしますわ」
「あら、いいのよ。どうせならサプライズで驚かせてあげたいじゃない? それに、アレクお兄様に『シャツをくれ』と言ったって、素直に渡してくれるとは思えないもの」
「それは確かに、そうですわね。ではお言葉に甘えて、マリアンヌ様にお願いさせていただきます」
「ええ、まかせてちょうだい」
マリアンヌは美しく微笑むと、さっそく侍女を呼びつけて紙とペンを用意させる。
そこにさらさらと流れるような文字を綴り、「クロヴィスお兄様に届けてちょうだい」と侍女に言付けた。
なんと仕事の速いことだろう。
エリスが感心していると、マリアンヌはそんなエリスの視線に気付いて、笑みを深める。
そして侍女の姿が庭園の向こうに消えたのを確かめると、こんなことを言い出した。
「実はね、わたくしも一つ、エリス様にお願いしたいことがあるの」と。
「お願い、ですか……?」
「ええ」
いつもなら自信に満ち溢れ、サファイアのごとく透き通る碧色の瞳を、伏せた瞼で半分隠して。
マリアンヌは、すっかり冷めてしまったお茶を一口含むと、躊躇いがちに唇を開く。
「実はわたくし、刺繍がとても苦手なの。他は大抵できるのに、刺繡だけは本当に駄目なのよ。だから、その……わたくしに、刺繍を教えていただけないかしら?」
「――!」
刹那、エリスは驚きのあまり息を呑んだ。
まさかマリアンヌに苦手なものがあったは、と思ったし、それ以上に驚いたのは、今まさに、目の前のマリアンヌが恥じらいの表情を浮かべていることだった。
その様子は、刺繍が苦手なことを恥じているという風ではなく――そう。どちらかと言えば、恋する乙女であるような。
(マリアンヌ様……もしかして……)
エリスは悟らざるを得なかった。
マリアンヌには、刺繍を贈りたいほど好いた相手がいるのだと。
(こんなに美しく聡明な方が、結婚どころか婚約すら済ませていらっしゃらないのはどうしてかと思っていたけれど、そういうことだったのね)
きっと相手は、皇女とは釣り合いの取れない身分の男なのだろう。
地位や権力を持ち合わせた者ほど、結婚に関しては特に、本人の自由にはならないことを身をもって体験してきたエリスは、心臓が締め付けられる心地がした。
(応援するだなんて、簡単には言えないわ。……でも)
気持ちだけでいえば、心から応援したい。それに何より、マリアンヌには普段からとてもお世話になっているのだ。
そんなマリアンヌの役に立てる機会を、みすみす逃すつもりはなかった。
そもそも、刺繍はできなくて困ることはあっても、できすぎて困るなどということは、一つもないのだから。
エリスは、いつになく頼りなさげなマリアンヌの瞳を、覗き込むように見つめる。
「わたくしでよければ、喜んで」
そう言って、降り注ぐ陽光の下、柔らかく微笑むのだった。
その日の午後、エリスはマリアンヌに会うために皇女宮を訪れた。
今はシーズンオフで公務が少ないということもあり、ここ最近は週に二度ほどお茶をしている二人である。
庭園の東屋にてお茶会を開始して早々、エリスがアレクシスへの贈り物について相談すると、マリアンヌは途端に目を輝かせた。
「まあ! アレクお兄さまへ贈り物ですって!? 前に見せていただいたエリス様の刺繍、本当に素敵だったもの! 絶対に喜ばれるわ!」
「ありがとうございます。マリアンヌ様にそう仰っていただけて安心しました。ただ、何に刺繍を入れるか悩んでおりますの。定番はハンカチなのでしょうけど、お贈りしても演習には持参していただけないような気がして」
エリスが懸念を述べると、マリアンヌは一瞬で真顔に戻り、「確かに、そうね」と呟く。
「エリス様の言うとおりだわ。演習になんて持っていったらすぐに汚れてしまうし、アレクお兄様なら、間違いなく置いていくわね」
「やはり、そうですわよね。でもわたくし、できることなら殿下にご持参いただきたいのです。マリアンヌ様、何かいい案をいただけないでしょうか?」
「……そうねぇ、何がいいかしら」
マリアンヌは思案顔で庭園の向こうを見つめ――数秒後、思い出したように声を上げた。
