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店を出て家へ帰りながら、スマートフォンを見ようとしたが、やめて電源を落とした。いつものような恐怖も不安もなく、何も感じない。それは恐怖を通り過ぎて麻痺した時の感覚と似ているが、微妙に、いや、大きく違った。
目の前の深い霧が、靄が、闇が薄れる。すっきりと晴れたわけではない。晴れる日は来ないだろう。
玄関先で振り返って空を見上げると、相も変わらず雲一つない晴天が広がっているが、眩しさが幾分和らいでいた。
正面に向き直り、鍵穴に鍵を差し、回す。
鍵は空いていた。
扉を開いた瞬間、何かが目の前に向かって飛んできて、咄嗟に避けると、右頬に火がつき、壁に突き刺さる。横目に見ると、それはダーツの矢だった。右頬に触れると、ぬるりとした液体が指に付着する。
「朱海」
呼びかけると、虚ろな目をした女が真也を見る。こうしてまともに向き合ったのはいつ以来か分からないが、随分と痩せたように見えた。
「朱海」
もう一度呼びかけると、朱海は緩慢な動作でもう一つの矢を放つ。今度は避けずに受け、右腕に刺さったが、痛みは思ったより感じなかった。
「真也、どうして……っ」
朱海の瞳に一瞬、以前のような正気がぱっと灯り、消失する。そして三つ目の矢を手に取りながら呟いた。
「私、分からなくなっちゃった。あなたと一緒に生きたいのか、それとも死にたいのか。……ねえ、真也。私が望んだら、一緒に死んでくれる?」
この世の絶望全てを映した目で、朱海は真也に答えを求める。どう答えようが彼女の心に響くことはないと知りながら、そっと答えを差し出した。
「少し、考えさせてくれないか。時間がほしい。それに、もし俺が朱海の望む通りにするとしても、その前にどうして朱海がそうなったのか、教えてくれないか」
「それは……」
朱海の瞳が揺れ、迷う素振りをしたが、すぐに首を横に振った。
「言いたくないのか」
問いかけるが、何の反応も返さない。
溜息を吐いて自室に行こうとすると、呼び止められた。振り返ると、救急箱を突き出される。
「朱海……」
受け取りながら彼女の顔を覗き込もうとするが、もう目を合わせてはくれなかった。
自室に入ったところで、どっと疲労感が押し寄せ、今さらながらに動悸がし始める。それに合わせて右腕も痛みを訴え始めて、顔を顰めながら簡単な応急処置を施していく。
手当をしながら、頭の片隅にちらりとある考えが過った。
朱海は、わざと右を狙ったのだろうか。
包帯をなんとか巻き終え、その白さをじっと眺めていると、白い鳥のことが頭に浮かぶ。ポケットを探ってスマートフォンを取り出した。
すると、白い紙が一緒に出てきてひらりと舞い、床に落ちた。
拾い上げると、それは楓子が話していた男の写真だった。
「本当に、いいんですか」
協力する話を受け入れた時の楓子は、嬉しそうにするかと思いきや、どこか不安そうにさえ見えた。楓子も、後戻りができないと感じているのか、それとも本当は。
しかし、もう一度真也が頷いて見せると、楓子はほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただし、木野さんもそのつもりでしょうが、その件に片が付いたら、今度は俺の方に協力して下さい」
「はい。それはもちろん構いませんが、一体どんなことをすればいいですか」
「事情はまた今度お話ししますが、俺は、妻を」
その後に続けた言葉を悔いてはいない。悔いてはいないが、それを聞いた楓子の顔を長くは見られなかった。
男の写真を掴んだままの手が震え、握り潰しかけるのを堪え、息を吐き出しながらデスクの上に置く。
そして、改めてスマートフォンを手に取り、電源を入れる。暗い画面に明かりが点くと、立て続けに朱海からのメッセージが表示された。
「真也、返事して」
「真也、今どこ?」
「真也、何時に帰るの?」
真也、真也、シンヤ。ワタシガノゾンダラ、イッショニシンデクレル?
