櫻人ーサクラビトー

朝飛

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逃げ水

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 本人から得た情報ではないが、侑惺が嫌う理由が判明すると、宵娯は嘘のように他の者との体の関係をぴたりと止めてしまった。流石に不満に思う者は後を絶たなかったが、宵娯の意思が固いことを知ると、次第に波が引くように誘いは減っていき、代わりに友人付き合いをするようになりつつある。
 その程度で宵娯と侑惺の関係が進展することはなかったが、どうやら宵娯が侑惺のために遊びを止めたらしいとの噂が密かに囁かれてきていた。
「愛しの侑惺君とはどこまで行きましたか」
 噂を聞きつけたのか、烏山という男が好奇心を滲ませ、手をマイクのようにして差し出してくるが、宵娯は首を降る。
「相変わらず相手にされていない。だが、以前ほど無視されなくなった気がする」
 ふと思い返すと、宵娯が遊びを止めてしばらく経った頃、廊下ですれ違ったので声をかけると、返事こそなかったがしっかりと目線が合い、物言いたげにしながら結局逸らされた。あれは何だったのだろう。
「ふうん。なかなか手強いねぇ。でも」
 烏山が宵娯の顔を眺めたかと思うと、他の仲間と視線を交わしながら言った。
「すっかり恋をしているみたいだな。あーあと、宵娯の隣は俺が狙っていたのになぁ」
「恋……」
 その言葉を噛み締めながら、侑惺の顔を思い浮かべた。僅かに自分の体温が上がった気がしたが、続いて、侑惺が自分と友人にさえなれていない事実に息が詰まりそうになる。
 ふと侑惺に無性に会いたくなり、仲間と別れた後、図書室に向かった。どうしてか侑惺がそこにいる気がしたのだが、長い夕陽が差し込むばかりで、図書委員以外は誰の姿もない。
 落胆し、帰ろうと踵を返しかけたところで、足元に図書カードが一枚落ちているのに気が付いた。拾い上げて、その持ち主の名前を目にした途端、笑みがこぼれて図書室を飛び出す。
「え?清水君なら帰ったみたいだけど」
 6組の教室にいた生徒に息を乱しながら問うと、目を丸くしながらあっさりそう言われた。それでも諦めきれずに昇降口に向かったが、望みの人物の姿はない。ひょっとしてほんの数秒でも早ければ、図書室で会えていたかもしれないと思えば、口惜しくてならなかった。
 追いかけるほどに遠ざかる侑惺の存在にますます想いが募るのを感じて、手にしていた図書カードを握り締めていた。


