君と歩んだ地獄手記。

秋月

文字の大きさ
上 下
9 / 13
第一章

美しく輝く彼の記憶の影

しおりを挟む
それから僕は毎日のように亡者の館に忍び込んでは交渉しようと亡者に
「僕は君をここから引き離したいんじゃないんだ!少しでもいいから話を聞いてくれ!」
と呼びかけた。





来る日も来る日も交渉には失敗した。しかし、代わりに亡者の一日のルーティーンを知ることができたし、館の資料や亡者の動きから断片的だが彼のことを知ることもできた。
彼の名前はボリス・アサエフであり、当時彼が警備員としてここに勤めていた時には彼を含め4人の警備員がいたようである。これは、オフィスの机の人事を取り扱った書類から分かったことだ。
また、麟太郎は彼の仕事熱心な性格からこの交渉を成功させたいならば直接話しかけるのではなく誰か仲介者を連れてこないといけないということを悟った。



次に、ボリスを除く三人の警備員のことだがしらみつぶしにボリスと友好関係のあった者を探さないといけない。おそらく同業者である彼らの中にはボリスと仲の良かったものがいることは間違いないだろう。次は、この三人について調べよう。



それからというもの僕の奮闘は続いた。彼らの情報を知ろうとオフィスへ入ったらボリスに撃たれかけたり、ボリスの守っている部屋は何かを調べようとしたら追いかけまわされ殺されそうになったりしたが、ようやくボリスを除く三人の情報が手に入った。その情報源は銀行の警備室に不自然にも隠された鞄の中から出てきた写真付きの一枚の身元調査書であった。一人目はアレクセイ・カザロフという緑の瞳と金の髪を持ち合わせる男であり、二人目のエフセイ・ミロフは小柄な男で黒髪と黒い目を持っているのがその顔立ちは顔の堀の深さからしてヨーロッパ人だ。最後の一人、イリア・モラノフ彼に関しては写真すらも全く情報が載っていなかった。



「6日目にしてやっとここまでたどり着いた」
麟太郎は嬉しそうに言った。
「ああ、たかだか三人の名前を知るためにこっちはひどい目にあったけどね」
獄卒は不快そうに撃たれた足を押さえながら言った。



ここからが重要だ。たとえ三人の名前が判明しているとしてもこの中にボリスの心を動かすような親しかった者がいなければ話にならない。麟太郎は賭けに出た。麟太郎は亡者の館へ忍び込みロビーから大きな声で
「ボリス!エフセイを知っているか!」
と尋ねた。ボリスは麟太郎が「アンタ」や「君」という呼び方ではなく「ボリス」という自分の名前で呼びかけたことに驚き、同時にエフセイという彼の懐かしい親友の名前に驚いた。



「ああ、知っている」
ボリスからすれば半ばあきらめであった。
「よかった。彼の話を聞かせてくれ」
あまりにもしつこく話しかけて来たり自分の周りのことを知ろうとするのに根負けしてしまったのである。



「やっとしっかり話せる」
麟太郎としても賭けであった。もし、彼がエフセイと仲が良くなければこの交渉は再び頓挫していたであろうし、次こそはさらに心を閉ざしていた恐れがあったためである。



「根負けしたよ。君は追い払っても追い払っても蠅のようにたかってくる」
麟太郎は俯きながら笑い、少しの間を開けてから口を開いた
「ある日夢を見た。その夢は遠い昔の記憶で、実際その場所があるかもわからない。でも、その夢の中である人は言った。何があっても絶対にあきらめるなと。何があっても戦い続けろと。だから道を開くことができた」
「ふっ」
ボリスは鼻で笑った。



「君は実際いるかどうかもわからない夢の中の人間の言葉を信じてここまで粘ったのか?」
「あの人は実際今はどこにいて何をしているかもわからない」
麟太郎は変な返しをした。が、それに対してボリスはもう一度尋ねる。
「ではなぜ信じる」
率直な質問であった。確かに夢の中の話を本気で信じている人など間違いなく変人奇人の部類に括られるであろう。

「この人の話は僕の大事な記憶の一部のような気がするからだ」
ボリスは不思議なことを言うやつだと思った。







「さて、本題に入ろう」
ボリスは自分の守っていた部屋の扉を開け麟太郎を部屋の中へ進めた。
「いいのか?」
「ああ、もういいんだ」



麟太郎は今まで守っていた部屋に自分をすんなり通したことに驚いたが、勧められた椅子に座った瞬間見えた奥の部屋の光景を見て悟った。



旧銀行というだけあってとても大きな建物であるから廊下からだけではなく部屋にも隣の部屋へつながる扉があるのだが、空いた扉のその先には椅子と天井から吊るされた一本の縄が見える。麟太郎にとってそれは扉という額縁に縄と椅子という、ボリスの絶望感や悲壮感を描いた一つの絵画のように見えた。



