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帰宅途中にある河原に車を止め、川のせせらぎに耳を澄ませていると、聞いたことのない鳥の鳴き声がどこからともなくした。夜の帳が下りる間際のこの時刻には、決まって過去の情景が鮮やかに蘇る。
「海が見えるところに住みたい」
結婚式を間近に控えた5月下旬、朱海はふいにそう言った。その頃はまだ、朱海にあの兆しはなかったように思う。
「また唐突だな。この間見に行った物件は気に入っていたんじゃないのか?」
「だって、部屋はいいけど、眺めがあまりよくないじゃない」
「眺めって……。6階だぞ?よくないはずがないだろ。夜景が見えるって喜んでいたじゃないか」
「夜景より海が見たいのよ。もう都会の風景は見飽きたの。ここに住みたい。ねえ、いいでしょ?」
朱海が差し出した物件の資料を見た真也は、思わず溜息を吐きかけたのをぐっと堪えた。
確かに広さも景観もこれ以上ないほど申し分ないが、家賃が頭痛を覚えるほど高い。
真也が黙り込んでいる傍ら、朱海が期待と不安の入り混じった眼差しを向けているのを感じる。
あの時は妻の可愛い我が儘を叶えてやろうと、それで妻が幸せになるならいいと思って了承したのだったか。実際朱海はこの上なく喜んでくれて、その後は久しぶりに甘い空気になった。
しかし、今思うと、真也が考え込んでいた時の朱海の表情は、恐らく。
静寂を突き破るように無機質な電子音が鳴り響いた。音ですぐにメッセージアプリの受信と気が付くが、誰からのメッセージか分かっているだけに、確かめる気にもなれない。読まなくても内容がはっきりと浮かぶ。
「早く帰って来ないと、私、死ぬから」
耳元で朱海が囁く声がして、だったら死んでくれよと返しかけ、はっとする。
開け放っていた窓から黒いアゲハチョウが舞い込み、それを呆然と見ながら、ゆっくりと車を発進させた。
目の前に広がる川がもっと深かったらよかったのにと思いかけ、そんな自分に嫌気が差す。
西日に反射して輝いている川面から遠ざかり、宵闇に侵食され始めた街中に飲まれていくと、爪のように細い月が追いかけてきた。あの月が完全に昇りきる頃には、全てを忘れて眠りに就きたい。
そう切に願いながら車を走らせていると、自宅が近付いてくるごとに鼓動が乱れ始め、知らぬ間に掻いた汗でハンドルから手が滑りかけた。
こうして自宅が安らげない場所となったのはいつからだろう。
それなのに、どうして自分は逃げ出さないのか。
その答えはすぐに出るだろうが、考えるのも億劫で、思考を放棄する。
開けた窓からアゲハチョウがようやく出て行き、同時に波の音が近付いて来た。海に特別思うところはなかったが、今は音を聞く度、波に削られる海辺の石のように、剥き出しの神経を削り取られていくのを感じる。
無駄にただっ広い敷地に入り、中世ヨーロッパをイメージした造りの高層マンションの駐車場に入って行く。セキュリティが万全でそこかしこに監視カメラが設置されており、初めのうちは安心感さえ感じていたものだが、いつしか見張られているような居心地の悪さを覚えるようになった。
それも、時折監視しているのが朱海なのではないかとありもしない想像を膨らませたりした。
車から降り、視線を感じて見上げると、ちょうど自宅あたりの窓のカーテンが揺れたのが見える。朱海が新婚時代からずっと、真也が帰宅するのを窓辺で見ているのは知っていた。それを嬉しく思っていた自分はもういない。
マンションのエレベーターに乗ると、途中で誰も乗せることなく、速やかに真也を自宅へ運んでいく。目的の階へ進むごとに息苦しさが増し、階段を選ばなかったのを後悔した。
「心因性のものでしょうね。何か思い当ることがあるのでは?」
ほんの数日前、帰宅途中で強い眩暈と吐き気を覚えて近くのクリニックに駆け込むと、医師にそう告げられた。
