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第二話 帰郷と不穏な影
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翌朝、村は穏やかな光に包まれていた。
昨日の霧はすっかり晴れ、雲ひとつない青空が頭上に広がっている。家々の屋根に朝露が光り、畑の畝からは土の匂いが立ち上っていた。鶏が甲高く鳴き、どこかの家で薪を割る乾いた音が響く。辺境の村の、いつもと変わらない朝だった。
レオンは母に朝食を作り、薬を飲ませ、窓辺に毛布をかけてやってから、カイとエマと共に外へ出た。
村長から頼まれた簡単な見回りだった。柵の緩みがないか、井戸の水位に異常はないか、畑に獣の足跡が残っていないか。どれも日常の延長のような仕事にすぎない。けれど、三人で肩を並べて歩くだけで、胸の奥が温かくなった。
昨日の再会は夢ではなかった。
隣にカイがいる。反対側にエマがいる。それを確かめるように、レオンは時折、二人の横顔にちらりと視線を向けた。
「城門の石畳ってのがやたら広くてさ。端から端まで馬車五台分はあるんだ。貴族の馬車が通るときは道の左端に寄らなきゃいけないし、すれ違うときは頭を下げなきゃいけない。最初の頃なんか、歩き方一つで怒鳴られたんだぜ。『貴族の馬車が通るときは左に寄れ、騎士見習い風情が真ん中を歩くな。目障りだ』ってさ」
カイが前髪をかき上げながら、王都の話を続けていた。昨夜の食卓で語りきれなかった分を、朝の散歩で消化しているかのようだ。その声は相変わらず快活で、昨夜ちらりと見せた重い空気が嘘のように感じられる。
「それで? 貴族に怒られたりしなかったの? カイのことだから、黙ってなさそうだけど」
レオンが興味深そうに聞くと、カイは肩をすくめた。
「まあ、何度かはあったな。最初は『なんだ田舎者か。泥臭い匂いがするぞ』って鼻で笑われた。正直、殴ってやろうかと思ったけど、先輩に首根っこ掴まれて止められた。『我慢しろ、ここは王都だ。拳より先に頭を使え』ってな」
「カイが我慢できたの? 信じられないわね」
エマが横から口を挟んだ。
「できたっつうか、させられたんだよ。でもな、そのうち剣の稽古で同期をぶっ倒してたら、貴族の坊ちゃん連中も黙り始めた。結局、実力で黙らせるしかねぇんだよ、ああいう場所は。口じゃ勝てねぇからな、身分が違うと」
「カイ、それちょっと話を盛ってない? 最初の模擬戦で同期の剣士に負けて、悔しくて夜中まで素振りしてたのは誰だっけ。宿舎の廊下で、真夜中にブンブン木剣を振って」
「おい、エマ! そういう余計な情報を付け加えるんじゃねぇよ! しかもなんで知ってんだ、お前は魔導学院だろうが」
「宿舎が隣の棟だもの。壁越しに素振りの音がドスドス響いてきて、最初は何事かと思ったわ。地震かしらって」
「地震て。俺の素振りを天災扱いするな」
レオンが笑うと、エマも口元を緩めた。
「でもね、レオン。騎士団の訓練場は本当にすごいのよ。あなたが見たら、きっと目を輝かせると思う。すごく広い石畳の中庭があって、何十人もの騎士が一斉に剣を振るの。朝日が鎧に反射して、きらきら光って。それが整然と並んでいる様は、壮観だったわ。私は合同訓練のときに一度だけ見学したんだけど、しばらく動けなかったもの」
「へぇ……。そういうの、絵本の中だけだと思ってた。挿絵に描いてあるような光景が、本当にあるんだな」
レオンは素直に驚いた。王都という場所は、自分にとってあまりにも遠い世界だった。話に聞くだけで、肌の感触も匂いも想像するしかない。母を置いて行くこともできないし、魔力ゼロの自分が行ったところで何の役にも立たないだろう。そもそも、自分にそんな資格があるとも思えなかった。
「剣の稽古なんかな、毎日何百回も素振りするんだぜ。朝は基礎の型を百回、昼は応用の型を二百回、午後は対人の模擬戦。最初の一ヶ月は腕がもう上がらなくなってさ。飯食うとき箸が持てなくて、隣の奴に『おい新入り、手が震えてるぞ。じいさんかよ』って笑われたんだ」
「それでもカイは、翌朝にはまた同期の誰よりも早く訓練場に出てたのよ。先輩騎士が不思議がってたわ。『あの辺境の小僧は根性だけは一人前だな。体がついてこないのに、心だけは折れない。珍しいやつだ』って」
「根性"だけ"ってのが引っかかるけどな。剣術も一人前だって言ってほしいぜ。……まあいい、今に見てろよ。騎士団で一番の剣の使い手になってやるさ。そしたら、あの先輩にも文句は言わせねぇ」
「それでも文句一つ言わないんだから、カイは本当に騎士向きよね。不屈というか、頑固というか」
「おう、褒めてんのか?」
「褒めてるわよ。単純なところも含めてね」
「単純って言うな。俺は……素直って言ってくれ」
「素直な人は、自分のことを素直とは言わないわ」
エマの涼しい声に、カイが「うるせぇ」と笑いながら返す。
レオンはその掛け合いを聞きながら、自然と口元がほころんだ。二人は確かに成長している。体つきも、話す内容も、纏う雰囲気も変わった。それでも変わらないものがある。このやりとりも、昔のままだ。カイが威勢のいいことを言って、エマが冷静に突っ込んで、カイがむきになる。その繰り返しが、心地よい。
「お前ら、全然変わってないな。安心したよ、本当に」
「変わったところもあるぜ? 俺、酒が飲めるようになった」
「嘘つかないで。この前、先輩に勧められて杯一杯飲んだだけで顔が真っ赤になってたじゃない。林檎みたいだったわよ」
「あれは……酒場が暑かっただけだ! 火の近くの席だったんだよ!」
「はいはい。信じてあげるわ」
「信じてないだろ、その口調」
村の小道を歩きながら、レオンは二人の横顔をそっと見つめた。
カイの日焼けした顔には、騎士見習いとしての自信が滲んでいる。顎の線が引き締まり、目つきにも以前にはなかった鋭さが加わっていた。エマの表情には、魔導士見習いとしての落ち着きと知性が宿っている。物事を語るときの言葉選びが、以前よりもずっと的確になった。
二人とも、自分の道を見つけている。
それに比べて、自分は。
薬草を摘み、母の世話をし、村の雑事を手伝う。それが自分の日常で、それ以上のものは何もない。二人と自分の間に、見えない溝が広がっていくような気がした。寂しいとは違う。ただ、少しだけ胸が痛んだ。
ふと、カイが言葉を切った。
笑みが消え、真面目な顔に変わる。その切り替わりがあまりにも鮮やかで、レオンは一瞬、別人を見ているような錯覚を覚えた。
「……でもな、レオン。最近は笑ってばかりもいられねぇんだ。王都はさっき話したみたいに、楽しい場所でもある。飯はうまいし、見るもん全部が新しいし。でも……裏の顔もあるんだよ。それを、お前にも知っておいてほしくてな」
「え?」
レオンは足を止めた。
カイの表情が急に険しくなっている。眉間に皺が寄り、口元が一文字に引き結ばれていた。昨夜、食卓で一瞬だけ見せた、あの顔。言いかけてエマに止められた、あの顔と同じだった。
「王都で、"王家の血"を狙う連中がいるの」
エマが静かに続けた。足を止め、レオンの方を向く。その声には、昨夜と同じ種類の緊張が宿っていた。風が三つ編みを揺らしたが、彼女の視線は微動だにしない。
「隣国ノクターンの"影の部隊"。シャドウレギオンって呼ばれている暗殺者集団よ。魔導学院でも、全生徒に対して警戒を強めるよう正式な通達が出たわ。外出の際は必ず二人以上で行動すること、夜間の単独行動は禁止。それくらい、事態は深刻なの」
「王子様を……殺そうとしてるのか? それって、本当の話なのか?」
レオンの声が僅かに震えた。
昨日、広場で旅の商人が話していたことが、急に現実味を帯びてくる。あのときは他人事だと思っていた。遠い世界の、自分には関係のない話だと。
影の部隊。シャドウレギオン。
その名前を二人の口から直接聞くと、背筋に冷たいものが走った。商人の噂話とは、重みが違う。
「そういうこった。王家に恨みを持つ連中は、昔から珍しくねぇ。けどな、ノクターンは格が違う。百年前の大戦で王国に敗れて、国土の半分を奪われたんだ。それ以来、ずっと復讐の機会を窺ってたらしい。影の部隊は、その先兵ってわけだ。国の威信を賭けた暗殺部隊。練度が桁違いなんだよ」
カイが腕を組んだ。その目は遠くを見ている。村の風景ではなく、王都の暗い路地裏を見ているような目だった。
「王都では、常に警戒態勢が敷かれているの。いつ、どこから襲撃があるか分からない。城壁の上の見張りは三交代制に増員されたし、夜間の巡回人数も倍になったわ。魔導学院の防御結界も、従来の二重から三重に強化された。それだけの対策を講じても、まだ足りないかもしれないと言われているの」
エマが付け加えた。その声には、実際に緊迫した空気の中で暮らしてきた者だけが持つ、経験に裏打ちされた重みがあった。
「でも、どうして王家を? 昔から続く恨みって、百年も前の話だろ。そんなに長い間、憎しみが消えないものなのか?」
レオンは思わず聞いていた。王族の話は自分には無縁のものだと思っていた。けれど、二人がその渦中にいるのだ。他人事ではいられなかった。
「さあな。百年なんて、国にとっちゃ昨日のことなんだろうよ。騎士団の教官が講義で話してくれたんだが、ノクターンって国は影魔法を国家の根幹に据えてるんだと。こっちの王国が光の魔法を掲げてるのと、ちょうど正反対だな。光と影。太陽と夜。そういう対立が、百年どころか何百年も前から続いてるって話だ」
「国土の半分を失ったということは、民も半分を失ったということよ。家を焼かれ、土地を奪われた人々の記憶は、親から子へ、子から孫へと語り継がれる。百年経っても消えない傷というのは、そういうものなの。魔導学院の歴史の講義で、ノクターン側の文献も少しだけ読んだけれど……彼らには彼らの正義があるのだと感じたわ。だからといって暗殺を許せるわけではないけれど」
