彼女が愛した彼は

朝飛

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 日がすっかり沈み、暗い道のりを街明かりを頼りに歩いて行くと、波の音が近付いてきた。自宅の近くまで来たのかと思ったが、そうではなく、ただ海沿いの道を歩いていただけだった。

 この音を聞くと、いつも自宅にいる朱海のことを連想して、不快な気分にさせられたのだが、今は違う思いを抱く。立ち止まり、寄せては返す波の音に耳を澄ますと。忘れ難いあの時の記憶が呼び起こされた。

 


 泣いている朱海に声をかけた日は、互いに名乗り合っただけで、連絡先も交換することなく別れた。初対面で連絡先を聞く軽い男だと思われたくなかったからだが、その後すぐにかっこつけたことを後悔した。

 しかし、もう会えないだろうと諦めかけた翌月、新しくできた喫茶moonに何気なく入ると、そこに彼女の姿を見つけたのだ。一人きりで窓辺の席に物憂げに座っている様子は絵になっていて、最初は声をかけるのが躊躇われた。

 そのため、なんとか向こうに気付いてもらおうと、わざとらしく背中越しの席を選んで座る。

「アイスコーヒーを」

 寡黙な店員に注文を伝える時、後ろの朱海に気付いてもらえるかもしれないという期待で、勝手に声が震えた。

 ところが、彼女はこちらを振り返ることなく、そのまま席を立った。遠ざかる背中を目で追う。会計を済ませ、店から今まさに出て行こうとしていた。

「あの!朱海さん!」

 必死になるあまり、大声で、それもいきなり下の名前で呼び止める。朱海が驚いた顔をして、いや、思ったほど驚いていない顔で振り向いた。

「ああ、やっぱりこの間の。ええと……」

「高藤です。高藤真也。やっぱりって、気付いていたんですか?」

「はい、なんとなく」

「気付いていたなら、声をかけて下さいよ」

 拗ねたように言うと、朱海が笑う。それに釣られて真也も笑うと、自然と和やかな空気になった。

 後からこの時のことを聞くと、朱海は声をかけられるのを待っていたらしかった。お互いに同じことをしていたと分かると、ますます可笑しくなって笑い合ったものだ。

「この喫茶店、変わっているけど癖になりますね」

「ですね。俺、ここの常連になるかも」

「あ、私も」

 再会した日にそういう言葉を交わしてから、本当に二人して通い詰めるようになっていく。はっきりとデートの約束と言い合ったわけではないが、言葉にせずともその店で会うと、自然と一緒に食事を取り、デートのような空気を過ごした。

 言葉で言い表せないほど幸せな時間だった。

 その時間に少しだけ陰りが出たのは、自然な流れで恋人関係になったばかりの頃、初めて朱海が真也の部屋に泊まりに来た晩のこと。

「ねえ、真也」

「んー?」

「隣、行っていい?」

 季節は3月上旬で、まだ肌寒さが残る時期だった。それなのに朱海は薄着で、甘えたように聞いてくる。

 期待しない方が無理な話だった。

「いいよ。でも、覚悟して。ほら、おいで」

「そう言われると、逆に怖いなあ。一人で寝ようかな」

 そのまま後退し、本当に一人で寝ようとしている朱海。表情が強張っているが、それは彼女お得意の演技だと即座に見抜く。

「だめだよ。逃がさない」

 背を向けて横たわる朱海の耳元に囁き、背後から腕を回し、抱き締める。薄い生地の上に手を滑らせ、体の線をなぞると、朱海はびくりと体を強張らせた。

「真也、やめ……」

 拒絶の言葉を発しながらも、その声は熱っぽく、艶を含んで、期待に震えている。

「本当にやめてほしい?」

 朱海の体を引き寄せ、顔を覗き込むと、潤んだ目で見つめ返された。

「ううん、やめなくていい」

 掠れた声での了承を受け止め、朱海との行為に及ぶ。これまで何人かと経験はあったのだが、朱海とのセックスは他の誰とも比べものにならないほど極上だった。

 それは朱海も同じだと思っていた。何度も何度も、気が狂うまで、いや、気が狂っても飽きることなくセックスを繰り返し、互いが互いを貪欲に貪り尽していたから。

 だが、二人揃って疲れ切って眠りに落ちた後、全ては自分の勝手な思い込みだと知る。

 明け方近くに、隣で声がしてぼんやりと薄目を開けた。

「……、へ、い……っ」

 耳をそばだてなければ聞こえないほどの声量で、何かを呟いている。そして、鼻を啜るような音も重なった。

 何かと思って隣に目を向けると、朱海の眦から雫が溢れ、カーテンの隙間から差し込んだ朝陽で反射してキラリと光る。一瞬、言葉もなくその光景に魅入られてしまったが、朱海の発した言葉で頭から冷水を浴びせられた。