麟太郎は大丈夫か?と聞きたい気持ちを抑えながらシナリオ通りエフセイのことを尋ねた。
「エフセイはどんな奴だった?」
本来であれば「エフセイと会いたいか?」という質問をしなければならないが、麟太郎自身も気が動転して質問を間違えてしまった。



「いい奴だったよ。あいつとは幼馴染だった。私もやつも戦争に巻き込まれるまではここで一緒に働いていたんだがな、しかし、戦争に行ったっきりあいつは帰ってこなかった。あいつはもうすでに死んだのか、いいや。先に私が死んだのだ。」



一瞬の間が空きボリスは言う。







「この前はすまなかった。君に悪いことをした。私はすでに死んでいて、どこでも自由に行けることは聞かされてはいたんだ。私一人だけが時間に取り残されて、知り合いの記憶から私の存在が消えていく。この現実が怖くて、辛くて、悲しくて今さら外に出られなかっただけだ。最初は、私が死んでから銀行の玄関に人影が写るたびひそかに期待している自分がいた。誰かが私を迎えに来たと。誰かが時間の流れないこの空虚な世界から私を開放しに来たと。しかし、それはただの私の願望に過ぎなかった。私がここにきてから春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎてもう一度春が来る。こんなことを繰り返していくうちにここから離れるタイミングを見失ってしまったんだ。もう、私が死んで何年がたっただろうか。すまない。また情けない姿を見してしまった」

普通の声色であるはずなのに気づくとボリスの目からは涙があふれだしていた。
「いいや」
麟太郎はそれだけを答えたが、どうしようもなく辛くて一瞬うつむいてしまったが、これは相手に失礼だと思いすぐに顔を上げボリスの方を見た。ボリスの後ろには彼自身が作った死刑台が見えて可哀想というか、心苦しいというかそういった絶望や彼自体の終焉を感じさせられ堪らず涙があふれ出てしまった。





「そうだ」
ボリスは自身のポケットからロケットペンダントを取り出す。
麟太郎はそれを見た瞬間思った。「あの時僕が殺した兵士か」と。
「これをアレクセイの家族まで届けたい。」65年間の願望であった。







電車に揺られて旧友のもとへ訪れる。随分と昔のことになるが、アレクセイの家族のもとへこのペンダントを渡そうと行ったことはあった。しかし、だれにも相手されなかった。私が話しかけてもまるで見えていないかのように気にも留められない。ボリスにとって、あの時ほど辛いことはなかったであろう。



電車に乗ってからしばらくして、ボリスの向かい側に座っている麟太郎は尋ねた。
「今さらだが、ボリスはアレクセイの家族の居場所は分かっているのか?」
ボリスはうなずいてから言った。
「ああ、もし私が行った時と変わっていなかったら分かっている」
獄卒も続いて問う。
「行ったときって、いつ頃のことだい?」
「去年だ」
その答えを聞いて二人は驚いた。
「実は、毎年ペンダントを届けようとあの場所へ行っているんだ」
「65年間も?」
獄卒は尋ねる。
「もうそんなに経つか。いつ行っても気づかれることはないし、話も聞いてもらえない。」
ボリスは窓から見える車窓を眺めながら言った。
「それならなぜ行き続けるんだ」
と麟太郎。
「時々、あの時のアレクセイの顔を思い出すのだ。そのたびにこのペンダントを彼の家族へ渡さねばという気持ちがこみあげてくる」

彼らがこんなことを話しているうちに電車は目的の駅に着き、麟太郎たちはそこで降りた。



アレクセイの家まではその駅から少しある。しかし、バス一本で行ける距離にあるから、そこまでキツイ思いをすることなくアレクセイの家族のとこまでたどり着くことができた。
バスから降りて坂を上る。その場所はバスが走っているくらいだから全く人の住んでいない場所ではなかったが、銀行の周りのことを考えると格段にその人数は少なくなっていた。



坂を上りきると大きな家がある。麟太郎はアレクセイがこんな大きな家を持っていたのかと驚いたが、よくよく考えると目の前にある車や家などの所有物はアレクセイの子供たちのものであった。遠くに子供たちの笑い声が聞こえる。
「アレクセイの孫か」
麟太郎はつぶやいた。
「ああ、そうだ。」

