櫻人ーサクラビトー

朝飛

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理由

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 入学して一か月ほどが過ぎた頃、いよいよ体育祭の準備が大詰めとなった。
 記憶のない宵娯は当然ながら体育祭というものがどういうものかも知らない。そもそも長い間眠っていて、そのまま成長したようなものだから、学校に通ってさえいないのかもしれなかった。
 ドクターストップはかかっていないが、念のため様子見ということで、今年は極力激しい競技には参加しないようにと言われている。
 それでもお祭り気分に盛り上がる周りの空気が好きで、当日が楽しみでならない。時には見学したり、時には準備を手伝ったりと宵娯なりに充実した日々となっていた。
休憩の合間に、クラスメイトに目玉は何だろうと尋ねてみたところ、烏山 というクラスメイトがいち早く反応を返す。
「体育祭の目玉?俺らは新入生だから分からないけど、先輩曰く、応援合戦の演舞がかなり力が入っているらしい。あと、ありきたりだけど締めのフォークダンス。やっぱり好きな人がいたら一緒に踊れる機会なんて他にないし」
 すると、近くにいた川内という生徒が口を挟んだ。
「烏山、フォークダンスなんてかなり短い間しか踊れないぞ。流れ作業みたいなものだって。それに、狙っている女子でもいるのかよ」
「あ、そっか。女子としか踊れねえのか」
「何当たり前なこと言ってるんだよ。野郎同士で踊って楽しいか?」
「いや、俺は」
 烏山が、何か言いたげに宵娯を見る。どこか赤い顔をしていた。
「分かった、お前宵娯がす――」
「うわあ!お前黙れよ」
 烏山が大慌てで川内の口を塞ぐが、宵娯には筒抜けだ。揶揄うつもりで烏山の首に腕を回し、引き寄せて囁いた。
「そういえば烏山とはしたことがなかったな。一発どうだ」
「なっ――」
「我はいつでも歓迎するぞ」
 赤い耳元に息を吹き込むようにすると、烏山はこれ以上ないほど赤面し、がちがちに固まった。
「こらこら、いちゃつかない!やるならやるで、後でやってくれ」
 川内の台詞が烏山には別の意味に聞こえたに違いない。ようやく我に返ると、大きな声で叫んだ。
「俺はやらない!まだ!」
「何の宣言だよ」
 川内を含め、いろんなクラスメイトに揶揄われる烏山を見ながら、宵娯もその中に混じって笑った。頭の片隅で、侑惺はどの競技に出るのだろうと考え、本人が答えてくれなければ有沢に聞こうと思った。
 日が暮れるまで準備をした後、まずは侑惺を探して六組に向かう。教室を覗くと、こちらも今まで準備をしていたようで、生徒が体操着で小道具を運んだりしていた。
「あれ、宵娯君じゃん」
「え、本当だ。やば、私メイク崩れてない?」
 すぐに女子生徒に囲まれてしまい、愛想笑いをばらまきながら、彼女たちの頭越しに侑惺の姿を探そうと見回す。すると教室の窓側に立ち、何人かのクラスメイトと笑い合っている侑惺を見つけた。たった一度しか自分に向けられたことがないその表情を、仲間には簡単に見せているという事実に、微かに理由が分からない感情が芽生えるのを感じる。
貴重な彼の表情を目に焼き付けておこうとじっと見つめていた時、視線に気付いたのか、それとも女子生徒が騒いでいることが気になったのか、不意に彼がこちらを見た。
「ゆう――」
 名前を呼ぼうとしたが、女子生徒を掻き分けて進むまでもなく、侑惺は宵娯を綺麗に無視して仲間との談笑を再開する。それならばと、わざと大きな声を出した。
「誰か侑惺の出る競技を知っている人いない?」
 すると、侑惺がこちらを振り向かないままぴたりと動きを止める。皆の視線が侑惺と宵娯の間を行き来した。それでも侑惺が答えないのを見て、侑惺の近くにいた男子生徒の一人が声を上げる。
「なんだよ、お前ら喧嘩してんの?早く仲直りしろよな。ひとまず俺が代わりに答えてやるから言え」
 侑惺から強引に聞き出したらしく、伝達係を買って出てくれた気のいい生徒が、宵娯の元へやって来る。
「騎馬戦とクラス対抗リレーのアンカーとかだってさ。ちなみに騎馬戦では上に乗る方だから見やすいかも。あいつ、意外と足早いからさ、桜庭のクラスを負かしてしまうかも」
 挑戦的に笑ってきて、それに対して笑みを返すと、分かりやすく照れたような顔つきになった。
「ありがとう。じゃあ、我はこれで」
「待てよ、侑惺と話して行かないのか。なんなら、俺が後であいつに理由とか聞いてやるから」
 そのまま立ち去りかけた宵娯を呼び止め、そんなことを言ってくれる。気持ちはありがたいが、恐らく今のままでは何も答えてくれないだろう。
「いや、気持ちだけありがたく受け取っておく」
 そして女子生徒にも軽く挨拶を済ませ、その日は潔く立ち去った。当然ながら、これだけで侑惺を諦めるつもりはさらさらなかったのだが、競技が分かっただけでも収穫だ。全力で無視できないほど応援してやることを心に決め、当日を待ち遠しく思った。