心の奥底まで見透かしてきそうな年若い医師の視線から目を逸らし、黙り込んでいると、医師は「原因を取り除かない限りは気休めでしかないでしょうが」と言いながら、吐き気止めと抗うつ薬を処方した。
その薬はお守りのように持ち歩いているが、抗うつ薬の方はまだ一度も手をつけていない。それは自分が病だと認めたくないのではなく、医師の言うように原因を対処しない限りは何の効力も得られないと思ったからだ。
しかし、その原因の対処法が明確に見えていながらもできない今、そろそろ限界が近いと感じ始めている。
仕事用のカバンの持ち手を強く握り締め、重い足を引きずるようにして自宅へ向かう。見慣れた部屋番号が眼前に迫り、鍵を取り出そうとしたところで、ドアが開かれた。
そこには血だらけの朱海が。
「おかえりなさい。遅かったわね」
血のように鮮やかなエプロンを身に着けた朱海が、真っ赤な口紅で彩られた唇を歪めて立っていた。笑みというにはいびつな表情だ。
「そうか?昨日と同じくらいだろ」
努めて冷静さを保ちながら応え、腕時計で時間を確かめていると、朱海がぬっと下から覗き込んできた。
片側の唇が上がっているが、目は一切笑っていない。それどころか、空虚で何も映しておらず、底なしの闇ばかりが広がっていた。
死人の目でさえもっと優しいのではないか。
ぞっとする反面、そう冷静に、いや、他人事のように考える自分がいた。恐怖というのは、通り過ぎると心を麻痺させてしまうと最近気が付いた。
「分かっている。1分遅れたと言いたいのだろ」
無感動な自分の声が他人のもののように聞こえたが、朱海はその答えに満足したようだ。
「そうよ。次に1分でも遅れたら、あなたの腕に時間を刻んであげる。決して忘れないように。ね?」
「……ああ」
刻むとは、文字通り刺青のように彫られてしまうということだろう。そうと分かっていながら、もはや何かを感じるのさえ億劫で、ただ頷き返す。
離婚や彼女を病院に連れて行くというまともなことを考えられた時期はとうに過ぎた。
今はただ、彼女と共に堕ちるところまで堕ちていく。それしか彼女に償う手段はなかった。
「海が見えるところに住みたい」
結婚式を間近に控えた5月下旬、朱海はふいにそう言った。その頃はまだ、朱海にあの兆しはなかったように思う。
「また唐突だな。この間見に行った物件は気に入っていたんじゃないのか?」
「だって、部屋はいいけど、眺めがあまりよくないじゃない」
「眺めって……。6階だぞ?よくないはずがないだろ。夜景が見えるって喜んでいたじゃないか」
「夜景より海が見たいのよ。もう都会の風景は見飽きたの。ここに住みたい。ねえ、いいでしょ?」
朱海が差し出した物件の資料を見た真也は、思わず溜息を吐きかけたのをぐっと堪えた。
確かに広さも景観もこれ以上ないほど申し分ないが、家賃が頭痛を覚えるほど高い。
真也が黙り込んでいる傍ら、朱海が期待と不安の入り混じった眼差しを向けているのを感じる。
あの時は妻の可愛い我が儘を叶えてやろうと、それで妻が幸せになるならいいと思って了承したのだったか。実際朱海はこの上なく喜んでくれて、その後は久しぶりに甘い空気になった。
しかし、今思うと、真也が考え込んでいた時の朱海の表情は、恐らく。
静寂を突き破るように無機質な電子音が鳴り響いた。音ですぐにメッセージアプリの受信と気が付くが、誰からのメッセージか分かっているだけに、確かめる気にもなれない。読まなくても内容がはっきりと浮かぶ。
「早く帰って来ないと、私、死ぬから」
耳元で朱海が囁く声がして、だったら死んでくれよと返しかけ、はっとする。
開け放っていた窓から黒いアゲハチョウが舞い込み、それを呆然と見ながら、ゆっくりと車を発進させた。
目の前に広がる川がもっと深かったらよかったのにと思いかけ、そんな自分に嫌気が差す。