もちろんボリスはこの家族に子供がいることを知っていた。毎年のようにアレクセイの遺品を届けようとこの場所を訪れていたし、そのたびにこの家族の姿が徐々に変わっていくのをひそかに見守ってきていた。まるで、いつまで経っても変わらぬ大樹のように。


「この前まではもっと小さかったんだがな。もうあんなに大きくなってしまったか」
次第に麟太郎も獄卒も何かボリスに対してしてやれることはないかと考えるようになっていた。
「ボリスはそのペンダントを渡すだけでいいのか?」
麟太郎はその思いを伝えるべく切り出した。
「そうだな」
少しの間が空き、ボリスは再び話し出す。
「いや、しっかりと私の手で渡したい。これは私の最後の願いだ」





麟太郎は獄卒の方を見て、何か解決する道具はないのかと思った。
獄卒は仕方ないなという顔をしてボリスに言う。


「君には体がないからアレクセイの奥さんには見えない。だから、こんなものを用意した。」
獄卒は青く光る火の玉を取り出した。

「これを使えば君の魂および霊体は内部から照らされて生前と同じように見えるようになる。少々苦くて、大きいから飲みづらいけどもし君が君の手で奥さんにペンダントを渡したいなら頑張って飲み込といい」
「苦いのか?」
「ああ、苦い。でも飲むか飲まないかは君次第だ」



ボリスは覚悟を決めて青く光る火の玉を飲み込んだ。
すると途端に、その火の玉は今まで薄かった彼の体の存在を照らし出し、その場に生前の姿のボリスを映し出す。


獄卒はパンッと手を叩き、言う。
「さぁ、これで準備完了だ!あとは君の幸運を願うよ」





ボリスは旧友の家族のもとを目指して歩き始める。


長らく私は葛藤してきた。本当に私の旧友の遺品を彼の家族に渡すべきかと。余計に彼らを悲しませてしまうだけではないだろうかと。しかし、いつも気づけば私はここにいる。私自身の答えはとっくに出ているのだ。だが、彼の家族のためなどと言い訳をして無理やりにでも渡すことをしてこなかった。戦争は随分と昔に終わっていたらしいが、私はまだ戦い続けている。この葛藤をこの後悔を私は今日終わらせる。



すると、ボリスの目の前にある扉がガチャッと開かれた。車いすに乗った旧友の奥さんと共にそれを後ろから押す娘さんが出てきた。私は勇気を出して声を出す。
「こんにちは。カザロフさんですか?」
女性は不思議そうに言う。
「はい」
やっと彼の言葉が彼女たちに届いた瞬間であった。


「奥様にアレクセイさんの遺品をお渡ししたくてここに参りました」
ポケットに手を突っ込み、アレクセイの娘の写真が入ったペンダントを取り出して言う。
「そうですか」
女性は戸惑ったように言った。


それからボリスはさっと、車いすに乗った老婦に近づき話しかける。
「お久しぶりです。私が誰だかわかりますか?」
「すいません。うちの母は認知症でしてこれから病院に行くところなんです。申し訳ありませんが分からないかと」
そういった瞬間、その老婦は小さな声でいう。
「ボリスさん」
ボリスは笑ながら言った。
「そうです。そうです。よく覚えていらっしゃいましたね」

女性は驚いて言った。
「お母さんこの人のこと覚えているの⁈」
「長い間お会いできませんでしたけど、今日やっとあなたに会うことができた。私がここに来た理由は他でもありません。これをあなたに渡すためです」
そう言って彼の手の中に握られていたペンダントをアレクセイの妻・ナディアに渡す。



ナディアはそのペンダントを開き、彼女の娘の写った写真を見た。
娘のエリナはあまり記憶にない父の遺品を見ても何も感じなかったが、そのペンダントの中に幼いころの自分の写真があることを見るとなんだか恥ずかしいというか、そういう不思議な気持ちになった。ナディアは再びボリスの方を見て今度はしっかりとした声で言った。
「ありがとうボリスさん。あの人の心を持ち帰ってきて来てくれて」
笑ってボリスは答える
「どういたしまして」





彼らは再び廃墟に戻ってきた。
麟太郎はボリスに問う
「内装がどうなっているのか教えてくれないか?」
「いいぞ。私の解説付きで教えてあげよう。君には借りがあるしな」
ボリスがそう答えている間、麟太郎は獄卒の方を見てエフセイを連れてきてくれと思った。


