神去りし刻

衣谷 孝三

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第一頁:発つ鳥の跡

神隠死事件

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1

「ですからね、ただこの本を読むだけでいいんです。そうすれば必ず、サルタメア様が貴方を救済してくださるのよ。」
「いやあの奥さん、私はあくまでこの人たちに見覚えがないか聞きに来ただけでしてね。」
戸惑いつつ、失踪者の顔写真が印刷されたプリントをつき出す俺に、派手な柄のワンピースを着たおば様二人が詰め寄る。
2019年9月1日、14時。墨田区、キラキラ橘商店街の入り口で、俺は彼女達にある事件についての聞き込みをしていた。ところが......
「そんなこと仰らずに、ね?ほら読むだけタダなんだから。」
さっきからずっとこの調子で、俺の話も聞かずしきりに経典か何かを気味の悪い笑顔と共に押し付けてくる。厄介だ。これじゃあまともに会話なんて出来たものじゃない。
「いやですから、私は別に救いが欲しいとかそんなこと思ってないので」
「いえいえ、お顔を見ればよ~く分かりますよ。貴方今、とっても気分がよろしくないでしょう。何か上手くいかないことがあって面白くない。そんな表情をなさってる。」
ええ、その通りですとも。目の前の誰かさんのせいでね、と言いたい衝動をこらえ、口を固く結ぶ。
これ以上は時間の無駄だな。そう思い、いえもう本当に結構ですのでと言ってプリントを鞄にしまいその場を立ち去ろうとした。
すると突然、さっきまでこびりついたような笑顔を浮かべていたおば様の一人がひどく深刻そうな表情になり、皮膚のたゆんだむっくりとした手で、すかさず俺の左腕を掴んだ。
「せめてこれだけでも持ってお行きなさい。そうでないと貴方断罪されて、いつかひどい目に会いますよ。」
積もり積もったイライラが限界値を越える。もう我慢できない。
「あのねえ、断罪でもなんでも構いませんが、これ、れっきとした公務執行妨害ですよ!離してください!」
思わず強い口調になる。相手も負けじと捲し立てる。
「いいえ喩え捕まったとしても、貴方をみすみす見殺しにするわけにはいきませんもの!」
「私の仕事を邪魔する方が、多くの人を見殺しにすることになるでしょ!違います?」
「そう言って他人のことばかり考えてるから不幸になるんです。自分の幸せをちゃあんと見つめてやらないと」
「じゃあその言葉そっくり貴女にお返ししますよ。私なんぞに構ってないでご自分のことだけお考えになっては?」
「まあ、なんてこと仰るんですか貴方!人がせっかくいい道を教えてやってるのに」
「少なくとも今の私にとってはそんなものより捜査の方が大事ですので。」
「そんなものとはなんです!」
おばさんはヒステリックに叫び、腕を握る手に力を込めてくる。その隙にもう一人が、俺の鞄を開け白い表紙の分厚い本をねじ込もうとした。俺は咄嗟に右手で鞄を閉じる。
「なにするんです!」
「悪く思わないでくださいな。これは貴方の為なんですから。」
「要りませんよそんなもの!いいから早く離してください!」
俺は二人を引き剥がそうと足を踏ん張った。しかし、このおばさん達、思ったよりもなかなか粘る。まるで獲物に噛みついたすっぽんだ。
こんなところで捕まってる暇はないのに。早く次のポイントに向かって、少しでも早く有力な情報を……
考えながら四苦八苦していると、突然、左耳に千切れそうな痛みを感じた。誰かに引っ張られたのだ。
「いでででででで!」
顔をしかめて左を向くと、長身長髪の女性が、切れ長の目から氷のような視線をこちらに向けている。俺は痛みをこらえながら、よく見知ったその女性に話しかけた。
「あ、末野さん、ちょうどよかった。いい駐車場みつかりました?」
捜査一課の同僚である「末野さん」こと末野 真里すえの まりは、俺の発言を無視しておば様方に向き直った。
「すみません、うちのバカが失礼な態度をとってしまって。これは持たせておきますね。」
そう言ってねじ込まれそうになっていた本を手に取ると、俺の手を強引に振り払い鞄に押し入れた。同時に、左腕の拘束が解かれる。
「それでは、私たちはこれで。お忙しいところ失礼しました。」
そう言って末野さんは俺の耳を引っ張ったまま二人から離れていった。
この人が勧誘されなかったのは、やっぱりこの滲み出る威圧感のせいなのかな。長い付き合いになる俺ですら、この人が突然現れるとビクッとしちゃうもんな。
そんなことを考えていると、商店街から店一つ分離れた辺りで、ようやく末野さんは俺の耳を離した。直後、代わりに別の意味での痛みが俺の耳を襲う。
「ハザマくん、聞き込みや事情聴取で相手を無闇に刺激するなって前も言ったわよね?まだ懲りないわけ?」
「いやそうは言ってもあの二人しつこくて」
言い訳しようとする俺を鋭い視線で制し、俺の鞄から件の本を取り出す。
「ハザマくんが素直にこの本受けとれば良かっただけじゃない。こんなもの後で捨てればいいんだし、下手に争うより相手の意思を尊重した方がいいんじゃないの?」
ぐうの音も出ない。俺は俯き、弱々しい声ですみませんと呟く。末野さんはため息をつき、本を俺に投げ渡した。
「或いは、当分その本読んでたら?救われるかは分からないけど、少なくとも退屈して頭に血は上りにくくなるわよ、きっと。」
そう言って踵を返すと、商店街から離れる方向にスタスタと歩いて行く。
「あ、ちょっと、待ってくださいよおお」
俺も慌てて渡された本を鞄にしまい直し、あとを追って車の停めてある最寄りのコンビニへ向かった。