朱海が昏い目をして、首に手を伸ばしてくる。振り払っても、振り払っても、しつこく、しつこく。
やがて朱海の両手が首にかかり、気道を締めてきて、それに抗おうと彼女に手を伸ばし。
その時、近くでバイクがエンジン音を吹かしながら通り過ぎ、我に返る。朱海からのメッセージを閉じると、ちょうど今誰かからの新着メッセージを受信した。
楓子からだ。
「鈴原の妻の画像を添付しておきます。この顔をしっかり覚えておいて下さい」
画像を見た真也は、何か違和感を覚えて眉を顰める。女は華があるような美人だが、酷薄そうな笑みが、どこか。
頭に過った考えを否定しかねて考えていると、続けて楓子からメッセージが届く。
「彼等の今の勤務先については、知り合いからの情報でここだと分かりました。これも一緒に添付しておきます」
添付された会社の地図を頭に叩き込みながら、ふと疑問が浮かんだ。
「木野さんは、どうして6年も経った今になって動くことにしたんですか?」
「彼等に巻き上げられたお金の分をようやく稼げたのと、情報を掴むのに時間がかかったのもありますが……。一番は、迷っていたからですね」
「迷っていた」
「ええ。高藤さん、決行は高藤さんが動ける時でお願いします。始めたら、知らせて下さい」
「分かりました」
やり取りを終えて画面を閉じる時、迷っていたという楓子のメッセージを反芻する。昼間に彼女の話を聞いた時もうっすらと感じたことが確信に変わろうとしているが、それを自分の口から伝えるべきではないだろう。恐らく、分かっていてもこうするしかなかったからだ。
真也が朱海に対してしようとしていることと同じように。
ベッドに仰向けに倒れ込み、天井を見上げながら物思いに耽っていると、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。ドアをノックする音で目を覚ますと、窓の外には全てを飲み込もうとする海が底なしの深淵を覗かせていた。
「真也」
呼ばれてドアの方を見ると、彼女はドア越しに言葉を続ける。
「寝てるの?ご飯、いらない?」
無言を貫くと、朱海がドアを開けて部屋の中に入って来た。そして、リビングの明かりが差し込む空間で、ベッドの上に乗り上がり、真也の上に覆い被さってくる。
唇が触れ合いそうなほどの至近距離まで来た朱海と見つめ合っていると、視界の端で何かがキラリと光った。
ダーツの矢だ。
それも、先ほど真也に刺さっていた矢のようで、切っ先に赤い血液がついたまま鈍い光を放っている。矢を抜いた後に転がしていたのを、朱海は目敏く見つけて手に取ったのだ。
真也の喉元に向かう矢の先端。押し退けなければいけないという思考はやけに鈍く、体は自分のものではないように思った通りに動かない。
そんな中でも矢は容赦なく突き立てられ、喉に先端が食い込んでくる。じわりじわりと自分の血が流れ出していくのを感じた。血は赤い花になる。とても美しい花だ。
「あ……けみ……」
似合っているよ、と続けたくても、掠れて声にならない。
すると、朱海の目が見開かれ、矢を抜いて慌てたようにベッドから降りて後ずさる。
「し、んや……」
明かりの届かない暗がりで、朱海がどこか怯えた声を発した。ゆっくりと起き上がって彼女をよく見ようとすると、逃げるように背中を向け、部屋から出て行こうとする。
「朱海!」
なぜ呼び止めたのかは、自分でも分からない。喉はひりひりと痛みを訴えていて、傷を付けたのは朱海だというのに。
朱海は動きを止めるが、真也の声で止まったわけではなかった。その手がデスクの上に伸ばされる。デスクに鋏(はさみ)があったはずだ。
今度こそ朱海は本気で殺しにかかるのだろうか。
麻痺していた感覚が戻ったのか、背筋がひやりとする。ごくりと生唾を飲み、朱海の動きを捉えたまま、出入り口への距離を測ろうとした。
朱海の手が、デスクの鋏を。いや、鋏とは違う何かを手に取り、見つめている。白い、紙のように見えた。