ボリスが案内を始めると麟太郎は寸前まで獄卒の方に向いていた顔をボリスの方へ向けてボリスと共に歩き始める。
獄卒はまたも仕方ないなという顔をして廃墟を後にしていくのであった。






麟太郎はボリスから銀行内の案内などされなくても、ボリスとした追いかけっこの成果によってその地図はしっかりと頭に入っていた。実際、麟太郎はこうしてボリスの案内を聞くことによって、間をつなぎたかったのである。
良くも悪くも麟太郎は目標を忘れていなかった。だから、こうして獄卒がエフセイを探している間も、分かっている答えに答え合わせをしているのである。
その案内はボリスの記憶の中を歩く旅であった。その分その旅は随分と長くなり二日間に渡って行われた。しかし、麟太郎はそれに対して文句を言うこともなく黙って付き添う。









「すまない。麟太郎」
朝になってようやく獄卒が帰ってきた。獄卒はボリスを起こさないように麟太郎の耳元で囁く。
「どうした」
麟太郎は壁にもたれかかった状態で寝ていたから状態は変えることなく目をパッと開いて獄卒に尋ねた。
「エフセイはすでに亡くなっていた」
「そうか」
麟太郎は一言呟くように言ったが、内心は焦りで心を支配されていた。
「どうすればいい」
「ふっ」と笑って獄卒は言う。
「どうすればいいのかわからないのは当然さ、だから俺がいる」
獄卒は麟太郎と出会った時のことを思い出して言った。


「夢を見せればいいんだよ」
と獄卒はあたかも簡単なことのように言う。
「どんな夢だ」
麟太郎は不思議そうに聞いた。
「この銀行でボリスが一番楽しかったときの夢さ」
「そんな夢、どうすれば」
麟太郎は頭を抱えながら言った。
「そこであの世の道具を使う。まぁ、任せておきなって」
獄卒は麟太郎を安心させるように笑いながら言う。


「とにかく、君はボリスへの説明を頼む。俺はモノを取ってくる」
そうして獄卒は再び銀行を後にした。





しばらく経って、寝ていたボリスが起きた。
「おはようボリス」
「おはよう」
まだボリスは眠そうだが、窓から見える外の明るさを見て流石に起きないとまずいと思ったらしくその体を起こす。
麟太郎もまさかこの銀行で寝泊まりすることになるとは思ってもいなかったのであるが、さらに予想外であったのは除霊対象であるボリスと共に夜を越したことである。


「何か夢は見たか?」
麟太郎が、一見普遍的に聞こえるこの質問をするとボリスはちょっと首を傾げて言った。
「わからない。観てるのかもしれないし観てないのかもしれない」
続けて麟太郎はボリスに質問する。
「観るとしたらどんな夢が見たいと思う」
ボリスからすればそんなこと聞いたって夢が観れるわけでは無いだろうと思いながら、若干笑いながら答えた。
「夢か…もし見れるならみんなで過ごした社内祭の夢が観たい。私もアレクセイもエフセイもイリアもみんながいる夢だ」


少し息を吸って胸を張った状態で麟太郎は言う。
「ではその夢、私が叶えて差し上げましょう」







「準備できたよ!」
夢見灯篭を設置した獄卒は二階にいる麟太郎に呼びかけた。
その合図を聞いて麟太郎はボリスへゆっくり近づきながら獄卒から事前に伝えられたことをボリスにそのまま伝えた。
「それではボリスさん。あなたが生前長く過ごしたこの場所の隅々まで思い浮かべてください。そうすればきっとあなたはいい夢を見られるでしょう」


ボリスは静かに目を閉じる。彼自身が筆をもって絵を描き出すように、将又まるで小説を書くように当時の光景の隅々までを思い出した。







麟太郎は一瞬息をのんだ。

「いいですよ。ボリスさん目を開けてください」
麟太郎はボリスの背中に手を当てて優しく呼びかけた。





ボリスが目を開けた瞬間、活気のあったころの銀行の明るさと人々の温かさが彼の目に飛び込んできた。荒廃しきっていた今までの麟太郎たちの知っている廃墟とは違い、豪華なシャンデリアに、凝った鉄装飾のある銀行のカウンター、足元に目をやると高そうな絨毯が敷かれており煌びやかな空間がそこには広がっている。そして、何よりも幸せそうな人々の笑い声が聞こえてくる。
「ボリス!楽しんでるか!」
聞き覚えのある声がボリスの耳に飛び込んできた。
ある日の社内祭で、その勢いに飲まれたエフセイはジョッキを片手にボリスに抱き付いた。
一瞬、ボリスは驚いたが、彼の記憶を遡り笑みを浮かべて言った。
「まぁまぁだ」
と答えると酒に飲まれたエフセイは
「非常にけっこう!」
と陽気なテンションで彼の持つジョッキを上に突き上げる。