「りゅ、へい……」

 自分ではない、男の名前。脳内で閃光が走り、瞬時にその名前が朱海と初めて会った時に言っていた人物のものだと分かった。

「りゅうへい……」

 繰り返し、何度も溢れ落ちる名前。朱海の止まらない涙。あの日以来、一度も朱海は口にしなかったために、自分と出会ったことで勝手に忘れていったものだと思い込んでいた。

 朱海の一番はずっとその男で、自分ではなかったのだ。

 胸の奥で、何か感情が生まれる。絶望か、悲しみか、怒りか。抑えがたい衝動が湧き起こりかけるのを掻き消し、泣き続ける朱海を抱き締める。

 きつく、きつく。

 やがてすっかり日が昇りきった頃に目を覚ました朱海が苦しいと笑っても、しばらくそのまま離すことができなかった。

 その日以来、朱海は泊まりに来ると、毎回必ず泣きながら男の名前を呟くようになる。狂おしいほどに、切ない他の男への愛情が名前に乗って溢れ、鼓膜を打つ度、心に一つずつ傷が生まれていくようだった。

 それでも、朱海に男のことを聞くことはしなかった。目を背けているくせに、そのうち朱海が男のことを忘れ、自分のことを見てくれるようになってほしいと願い続ける。

 そんな都合がいい願いが通じたのか、次第に朱海は男の名前を呟かなくなっていった。そして、完全に耳にしなくなった頃に、結婚を申し込んだ。

「朱海、俺と結婚してくれないか」

「え、本当に?私でいいの?」

 それはこちらの台詞だという言葉を飲み込んで、笑顔をつくって頷く。

 朱海が本心から自分との結婚を望んでいるかどうかは分からなかったが、追及しようとは思わなかった。聞くのが怖かったのもあるが、その男よりも、誰よりも幸せにしてみせると心に決めたからだ。

 そうして始まった結婚生活は、思ったよりも穏やかに過ぎた。時折小さな喧嘩やすれ違いはあっても些細なもので、あっという間に数年が経っていた。

 それが一年前の春、朱海の放った一言で狂い始める。

 夜、リビングで寛いでいる時、何気ない会話で子どもの話になった時だった。

「ねえ、真也は子どもが欲しいの?」

 ふいに投げかけられた問いに顔を上げると、朱海は感情の読み取れない目をしていた。強いて言うならば、無だ。空虚な瞳に冷たいものが背筋を走るのを感じながら、慎重に答えた。

「そうだな。できれば、だけど」

「そう……」

「朱海は?どうなんだ」

 聞かずともその目を見ていれば答えは明らかだったが、聞かずにはいられなかった。

「私は」

 欲しくないな、という言葉はいつまでもリビングに漂って反響し続けた。

 朱海は、やはり今でもあの男のことが忘れられないのだと気付いたが、責めるわけにもいかなかった。それがずっとどこかで分かっていながら始めた結婚生活だ。

 だが、それでも少しは自分が一番になった瞬間があってほしいと、あったはずだと信じていた。その願いが脆く崩れ去った時、衝動的な行動に出た。

 仕事帰り、夜の繁華街で酒に酔ってふらふらと歩いていると、一人の女に声をかけられる。

「おにいさん、大丈夫?私が介抱してあげようか」

 派手なメイク。大きく開いた胸元に、短いスカート。明らかに、狙ったものだろう。

 普段ならば無視して通り過ぎるが、その時は女の誘いに乗り、近くのホテルで一晩過ごした。女は金も何も要求することなく、それだけで満足したのか、翌朝には姿を消した。

 浮気とも呼べない、たった一度きりの気の迷い。

 その後、帰宅すると、朝だというのにカーテンの閉め切った暗い部屋に、朱海はいた。

「朱海」

 名前を呼んだ時は、弁解も謝罪も、多少はする気でいた。しかし、振り返った朱海が告げた台詞で、名前で、浮かびかけた気持ちは消え去る。

「真也。あなたも、隆平と同じで私を裏切るのね」

 隆平、隆平、隆平。

 うるさいくらいに頭の中で繰り返される名前。

 アナタモ、リュウヘイトオナジデ、ワタシヲウラギルノネ。

 リュウヘイト、オナジ。

 自分が本当に男と一体化してしまう気がした。朱海から男の名前を聞く度、刻み付けられて消えなくなった男の存在は、一度は姿を消していたが、再び現れて、朱海と、いや、真也とともにある。