「その人のこと、知っているのか?」
問いかけると、朱海は白い紙を、写真をデスクに戻した。酷く、ゆっくりとした動作で。
「いいえ。知り合いに似ていた気がしたけど、違ったみたい」
そして、真也を振り返ることなく部屋を出て行く。
どこにも不自然なところがないのが、却って違和感を浮き彫りにした。
目の前の深い霧が、靄が、闇が薄れる。すっきりと晴れたわけではない。晴れる日は来ないだろう。
玄関先で振り返って空を見上げると、相も変わらず雲一つない晴天が広がっているが、眩しさが幾分和らいでいた。
正面に向き直り、鍵穴に鍵を差し、回す。
鍵は空いていた。
扉を開いた瞬間、何かが目の前に向かって飛んできて、咄嗟に避けると、右頬に火がつき、壁に突き刺さる。横目に見ると、それはダーツの矢だった。右頬に触れると、ぬるりとした液体が指に付着する。
「朱海」
呼びかけると、虚ろな目をした女が真也を見る。こうしてまともに向き合ったのはいつ以来か分からないが、随分と痩せたように見えた。
「朱海」
もう一度呼びかけると、朱海は緩慢な動作でもう一つの矢を放つ。今度は避けずに受け、右腕に刺さったが、痛みは思ったより感じなかった。
「真也、どうして……っ」
朱海の瞳に一瞬、以前のような正気がぱっと灯り、消失する。そして三つ目の矢を手に取りながら呟いた。
「私、分からなくなっちゃった。あなたと一緒に生きたいのか、それとも死にたいのか。……ねえ、真也。私が望んだら、一緒に死んでくれる?」
この世の絶望全てを映した目で、朱海は真也に答えを求める。どう答えようが彼女の心に響くことはないと知りながら、そっと答えを差し出した。
「少し、考えさせてくれないか。時間がほしい。それに、もし俺が朱海の望む通りにするとしても、その前にどうして朱海がそうなったのか、教えてくれないか」
「それは……」
朱海の瞳が揺れ、迷う素振りをしたが、すぐに首を横に振った。
「言いたくないのか」
問いかけるが、何の反応も返さない。
溜息を吐いて自室に行こうとすると、呼び止められた。振り返ると、救急箱を突き出される。
「朱海……」
受け取りながら彼女の顔を覗き込もうとするが、もう目を合わせてはくれなかった。
自室に入ったところで、どっと疲労感が押し寄せ、今さらながらに動悸がし始める。それに合わせて右腕も痛みを訴え始めて、顔を顰めながら簡単な応急処置を施していく。
手当をしながら、頭の片隅にちらりとある考えが過った。
朱海は、わざと右を狙ったのだろうか。
包帯をなんとか巻き終え、その白さをじっと眺めていると、白い鳥のことが頭に浮かぶ。ポケットを探ってスマートフォンを取り出した。
すると、白い紙が一緒に出てきてひらりと舞い、床に落ちた。
拾い上げると、それは楓子が話していた男の写真だった。
「本当に、いいんですか」
協力する話を受け入れた時の楓子は、嬉しそうにするかと思いきや、どこか不安そうにさえ見えた。楓子も、後戻りができないと感じているのか、それとも本当は。
しかし、もう一度真也が頷いて見せると、楓子はほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただし、木野さんもそのつもりでしょうが、その件に片が付いたら、今度は俺の方に協力して下さい」
「はい。それはもちろん構いませんが、一体どんなことをすればいいですか」
「事情はまた今度お話ししますが、俺は、妻を」
その後に続けた言葉を悔いてはいない。悔いてはいないが、それを聞いた楓子の顔を長くは見られなかった。
男の写真を掴んだままの手が震え、握り潰しかけるのを堪え、息を吐き出しながらデスクの上に置く。
そして、改めてスマートフォンを手に取り、電源を入れる。暗い画面に明かりが点くと、立て続けに朱海からのメッセージが表示された。
「真也、返事して」
「真也、今どこ?」
「真也、何時に帰るの?」
真也、真也、シンヤ。ワタシガノゾンダラ、イッショニシンデクレル?
