彼女が愛した彼は

朝飛

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 霧の中に立っていた。数歩先の景色が見えないほどの濃い霧だ。
 木々がざわめく音がして、森の中にいるのだろうと察すると、頭上で何かの鳥が叫び声を発し、唐突に霧が晴れた。
「はな……?」
 真っ赤な毒々しい色合いの花弁が一面に広がっている。まるで舞台上で表現された血の海のように。
 そう思った時、背後から何者かにどんと突き飛ばされ、その花々の上に手を突いた。振り返って何者か確かめようとしたが、花の上に突いた手が、膝がずぶずぶと地面に沈み込んでいく。
 首も縫い付けられたように回らず、前だけを見る他ない。
「し……ん……」
 地の底から女の声が響く。よく聞き慣れた声だ。
 耳の奥で心音が騒ぎ立てる。予感なんて曖昧なものではなく、はっきりと確信した。
「あけ……」
 口を開いた途端に花弁が流れ込んできて、息ができなくなる。それと同時に左腕が焼けつくような痛みを覚え、目を向けると、地の底から伸びた女の手が爪を立てていた。そこから流れ出た血は止まらず、花弁がいつの間にか血に変わる。
 朱い海、なんて不吉よね。
 かっと目を開き、肩で息をしながら飛び起きた。したたるほど汗を掻いていて、直に触れるシーツの感触が気持ち悪い。
 しばらく夢と現実の狭間を彷徨った後、今度は左腕に激痛を覚えて、慌てて目を向けると、そこには。
 7時21分と彫られた文字が。
 叫び声を上げかけたところで、文字はすっと消え、見慣れたモノトーンの腕時計が現れる。痛みも何もかも錯覚だったようだ。
 だが、安心するのはまだ早い。本当に朱海がこの腕に刻み付ける日も、そう遠くはないだろう。1分も遅れずに帰ることなど不可能に等しいからだ。
 深い溜息を吐き、ベッドサイドのテーブルに置いていたスマートフォンへ手を伸ばしかけ、躊躇う。
 メッセージアプリの通知を伝える青いランプが点滅していた。今真也は自宅にいて、朱海もまだいるはずだ。そうなると、送ってくる相手は川凪か、それとも。
 昨夜、朱海に脅されてから、食事にもろくに手を付けずに手早くシャワーを済ませて自室に籠った。そうしているうちに半分忘れかけていたが、昨日は昼休みに会社へ戻る際、彼女に声を掛けられたんだったか。
 いや、それも少し違った。
 意を決してスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを起動する。アプリを開くだけでかなりの覚悟がいるようになり、我ながら重症だと思う。
 そして開いた画面には、案の定、彼女の名前が。
「話がしたいので、この店に来られる時間を教えてください。私は何時でもいいです」
 表記された楓子という名前を指でなぞりかけた時、ノックの音がした。
「はい」
 メッセージアプリを急いで閉じ、咄嗟に枕の下に隠した。
 ただの会社の同僚と説明したところで、今の朱海が聞く耳を持つはずがない。そう考えての行動だったが、耳に飛び込んできた朱海の声は思いの外柔らかかった。
「よかった、起きていたのね。今日、土曜日でしょ?私、ちょっと行きたいところがあって」
「俺が送ろうか」
 朱海の声に釣られ、真也も自然とそう提案する。
「ううん。一人で行ってこようと思う。だから、あなたもゆっくりしていてちょうだい。最近、食が細くなったみたいだから。それじゃ、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
 誰のせいだと口走ることもなく、すんなりと朱海を送り出す。朱海は一度もドアを開けることなく、そのまま出て行ったようだった。
 少し違和感を覚えたが、朱海の態度が一貫しないことは最近の常だったので、すぐに忘れていった。
 そうすると、今度は空腹を覚え始める。楓子が指定した店で食事を取ることに決め、返事を打った後、朱海のアイコンに目が留まる。
 アイコンは白い鳥になっていた。
 朱海という名前になぞらえたのか、赤い鳥の時は平常時で、やり取りも普通にできる。反対に青い鳥の時は不安定な彼女が現れ、昨夜のようになる。時々アイコンを自分の精神状態にリンクさせる人間がいるが、朱海もそのタイプの人間だ。
 しかし、白というのはどういう状態なのか分からない。さらに悪い状態でなければいいのだが。
 頭を悩ませながら支度を進めていると、スマートフォンがメッセージの着信を伝えた。
「分かりました。今から伺います」
 絵文字が一つもない文面を眺め、楓子の名前を改めて見つめた後、鍵を開けて外へ出る。
 澄み渡った空が目に染みて、手をかざしても効果がない。ずっと明けない夜の中にいるのは朱海も同じかもしれないと、上空を飛び交うカラスを見て思った。
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