2

警視庁刑事部捜査第一課、第四強行犯捜査-殺人犯捜査第7係。そこに私のデスクはある。
時刻は18時。人のいない、しかし少し狭苦しさのある部屋の中。聞き込み調査、もといハザマくんのお守りを終えた私は、蒸し暑い曇天の街中を歩き回った自分の身体を労い、飾り気のないデスクチェアにどかっと腰掛けた。
「はぁ~~っ、つっかれたぁぁ。」
大きく伸びをしてから、腕をだらんと垂らし首を反らす。この体勢が気持ちいい。だらしがないことこの上ないが、この格好を数秒とるだけでも、疲れが和らぐ気がする。
そんなとき、蛍光灯の規則的なラインで分断された、視界を覆う白く無機質な天井を、短髪の男の顔が隠した。
「お疲れのとこ悪いがよ、末野ちゃん。」
私はひゃっと驚いて首を持ち上げる。途端に、顔を向かい合わせていた中年の男に額を勢いよくぶつけてしまった。
額に手を当て俯きながら、その男 -7係係長、名取 哲郎なとり てつろう- は、私のデスクを指差した。
「報告書。まだ残ってるよ~」
軽く茶化すような口調で言ってくる。
はいはい分かってますよ、と私はデスクに向き直り、鞄から調書を取り出して作業に入った。