エマが髪の端を指先で弄びながら答えた。その仕草は、彼女が緊張しているときの癖だとレオンは知っている。
「影の部隊は、影魔法を操る暗殺者の精鋭集団よ。姿を完全に消したり、影の中を移動したり、闇そのものを武器に変えたりするの。普通の騎士では対処できない相手だわ。魔導学院の教授によると、影魔法は光魔法の対極にある魔法体系で、通常の防御魔法では感知することすらできない場合があるそうなの。探知の網をすり抜けて、気づいたときにはもう背後にいる。そういう恐ろしさがある」
「それって……カイやエマでも、戦えないってことか?」
レオンの声が、低くなった。胸の奥が冷たく締まるような感覚がある。
「正直に言うぜ」
カイが、珍しく声のトーンを落とした。
「俺たちはまだ見習いだ。影の部隊の本物と正面からぶつかったら……厳しいだろうな。先月、王都の裏通りでそれらしき奴を見かけたんだ。一瞬のことだった。建物の影が不自然に動いて、人の形をとったように見えた。目を凝らしたら、もう消えていた。あとに残ったのは、冷気だけだ。真夏だったのに、そこだけ真冬みたいに冷えてたんだよ。鳥肌が止まらなかった」
「……カイがそんな顔するなんて、よほどの相手なんだな」
レオンは、カイの表情に浮かんだ翳りを見つめた。いつも強気で、弱みを見せないカイが、明らかに畏怖を滲ませている。それだけで、影の部隊という存在の恐ろしさが伝わってきた。
「怖い話だよ……。二人は本当に大丈夫なのか? そんな連中がうろついてる王都で毎日暮らしてて、夜も安心して眠れないんじゃないのか?」
レオンは無意識に服の裾をつまんでいた。指先に力が入る。
「だからこそ、俺たちも気を抜けねぇんだ。王子様を守ることが、騎士の使命だからな。まだ見習いだけどよ、いざってときには剣を振るう覚悟はできてる。……できてるつもりだ。いや、できてなくてもやるしかねぇ。逃げるって選択肢は、騎士にはねぇんだよ」
カイが拳を握り締めた。指の関節が白くなるほど強く。
「カイは訓練では同期の中で一番なの。模擬戦の成績も、体力測定も、すべて首席よ。教官にも一目置かれているわ。だから……きっと大丈夫。それに、騎士団には歴戦の先輩方もたくさんいらっしゃる」
「自分のことは棚に上げるなよ、エマ。お前だって、魔導学院の成績は上位三番以内だろうが。風魔法の実技試験で、教授を唸らせたって聞いたぞ」
「誰から聞いたのよ、そんなこと」
「合同訓練のとき、魔導学院の連中が噂してたんだよ。『あの赤毛の子、すごいらしいぞ』ってな」
「……大げさよ。上には上がいるわ」
エマが照れたように目を逸らした。
「レオン、心配しないで。私たちは大丈夫よ。それに、影の部隊が狙っているのは王族であって、私たちみたいな一介の見習いじゃないわ。標的でもない人間を襲う理由はないもの。……だから、安心して」
「安心しろって言われても……お前らが危険なところにいるって分かったんだ。そりゃ心配するだろ。俺に何ができるわけでもないけど、心配くらいはさせてくれよ。頼むから」
レオンの声には、切実さがにじんでいた。
「……ったく」
カイが小さく笑った。けれどその笑みには、温かさが満ちている。
「お前は昔からそうだよな。自分のことより、人のことばっかり気にしやがって。村の子どもが転んだら真っ先に駆け寄るし、野良猫が怪我してたら薬草で手当てするし。その優しさは……まあ、お前の一番いいところだけどな」
「レオンらしいわ。でも……その気持ちに、何度救われたか分からないの。あなたが王都に手紙をくれるたびに、私は少しだけ安心できた。あなたの文字を見ると、村の空気を思い出せるから。……ありがとう、心配してくれて」
エマが微笑んだ。その笑みには、疲労の色が僅かに混じっていたが、それでも穏やかだった。
三人は再び歩き出した。足元の小道に、木漏れ日が斑模様を描いている。
だが、レオンの心には消えない不安が芽を出していた。二人は本当に大丈夫なのだろうか。もし何かあったら、自分には何もできない。剣も振れない。魔法も使えない。駆けつけることすらできない。その無力さが、胸を重く締め付けた。
◇
昼過ぎ、村の酒場に立ち寄った。
見回りの途中で喉が渇いて、水をもらおうと思っただけだった。しかし入口を潜ると、また別の旅人が村人たちと話し込んでいるのが目に入る。今度は痩せた中年の男で、目つきが鋭く、風体にどこか油断のならない雰囲気があった。
「影の部隊が探してるのは、ただの暗殺対象じゃねぇんだ。"本物の血"を追ってるって話だぜ。王子を殺すだけが目的じゃねぇ。もっと根深い何かがあるらしい」
旅人の声が、薄暗い酒場に響いた。昼間だというのに、店内は妙に静まり返っている。
レオンたちは入口近くの席に腰を下ろしたが、その会話が否応なく耳に入ってきた。カイとエマも、何気ない顔を装いながら聞き耳を立てている。
「本物の血? どういう意味だ。王子の血が偽物だとでも言うのか」
村人の一人が、怪訝な顔で聞き返した。
「偽物とまでは言わねぇが……王宮には隠し子がいるとか、実は双子の王子がいたとか、そういう噂がな。もう何年も前から酒場じゃちらほら出てくる話なんだが、ここ半年で急に増えてきた。以前は酔っぱらいの戯言だと思ってたのが、最近は素面の商人まで真顔で話すようになってきたんだよ」
「双子だと? そんな話、聞いたこともねぇぞ。王子は一人だろうが。毎年の祝祭で、城のバルコニーに立ってるの見たことあるだろ」
「だから隠してるんだろうが。表に出てる王子は一人でも、もう一人がどこかに匿われてるって話だ。生まれてすぐ、どこかに預けられたとか。王宮から遠く離れた、誰も知らない場所にな」
「本当かよ。酔っ払いの与太話じゃねぇのか」
「与太話で影の部隊が動くかよ。あいつらは無駄なことはしねぇ集団だ。確かな情報がなけりゃ、指一本動かさねぇ。それが動いてるってことは、何かを掴んでるんだよ」
別の村人が口を挟んだ。
「じゃあ何か。その"もう一人の王子"ってのを、影の部隊が探してるってことか?」
「そういうこった。王宮が必死に隠してるってことは、隠す理由がそれだけ大きいってことだろう。火のないところに煙は立たねぇ。探してる側も、隠してる側も、命懸けだ」
「おいおい、物騒な話はよしてくれよ。こんな辺境の村にまで、そんな噂が流れてくるようになったら世も末だぜ」
「世も末かどうかは知らねぇが、用心しとけよ。影の部隊は辺境だろうが何だろうが、標的がいりゃ容赦なく来る。壁も柵も、あいつらの前じゃ紙切れ同然だ」
村人たちがざわめいた。杯を持つ手が止まり、互いの顔を見合わせている。
レオンは水の入った杯を握ったまま、動けなかった。
双子の王子。隠された血筋。もう一人の王家の血。
どれも荒唐無稽な話のはずだった。笑い話として聞き流すべきだった。それなのに、胸の奥で何かがざわめいている。理由は分からない。ただ、「隠し子」「生まれてすぐ預けられた」という言葉が、妙に心に引っかかって離れなかった。
血とか、血筋とか。自分のような、何も持たない人間には縁のない話だ。魔力もない。特別な力もない。ただの村の少年が、王家の秘密に関わることなど、ありえない。
それなのに、なぜこんなに胸が騒ぐのだろう。
「レオン、行きましょう。ここにいても、気が滅入るだけよ」
エマが静かに声をかけた。穏やかな口調だったが、その瞳にはレオンの動揺を見抜いたような鋭さがあった。彼女は立ち上がり、レオンの方に手を差し伸べる。
「……うん。ごめん、ぼうっとしてた」
「気にすんなよ。酒場の噂話なんて、半分以上はでたらめだ。酒が入った人間の話を真に受けてたら、世界は三日で滅びてるぜ」
カイが努めて軽い調子で言った。けれど、彼の目も酒場の旅人をちらりと窺っていた。
「そうよ。噂は噂。確かめようのない話に振り回されても仕方ないわ。さ、外の空気を吸いましょう。日が出てるうちは、まだ気持ちがいいから」
レオンは頷き、二人と共に酒場を出た。外に出ると、午後の日差しが眩しかった。酒場の薄暗さの中で聞いた不穏な話が、陽の光に晒されて少しだけ現実感を失う。
けれど、完全には消えなかった。胸の奥に沈んだ小さな重りのように、ずっとそこに在り続けている。
◇
夕方、三人は川辺に座っていた。
村の南を流れる小川は、幅はさほどないが水は澄んでいて、底の小石が一つ一つ見えるほどだった。水音が絶え間なく響き、川辺の草が風に揺れている。空は橙色から薄紫へと移り変わる途上にあり、遠くの山の輪郭が夕焼けに縁取られていた。
三人は川岸の大きな平石に並んで腰を下ろしていた。子どもの頃から、放課後にはいつもここに来ていた。何をするでもなく、ただ水の流れを眺めて、他愛もない話をした場所。三人だけの秘密基地のような場所だった。
「覚えてるか、レオン? 十歳のあの日。魔力測定のとき」
カイが、不意に切り出した。川面に向かって石を放りながら、横目でレオンを見る。
「……覚えてるよ。忘れたくても忘れられない」
「お前、あのとき真っ青になってたよな。炎も、水も、風も、何も出なくて。紙みたいに白い顔してさ。今でもはっきり覚えてるぜ、あの日のお前の顔」
「……うるさいな。あの日は本当に、生きた心地がしなかったんだぞ。周りの奴ら全員の目が、一斉にこっちに向いて。囁き声が聞こえてきて。逃げ出したかったけど、足が竦んで一歩も動けなかった。地面に根が生えたみたいだった」
レオンは頬を膨らませたが、その表情には笑いと苦さが入り混じっていた。
「あのとき、先生の方がよっぽど動揺してたわよ」
エマが少し笑いながら言った。
「『ゼロだと……? そんな記録は、過去五十年の測定データにも存在しない……ありえるのか、これは……』って。独り言のつもりだったんでしょうけど、全部聞こえてたわ。慌てて記録簿をめくり始めて、過去の事例を探していたけれど、結局見つからなかったみたいね」