西日に反射して輝いている川面から遠ざかり、宵闇に侵食され始めた街中に飲まれていくと、爪のように細い月が追いかけてきた。あの月が完全に昇りきる頃には、全てを忘れて眠りに就きたい。
そう切に願いながら車を走らせていると、自宅が近付いてくるごとに鼓動が乱れ始め、知らぬ間に掻いた汗でハンドルから手が滑りかけた。
こうして自宅が安らげない場所となったのはいつからだろう。
それなのに、どうして自分は逃げ出さないのか。
その答えはすぐに出るだろうが、考えるのも億劫で、思考を放棄する。
開けた窓からアゲハチョウがようやく出て行き、同時に波の音が近付いて来た。海に特別思うところはなかったが、今は音を聞く度、波に削られる海辺の石のように、剥き出しの神経を削り取られていくのを感じる。
無駄にただっ広い敷地に入り、中世ヨーロッパをイメージした造りの高層マンションの駐車場に入って行く。セキュリティが万全でそこかしこに監視カメラが設置されており、初めのうちは安心感さえ感じていたものだが、いつしか見張られているような居心地の悪さを覚えるようになった。
それも、時折監視しているのが朱海なのではないかとありもしない想像を膨らませたりした。
車から降り、視線を感じて見上げると、ちょうど自宅あたりの窓のカーテンが揺れたのが見える。朱海が新婚時代からずっと、真也が帰宅するのを窓辺で見ているのは知っていた。それを嬉しく思っていた自分はもういない。
マンションのエレベーターに乗ると、途中で誰も乗せることなく、速やかに真也を自宅へ運んでいく。目的の階へ進むごとに息苦しさが増し、階段を選ばなかったのを後悔した。
「心因性のものでしょうね。何か思い当ることがあるのでは?」
ほんの数日前、帰宅途中で強い眩暈と吐き気を覚えて近くのクリニックに駆け込むと、医師にそう告げられた。
心の奥底まで見透かしてきそうな年若い医師の視線から目を逸らし、黙り込んでいると、医師は「原因を取り除かない限りは気休めでしかないでしょうが」と言いながら、吐き気止めと抗うつ薬を処方した。
その薬はお守りのように持ち歩いているが、抗うつ薬の方はまだ一度も手をつけていない。それは自分が病だと認めたくないのではなく、医師の言うように原因を対処しない限りは何の効力も得られないと思ったからだ。
しかし、その原因の対処法が明確に見えていながらもできない今、そろそろ限界が近いと感じ始めている。
仕事用のカバンの持ち手を強く握り締め、重い足を引きずるようにして自宅へ向かう。見慣れた部屋番号が眼前に迫り、鍵を取り出そうとしたところで、ドアが開かれた。
そこには血だらけの朱海が。
「おかえりなさい。遅かったわね」
血のように鮮やかなエプロンを身に着けた朱海が、真っ赤な口紅で彩られた唇を歪めて立っていた。笑みというにはいびつな表情だ。
「そうか?昨日と同じくらいだろ」
努めて冷静さを保ちながら応え、腕時計で時間を確かめていると、朱海がぬっと下から覗き込んできた。
片側の唇が上がっているが、目は一切笑っていない。それどころか、空虚で何も映しておらず、底なしの闇ばかりが広がっていた。
死人の目でさえもっと優しいのではないか。
ぞっとする反面、そう冷静に、いや、他人事のように考える自分がいた。恐怖というのは、通り過ぎると心を麻痺させてしまうと最近気が付いた。
「分かっている。1分遅れたと言いたいのだろ」
無感動な自分の声が他人のもののように聞こえたが、朱海はその答えに満足したようだ。
「そうよ。次に1分でも遅れたら、あなたの腕に時間を刻んであげる。決して忘れないように。ね?」
「……ああ」
刻むとは、文字通り刺青のように彫られてしまうということだろう。そうと分かっていながら、もはや何かを感じるのさえ億劫で、ただ頷き返す。
離婚や彼女を病院に連れて行くというまともなことを考えられた時期はとうに過ぎた。
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