朱海が昏い目をして、首に手を伸ばしてくる。振り払っても、振り払っても、しつこく、しつこく。
やがて朱海の両手が首にかかり、気道を締めてきて、それに抗おうと彼女に手を伸ばし。
その時、近くでバイクがエンジン音を吹かしながら通り過ぎ、我に返る。朱海からのメッセージを閉じると、ちょうど今誰かからの新着メッセージを受信した。
楓子からだ。
「鈴原の妻の画像を添付しておきます。この顔をしっかり覚えておいて下さい」
画像を見た真也は、何か違和感を覚えて眉を顰める。女は華があるような美人だが、酷薄そうな笑みが、どこか。
頭に過った考えを否定しかねて考えていると、続けて楓子からメッセージが届く。
「彼等の今の勤務先については、知り合いからの情報でここだと分かりました。これも一緒に添付しておきます」
添付された会社の地図を頭に叩き込みながら、ふと疑問が浮かんだ。
「木野さんは、どうして6年も経った今になって動くことにしたんですか?」
「彼等に巻き上げられたお金の分をようやく稼げたのと、情報を掴むのに時間がかかったのもありますが……。一番は、迷っていたからですね」
「迷っていた」
「ええ。高藤さん、決行は高藤さんが動ける時でお願いします。始めたら、知らせて下さい」
「分かりました」
やり取りを終えて画面を閉じる時、迷っていたという楓子のメッセージを反芻する。昼間に彼女の話を聞いた時もうっすらと感じたことが確信に変わろうとしているが、それを自分の口から伝えるべきではないだろう。恐らく、分かっていてもこうするしかなかったからだ。
真也が朱海に対してしようとしていることと同じように。
ベッドに仰向けに倒れ込み、天井を見上げながら物思いに耽っていると、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。ドアをノックする音で目を覚ますと、窓の外には全てを飲み込もうとする海が底なしの深淵を覗かせていた。
「真也」
呼ばれてドアの方を見ると、彼女はドア越しに言葉を続ける。
「寝てるの?ご飯、いらない?」
無言を貫くと、朱海がドアを開けて部屋の中に入って来た。そして、リビングの明かりが差し込む空間で、ベッドの上に乗り上がり、真也の上に覆い被さってくる。
唇が触れ合いそうなほどの至近距離まで来た朱海と見つめ合っていると、視界の端で何かがキラリと光った。
ダーツの矢だ。
それも、先ほど真也に刺さっていた矢のようで、切っ先に赤い血液がついたまま鈍い光を放っている。矢を抜いた後に転がしていたのを、朱海は目敏く見つけて手に取ったのだ。
真也の喉元に向かう矢の先端。押し退けなければいけないという思考はやけに鈍く、体は自分のものではないように思った通りに動かない。
そんな中でも矢は容赦なく突き立てられ、喉に先端が食い込んでくる。じわりじわりと自分の血が流れ出していくのを感じた。血は赤い花になる。とても美しい花だ。
「あ……けみ……」
似合っているよ、と続けたくても、掠れて声にならない。
すると、朱海の目が見開かれ、矢を抜いて慌てたようにベッドから降りて後ずさる。
「し、んや……」
明かりの届かない暗がりで、朱海がどこか怯えた声を発した。ゆっくりと起き上がって彼女をよく見ようとすると、逃げるように背中を向け、部屋から出て行こうとする。
「朱海!」
なぜ呼び止めたのかは、自分でも分からない。喉はひりひりと痛みを訴えていて、傷を付けたのは朱海だというのに。
朱海は動きを止めるが、真也の声で止まったわけではなかった。その手がデスクの上に伸ばされる。デスクに鋏(はさみ)があったはずだ。
今度こそ朱海は本気で殺しにかかるのだろうか。
麻痺していた感覚が戻ったのか、背筋がひやりとする。ごくりと生唾を飲み、朱海の動きを捉えたまま、出入り口への距離を測ろうとした。
朱海の手が、デスクの鋏を。いや、鋏とは違う何かを手に取り、見つめている。白い、紙のように見えた。
「その人のこと、知っているのか?」
問いかけると、朱海は白い紙を、写真をデスクに戻した。酷く、ゆっくりとした動作で。
「いいえ。知り合いに似ていた気がしたけど、違ったみたい」
そして、真也を振り返ることなく部屋を出て行く。
どこにも不自然なところがないのが、却って違和感を浮き彫りにした。
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