「先生まで動揺してたのか……。あの人、普段は落ち着いてるのに」
「それだけ前例がなかったのよ。測定器が故障してるんじゃないかって、何度も確認してたでしょう。水晶玉をひっくり返して台座から外してみたり、別の子にもう一回やらせて正常に反応することを確かめたり。あなたには三回もかざさせた」
「三回目のとき、もう限界だった。……泣きそうだったよ。いや、正直に言うと、ちょっと泣いてた。声は出さなかったけど、目から勝手に」
「泣いてたぜ、お前」
カイが静かに言った。いつもの軽い調子ではなく、どこか噛み締めるような声だった。
「でもな、声は出さなかった。それは覚えてる。お前、歯を食いしばって、拳を握って、じっと耐えてたんだよな。周りの奴らがひそひそ言ってるのも全部聞こえてたはずなのに、一言も言い返さなかった。あれは……正直、すげぇと思ったぜ。俺だったら、多分泣き叫んで走って逃げてたと思うわ」
「……カイ」
「だからお前は、弱くなんかねぇんだよ。あの日からずっと、俺はそう思ってる」
カイの声が、妙に胸に響いた。レオンは返す言葉を探したが、見つからなかった。ただ、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……やっぱり、俺って異常なのかな」
しばらくの沈黙の後、レオンが呟いた。川面を見つめたまま、小さな声で。
「魔力が全くないなんて、この世界じゃ……。誰とも違う。普通じゃない。子どもの頃はまだ『そのうち目覚めるかもしれない』って希望があったけど、もう十七だ。今さら魔力が芽生えるなんてこと、あるわけないだろ」
「ゼロ、ね……」
エマが静かに呟いた。その声には、考え込むような響きがあった。
「変、というよりは、珍しいのよ。とても珍しい。でも、珍しいことと価値がないことは、まったく別の話よ。珍しいということは、誰も知らないということ。誰も研究していないということ。未知のものには、未知の可能性がある。魔導学院で様々な魔法理論を学んで、私はそれをより強く感じるようになったの」
「未知の可能性って……。ゼロに可能性なんてあるのか? ゼロは何を掛けてもゼロだろ」
「数字のゼロと、人間の可能性は違うわ。あなたは数式じゃないもの」
エマが真剣な目でレオンを見つめた。
「魔力がなくても、あなたには他の才能がある。薬草の知識はその一つよ。人を観察する力もそう。あなたほど、周囲の変化に敏感な人を私は知らないわ。お母様の体調の僅かな変化に気づき、薬草の微妙な状態の違いを見分け、人の表情から感情を読み取る。それは、魔法では代替できない能力なの」
「でも、魔力がなきゃ……この世界じゃ、何も守れないだろ。母さんのことだって、本当は魔法による治療を受けさせてあげたい。王都の魔導医師なら、母さんの病を治せるかもしれないって聞いたことがある。でも、俺にはそんな力も、金もなくて……。もどかしいんだよ、ずっと」
「レオン」
エマがレオンの肩にそっと手を置いた。その手は細いが、確かな温もりがあった。
「私は魔法理論を二年間学んできたわ。だから分かる。魔力がすべてじゃないの。むしろ、魔力に頼りすぎる人の方が、大切なものを見失っていることが多い。魔導学院にもいるのよ、そういう人。魔力が強いだけで中身が空っぽな生徒が。力に驕って、周りを見下して、自分こそが正しいと信じて疑わない人。あなたは、あの人たちとは根本的に違う。あなたには、人の痛みが分かる力がある。それは、どんな魔法よりも得がたいものだと私は思うの」
「エマ……」
「それに、魔法の治療だけが治療じゃないわ。あなたが毎朝摘んでいる薬草も、立派な医療の一つよ。お母様がここまで穏やかに過ごせているのは、あなたが毎日欠かさず世話をしているから。薬草を摘み、薬師のもとに通い、食事を作り、そばに寄り添っている。それは魔法なんかよりずっと地道で、ずっと尊い。私はそう信じてる」
「……ありがとう、エマ」
レオンは小さく微笑んだ。
エマの言葉は、いつも彼の心のいちばん柔らかい場所に届く。彼女がそう言ってくれるなら、ほんの少しだけ、自分を許してもいいのかもしれない。
「そうだぜ、レオン」
カイが、ポンとレオンの背中を叩いた。力強いが、不思議と痛くない。
「お前は俺の弟分なんだから、もうちょっと胸張れよ。弟分がうじうじしてたら、兄貴分の俺の沽券に関わるだろうが」
「いつから兄貴分になったんだよ。同い年だろ、俺たち」
「生まれが三ヶ月早い。よって俺が兄。異論は認めない」
「横暴だな……」
「お前には、お前にしかできないことが絶対にあるんだ。それを見つければいい。焦ることはねぇよ。俺だって、騎士見習いになるまで自分に何ができるか分かんなかったんだからな」
「カイもそうだったのか? お前は昔から剣が得意だったじゃないか。木の棒を振り回して、誰にも負けなかっただろ」
「得意ってほどじゃねぇよ。村の子どもの中で一番ってだけだ。井の中の蛙だな。王都に行ったら、俺より強い奴なんてごろごろいた。入団初日に模擬戦やらされて、三秒で地面に叩きつけられたときは、マジで帰ろうかと思ったぜ。自信ってもんが、粉々に砕けた」
「三秒……」
「三秒だ。相手の顔すら見えなかった。気づいたら仰向けで空を見てた。あのときの空の青さは、一生忘れねぇよ。屈辱的なほど綺麗だった」
カイが苦笑した。
「でも、諦めなかった。悔しくて、悔しくて、夜中に一人で素振りした。腕が上がらなくなっても振った。手に豆ができて潰れても振った。三ヶ月経つ頃には、あのとき俺を叩きつけた先輩と互角に打ち合えるようになってた。……お前も、諦めるなよ。時間がかかっても、必ず道は見つかる」
「俺にしか、できないこと……」
レオンは呟いて、川面に目を落とした。水面に映る自分の顔が、夕焼けの光を受けてぼんやりと揺れている。
「あるわよ、絶対に」
エマが柔らかく、けれど確信に満ちた声で言った。
「まだ見つかっていないだけ。人生は長いのよ、レオン。十七年で全部が決まるなんてこと、ないわ」
「エマはいつも、難しいことを簡単に言うよな」
「簡単なことを難しく考えるのは、あなたの癖よ。昔からね」
三人はしばらく、黙って川の流れを眺めていた。
水は絶えることなく流れ、小石の間を縫って音を立てている。空は橙から紫へ、紫から藍色へと刻一刻と変わっていく。最初の星が、山の上に一つだけ光り始めた。
不意に、カイが平たい石を拾い上げ、水面に向かって横手投げで放った。石は水面を跳ね、一回、二回、三回、四回。軽い音を連ねて向こう岸近くまで届いた。
「おお、四回。上出来だろ!」
「子どもみたい。王都で剣を振ってるくせに、水切りで喜ぶのね」
「何言ってんだ。水切りは手首の鍛錬にもなるんだぞ。剣術の基本は手首のスナップだからな。つまりこれは訓練だ」
「無理があるわね、その理屈」
レオンも笑って石を拾い、真似をして投げてみた。石は水面に触れた瞬間、ぽちゃんと音を立てて沈んでいった。跳ねもしない。
「下手くそ! お前、投げ方がなってねぇんだよ。石の選び方からして駄目だ。もっと平たくて薄い奴を選べ。それから手首のスナップを利かせるんだ。腕全体で投げるんじゃなくて、最後の一瞬で手首をこう、シュッと弾く感じ」
「そう言われても……」
「ほら、この石使え。平たくていい形だろ。川のそばに転がってる石の中で、水切り向きなのは十個に一個くらいだ。目利きが大事なんだよ。お前、薬草の目利きはできるんだから、石だってできるはずだ」
「薬草と石は違うだろ……」
「本質は同じだ。観察して、選んで、最善を尽くす。な?」
カイが得意げに笑いながら、もう一つ石を投げた。今度は五回跳ねて、対岸の草むらに着地した。
「くそ、負けた……。一回も跳ねないのに」
「勝負してたの? 面白そうね。私もやっていい?」
エマが立ち上がり、足元の石を吟味するように見つめた。一つ拾い上げ、手のひらで重さを確かめ、首を振って捨てる。二つ目も同様。三つ目で、小さく頷いた。
優雅な仕草で腕を引き、滑らかに石を放った。
石は水面を低く滑るように跳ね、一回、二回、三回、四回、五回、六回。最後はほとんど水面を撫でるようにして消えた。
「……六回?」
カイが目を見開いた。
「お前、魔法使っただろ! 風で押したろ!」
「使ってないわよ。失礼ね。実家で兄に教わったの。コツは力じゃなくて、角度と回転よ。石を水面に対して二十度くらいの角度で当てて、なおかつ横回転をかけると安定するの」
「二十度って……お前、計算して投げてるのか」
「当たり前でしょう。魔導士の基本は、すべてを数値で把握することよ」
「水切りにまで理論を持ち込むな……」
「レオン、俺たち二人とも負けたぞ。これは由々しき事態だ」
「俺を巻き込むなよ。俺は一回も跳ねてないんだから、そもそも勝負の土俵に立ってない」
三人が笑った。
その笑い声が、夕暮れの川辺に響いて、水面の上を滑るように広がっていく。
こんな何でもない時間が、レオンには何よりも大切だった。薬草を摘む静かな朝も、母と過ごす穏やかな昼下がりも好きだが、三人でいるこの時間は別格だ。言葉にならない安心感がある。自分はここにいていいのだと、理屈抜きで思える。
この時間が、ずっと続けばいい。
そう願わずにはいられなかった。
◇
夜。
カイとエマはレオンの家に泊まることになっていた。客間と呼ぶには狭すぎる部屋だが、布団を敷けば二人くらいは眠れる。エマには母の隣の部屋を使ってもらい、カイはレオンの部屋に布団を並べた。
母は二人の顔を見て、今日一日で何度目かの笑みを浮かべた。
「カイちゃん、布団が薄かったら遠慮なく言ってね。予備の毛布もあるから。夜は冷え込むでしょう」