東京都内連続失踪及び不審死事件。通称、「神隠死かみかくし事件」。今年の3月31日、足立区の路上で腐敗した轢殺体が発見されたことに端を発し、以後、少なくとも12名の行方不明者が、同様の遺体として発見された。
いずれも、死因はトラックによる轢殺であることは間違いないのだが、不思議なことに、推定される死後の経過時間が短いもので二週間、長いもので三ヶ月以上ある。しかもその期間現場に遺体は存在せず、また現場の多くが比較的人通りの少ない場所であることもあってか、該当する事故の目撃証言も、今のところなし。何者かによる死体遺棄の線も考えられたが、現場検証の結果、いずれの事例でも、遺体を動かした痕跡は認められなかった。そこで、不明な方法による殺人事件として、7係を中心に本格的な調査が開始されたのだ。
ハザマくんの得た情報も含め、必要事項は全て書き留めてある。気になる点があれば、電話で聞けばいい。そこで、ハザマくんは先に帰らせておいた。
本来は、調書ができる前に担当の人間を帰らせるなんてことは、常識はずれも甚だしい、処罰対象になってもおかしくない行為だ。それは勿論分かっている。
でも、そこまでやってでも、彼をあまり大きく関与させたくない。この事件に関してだけは......。
考えていると、ため息が出る。報告書はもう半分以上書き上がっていた。
係長が、私に話しかけてくる。
「それで、どうだったんだ?聞き込みは。」
私は手を止めることなく答える。
「ハザマくんの読み、どうやら当たっていそうですよ。今回分かっただけでも、被害者のうち7名、被害者と推測される一般家出人及び特異行方不明者のうち11名がサルタメア真教の広報員と接触していました。」
感心したように、係長が眉を上げる。
「なるほど。しかし、よく広報員の方も顔を覚えていたな。」
「彼らにとって、被害者はある種、自身の宗教の正当性を示す証拠となっているみたいです。彼らは被害者について『断罪された者』などと言っていました。」
「断罪、ねえ......。いよいよサル教の奴らクサくなってきたな。今すぐにでもフダとって、本部にガサ入れ行ければいいんだが。」
さすがに「勧誘し、教本を渡した」という接点だけで捜査令状をとることもできない。しかし、この事件の被害者について、彼らのなかに何かを知っている人間がいる可能性は十分にある。そもそも彼らには被害者の写真を見せることはしても、「死亡した」という事実は伝えていないのだ。それを、あたかもその死を知っているかのように「断罪された」とは......。それ以上は支離滅裂な返答しか得られなかったが、事件との関連性を示唆するに十分な証言だった。
「ところで、他になにか判明したことはありますか?」
尋ねると、係長は顔をしかめた。額を横切る皺が、よりくっきりと浮かび上がる。
「いんや、今のところ無いな。ガイシャの共通点といえば君らが今日調べてくれたことと、総じて社会との繋がりが薄かったことぐらいだし。現場の状況がどうしたら成立するのかも、てんで見当つかねえって科捜研の奴ら頭抱えてたよ。」
「今日も進展なし、ですか。」
心に影が差し、自然と筆が進まなくなる。それを察してか、係長がフォローをいれる。
「進展ならあっただろ。少なくとも、今回の君ら2人の調査で、今後調べるべきターゲットはより明確に定まった。大きな成果じゃないか。」
「ええ、まあ......。」
「......ま、ハザマくんのことを考えると、あんまし素直に喜べることじゃあないがな。」
吐息から、数秒。誰も何も言えないような空気が、7係の部屋を覆っていた。
その沈黙の後、互いにハザマくんへの不安を忘れようとするかのように、各々の作業に没頭した。
サルタメア真教と被害者の繋がりを最初に指摘したのは彼、間 隆成はざま りゅうせいだった。ハザマくんは被害者の遺品の中に、共通して例の本があることに気付き、それがサルタメア真教の信者らにより頒布されているものであることを突き止めたのだ。
しかし......ハザマくんがそれに気付いたのには、訳があった。あの本は彼の旧来の友人が一年前行方不明になった時、最後の目撃現場に残されていた友人の所有物のうちの一つだったのだ。
捜査チームから外されたくないというハザマくんの強い願いもあり、これまでの彼の活躍も加味して、このことはハザマくんと私、そして係長三人だけの秘密にしている。
それにしても、本当に読みが当たってしまったとなると、その友人さんも被害者となっている可能性が高い。同行中、ハザマくんはいつも通りに振る舞ってはいたものの、彼のショックは相当なものだっただろう。
そんなことを考えながら報告書の最後の項目を書き終えて壁の時計を見ると、ここに戻ってきてからもう40分以上が経過していた。ブラインド越しに見える世界も、既に夜の様相を呈している。
「ああ、報告書書き終わったら、末野ちゃんもう帰っていいよ。あと俺整理しとくから。」
「あ、ありがとうございます。お疲れ様です。」
「おう、お疲れ様。」
鞄を手に取り、さてもう帰ろうかとした時、左ポケットに振動を感じた。この感じだと、メールでも送られてきたんだろう。スマホを取り出し、通知を確認する。
やはりメールの通知だった。送り主はハザマくんで、なにか画像を送信してきたらしい。
忘れ物でもしたのかな?それとも、私のもの間違えて持ってっちゃったとか?
首をかしげ、画像を開く。アパートの一室の写真がそこに映されていた。左側にはカーテンの締め切られた窓とゲーミングチェア、中央に背の高い本棚の一部が写っている。
しかし......それは、私の知る部屋の、いや、私の知る現実とは、明らかに矛盾する空間だった。
「係長!これ......」
慌てて係長に駆け寄り、画面を見せる。係長はそれを見るや顔をしかめる。
「なんだ、これは......?」
画面中央。周囲の情報から考えれば、本来なら本棚が存在するはずの場所。
そこには、黒紫の渦巻き状の穴が、ぽっかりと口を開けていた。