そのエフセイを見て、駄目だこりゃと言わんばかりに頭を抱えるアレクセイがエフセイの後ろにいた。ボリスの目の前にいる夢であるはずのアレクセイを見て思わず涙があふれ出たが、記憶に従ってボリスは聞く。
「ところでアレクセイは酒は飲まないのか?」
酔っぱらってニコニコになっているエフセイを横目にボリスは尋ねる。
「ああ、そろそろ子供が生まれるんだ。それまでは酒はやめるようにしている」

ボリスはアレクセイが死ぬ瞬間、彼の娘が大きくなった瞬間をまるで一つの映画の観客のように見てきた。この先彼がどのような運命を辿るのか、その子がどのようになるのかを知っているから言葉には言い表しようもない、心の靄が次の言葉にはかかった。


「なぜそれを早く言わない!」
酔っぱらってふらふらになっているはずのエフセイが言う。


「ボリス?なぜ泣いているんだ」
とアレクセイは聞く。

ボリスは驚きのあまりその思いが口に出た。
「これは私の記憶じゃないのか」
「何を言っているんだお前は。さては、お前も酔っぱらったなぁ」
アレクセイは笑ながら、また、おちょくるように言った。



「おまたせ!待たせてごめん」
後ろからイリアの声がする。
その声を聴いた瞬間ボリスはハッとし、振り返る。
「いやぁ、新人の子に仕事を教えてたら時間すぎちゃってて。ほんとごめん」
イリアは優しい性格をしていることは知っていたが、この謝るイリアの姿を見て改めて彼の性格の良さを認識した。


「ボリスはもう飲んだの?」
イリアは優しい声で尋ねる。
「え、いや、まだ」
どう答えていいかわからず、ボリスは曖昧な返事をした。


「じゃあ、ほら、一緒にお酒取りに行こ!」
イリアはボリスの手を引く。ボリスはそれに無抵抗について行く。
階段を下りてビールを受け取りボリスとイリアはアレクセイとエフセイから離れて二人になった。


「そっちはどうなの?元気にしてる?」
「わからない。イリアは?」
「うん。元気だよ」


少し歩いてイリアは言った。
「もう潮時じゃないかな」
「え、」
ボリスはイリアからの予想もしない言葉に驚いた。
「君もわかっているんでしょ?これが現実じゃないことくらい。そろそろ夢から覚めなよ」
「でもイリアはここにいるじゃないか」
イリアは笑ながら言う。
「それは君が幻想の僕を作り上げているからね」
続けてイリアは言った。
「もう、今までの独りぼっちの君じゃないんだ。迎えが来ているんだよ」
「いやだ、ここから離れたくない。ようやく君たちに逢えたんだ。私の夢が」
イリアはボリスを平手打ちした。


「いや、君はもう行くべきだ」
それが彼のボリスへ送る最後の言葉だった。


一時の役目を終えた夢見灯篭はその灯を消し静かに廃墟の中心に座っている。




ボリスの目は涙ぐんでゆく。むろんその涙は悲しみの涙ではなく、絶望の涙でもない。今まで無意識に望んだ物。得たくても得られなかったものが再び自分の目の前に広がっていたのである。しかし、それが今消えた。



「ボリスさん。喜んでいただけましたか?」
一部始終の傍観者であった麟太郎も涙ぐみ、声が震えている。

「ああ、もちろんだ。ありがとう」
ボリスは頬を押さえ静かに言った。







「決心がついたよ。もう思い残すことはない」
ボリスは嬉しそうに笑って見せながら言う。



「良かったです。あの世に行っても元気で」
「あの世で元気とかあるのか?」
ボリスは笑いながら言った。



ふと、獄卒の方へ目をやるとボリスとは獄卒は違う方を向き、目をぬぐっている。
「それでは本当に最後ですね。お元気で」
「ああ」

麟太郎の後ろにイリアが立っているのが見える。イリアの顔に目をやると彼の顔には笑みが浮かんでいた。


それから、ボリスは麟太郎に見送られ、獄卒に連れられて闇夜に消えていった。

麟太郎がの銀行の方へ振り返るとあの荘厳な建物はどこかへ消えていた。
しおりを挟む

処理中です...