「おばさん、全然気にしないでください。騎士見習いは地面の上でも寝られますから。石の上でも板の上でも、横になれりゃ三秒で眠れます」
「まあ、逞しいのねえ。でも、ちゃんと布団で寝てちょうだいね。体を壊したら元も子もないわ」
「はい。ありがとうございます、おばさん。おばさんこそ、ゆっくり休んでください。明日、俺が薪割り手伝いますから」
「あら、嬉しい。じゃあ、お言葉に甘えるわね。……エマちゃんも、ゆっくり寝てね。何かあったら遠慮なく言ってちょうだい」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい、おばさん」
エマが丁寧に頭を下げた。母は嬉しそうに微笑み、早めに寝室へ引き取った。
明かりを落とした部屋の中、布団を並べて横になると、天井の木目がぼんやりと見えた。窓から差し込む月明かりが、部屋の中に細い光の筋を引いている。
しばらく沈黙が続いた。遠くで梟が鳴いている。
「なぁ、レオン」
カイが天井を見つめたまま、静かに口を開いた。いつもの大きな声ではなく、夜の闇に溶け込むような低い声だった。
「ん?」
「お前……王都に来る気はねぇか?」
その言葉に、レオンは驚いて隣を向いた。暗がりの中で、カイの横顔がぼんやりと浮かんでいる。天井を見上げたまま、瞬きもしない。
「俺が? 王都に? 何言ってるんだよ、急に」
「急じゃねぇよ。ずっと考えてたんだ。お前に、もっと広い世界を見てほしいって。この村が嫌いなわけじゃねぇ。ここは俺たちが育った場所だし、大事に決まってる。でもな……ここだけがお前の世界じゃねぇはずだ」
カイの声には、いつもの陽気さがなかった。代わりに、静かな、けれど揺るぎない何かが込められていた。
「でも、母さんを置いていけないよ」
レオンは即座に答えた。考えるまでもない。
「母さんは俺がいないと、薬草も採れない。薬も受け取りに行けない。食事の支度も、掃除も、何もかも。それに……魔力もない俺が王都に行ったって、邪魔になるだけだろ。王都は、強い人間が生きる場所だ。俺みたいなのが行っても、足手まといになるのが関の山だよ」
「邪魔なんかじゃねぇよ」
カイの声が、少し強くなった。天井から視線を外し、暗闘の中でレオンをまっすぐに見る。
「いい加減、そういうこと言うのやめろ。お前が自分を卑下するたびに、俺は腹が立つんだよ。なんで分かんねぇんだ。お前の価値は、お前自身が決めるもんだ。周りの奴らが勝手にレッテルを貼って決めるもんじゃねぇし、魔力の数字で測れるもんでもねぇ」
「……カイ」
「なぁ、レオン。王都ってさ、強い人しかいちゃいけない場所だと思ってるか?」
レオンは少し考えてから、正直に答えた。
「……そう思ってた。少なくとも、魔力がある人間じゃないと居場所がないんだろうなって」
「そんなわけねぇだろ」
カイが、鼻で笑った。馬鹿にしているのではない。レオンの思い込みを、吹き飛ばそうとしている笑いだった。
「俺だって、まだまだ半人前だぜ。入団試験のとき、実技で三回落とされかけたんだ。筆記は壊滅的だったし、馬術の試験じゃ落馬して泥まみれになった。最後は根性と、あと多分運で受かったようなもんだ。それでも今、ちゃんとやれてる」
「王都にはいろんな人がいるのよ」
カイの言葉を継ぐように、廊下の向こうからエマの声が聞こえた。壁が薄いので、隣の部屋にまで声が届いているらしい。
「あ、エマ。起きてたのか」
「あなたたちの声が聞こえるもの。壁一枚しかないんだから」
「悪ぃ。もう少し静かに喋る」
「いいのよ、大事な話でしょう。私も混ざっていい?」
「……おう。来いよ」
エマが毛布を肩にかけたまま、レオンの部屋の戸口に現れた。月明かりの中で、彼女の赤褐色の髪が銀色に光っている。敷居に腰を下ろし、膝を抱えた。
「強い人も弱い人も、魔力がある人もない人も、王都には様々な人が暮らしているわ。カイの言う通りよ」
「パン屋のおっちゃんがいるんだよ、王都に」
カイが寝転がったまま語り始めた。
「名前はゴルドって言うんだけどな。魔力はゼロだ。完全にゼロ。でもあのおっちゃん、毎朝四時に起きて、王都で一番うまいパンを焼くんだ。窯の温度も、生地の発酵具合も、全部自分の手と鼻と目で判断する。魔法なんか一切使わない。それでも、城の貴族が態々買いに来るくらいの評判でさ。行列が通りを一周することもある」
「それから、鍛冶屋のヴォルフ爺さんも魔力はからっきしだけど、あの人が打った剣は一級品よ。騎士団の正式装備にも採用されているの。魔法で強化された剣に負けないくらいの切れ味と耐久性があるって、教官が言ってたわ」
「魔力がすべてなんて、そんな世界じゃねぇんだよ、レオン。確かに、魔力があれば有利なことは多い。でも、それがなくたって生きていける場所はある。自分の居場所は、自分で作るもんだ」
「でも……」
レオンは言葉を探した。カイとエマの言うことは分かる。頭では理解できる。けれど、十歳のあの日から胸に棲みついた自己否定の声は、そう簡単には消えてくれない。
「魔力がゼロだって知れたら、どこに行っても色眼鏡で見られるだろ。この村だって、俺のことを知ってる人間は、みんなどこかで気を遣ってる。ゴードンさんは優しいけど、それだって同情なのかもしれない。俺はずっと、そういう目で見られて生きてきたんだ」
「……同情じゃねぇよ、あのおっさんがお前に優しいのは。お前に才能を見出してるからだ。あのおっさんの目は確かだぜ。何十年も薬草と向き合ってきた人間が、口先だけの褒め言葉を言うかよ」
「それは……」
「反論できないだろ。事実だからな」
カイが得意げに鼻を鳴らした。
「レオン」
エマの声が、静かに響いた。
「今すぐ答えを出す必要はないわ。ただ、覚えておいて。あなたの世界は、この村だけじゃない。もっと広い場所がある。そしてそこには、あなたを必要とする人がいるかもしれない。……それだけは、忘れないでほしいの」
その言葉が、暗い部屋の中でゆっくりと沁み込んでいった。レオンは何も言えず、ただ天井を見つめた。
「……覚えておくよ」
やがて、レオンは小さく答えた。それが今の自分に言える精一杯だった。
「よし。じゃあ寝るか。明日は薪割りだ。百本は余裕だぜ」
「十本で十分だって言っただろ」
「五十本」
「……三十本で手を打つ」
「交渉成立。レオン、お前は商人向きかもしれねぇな」
「何の話だよ……」
「エマ、お前も早く寝ろよ。廊下は冷えるぞ」
「分かってるわよ。おやすみなさい、二人とも」
「おやすみ、エマ」
「おやすみ。……ありがとう、二人とも」
レオンが静かに言った。
「何がだよ」
「いろいろ。全部」
「……ったく。礼なんかいらねぇよ。当たり前のことだろ。幼馴染ってのは、そういうもんだ」
エマが微笑みながら自分の部屋に戻り、カイはすぐに寝息を立て始めた。その呆れるほどの早さに、レオンは小さく笑った。
目を閉じると、今日一日の出来事が瞼の裏を流れていった。カイの笑顔。エマの言葉。川辺の水切り。母の笑み。酒場の噂話。
そして、影の部隊。
不安と安心が綯い交ぜになったまま、レオンの意識はゆっくりと眠りに沈んでいく。カイの規則正しい寝息が、子守唄のように響いていた。
◇
夜更け。
レオンは浅い眠りの中で、微かな気配を感じた。
それは音ではなかった。音と呼ぶには曖昧すぎる、空気の揺らぎのようなもの。窓の外に、何かが過ぎった。黒い影が、一瞬だけ月明かりを遮ったような気がした。
夢か、現実か。その境界が曖昧なまま、レオンはうっすらと目を開けた。
「……誰か、いる?」
声にならない声で呟いた。隣を見ると、カイは深い眠りに落ちている。規則正しい寝息が途切れることなく続いていた。
「……カイ?」
反応はない。
窓の外に目を向けた。月明かりが差し込む窓の向こうに、何かが見えた気がした。けれど、もう一度瞬きをしたときには、何もなかった。ただ夜の闇が広がっているだけ。木の枝が風に揺れ、影を落としている。
「……気のせいか」
レオンは安堵とも不安ともつかない息を吐いた。瞼が重い。意識が再び闇の中に沈んでいく。
目を閉じる直前、窓の外の闇が一瞬だけ濃くなったように見えた。
けれどそれも、夢と現実の境目に消えた。
◇
窓の外。
家屋の壁に張りつくようにして、一つの影が佇んでいた。
薄い銀の仮面が、月光を受けてかすかに鈍く光る。夜闇に溶ける黒装束。呼吸の音すら、周囲の闇に完全に同化していた。
その影は、窓硝子越しに部屋の中を覗き込んでいた。布団に横たわるレオンの姿を、瞬きもせずに見つめている。その視線には、感情と呼べるものが一切ない。ただ、何かを確認するような、機械的な正確さだけがあった。
「……観測結果、前夜と同一。魔力波長、検知不能。通常の探査手段では、この対象の本質を特定できない」
低く呟かれた言葉は、夜の静寂に吸い込まれ、闇に溶けて消えた。
仮面が、わずかに傾いた。まるで、目の前の現象を理解できないとでも言うように。
「魔力反応……完全なる不在。これほどの空白は、記録にも前例がない」
一拍の沈黙。
「だが……身体的特徴、年齢、出生推定時期、所在地。すべてが条件に一致する。偶然の集積ではない。確率論的にありえない」
影が、音もなく壁から離れた。地面に足がつく気配すらない。まるで、闇の中を漂う煙のようだった。
「……存在、確認。対象、条件合致。本部へ報告を上げる」
仮面の下の瞳が、最後にもう一度だけ窓の中を見た。眠るレオンの横顔を、一瞬だけ。
「"器"は、ここにある」
それだけを告げると、影は音もなく消えた。
風も鳴らず、枝も揺れず、足跡も残さない。最初からそこに誰もいなかったかのように。ただ夜の闇だけが、沈黙を守って佇んでいた。
遠くで梟が一声鳴いた。
村は再び、何事もない静寂に包まれる。
レオンは眠り続けていた。自分がすでに、何者かの視線に捉えられていることを知らないまま。穏やかな寝息だけが、暗い部屋の中に響いている。