3

18時20分、東京都墨田区。押上駅からほど近い住宅街の中、劣化で壁面がベージュ色になった小さい3階建てのアパートの前に、俺は立っていた。
一時間程前、末野さんに半ば無理やり帰宅させられた俺は、神隠死事件の手掛かりを求めて墨田区周辺を中心に探索していた。
今回判明した、サルタメア教勧誘員と接触済みの行方不明者11人。彼等のいずれについても、本格的な捜索にまで至っていないか、捜索開始当時にこの事件との関連性が指摘されていなかった。
とすれば、事件に巻き込まれた可能性が出た今改めて彼等の家や外出ルートを調査すれば、なにかしらの新たな手掛かりを……、少なくとも、サルタメア真教と事件の繋がりをより明白にする何かを得ることができるだろう。
そう期待し、単独で捜査を決行した。だが、一件目のアパート周辺では特に真新しいものを得られなかった。
それで見切りをつけ二件目、黒木 篤宏くろき あつひろの住んでいた場所へと向かい、今に至るというわけだ。
古びた鉄骨の階段を、二階へ昇る。錆びた鉄板がギイギイと、今にも壊れそうな音をたてる。
それにしても、まるで人が住んでいるのかいないのか分からないような家だ。俺の足音の他には殆どこれといった物音がしない上に、どこの部屋にも明かりがついていない。それなのに、表札にはどの部屋にももれなく名前が入っている。
妙な気味の悪さを感じつつ、俺は202号室、「黒木」の表札のある部屋の前に立った。心なしか、この部屋の前が周囲より一層暗くなっているように感じた。
ポケットから合鍵を取り出し、ドアを開ける。大家さんに話をつけて借りてきたのだが、本来なら捜査令状なしの家宅捜索は違法。へたすると、首が飛ぶどころじゃ済まない。
でも、そこまでしてでも俺はこの事件を解明しなきゃいけない。まもちゃんを救うためには、一刻の猶予も許されない。
親友のまもちゃんがいなくなってから、今日でちょうど一年が経つ。生きてる確率なんて考えたくもないけど、まもちゃんが神隠死事件に巻き込まれた可能性に気づいてしまった日から、ぐちゃぐちゃの肉塊と化した彼のイメージが、頭の片隅にこびりついて離れなかった。週に何度か夢にまで出てきて、それは俺を苦しめた。
そして、調査でその可能性がより濃くなった今、肉塊は俺の脳を覆うまでに大きなイメージになっていた。
アイツをどうにか助けないと……、少なくとも、この事件を解決しないと、俺はこの悪夢から逃れられない。末野さん達は俺がこの事件にあまり関与しないように配慮してくれているみたいだから申し訳ないけど、ここで動けなかったら、俺はきっと、一生後悔する。一生、この肉塊を引き剥がせないまんまだ。
俺は唾を飲み込み、深呼吸をしてドアの奥へと進んだ。