 いよいよ待ちに待った体育祭当日が訪れた。快晴に恵まれ、風もさほど吹いておらず、来場者の数も多い。宵娯の義母と義父も駆けつけてくれた。出番は少ないと話していたが、それでも出場の度に大きく手を振ってくれる。
 そして保護者の間でもすでに話題に上がっているのか、宵娯が出るとやたらとフラッシュが焚かれるのは恐らく気のせいではないだろう。それに対してサービス精神で手を振って見せると、歓声が上がった。
「よお、有名人」
 出番を終えて団席に戻っていく途中、烏山が声をかけてきた。軽くハイタッチをして、促されるままに自分の席ではなく烏山の隣に腰掛け、談笑をしていると、保護者の中でも頭一つ抜きん出て大きい男が立っていることに気が付く。白衣を羽織り、研究員のような出で立ちは明らかに学校関係者には見えず、異様だった。
 しかしその男に気を取られていると、不意にどこからか言い争う声が聞こえてきた。
「てめえ、ふざけんなよ!宵娯に謝れ!」
 自分の名前が飛び出して来て、驚きながら烏山と目を見合わせ、そちらに顔を向ける。すると隣の団の団席の後ろに僅かな人だかりが出来ており、間を掻き分けていくと、中心で喧嘩をしている二人の姿が見えた。水無月と侑惺だ。
「水無月、何をやっているんだ」
 烏山が正に殴りかかろうとしていた水無月を羽交い絞めにし、宵娯が侑惺を振り返ると、彼は唇を強く噛んで項垂れていた。
「とにかく落ち着け、な」
 烏山が水無月を宥めようとするが、水無月はそれを振り払い、侑惺を冷たく見下ろしながら、幾分落ち着きを取り戻した声で言う。
「トラウマだか何だか知らないけど、そんなんで無視される宵娯の身にもなってみなよ」
「水無月、それはどういう」
「理由は本人から聞いた方がいい」
 水無月が促したが、侑惺は固く口を閉ざして話そうとしない。それに再び苛立ちを募らせたのか、水無月がまた食って掛かろうとしたところで、話を聞きつけた教師が走ってきた。
「お前ら、こんな時に何をやっているんだ。喧嘩の理由は後でじっくり聞かせてもらうから、取りあえず席に戻れ」
 それでひとまずその場は収まったのだが、侑惺が行ってしまったのを見て、水無月が舌打ちしながら宵娯に言った。
「宵娯、彼が君を嫌う理由を教えてあげる。でもただで教えるのは癪だから、体育祭が終ったら屋上に来て」
 その後、体育祭に集中出来なかったのは言うまでもない。侑惺の態度は相変わらずで、声援にも見向きもしなかった。
 トラウマとは一体何のことか分からないが、宵娯の存在がそれを刺激したことは間違いない。そう思うと、胸の奥で痛みを覚えて、せっかく宵娯の団が優勝したというのに、悲しくて堪らなかった。
 そして体育祭が終った後、約束通り屋上に向かったが、生憎練習で使ったりしていたらしく、後片付けなどで屋上には生徒が多くいて、結局水無月は現れなかった。
 