夜明けまで、あと数刻。
辺境の村に、朝はまだ来ない。
昨日の霧はすっかり晴れ、雲ひとつない青空が頭上に広がっている。家々の屋根に朝露が光り、畑の畝からは土の匂いが立ち上っていた。鶏が甲高く鳴き、どこかの家で薪を割る乾いた音が響く。辺境の村の、いつもと変わらない朝だった。
レオンは母に朝食を作り、薬を飲ませ、窓辺に毛布をかけてやってから、カイとエマと共に外へ出た。
村長から頼まれた簡単な見回りだった。柵の緩みがないか、井戸の水位に異常はないか、畑に獣の足跡が残っていないか。どれも日常の延長のような仕事にすぎない。けれど、三人で肩を並べて歩くだけで、胸の奥が温かくなった。
昨日の再会は夢ではなかった。
隣にカイがいる。反対側にエマがいる。それを確かめるように、レオンは時折、二人の横顔にちらりと視線を向けた。
「城門の石畳ってのがやたら広くてさ。端から端まで馬車五台分はあるんだ。貴族の馬車が通るときは道の左端に寄らなきゃいけないし、すれ違うときは頭を下げなきゃいけない。最初の頃なんか、歩き方一つで怒鳴られたんだぜ。『貴族の馬車が通るときは左に寄れ、騎士見習い風情が真ん中を歩くな。目障りだ』ってさ」
カイが前髪をかき上げながら、王都の話を続けていた。昨夜の食卓で語りきれなかった分を、朝の散歩で消化しているかのようだ。その声は相変わらず快活で、昨夜ちらりと見せた重い空気が嘘のように感じられる。
「それで? 貴族に怒られたりしなかったの? カイのことだから、黙ってなさそうだけど」
レオンが興味深そうに聞くと、カイは肩をすくめた。
「まあ、何度かはあったな。最初は『なんだ田舎者か。泥臭い匂いがするぞ』って鼻で笑われた。正直、殴ってやろうかと思ったけど、先輩に首根っこ掴まれて止められた。『我慢しろ、ここは王都だ。拳より先に頭を使え』ってな」
「カイが我慢できたの? 信じられないわね」
エマが横から口を挟んだ。
「できたっつうか、させられたんだよ。でもな、そのうち剣の稽古で同期をぶっ倒してたら、貴族の坊ちゃん連中も黙り始めた。結局、実力で黙らせるしかねぇんだよ、ああいう場所は。口じゃ勝てねぇからな、身分が違うと」
「カイ、それちょっと話を盛ってない? 最初の模擬戦で同期の剣士に負けて、悔しくて夜中まで素振りしてたのは誰だっけ。宿舎の廊下で、真夜中にブンブン木剣を振って」
「おい、エマ! そういう余計な情報を付け加えるんじゃねぇよ! しかもなんで知ってんだ、お前は魔導学院だろうが」
「宿舎が隣の棟だもの。壁越しに素振りの音がドスドス響いてきて、最初は何事かと思ったわ。地震かしらって」
「地震て。俺の素振りを天災扱いするな」
レオンが笑うと、エマも口元を緩めた。
「でもね、レオン。騎士団の訓練場は本当にすごいのよ。あなたが見たら、きっと目を輝かせると思う。すごく広い石畳の中庭があって、何十人もの騎士が一斉に剣を振るの。朝日が鎧に反射して、きらきら光って。それが整然と並んでいる様は、壮観だったわ。私は合同訓練のときに一度だけ見学したんだけど、しばらく動けなかったもの」
「へぇ……。そういうの、絵本の中だけだと思ってた。挿絵に描いてあるような光景が、本当にあるんだな」
レオンは素直に驚いた。王都という場所は、自分にとってあまりにも遠い世界だった。話に聞くだけで、肌の感触も匂いも想像するしかない。母を置いて行くこともできないし、魔力ゼロの自分が行ったところで何の役にも立たないだろう。そもそも、自分にそんな資格があるとも思えなかった。
「剣の稽古なんかな、毎日何百回も素振りするんだぜ。朝は基礎の型を百回、昼は応用の型を二百回、午後は対人の模擬戦。最初の一ヶ月は腕がもう上がらなくなってさ。飯食うとき箸が持てなくて、隣の奴に『おい新入り、手が震えてるぞ。じいさんかよ』って笑われたんだ」
「それでもカイは、翌朝にはまた同期の誰よりも早く訓練場に出てたのよ。先輩騎士が不思議がってたわ。『あの辺境の小僧は根性だけは一人前だな。体がついてこないのに、心だけは折れない。珍しいやつだ』って」
「根性"だけ"ってのが引っかかるけどな。剣術も一人前だって言ってほしいぜ。……まあいい、今に見てろよ。騎士団で一番の剣の使い手になってやるさ。そしたら、あの先輩にも文句は言わせねぇ」
「それでも文句一つ言わないんだから、カイは本当に騎士向きよね。不屈というか、頑固というか」
「おう、褒めてんのか?」
「褒めてるわよ。単純なところも含めてね」
「単純って言うな。俺は……素直って言ってくれ」
「素直な人は、自分のことを素直とは言わないわ」
エマの涼しい声に、カイが「うるせぇ」と笑いながら返す。
レオンはその掛け合いを聞きながら、自然と口元がほころんだ。二人は確かに成長している。体つきも、話す内容も、纏う雰囲気も変わった。それでも変わらないものがある。このやりとりも、昔のままだ。カイが威勢のいいことを言って、エマが冷静に突っ込んで、カイがむきになる。その繰り返しが、心地よい。
「お前ら、全然変わってないな。安心したよ、本当に」
「変わったところもあるぜ? 俺、酒が飲めるようになった」
「嘘つかないで。この前、先輩に勧められて杯一杯飲んだだけで顔が真っ赤になってたじゃない。林檎みたいだったわよ」
「あれは……酒場が暑かっただけだ! 火の近くの席だったんだよ!」
「はいはい。信じてあげるわ」
「信じてないだろ、その口調」
村の小道を歩きながら、レオンは二人の横顔をそっと見つめた。
カイの日焼けした顔には、騎士見習いとしての自信が滲んでいる。顎の線が引き締まり、目つきにも以前にはなかった鋭さが加わっていた。エマの表情には、魔導士見習いとしての落ち着きと知性が宿っている。物事を語るときの言葉選びが、以前よりもずっと的確になった。
二人とも、自分の道を見つけている。
それに比べて、自分は。
薬草を摘み、母の世話をし、村の雑事を手伝う。それが自分の日常で、それ以上のものは何もない。二人と自分の間に、見えない溝が広がっていくような気がした。寂しいとは違う。ただ、少しだけ胸が痛んだ。
ふと、カイが言葉を切った。
笑みが消え、真面目な顔に変わる。その切り替わりがあまりにも鮮やかで、レオンは一瞬、別人を見ているような錯覚を覚えた。
「……でもな、レオン。最近は笑ってばかりもいられねぇんだ。王都はさっき話したみたいに、楽しい場所でもある。飯はうまいし、見るもん全部が新しいし。でも……裏の顔もあるんだよ。それを、お前にも知っておいてほしくてな」
「え?」
レオンは足を止めた。
カイの表情が急に険しくなっている。眉間に皺が寄り、口元が一文字に引き結ばれていた。昨夜、食卓で一瞬だけ見せた、あの顔。言いかけてエマに止められた、あの顔と同じだった。
「王都で、"王家の血"を狙う連中がいるの」
エマが静かに続けた。足を止め、レオンの方を向く。その声には、昨夜と同じ種類の緊張が宿っていた。風が三つ編みを揺らしたが、彼女の視線は微動だにしない。
「隣国ノクターンの"影の部隊"。シャドウレギオンって呼ばれている暗殺者集団よ。魔導学院でも、全生徒に対して警戒を強めるよう正式な通達が出たわ。外出の際は必ず二人以上で行動すること、夜間の単独行動は禁止。それくらい、事態は深刻なの」
「王子様を……殺そうとしてるのか? それって、本当の話なのか?」
レオンの声が僅かに震えた。
昨日、広場で旅の商人が話していたことが、急に現実味を帯びてくる。あのときは他人事だと思っていた。遠い世界の、自分には関係のない話だと。
影の部隊。シャドウレギオン。
その名前を二人の口から直接聞くと、背筋に冷たいものが走った。商人の噂話とは、重みが違う。
「そういうこった。王家に恨みを持つ連中は、昔から珍しくねぇ。けどな、ノクターンは格が違う。百年前の大戦で王国に敗れて、国土の半分を奪われたんだ。それ以来、ずっと復讐の機会を窺ってたらしい。影の部隊は、その先兵ってわけだ。国の威信を賭けた暗殺部隊。練度が桁違いなんだよ」
カイが腕を組んだ。その目は遠くを見ている。村の風景ではなく、王都の暗い路地裏を見ているような目だった。
「王都では、常に警戒態勢が敷かれているの。いつ、どこから襲撃があるか分からない。城壁の上の見張りは三交代制に増員されたし、夜間の巡回人数も倍になったわ。魔導学院の防御結界も、従来の二重から三重に強化された。それだけの対策を講じても、まだ足りないかもしれないと言われているの」
エマが付け加えた。その声には、実際に緊迫した空気の中で暮らしてきた者だけが持つ、経験に裏打ちされた重みがあった。
「でも、どうして王家を? 昔から続く恨みって、百年も前の話だろ。そんなに長い間、憎しみが消えないものなのか?」
レオンは思わず聞いていた。王族の話は自分には無縁のものだと思っていた。けれど、二人がその渦中にいるのだ。他人事ではいられなかった。
「さあな。百年なんて、国にとっちゃ昨日のことなんだろうよ。騎士団の教官が講義で話してくれたんだが、ノクターンって国は影魔法を国家の根幹に据えてるんだと。こっちの王国が光の魔法を掲げてるのと、ちょうど正反対だな。光と影。太陽と夜。そういう対立が、百年どころか何百年も前から続いてるって話だ」
「国土の半分を失ったということは、民も半分を失ったということよ。家を焼かれ、土地を奪われた人々の記憶は、親から子へ、子から孫へと語り継がれる。百年経っても消えない傷というのは、そういうものなの。魔導学院の歴史の講義で、ノクターン側の文献も少しだけ読んだけれど……彼らには彼らの正義があるのだと感じたわ。だからといって暗殺を許せるわけではないけれど」
エマが髪の端を指先で弄びながら答えた。その仕草は、彼女が緊張しているときの癖だとレオンは知っている。