突然流れてきた鼻をつくような臭気に、思わず鼻をつまみ口をつぐむ。
見ると、玄関に入ってすぐ右手にキッチンがあり、流し台にはフライパンや茶碗、カップラーメンの容器などが洗われずに放置されていた。二、三匹ほどの小バエが、フライパンの縁にこびりついた焦げの周りで手を擦り合わせている。正面に向き直ると、中央に敷かれた布団と窓際に配置されたテーブルとの間に、ぎゅうぎゅう詰めになったごみ袋が三つ転がっていた。
鼻をつまみながら、バッグからスリッパと懐中電灯、ビデオカメラを取り出し、ティッシュや毛や、プラスチック製のなにかの部品なんかが散らかる廊下を、一歩ずつ進んだ。
もうちょいクリーンだったら調べやすかったんだけどな、なんて独りごちながら、右奥の本棚を確認する。
実は今のところ、前述の行方不明者の中で黒木とさっき調べていた人物の二人だけ、遺留品の中に例の本が確認されていなかった。他の被害者や行方不明者は全員、遺体周辺か最後の目撃証言のあった場所付近に本を遺している。明確な証拠とまでは言えないが、ここから考えると、本のある場所を調べることが被害現場の特定、そして新たな手がかりを見つけるための足掛かりになるかもしれない。
本棚を調べ終え、机周辺の捜索に移る。しかし目当ての本は今のところ見当たらない。あるものと言えばDVDや漫画、それとやたら長い題名のライトノベルぐらいだ。
ここも収穫ないかもな……そう考えていたとき、ふと、紙の束を踏んだような感覚がした。
足をどけ、懐中電灯で真下を照らすと、ページがバラバラになっている本があった。それは間違いなく件の本-サルタメア教の信者が配っていた白表紙の本-そのものだった。
一瞬安堵した後、俺は自分が本を踏んでずらしてしまったんじゃないかと焦った。
しかし……直後にその疑念は消え、新たに別の、もっと大きな疑問が俺の頭を埋め尽くした。
その原因は、本の表紙に残っている、明らかに車の下敷きになったとしか思えないタイヤ痕だった。
近付いて、更に詳しく観察する。砂や泥など、轢かれたとすれば普通つくはずの付着物は一切ない。ただタイヤの凹凸だけが紙に写っている、という状態だ。
これだけ見ても、十分に不自然だ。新品のタイヤをピッカピカの床に置いた本の上で転がしたりしない限りは、こんな状態になることはあり得ないだろう。
でも、一番の問題はそこじゃない。そもそも、ここは屋内、アパート二階の狭い部屋の中だ。なぜ車に轢かれた状態のものがここにある?誰かがここに持ってきたのか?だとしても、なぜバラバラに散らす必要があったんだ?
考えが、思うようにまとまらない。俺は一度録画を止め、頭を抱える。
しばらく思い悩んでいるうちに、俺はふと、自分が同じ本を押し付けられたことを思い出した。バッグの中から、それを取り出す。
文字らしい文字一つも見当たらない、真っ白な表紙。わずかに浮かんでいる、異国の紋章のような凹凸が、この無機質すぎる本にささやかな個性を与えている。
少なくとも、この本そのものが事件の鍵になっていると見て間違いなさそうだ。そうでなければ、今足元にあるこれの説明がつかない。
足元の本と自分の本を比べてみる。これといって相違点はなく、GPSやら小型のチップ等が仕掛けられている様子もない。
或いは、内容に鍵があるのか?いや、だとしてもそれが現場に本を遺す理由になるとは考えにくい。
だとしたら何だ?いったい何がこの状況を作り出しているんだ?
何も見えない。何一つとして、何が起こっているのかすらも理解ができない。
眩暈めまいがする。瞼の裏に、あの肉塊が映る。すぐにでもまもちゃんを助けないといけないのに、すぐにでもこの悪夢から脱出しなきゃいけないのに、解決の目処がまるで立ちそうにない。
部屋の暗さが、グロテスクな妄想をより強烈なものにする。
嫌だ。怖い。まもちゃんのそんな姿見たくない。それも、俺のせいでそうなってしまうかもしれないんだ。もしかして、とっくに……?
呼吸が、動悸が、早く激しくなる。本を持つ手に、力が入る。
嫌だ。嫌だ!刑事として、命に順序をつけるような考えを持つことがいけないことなのは分かっている。でも、せめてまもちゃんだけは、俺の親友だけは、何があっても無事でいて欲しい!

