やがて虹がかかるまで

朝飛

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9 記憶の手がかり

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 とても、悲しい夢を見ていた気がする。寂しくて、悲しくて、苦しくて、泣かずにはいられなかった。
 それが過ぎ去ると、今度は体の一部が奪われたような、とてつもない喪失感に襲われた。何を奪われたのか分からないけれど、俺はそれがないと生きていけないということだけは分かる。
 俺は……のことを思い出さないといけない。早く思い出して、この手で。
 そこまで思ったところで、片手で空を掴みながら目を覚ます。ゆっくりと身を起こすと、片目からつうっと一筋の涙が伝い落ちた。
「俺、は……?」
 涙を指先で拭いながら辺りを見渡すと、自室のベッドの上だった。
 ここに来るまでのことを思い出そうとすると、頭に鈍痛が走り、目の前が暗くなりかける。
「……っ」
 呼吸を乱した時、ドアをノックする音が響いた。その瞬間に考えるのを止めたおかげか、頭痛がふっと消える。
「……はい」
「テラだ。入ってもいいか?」
「テラ?……うん、いいよ」
 応えると、ドアが開いてテラが心配そうな顔をして入って来た。
「調子はどうだ?」
「調子?」
「覚えていないのか?さっき宿舎の外で倒れていたんだぞ。……ヒューネル様と一緒に」
「ヒューネル、様……?」
 名を呟いた途端、一瞬奇妙な感覚に襲われる。懐かしさか、切なさか、あるいは。胸に走った甘い痛みの理由を突き止められないまま、その感覚はすっと消えてなくなる。
「ヒューネル様って、誰だっけ」
 そう、ヒューネルなんて名前、俺は知らない。
「知らないのか?この国の第一王子だ。今までレオって名前で、団員の一人として俺たちと一緒にいた男がいただろう?そのレオが実はヒューネル様だったらしく、さっき治療のために王宮に運ばれた」
「そう……なんだ」
「目覚めたばかりでろくに頭が働いていないんだろ。お前、レオ様と親しかったじゃないか」
「レオ様と、俺が……?レオ様って、誰?」
「は?」
 唖然とした様子のテラに、俺はもう一度繰り返した。
「レオ様って誰?俺、そんな人知らない」
「は?エレン、お前冗談で言っ……」
 テラの声を遮るように、再びノックの音が響いた。
「はい」
「ウィリアムです。入ってもいいですか?」
「どうぞ」
 テラがさっと窓辺にどいたところで、ウィリアムが中に入ってくる。テラとは違って何やら深刻そうな顔をしていた。
「ああ、テラもいたんですね。申し訳ないですが、席を外してもらっていいですか?」
「あ、はい。分かりました」
 テラがこちらの様子を気にしながら、素早く部屋を出て行く。それを見届けた後、ウィリアムは俺に近づいたかと思うと、いきなり抱き締めてきた。
「ウィ、ウィリアム……?」
「ああ、どうしてこんなことに。ヒューネル様とはもっと堂々と……」
「ウィリアム?どうし……んっ」
 今度は唐突に唇を塞がれる。驚いて押し退けようとするが、力負けしてしまい、強引に何度もキスを繰り返される。
「ンッ、や、め……っんぅ」」
「大人しくして下さい。こうしてあの方の目を誤魔化さなければ。キスだけです。それ以上はしません」
「やっ……」
 ウィリアムの頬を叩こうにも、その腕さえ取られてできなかった。目尻に涙が浮かんだ頃にようやく唇を解かれ、ウィリアムが俺からゆっくりと身を離す。
「なんで、こんな……っ」
「エレンが好きだからです」
「……っ」
「でも、今はそれだけのためにキスをしたわけではありません」
「?……どういう、こと?」
 問いかけにウィリアムが答えかけたようだが、頭を押さえながら顔を顰めた。
「ウィリアム?」
「すみません。答えることを許されていないので、答えられません。ただ、エレンは大切なことを忘れてしまっている、ということだけ伝えておきます。あとは自分の力で思い出して下さい。あと、私はある方の目を誤魔化すために、これからも時々あなたに近づくかもしれませんが、全部あなたとヒューネル様のためなので、耐えて下さい」
「俺と、ヒューネル様の……?」
「ああ、でも」
 部屋を立ち去りかけたウィリアムが振り返り、笑みを浮かべて付け加える。
「私はエレンが好きなので、時折行き過ぎたことをしたら、殴ってでも止めて下さい」
「は、はあ……」
 状況が上手く掴めないでいるうちに、ウィリアムは部屋から出て行った。
 俺は一人部屋に残され、ウィリアムが話していた言葉を反芻しながら窓の外に目を向ける。薄闇に包まれていく曇り空を眺め、ヒューネルに会ってみようと思った。 
俺が忘れてしまったという大切なことが何なのかは分からない。ウィリアムが話した言葉の半分も理解できていない。
 ただ、寝ている間に感じていた喪失感のようなものは微かに残っていて、何かを忘れたということだけは確かな気がする。その大切なことは恐らく、先ほどから何度も登場しているヒューネルに関わることだろう。
「ヒューネル様、か」
 名前を呟き、出て行ったばかりのウィリアムを追いかけるべく部屋を出た。
 廊下を歩きながらウィリアムの姿を探していると、ローンが急ぎ足で王宮へ向かっているのが窓から見えた。
「……?」
「エレン。今、団長を見なかったか?」
「見たよ。どうしたの?」
 何やら慌てた様子のテラに尋ねると、テラはくしゃりと前髪を掴みながら顔を顰めた。
「今、小耳に挟んだんだが、団長がしばらく王宮の中で勤務することになったらしい。なんでも、ヒューネル様の具合が良くならなくて、良くなるまではヒューネル様の部屋に誰も入れないように見張るためだって」
「軟禁ってこと?」
「そうなるのかも……エレン!」
 考える前に体が動き、宿舎から飛び出していた。自分でも分からないが、何か良くないことが起ころうとしていると感じ、気持ちばかりが焦る。
 王宮の中に入ろうとすると、門番が駆け寄ってきて俺の前に立ち塞がる。
「通して下さい」
「事前にお約束がない方は通せません」
「お願いします。ヒューネル様に会わせて下さい」
「今、ヒューネル様はどなたとも会われないと……」
「お願いします。ひと目だけでも」
 門番と押し問答を続けたが、いつまでも平行線で埒が明かなかった。そのうち屈強な方の門番に実力行使で捕らえられそうになり、渋々帰って行きながら王宮を仰ぎ見る。外から中の様子はまるで窺えないが、誰かが窓からじっとこちらを見て笑っているような気がした。
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