「影の部隊は、影魔法を操る暗殺者の精鋭集団よ。姿を完全に消したり、影の中を移動したり、闇そのものを武器に変えたりするの。普通の騎士では対処できない相手だわ。魔導学院の教授によると、影魔法は光魔法の対極にある魔法体系で、通常の防御魔法では感知することすらできない場合があるそうなの。探知の網をすり抜けて、気づいたときにはもう背後にいる。そういう恐ろしさがある」
「それって……カイやエマでも、戦えないってことか?」
レオンの声が、低くなった。胸の奥が冷たく締まるような感覚がある。
「正直に言うぜ」
カイが、珍しく声のトーンを落とした。
「俺たちはまだ見習いだ。影の部隊の本物と正面からぶつかったら……厳しいだろうな。先月、王都の裏通りでそれらしき奴を見かけたんだ。一瞬のことだった。建物の影が不自然に動いて、人の形をとったように見えた。目を凝らしたら、もう消えていた。あとに残ったのは、冷気だけだ。真夏だったのに、そこだけ真冬みたいに冷えてたんだよ。鳥肌が止まらなかった」
「……カイがそんな顔するなんて、よほどの相手なんだな」
レオンは、カイの表情に浮かんだ翳りを見つめた。いつも強気で、弱みを見せないカイが、明らかに畏怖を滲ませている。それだけで、影の部隊という存在の恐ろしさが伝わってきた。
「怖い話だよ……。二人は本当に大丈夫なのか? そんな連中がうろついてる王都で毎日暮らしてて、夜も安心して眠れないんじゃないのか?」
レオンは無意識に服の裾をつまんでいた。指先に力が入る。
「だからこそ、俺たちも気を抜けねぇんだ。王子様を守ることが、騎士の使命だからな。まだ見習いだけどよ、いざってときには剣を振るう覚悟はできてる。……できてるつもりだ。いや、できてなくてもやるしかねぇ。逃げるって選択肢は、騎士にはねぇんだよ」
カイが拳を握り締めた。指の関節が白くなるほど強く。
「カイは訓練では同期の中で一番なの。模擬戦の成績も、体力測定も、すべて首席よ。教官にも一目置かれているわ。だから……きっと大丈夫。それに、騎士団には歴戦の先輩方もたくさんいらっしゃる」
「自分のことは棚に上げるなよ、エマ。お前だって、魔導学院の成績は上位三番以内だろうが。風魔法の実技試験で、教授を唸らせたって聞いたぞ」
「誰から聞いたのよ、そんなこと」
「合同訓練のとき、魔導学院の連中が噂してたんだよ。『あの赤毛の子、すごいらしいぞ』ってな」
「……大げさよ。上には上がいるわ」
エマが照れたように目を逸らした。
「レオン、心配しないで。私たちは大丈夫よ。それに、影の部隊が狙っているのは王族であって、私たちみたいな一介の見習いじゃないわ。標的でもない人間を襲う理由はないもの。……だから、安心して」
「安心しろって言われても……お前らが危険なところにいるって分かったんだ。そりゃ心配するだろ。俺に何ができるわけでもないけど、心配くらいはさせてくれよ。頼むから」
レオンの声には、切実さがにじんでいた。
「……ったく」
カイが小さく笑った。けれどその笑みには、温かさが満ちている。
「お前は昔からそうだよな。自分のことより、人のことばっかり気にしやがって。村の子どもが転んだら真っ先に駆け寄るし、野良猫が怪我してたら薬草で手当てするし。その優しさは……まあ、お前の一番いいところだけどな」
「レオンらしいわ。でも……その気持ちに、何度救われたか分からないの。あなたが王都に手紙をくれるたびに、私は少しだけ安心できた。あなたの文字を見ると、村の空気を思い出せるから。……ありがとう、心配してくれて」
エマが微笑んだ。その笑みには、疲労の色が僅かに混じっていたが、それでも穏やかだった。
三人は再び歩き出した。足元の小道に、木漏れ日が斑模様を描いている。
だが、レオンの心には消えない不安が芽を出していた。二人は本当に大丈夫なのだろうか。もし何かあったら、自分には何もできない。剣も振れない。魔法も使えない。駆けつけることすらできない。その無力さが、胸を重く締め付けた。
◇
昼過ぎ、村の酒場に立ち寄った。
見回りの途中で喉が渇いて、水をもらおうと思っただけだった。しかし入口を潜ると、また別の旅人が村人たちと話し込んでいるのが目に入る。今度は痩せた中年の男で、目つきが鋭く、風体にどこか油断のならない雰囲気があった。
「影の部隊が探してるのは、ただの暗殺対象じゃねぇんだ。"本物の血"を追ってるって話だぜ。王子を殺すだけが目的じゃねぇ。もっと根深い何かがあるらしい」
旅人の声が、薄暗い酒場に響いた。昼間だというのに、店内は妙に静まり返っている。
レオンたちは入口近くの席に腰を下ろしたが、その会話が否応なく耳に入ってきた。カイとエマも、何気ない顔を装いながら聞き耳を立てている。
「本物の血? どういう意味だ。王子の血が偽物だとでも言うのか」
村人の一人が、怪訝な顔で聞き返した。
「偽物とまでは言わねぇが……王宮には隠し子がいるとか、実は双子の王子がいたとか、そういう噂がな。もう何年も前から酒場じゃちらほら出てくる話なんだが、ここ半年で急に増えてきた。以前は酔っぱらいの戯言だと思ってたのが、最近は素面の商人まで真顔で話すようになってきたんだよ」
「双子だと? そんな話、聞いたこともねぇぞ。王子は一人だろうが。毎年の祝祭で、城のバルコニーに立ってるの見たことあるだろ」
「だから隠してるんだろうが。表に出てる王子は一人でも、もう一人がどこかに匿われてるって話だ。生まれてすぐ、どこかに預けられたとか。王宮から遠く離れた、誰も知らない場所にな」
「本当かよ。酔っ払いの与太話じゃねぇのか」
「与太話で影の部隊が動くかよ。あいつらは無駄なことはしねぇ集団だ。確かな情報がなけりゃ、指一本動かさねぇ。それが動いてるってことは、何かを掴んでるんだよ」
別の村人が口を挟んだ。
「じゃあ何か。その"もう一人の王子"ってのを、影の部隊が探してるってことか?」
「そういうこった。王宮が必死に隠してるってことは、隠す理由がそれだけ大きいってことだろう。火のないところに煙は立たねぇ。探してる側も、隠してる側も、命懸けだ」
「おいおい、物騒な話はよしてくれよ。こんな辺境の村にまで、そんな噂が流れてくるようになったら世も末だぜ」
「世も末かどうかは知らねぇが、用心しとけよ。影の部隊は辺境だろうが何だろうが、標的がいりゃ容赦なく来る。壁も柵も、あいつらの前じゃ紙切れ同然だ」
村人たちがざわめいた。杯を持つ手が止まり、互いの顔を見合わせている。
レオンは水の入った杯を握ったまま、動けなかった。
双子の王子。隠された血筋。もう一人の王家の血。
どれも荒唐無稽な話のはずだった。笑い話として聞き流すべきだった。それなのに、胸の奥で何かがざわめいている。理由は分からない。ただ、「隠し子」「生まれてすぐ預けられた」という言葉が、妙に心に引っかかって離れなかった。
血とか、血筋とか。自分のような、何も持たない人間には縁のない話だ。魔力もない。特別な力もない。ただの村の少年が、王家の秘密に関わることなど、ありえない。
それなのに、なぜこんなに胸が騒ぐのだろう。
「レオン、行きましょう。ここにいても、気が滅入るだけよ」
エマが静かに声をかけた。穏やかな口調だったが、その瞳にはレオンの動揺を見抜いたような鋭さがあった。彼女は立ち上がり、レオンの方に手を差し伸べる。
「……うん。ごめん、ぼうっとしてた」
「気にすんなよ。酒場の噂話なんて、半分以上はでたらめだ。酒が入った人間の話を真に受けてたら、世界は三日で滅びてるぜ」
カイが努めて軽い調子で言った。けれど、彼の目も酒場の旅人をちらりと窺っていた。
「そうよ。噂は噂。確かめようのない話に振り回されても仕方ないわ。さ、外の空気を吸いましょう。日が出てるうちは、まだ気持ちがいいから」
レオンは頷き、二人と共に酒場を出た。外に出ると、午後の日差しが眩しかった。酒場の薄暗さの中で聞いた不穏な話が、陽の光に晒されて少しだけ現実感を失う。
けれど、完全には消えなかった。胸の奥に沈んだ小さな重りのように、ずっとそこに在り続けている。
◇
夕方、三人は川辺に座っていた。
村の南を流れる小川は、幅はさほどないが水は澄んでいて、底の小石が一つ一つ見えるほどだった。水音が絶え間なく響き、川辺の草が風に揺れている。空は橙色から薄紫へと移り変わる途上にあり、遠くの山の輪郭が夕焼けに縁取られていた。
三人は川岸の大きな平石に並んで腰を下ろしていた。子どもの頃から、放課後にはいつもここに来ていた。何をするでもなく、ただ水の流れを眺めて、他愛もない話をした場所。三人だけの秘密基地のような場所だった。
「覚えてるか、レオン? 十歳のあの日。魔力測定のとき」
カイが、不意に切り出した。川面に向かって石を放りながら、横目でレオンを見る。
「……覚えてるよ。忘れたくても忘れられない」
「お前、あのとき真っ青になってたよな。炎も、水も、風も、何も出なくて。紙みたいに白い顔してさ。今でもはっきり覚えてるぜ、あの日のお前の顔」
「……うるさいな。あの日は本当に、生きた心地がしなかったんだぞ。周りの奴ら全員の目が、一斉にこっちに向いて。囁き声が聞こえてきて。逃げ出したかったけど、足が竦んで一歩も動けなかった。地面に根が生えたみたいだった」
レオンは頬を膨らませたが、その表情には笑いと苦さが入り混じっていた。
「あのとき、先生の方がよっぽど動揺してたわよ」
エマが少し笑いながら言った。
「『ゼロだと……? そんな記録は、過去五十年の測定データにも存在しない……ありえるのか、これは……』って。独り言のつもりだったんでしょうけど、全部聞こえてたわ。慌てて記録簿をめくり始めて、過去の事例を探していたけれど、結局見つからなかったみたいね」
「先生まで動揺してたのか……。あの人、普段は落ち着いてるのに」