 梅雨入りしたことをニュースで聞いた朝、電車通学の宵娯は、混雑した車両の中で吊革に掴まりながら揺られていた。すると、密着していた背後の人物が、明らかに不審な手つきで身体に触れてくる。わざわざ止めさせるのも面倒で、ご無沙汰だったのもあり、そのままにしていた。
 こんなところを侑惺に見られたら、また嫌われるかもしれないな。そう思いながら、そもそも嫌いだという感情以外に向けられたことはないことに気が付いて、笑いが込み上げてきた時だった。電車の窓ガラス越しに、侑惺の姿を見た気がして、そちらに視線を向ける。
 はっきりと視線が合った途端、侑惺は怒ったような顔つきで人を掻き分けると、宵娯に触れていた男の手を剥ぎ取った。
「離せ」
 男が振り払おうともがいたが、侑惺の手は予想以上に強く掴んでいるようで、外れない。何より外れたところで満員電車の中では逃げられないだろう。
「同意の上だというのなら、場所を選んで下さい」
 非難を込めた目で冷たく告げられ、宵娯があえて抵抗しなかったことを見抜かれていたことを知る。弁解も何も聞く気がないらしく、もう用は済んだと言わんばかりにあっさりと男の手を放してしまうと、ちょうど駅に到着したので、そのまま人波に流されて行ってしまった。
 そのまま見失ってしまいかけたところで、我に返って追いかけるが、駆け足で行ったのかと思うほど背中は遠い。小柄な少年がその背中に飛びかかり、よろめきながら校門に入っていくのが見えた。
 その出来事を何気なく口にすると、烏山を始め、周りから溜め息が上がった。
「いいなあ、痴漢プレイ。楽しそうだなぁ」
「えっそこ?宵娯は襲われてたんだろ、不謹慎だって」
「いや、だって宵娯も別に逃げなかったんだろう。ということは、清水の言う通りそれは合意の上になるんじゃあ」
 そんなことを言いたい放題口々に言っていると、偶然そこに通り掛かった水無月が割り込んできた。
「清水って意外と男前なことするね。痴漢の手から救ってくれるなんてさ。宵娯が惚れるわけだ」
 その顔を見ていると、この間のやり取りが思い出された。水無月は何事もなかったように接してくるので、宵娯からもわざわざ掘り返すようなことはしない。ただ、わざわざこの話題に入ってくるのは、脈がないと知っていてわざと傷口に塩を塗るつもりなのだろうか。
 大袈裟に傷付いた顔をして見せても面白そうだが、敢えて開き直る方を取ることにした。
「そうだな、我は侑惺に絶賛片想い中だ」
 あっけらかんと言ってのけた途端、周りがざわつく。それほど驚くことだろうかと不思議がっていると、その視線が宵娯の背後に集中していることに気が付いた。
 振り向くと、目を見開きながら顔を赤らめている侑惺が立っていた。
「ゆう、――」
 声をかけようとしたが、侑惺は慌てたように背を向けて駆け出してしまう。明らかに今の台詞を聞かれていた風だ。
 頭の中が真っ白になりかけた時、誰かが大声で言った。
「何やっているんだ、早く追え!」
 周りから冷やかす声が上がるのを聞きながら、もつれそうになる足で後を追いかける。侑惺としばらく追いかけっこが続いたが、人気のない屋上へと続く階段のところでようやく諦めたのか、足を止めた。
 互いに息を乱しながら、次第に落ち着いてくると先に口を割ったのは侑惺だった。
「あんたに謝らなきゃいけないと思っていたんだ。いつも、無視したりあんな態度を取って悪かった」
 背中を向けたまま告げられる謝罪の言葉。どんな顔をしてそんなことを言っているのか気になって正面に回り込むと、俯いた侑惺がゆっくりと顔を上げて宵娯を見返した。しかし、すぐさま視線を彷徨かせてしまう。
「そんなこと、気にしていない。いや、気にしていないというのは違うが、嫌われても仕方がないと思うからな」
 その言葉に対し、揺れていた侑惺の瞳が定まり、宵娯を真顔で見たかと思えば、儚げな笑みを浮かべた。
「水無月から聞いたんだな」
「すまない、不愉快だったなら」
 謝ろうとするが、侑惺はそれを制して溜め息をつき、痛みを堪えるように笑いながら遠くを見つめた。
「今更、両親がどうとか、そんなことはどうだっていいんだ。それなのに、そういうことを見たりすると、どうしても思い出してしまう。拒絶反応と言うのか、体が勝手に悲鳴を上げて」
「すまない。知らなかったとはいえ、我はそなたのトラウマを刺激していたのだな」
「もういいんだ。あんたも、無理をしてそれを止める必要はない。俺のためだとかいう噂が本当なら、そんなことはしなくたっていい。俺はあんたの気持ちには応えられないから」
 振られたのは宵娯の方だというのに、侑惺は最後の台詞を口にする瞬間、自分が振られたように泣きそうに声を震わせた。それを見ていられなくて、宵娯は侑惺に手を伸ばしかけ、途中で止めると、代わりに言葉を発した。
「それならば、せめて我はそなたと友達になりたい。気持ちには応えなくてもいい。傍にいさせてほしい」
 侑惺は微かに表情を歪ませ、泣きそうに笑った。
「じゃあ、友達として言わせてもらうけど、一人称が我っていうの変えた方がいいよ」
「そんなにおかしいか?」
「少なくとも、今の時代にはいない」
「じゃあ、お、俺?」
「なんかぎこちない」
 雲間から光が差すように、暗い空気を掻き消そうと眩しく笑う侑惺を見ながら、宵娯もその笑顔を引き出そうと明るく振る舞った。
 今の宵娯にはそれで精一杯だった。


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