 背中を掻き毟りたくなる、衝動。そこら中のものを投げつけてしまいたくなる、獣のような。

 それらを辛うじて抑え込めたのは、自分が発する言葉に気持ちを全て乗せたからだ。

「隆平、隆平、隆平ってうるさいんだよ」

 朱海の冷めきった空洞のような目に、一瞬僅かに何かが過るが、瞬く間に消える。

「ずっと我慢していたけどな、そんなにその男が好きなら、なんで俺と結婚したんだよ。なんで、俺が。ずっと傍にいたのに。俺が、どんな思いで、お前と」

 涙が混ざりそうになり、言葉がうまくまとまらなかった。それでも、気持ちはようやく伝えられたと思ったが、霞む視界の中、朱海はじっとこちらを見ているだけだった。

 じっと、相変わらず、何を考えているか分からない目で。

 見ていると、まるで真也の方が悪いことを言ったような気になり、逃げるように自室に入り、籠った。

 その日は一睡もできなかった。

 それから半年近くの間は、喧嘩さえしなくなる。一緒にいてもろくに口を利かず、二人でいるのに一人でいるのと変わらない生活。

 朱海のことは変わらずに愛していたが、次第に朱海といると苦痛を感じていくようになるのが、堪らなく辛かった。そのうち何度も離婚の文字が頭を掠め始めたが、口に出し、行動に起こす勇気が持てないまま、次の日を迎える日々。

 その生活を続けるうち、食が進まなくなっていった。

「ねえ、真也」

 あれは何カ月前のことだったか。突然、朱海が静まり返った部屋で口を開いた。

 いよいよ離婚を切り出されるのか、と覚悟を決めたが、朱海は予想外のことを言った。

「久しぶりに、一緒に寝ない?」

「は?」

 思わず、頓狂な声が漏れ出る。

「だから、一緒に。ね?」

 朱海の目を、顔を、今でも忘れることができない。昔に戻ったようにとても綺麗な笑顔だが、仄暗い色が浮かび、滲んでいて、白く塗りつぶそうとしても消せない汚れが、シミのようにあった。

「一緒にって、おい……」

 後退すると、朱海は追いかけて来て、かさかさに乾いた唇を真也のそれに重ね合わせ、食んでくる。

「あ、けみ……」

 リビングのテーブルに飾っていた花の香りが強く薫り、赤い花弁がひらりと視界の端を舞い落ちていく。

 その花が床に完全に落ち切った時には、もう理性の箍(たが)が外れていた。わけが分からないまま、朱海を抱き、喘ぐ。朱海の目から顔を背け、一心不乱に。

 まるで初めて体を重ねた時のように貪り合ったが、そこには昔のように純粋な想いで相手を欲する気持ちはなかった。ただ、本能の赴くまま、何も考えまいと、全てを忘れ去るための行為か、あるいは相手を食らうための行為のようだった。

 やがて部屋の中に朝陽が差し込み、力尽きて倒れ込むように眠りに就こうとする瞬間、朱海の声がした気がする。

「真也、……ね。私、ずっと……」

 聞き返す気力もなく、そのまま眠りに落ちた。

 次に目が覚めた時ぐらいからだっただろうか。朱海の様子がおかしくなり始めたのは。

 隆平の名を口にすることがなくなったが、代わりに自分の名を頻繁に呼ぶようになった。囁きだったり、問いかけだったりしたが、そこには毒を含んだ甘ったるさがあり、呪いが込められていると感じた。

「真也、ねえ、真也」

 真也がいけないんだよ。

「真也、ねえ」

 真也が隆平のことを嫌がるから。

「真也」

 真也、ほら、言われた通り、もう真也の名前しか呼ばないから。だから、ずっと私のものでいて。浮気なんて許さないから。次にそんなことをしたら。

「真也、私と一緒に死んでくれるよね?」

 
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