「それだけ前例がなかったのよ。測定器が故障してるんじゃないかって、何度も確認してたでしょう。水晶玉をひっくり返して台座から外してみたり、別の子にもう一回やらせて正常に反応することを確かめたり。あなたには三回もかざさせた」
「三回目のとき、もう限界だった。……泣きそうだったよ。いや、正直に言うと、ちょっと泣いてた。声は出さなかったけど、目から勝手に」
「泣いてたぜ、お前」
カイが静かに言った。いつもの軽い調子ではなく、どこか噛み締めるような声だった。
「でもな、声は出さなかった。それは覚えてる。お前、歯を食いしばって、拳を握って、じっと耐えてたんだよな。周りの奴らがひそひそ言ってるのも全部聞こえてたはずなのに、一言も言い返さなかった。あれは……正直、すげぇと思ったぜ。俺だったら、多分泣き叫んで走って逃げてたと思うわ」
「……カイ」
「だからお前は、弱くなんかねぇんだよ。あの日からずっと、俺はそう思ってる」
カイの声が、妙に胸に響いた。レオンは返す言葉を探したが、見つからなかった。ただ、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……やっぱり、俺って異常なのかな」
しばらくの沈黙の後、レオンが呟いた。川面を見つめたまま、小さな声で。
「魔力が全くないなんて、この世界じゃ……。誰とも違う。普通じゃない。子どもの頃はまだ『そのうち目覚めるかもしれない』って希望があったけど、もう十七だ。今さら魔力が芽生えるなんてこと、あるわけないだろ」
「ゼロ、ね……」
エマが静かに呟いた。その声には、考え込むような響きがあった。
「変、というよりは、珍しいのよ。とても珍しい。でも、珍しいことと価値がないことは、まったく別の話よ。珍しいということは、誰も知らないということ。誰も研究していないということ。未知のものには、未知の可能性がある。魔導学院で様々な魔法理論を学んで、私はそれをより強く感じるようになったの」
「未知の可能性って……。ゼロに可能性なんてあるのか? ゼロは何を掛けてもゼロだろ」
「数字のゼロと、人間の可能性は違うわ。あなたは数式じゃないもの」
エマが真剣な目でレオンを見つめた。
「魔力がなくても、あなたには他の才能がある。薬草の知識はその一つよ。人を観察する力もそう。あなたほど、周囲の変化に敏感な人を私は知らないわ。お母様の体調の僅かな変化に気づき、薬草の微妙な状態の違いを見分け、人の表情から感情を読み取る。それは、魔法では代替できない能力なの」
「でも、魔力がなきゃ……この世界じゃ、何も守れないだろ。母さんのことだって、本当は魔法による治療を受けさせてあげたい。王都の魔導医師なら、母さんの病を治せるかもしれないって聞いたことがある。でも、俺にはそんな力も、金もなくて……。もどかしいんだよ、ずっと」
「レオン」
エマがレオンの肩にそっと手を置いた。その手は細いが、確かな温もりがあった。
「私は魔法理論を二年間学んできたわ。だから分かる。魔力がすべてじゃないの。むしろ、魔力に頼りすぎる人の方が、大切なものを見失っていることが多い。魔導学院にもいるのよ、そういう人。魔力が強いだけで中身が空っぽな生徒が。力に驕って、周りを見下して、自分こそが正しいと信じて疑わない人。あなたは、あの人たちとは根本的に違う。あなたには、人の痛みが分かる力がある。それは、どんな魔法よりも得がたいものだと私は思うの」
「エマ……」
「それに、魔法の治療だけが治療じゃないわ。あなたが毎朝摘んでいる薬草も、立派な医療の一つよ。お母様がここまで穏やかに過ごせているのは、あなたが毎日欠かさず世話をしているから。薬草を摘み、薬師のもとに通い、食事を作り、そばに寄り添っている。それは魔法なんかよりずっと地道で、ずっと尊い。私はそう信じてる」
「……ありがとう、エマ」
レオンは小さく微笑んだ。
エマの言葉は、いつも彼の心のいちばん柔らかい場所に届く。彼女がそう言ってくれるなら、ほんの少しだけ、自分を許してもいいのかもしれない。
「そうだぜ、レオン」
カイが、ポンとレオンの背中を叩いた。力強いが、不思議と痛くない。
「お前は俺の弟分なんだから、もうちょっと胸張れよ。弟分がうじうじしてたら、兄貴分の俺の沽券に関わるだろうが」
「いつから兄貴分になったんだよ。同い年だろ、俺たち」
「生まれが三ヶ月早い。よって俺が兄。異論は認めない」
「横暴だな……」
「お前には、お前にしかできないことが絶対にあるんだ。それを見つければいい。焦ることはねぇよ。俺だって、騎士見習いになるまで自分に何ができるか分かんなかったんだからな」
「カイもそうだったのか? お前は昔から剣が得意だったじゃないか。木の棒を振り回して、誰にも負けなかっただろ」
「得意ってほどじゃねぇよ。村の子どもの中で一番ってだけだ。井の中の蛙だな。王都に行ったら、俺より強い奴なんてごろごろいた。入団初日に模擬戦やらされて、三秒で地面に叩きつけられたときは、マジで帰ろうかと思ったぜ。自信ってもんが、粉々に砕けた」
「三秒……」
「三秒だ。相手の顔すら見えなかった。気づいたら仰向けで空を見てた。あのときの空の青さは、一生忘れねぇよ。屈辱的なほど綺麗だった」
カイが苦笑した。
「でも、諦めなかった。悔しくて、悔しくて、夜中に一人で素振りした。腕が上がらなくなっても振った。手に豆ができて潰れても振った。三ヶ月経つ頃には、あのとき俺を叩きつけた先輩と互角に打ち合えるようになってた。……お前も、諦めるなよ。時間がかかっても、必ず道は見つかる」
「俺にしか、できないこと……」
レオンは呟いて、川面に目を落とした。水面に映る自分の顔が、夕焼けの光を受けてぼんやりと揺れている。
「あるわよ、絶対に」
エマが柔らかく、けれど確信に満ちた声で言った。
「まだ見つかっていないだけ。人生は長いのよ、レオン。十七年で全部が決まるなんてこと、ないわ」
「エマはいつも、難しいことを簡単に言うよな」
「簡単なことを難しく考えるのは、あなたの癖よ。昔からね」
三人はしばらく、黙って川の流れを眺めていた。
水は絶えることなく流れ、小石の間を縫って音を立てている。空は橙から紫へ、紫から藍色へと刻一刻と変わっていく。最初の星が、山の上に一つだけ光り始めた。
不意に、カイが平たい石を拾い上げ、水面に向かって横手投げで放った。石は水面を跳ね、一回、二回、三回、四回。軽い音を連ねて向こう岸近くまで届いた。
「おお、四回。上出来だろ!」
「子どもみたい。王都で剣を振ってるくせに、水切りで喜ぶのね」
「何言ってんだ。水切りは手首の鍛錬にもなるんだぞ。剣術の基本は手首のスナップだからな。つまりこれは訓練だ」
「無理があるわね、その理屈」
レオンも笑って石を拾い、真似をして投げてみた。石は水面に触れた瞬間、ぽちゃんと音を立てて沈んでいった。跳ねもしない。
「下手くそ! お前、投げ方がなってねぇんだよ。石の選び方からして駄目だ。もっと平たくて薄い奴を選べ。それから手首のスナップを利かせるんだ。腕全体で投げるんじゃなくて、最後の一瞬で手首をこう、シュッと弾く感じ」
「そう言われても……」
「ほら、この石使え。平たくていい形だろ。川のそばに転がってる石の中で、水切り向きなのは十個に一個くらいだ。目利きが大事なんだよ。お前、薬草の目利きはできるんだから、石だってできるはずだ」
「薬草と石は違うだろ……」
「本質は同じだ。観察して、選んで、最善を尽くす。な?」
カイが得意げに笑いながら、もう一つ石を投げた。今度は五回跳ねて、対岸の草むらに着地した。
「くそ、負けた……。一回も跳ねないのに」
「勝負してたの? 面白そうね。私もやっていい?」
エマが立ち上がり、足元の石を吟味するように見つめた。一つ拾い上げ、手のひらで重さを確かめ、首を振って捨てる。二つ目も同様。三つ目で、小さく頷いた。
優雅な仕草で腕を引き、滑らかに石を放った。
石は水面を低く滑るように跳ね、一回、二回、三回、四回、五回、六回。最後はほとんど水面を撫でるようにして消えた。
「……六回?」
カイが目を見開いた。
「お前、魔法使っただろ! 風で押したろ!」
「使ってないわよ。失礼ね。実家で兄に教わったの。コツは力じゃなくて、角度と回転よ。石を水面に対して二十度くらいの角度で当てて、なおかつ横回転をかけると安定するの」
「二十度って……お前、計算して投げてるのか」
「当たり前でしょう。魔導士の基本は、すべてを数値で把握することよ」
「水切りにまで理論を持ち込むな……」
「レオン、俺たち二人とも負けたぞ。これは由々しき事態だ」
「俺を巻き込むなよ。俺は一回も跳ねてないんだから、そもそも勝負の土俵に立ってない」
三人が笑った。
その笑い声が、夕暮れの川辺に響いて、水面の上を滑るように広がっていく。
こんな何でもない時間が、レオンには何よりも大切だった。薬草を摘む静かな朝も、母と過ごす穏やかな昼下がりも好きだが、三人でいるこの時間は別格だ。言葉にならない安心感がある。自分はここにいていいのだと、理屈抜きで思える。
この時間が、ずっと続けばいい。
そう願わずにはいられなかった。
◇
夜。
カイとエマはレオンの家に泊まることになっていた。客間と呼ぶには狭すぎる部屋だが、布団を敷けば二人くらいは眠れる。エマには母の隣の部屋を使ってもらい、カイはレオンの部屋に布団を並べた。
母は二人の顔を見て、今日一日で何度目かの笑みを浮かべた。
「カイちゃん、布団が薄かったら遠慮なく言ってね。予備の毛布もあるから。夜は冷え込むでしょう」
「おばさん、全然気にしないでください。騎士見習いは地面の上でも寝られますから。石の上でも板の上でも、横になれりゃ三秒で眠れます」
「まあ、逞しいのねえ。でも、ちゃんと布団で寝てちょうだいね。体を壊したら元も子もないわ」