 新緑の季節は過ぎ去り、梅雨入りを迎えつつある頃、宵娯は成績や生活態度のことで呼びだされた。普通に生活を送る分には支障はないが、昏睡状態で長く入院していたこともあり、それも記憶の方は未だに治る兆しもないために、体調のことはこれまでもしばしば聞かれてきた。成績について苦言をもらったところで、そもそもが他の者のように学校に通っていたこともない宵娯は、ついていくことが出来るはずもなかった。そんな状態では進級も危ないと頭を悩ませていた教師が、空いた時間に補習をしてくれてはいるが、それでもようやく中学生レベルに行くか行かないかのレベルだ。
 自宅での自習をこれまで以上に真面目に取り組むようにということと、それよりもこちらが本題というように切り出されたのが、不純異性(同性)交遊についてだった。さほど厳しい校風ではなく、本来ならば学生の恋愛事に口を出すことはないらしいのだが、勉強が同級生に追い付くまでは、極力そういったことを控えるようにと言われる。
 その教師も色目を使えばすぐに言いなりに出来ると知っていたが、ひとまずそれに従うことにした。どちらにしろ、このところは誰と行為に及んだところで心底楽しめず、常に侑惺の姿がちらついていたために、これはいい機会だった。
 教師と挨拶を交わして職員室を出る際に、長身の白衣の男が目の前を通り過ぎた。すぐにそれが体育祭の時に見かけた男だと気が付き、何気ない風を装って視線を送る。すると、男はわざわざ立ち止まり、宵娯の顔を凝視したかと思うと、驚きで目を見開き、続いて苦悶に満ちた顔つきをし、声をかけてこようとする。
「君は――」
 ところが、男が何かを言う前に職員室から誰かに呼ばれ、そのまま名残惜しそうに宵娯を振り返りながら入って行った。
「あの男は……」
 宵娯には目覚めてからの短い記憶しかなく、いくら手繰り寄せようとしたところで、男に関する情報は出て来ない。以前の自分を知っている人物にも会ったことがなかったが、もしかしたら、男は宵娯の過去を知る唯一の手掛かりかもしれなかった。
 今まで自分の失った記憶に興味は抱かなかったが、突然現れた過去の残滓に戸惑い、感情を持て余す。ここで待っていれば男と話ができるかもしれないが、今更過去のことを知ったところで、自分はどうするというのだろう。
 宵娯はしばしの間逡巡し、チャイムが鳴るまでの間と決めて待ってみたが、男が出てくることはなかった。
 諦めて踵を返しながら、教室に駆け込む生徒の流れに逆らってゆったりと廊下を歩いて行くと、誰かにつけられていると感じた。
 後ろを振り返って確かめる前に、トイレに差し掛かったところで腕を引っ張られ、そのまま中に連れ込まれる。
「水無月」
 呼びかけると、その相手は僅かに笑って見せて、そのまま身体に密着してきた。水無月の意図を察して身を捩らせると、強く腕を掴まれ、壁に縫いとめるようにされる。
「すまないが、我はもうこのようなことは控えるようにと言われたんだ」
「どうして」
「勉強が追い付いていないからだ」
 その答えに対し、水無月は不満そうに鼻を鳴らしたが、腕の力を緩めた。解放されるかと思いきや、壁に手をついて囲い込まれる。
「じゃあさ、最後に一回だけしてくれてもいいでしょ」
「水無月」
 珍しく食い下がられたかと思うと、水無月は肩口に顔を乗せ、耳元で囁いた。
「交換条件。わざと体育祭の日から避けてたけど、いい加減、焦らしプレイにも飽きてきちゃってさ。本人たちで解決させるつもりもあったんだけど、あいつが口を割る素振りもないし。宵娯が清水に嫌われている理由を知りたい?」
「それは何だ」
 餌に食いついて即座に問いかけると、水無月は笑いながら宵娯の唇を掠め取った。こちらが先だということらしい。
 宵娯はいつになく気が乗らなかったが、この際水無月を侑惺だと思おうと決め込み、早々に事を済ませることにした。
「それで、理由とは何だ」
 少しの余韻も残さずに尋ねると、水無月は乱れた服装もそのままに、髪を掻き上げながら告げる。
「清水は、親が不仲らしいんだ。というより、父親に忘れられない相手がいるとかで、母親はそれを知りながら結婚したくせに、後になって耐えられなくなって他所の男に走ったらしい。あとは憶測だけど、清水はそれを見せられていたから、宵娯が母親と重なるというか、そもそも肉体関係みたいなのがダメなんじゃないかなって」
 宵娯はざっと血の気が引くような感覚を覚えながら、初めて怒りのような感情を滲ませた。
「そなた、それが分かっていてわざと、今我と抱き合ったんだな」
「その怒りも筋違いだよ。宵娯、君がいくら今更こういうことをやめたところで意味はない。それどころか、彼に対して想いを告げたところで不毛なだけだよ」
 宵娯が黙り込むと、忠告はしたからねと言い置いて水無月は出ていった。
 どうにか前向きに考えようとするが、いい案は今のところ浮かばない。呆れるほど侑惺のことを考え、自分がその隣にいられる可能性を渇望し、これが恋だと今更のように自分の気持ちに名前を付けた。


            
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