「そうだわ、軍服よ!」と。
「軍服……ですか?」
「ええ。帝国では、軍人を夫に持つ妻たちが夫の無事を願って、シャツの襟と袖口に刺繍を入れる風習があるの。入れる模様は、『永遠性』や『繁栄』を意味するアラベスク模様。これならきっと、アレクお兄様だって着ないわけにはいかないわ。何せ、お守りみたいなものですもの」
「――!」
マリアンヌの提案に、エリスの瞳が興奮に揺れる。
夫の無事を願ってシャツに刺繍を入れるとは、何と素敵な風習だろうか。
「ありがとうございます、マリアンヌ様。わたくし、殿下のシャツに刺繍を入れさせていただきたいと存じます」
エリスが答えると、マリアンヌは「お役に立てて良かったわ」と顔を綻ばせた。
「シャツはわたくしの方で手配させてもらうわね。軍関連の品は、本人ないしその上官からの申請しか受け付けていないの。お兄様のシャツは黒で特別だから、尚のこと他では手に入れられないわ。でも、クロヴィスお兄様を通せば手に入るはずだから」
「……! それはとてもありがたいことですが、そこまで甘えてしまうのは申し訳ない気がしますわ」
「あら、いいのよ。どうせならサプライズで驚かせてあげたいじゃない? それに、アレクお兄様に『シャツをくれ』と言ったって、素直に渡してくれるとは思えないもの」
「それは確かに、そうですわね。ではお言葉に甘えて、マリアンヌ様にお願いさせていただきます」
「ええ、まかせてちょうだい」
マリアンヌは美しく微笑むと、さっそく侍女を呼びつけて紙とペンを用意させる。
そこにさらさらと流れるような文字を綴り、「クロヴィスお兄様に届けてちょうだい」と侍女に言付けた。
なんと仕事の速いことだろう。
エリスが感心していると、マリアンヌはそんなエリスの視線に気付いて、笑みを深める。
そして侍女の姿が庭園の向こうに消えたのを確かめると、こんなことを言い出した。
「実はね、わたくしも一つ、エリス様にお願いしたいことがあるの」と。
「お願い、ですか……?」
「ええ」
いつもなら自信に満ち溢れ、サファイアのごとく透き通る碧色の瞳を、伏せた瞼で半分隠して。
マリアンヌは、すっかり冷めてしまったお茶を一口含むと、躊躇いがちに唇を開く。
「実はわたくし、刺繍がとても苦手なの。他は大抵できるのに、刺繡だけは本当に駄目なのよ。だから、その……わたくしに、刺繍を教えていただけないかしら?」
「――!」
刹那、エリスは驚きのあまり息を呑んだ。
まさかマリアンヌに苦手なものがあったは、と思ったし、それ以上に驚いたのは、今まさに、目の前のマリアンヌが恥じらいの表情を浮かべていることだった。
その様子は、刺繍が苦手なことを恥じているという風ではなく――そう。どちらかと言えば、恋する乙女であるような。
(マリアンヌ様……もしかして……)
エリスは悟らざるを得なかった。
マリアンヌには、刺繍を贈りたいほど好いた相手がいるのだと。
(こんなに美しく聡明な方が、結婚どころか婚約すら済ませていらっしゃらないのはどうしてかと思っていたけれど、そういうことだったのね)
きっと相手は、皇女とは釣り合いの取れない身分の男なのだろう。
地位や権力を持ち合わせた者ほど、結婚に関しては特に、本人の自由にはならないことを身をもって体験してきたエリスは、心臓が締め付けられる心地がした。
(応援するだなんて、簡単には言えないわ。……でも)
気持ちだけでいえば、心から応援したい。それに何より、マリアンヌには普段からとてもお世話になっているのだ。
そんなマリアンヌの役に立てる機会を、みすみす逃すつもりはなかった。
そもそも、刺繍はできなくて困ることはあっても、できすぎて困るなどということは、一つもないのだから。
エリスは、いつになく頼りなさげなマリアンヌの瞳を、覗き込むように見つめる。
「わたくしでよければ、喜んで」
そう言って、降り注ぐ陽光の下、柔らかく微笑むのだった。
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