「はい。ありがとうございます、おばさん。おばさんこそ、ゆっくり休んでください。明日、俺が薪割り手伝いますから」
「あら、嬉しい。じゃあ、お言葉に甘えるわね。……エマちゃんも、ゆっくり寝てね。何かあったら遠慮なく言ってちょうだい」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい、おばさん」
エマが丁寧に頭を下げた。母は嬉しそうに微笑み、早めに寝室へ引き取った。
明かりを落とした部屋の中、布団を並べて横になると、天井の木目がぼんやりと見えた。窓から差し込む月明かりが、部屋の中に細い光の筋を引いている。
しばらく沈黙が続いた。遠くで梟が鳴いている。
「なぁ、レオン」
カイが天井を見つめたまま、静かに口を開いた。いつもの大きな声ではなく、夜の闇に溶け込むような低い声だった。
「ん?」
「お前……王都に来る気はねぇか?」
その言葉に、レオンは驚いて隣を向いた。暗がりの中で、カイの横顔がぼんやりと浮かんでいる。天井を見上げたまま、瞬きもしない。
「俺が? 王都に? 何言ってるんだよ、急に」
「急じゃねぇよ。ずっと考えてたんだ。お前に、もっと広い世界を見てほしいって。この村が嫌いなわけじゃねぇ。ここは俺たちが育った場所だし、大事に決まってる。でもな……ここだけがお前の世界じゃねぇはずだ」
カイの声には、いつもの陽気さがなかった。代わりに、静かな、けれど揺るぎない何かが込められていた。
「でも、母さんを置いていけないよ」
レオンは即座に答えた。考えるまでもない。
「母さんは俺がいないと、薬草も採れない。薬も受け取りに行けない。食事の支度も、掃除も、何もかも。それに……魔力もない俺が王都に行ったって、邪魔になるだけだろ。王都は、強い人間が生きる場所だ。俺みたいなのが行っても、足手まといになるのが関の山だよ」
「邪魔なんかじゃねぇよ」
カイの声が、少し強くなった。天井から視線を外し、暗闘の中でレオンをまっすぐに見る。
「いい加減、そういうこと言うのやめろ。お前が自分を卑下するたびに、俺は腹が立つんだよ。なんで分かんねぇんだ。お前の価値は、お前自身が決めるもんだ。周りの奴らが勝手にレッテルを貼って決めるもんじゃねぇし、魔力の数字で測れるもんでもねぇ」
「……カイ」
「なぁ、レオン。王都ってさ、強い人しかいちゃいけない場所だと思ってるか?」
レオンは少し考えてから、正直に答えた。
「……そう思ってた。少なくとも、魔力がある人間じゃないと居場所がないんだろうなって」
「そんなわけねぇだろ」
カイが、鼻で笑った。馬鹿にしているのではない。レオンの思い込みを、吹き飛ばそうとしている笑いだった。
「俺だって、まだまだ半人前だぜ。入団試験のとき、実技で三回落とされかけたんだ。筆記は壊滅的だったし、馬術の試験じゃ落馬して泥まみれになった。最後は根性と、あと多分運で受かったようなもんだ。それでも今、ちゃんとやれてる」
「王都にはいろんな人がいるのよ」
カイの言葉を継ぐように、廊下の向こうからエマの声が聞こえた。壁が薄いので、隣の部屋にまで声が届いているらしい。
「あ、エマ。起きてたのか」
「あなたたちの声が聞こえるもの。壁一枚しかないんだから」
「悪ぃ。もう少し静かに喋る」
「いいのよ、大事な話でしょう。私も混ざっていい?」
「……おう。来いよ」
エマが毛布を肩にかけたまま、レオンの部屋の戸口に現れた。月明かりの中で、彼女の赤褐色の髪が銀色に光っている。敷居に腰を下ろし、膝を抱えた。
「強い人も弱い人も、魔力がある人もない人も、王都には様々な人が暮らしているわ。カイの言う通りよ」
「パン屋のおっちゃんがいるんだよ、王都に」
カイが寝転がったまま語り始めた。
「名前はゴルドって言うんだけどな。魔力はゼロだ。完全にゼロ。でもあのおっちゃん、毎朝四時に起きて、王都で一番うまいパンを焼くんだ。窯の温度も、生地の発酵具合も、全部自分の手と鼻と目で判断する。魔法なんか一切使わない。それでも、城の貴族が態々買いに来るくらいの評判でさ。行列が通りを一周することもある」
「それから、鍛冶屋のヴォルフ爺さんも魔力はからっきしだけど、あの人が打った剣は一級品よ。騎士団の正式装備にも採用されているの。魔法で強化された剣に負けないくらいの切れ味と耐久性があるって、教官が言ってたわ」
「魔力がすべてなんて、そんな世界じゃねぇんだよ、レオン。確かに、魔力があれば有利なことは多い。でも、それがなくたって生きていける場所はある。自分の居場所は、自分で作るもんだ」
「でも……」
レオンは言葉を探した。カイとエマの言うことは分かる。頭では理解できる。けれど、十歳のあの日から胸に棲みついた自己否定の声は、そう簡単には消えてくれない。
「魔力がゼロだって知れたら、どこに行っても色眼鏡で見られるだろ。この村だって、俺のことを知ってる人間は、みんなどこかで気を遣ってる。ゴードンさんは優しいけど、それだって同情なのかもしれない。俺はずっと、そういう目で見られて生きてきたんだ」
「……同情じゃねぇよ、あのおっさんがお前に優しいのは。お前に才能を見出してるからだ。あのおっさんの目は確かだぜ。何十年も薬草と向き合ってきた人間が、口先だけの褒め言葉を言うかよ」
「それは……」
「反論できないだろ。事実だからな」
カイが得意げに鼻を鳴らした。
「レオン」
エマの声が、静かに響いた。
「今すぐ答えを出す必要はないわ。ただ、覚えておいて。あなたの世界は、この村だけじゃない。もっと広い場所がある。そしてそこには、あなたを必要とする人がいるかもしれない。……それだけは、忘れないでほしいの」
その言葉が、暗い部屋の中でゆっくりと沁み込んでいった。レオンは何も言えず、ただ天井を見つめた。
「……覚えておくよ」
やがて、レオンは小さく答えた。それが今の自分に言える精一杯だった。
「よし。じゃあ寝るか。明日は薪割りだ。百本は余裕だぜ」
「十本で十分だって言っただろ」
「五十本」
「……三十本で手を打つ」
「交渉成立。レオン、お前は商人向きかもしれねぇな」
「何の話だよ……」
「エマ、お前も早く寝ろよ。廊下は冷えるぞ」
「分かってるわよ。おやすみなさい、二人とも」
「おやすみ、エマ」
「おやすみ。……ありがとう、二人とも」
レオンが静かに言った。
「何がだよ」
「いろいろ。全部」
「……ったく。礼なんかいらねぇよ。当たり前のことだろ。幼馴染ってのは、そういうもんだ」
エマが微笑みながら自分の部屋に戻り、カイはすぐに寝息を立て始めた。その呆れるほどの早さに、レオンは小さく笑った。
目を閉じると、今日一日の出来事が瞼の裏を流れていった。カイの笑顔。エマの言葉。川辺の水切り。母の笑み。酒場の噂話。
そして、影の部隊。
不安と安心が綯い交ぜになったまま、レオンの意識はゆっくりと眠りに沈んでいく。カイの規則正しい寝息が、子守唄のように響いていた。
◇
夜更け。
レオンは浅い眠りの中で、微かな気配を感じた。
それは音ではなかった。音と呼ぶには曖昧すぎる、空気の揺らぎのようなもの。窓の外に、何かが過ぎった。黒い影が、一瞬だけ月明かりを遮ったような気がした。
夢か、現実か。その境界が曖昧なまま、レオンはうっすらと目を開けた。
「……誰か、いる?」
声にならない声で呟いた。隣を見ると、カイは深い眠りに落ちている。規則正しい寝息が途切れることなく続いていた。
「……カイ?」
反応はない。
窓の外に目を向けた。月明かりが差し込む窓の向こうに、何かが見えた気がした。けれど、もう一度瞬きをしたときには、何もなかった。ただ夜の闇が広がっているだけ。木の枝が風に揺れ、影を落としている。
「……気のせいか」
レオンは安堵とも不安ともつかない息を吐いた。瞼が重い。意識が再び闇の中に沈んでいく。
目を閉じる直前、窓の外の闇が一瞬だけ濃くなったように見えた。
けれどそれも、夢と現実の境目に消えた。
◇
窓の外。
家屋の壁に張りつくようにして、一つの影が佇んでいた。
薄い銀の仮面が、月光を受けてかすかに鈍く光る。夜闇に溶ける黒装束。呼吸の音すら、周囲の闇に完全に同化していた。
その影は、窓硝子越しに部屋の中を覗き込んでいた。布団に横たわるレオンの姿を、瞬きもせずに見つめている。その視線には、感情と呼べるものが一切ない。ただ、何かを確認するような、機械的な正確さだけがあった。
「……観測結果、前夜と同一。魔力波長、検知不能。通常の探査手段では、この対象の本質を特定できない」
低く呟かれた言葉は、夜の静寂に吸い込まれ、闇に溶けて消えた。
仮面が、わずかに傾いた。まるで、目の前の現象を理解できないとでも言うように。
「魔力反応……完全なる不在。これほどの空白は、記録にも前例がない」
一拍の沈黙。
「だが……身体的特徴、年齢、出生推定時期、所在地。すべてが条件に一致する。偶然の集積ではない。確率論的にありえない」
影が、音もなく壁から離れた。地面に足がつく気配すらない。まるで、闇の中を漂う煙のようだった。
「……存在、確認。対象、条件合致。本部へ報告を上げる」
仮面の下の瞳が、最後にもう一度だけ窓の中を見た。眠るレオンの横顔を、一瞬だけ。
「"器"は、ここにある」
それだけを告げると、影は音もなく消えた。
風も鳴らず、枝も揺れず、足跡も残さない。最初からそこに誰もいなかったかのように。ただ夜の闇だけが、沈黙を守って佇んでいた。
遠くで梟が一声鳴いた。
村は再び、何事もない静寂に包まれる。
レオンは眠り続けていた。自分がすでに、何者かの視線に捉えられていることを知らないまま。穏やかな寝息だけが、暗い部屋の中に響いている。
夜明けまで、あと数刻。
辺境の村に、朝はまだ来ない。
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