そう願った時だった。
視界の端、本棚と壁を覆い尽くすような形で、唐突に穴が出現した。空気が、ゆるく吸い込まれるように穴に流れる。
何か、来る!
そう直感し、咄嗟に穴の出口から逸れたところに転がり込む。
直後、穴から出てきたのは、大型のトラックだった。
トラックが、一般道を走るような速さで視界を横切る。幽霊のように、壁や天井に干渉することなくそれは一瞬で通りすぎていった。
俺は唖然とした。
しばらくの間、その場にしゃがみこんだまま、動くことができなかった。
頭に大きなクエスチョンマークが浮かんだまま、俺は立ち上がり、ビデオカメラを再び手に取って周囲の状況をもう一度確認した。
トラックが飛び出してきた穴は、縮小しつつもまだそこにある。ビデオカメラにも映っているため、信じがたいが、幻覚の類いではないらしい。
床に落ちた物や布団も見たが、先程と特に変わった点はない。車輪の跡が新しく付いたものは、どうやら無さそうだった。
とにかく、最優先して調査すべきはあの穴だ。もう処分がどうとか言っている場合じゃない。すぐにでも本部にこの情報を知らせ、協力してもらわなければ。
俺はスマホで穴を撮影し、末野さんにメールでそれを送った。
程なくして、末野さんから電話がかかってきた。俺はビデオ通話に切り替え、それに応じる。
「ハザマくん!?今どこにいるの?そっちで何が起きてるの?」
「ええと、信じてもらえるか、分かりませんけど……」
俺は自分の居場所と事の顛末を、できるだけ詳細に話した。末野さんは困惑しながらも、何度か相槌を打ってくれた。
「その穴から、トラックが出てきた……と。ねえハザマくん、穴のなかって、調べることはできそう?」
「まあ物が出てきたってことは、恐らく可能だと思いますが……、とにかく、やってみます。」
俺は試しにビデオカメラとスマホを、ゆっくりと穴に近付けた。
しかし、穴の境界に差し掛かったとき、突如としてそれらは手をすり抜け、後方に弾かれた。ぎょっとして、飛んでいった方向に振り返る。
その時、右手が穴の境界を通り抜けた。どうやら身体そのものは入ることが可能らしい。
「ハザマくん、大丈夫!?」
スマホ越しに末野さんが声を掛けてくる。俺はそれに応じ、弾かれた物を手に取る。
「ええ、僕は何も。どうやらあの穴、撮影に使えるものは入れられないみたいです。」
「それは弱ったわね……。明日にでも科学捜査係に入って貰って他の方法を考えてもらうしかないかしら。」
「いや、そう悠長なこと言ってられないみたいですよ。」
穴はゆっくりと、しかし止まることなく縮小を続けている。壁一面を覆い尽くしていたそれは、今や窓ほどの大きさにまで縮んでいた。
「ちょっと、顔突っ込んで中を確かめてみます。さっき手が入ったので、もしかしたらいけるかも。」
「さすがに危険じゃない?そんな得体の知れないところに……」
「大丈夫ですよ、多分。それに今はこれしか方法がない。」
「……危ないと思ったら、すぐ出てね。」
俺はスマホとビデオカメラを脇のテーブルに置き、穴に近寄る。
手を突っ込み、危ないものや障害物が穴の奥に無いことを確認した後、慎重に、顔を中に入れた。
その先に見えたのは、虚無そのものだった。外から見た時と同じ、黒紫色の何も無い空間が、ただ延々と広がっているのみだった。
「どうー?何か見つかったー?」
スマホのスピーカー越しに、末野さんが大声で尋ねてくる。
「いえー、特に何もー……ん?」
俺が大声でそれに返答した、丁度その時。
それまで暗闇しかなかったその空間の上部奥に、一筋の光が見えた。そしてそれは、瞬く間に増大してゆく。
「ハザ…くん!?は…く……き…!…ながち…さ…なっ……!」
急にノイズがかかったように聞き取りづらくなった末野さんの言葉も気になったが、それよりも光の根元を知りたいという欲求が、俺のなかで勝った。
俺はそのまま、もっとよくそれを確かめるために上体を前に倒した。それがいけなかった。
足元に破れた本があることをすっかり忘れていた。前につんのめった直後、本のページがずれて踏ん張りが効かなくなり、足が宙に浮いた。
直後、なにかを考える間もなく、俺の身体は虚無の中へと放り出された。一瞬の浮遊感の後、急速に下へと引っ張られる。
落ちる!末野さんの声はもう聞こえない。それどころか部屋とこの空間を繋ぐ穴さえも見えない。どこまでもどこまでも何メートルかなんて検討もつかないほど長い距離を光とは真逆の方向へと加速しながら落下して行く。ここで俺は死ぬのか?こんな訳のわからない場所で?真相を微塵も掴めないまま?嫌だ死にたくないまだやることがあるんだ俺にはでもどうすればいいどうしようもないだろああさっきもっと警戒していればこんなことには……

唐突に、身体が停止する。
地面に衝突した訳じゃない。俺は生きている。
ただ突然、落下がリセットされたという感じだった。
俺は十数秒間、何もない場所で、上を向いた状態で浮遊していた。
すると、巻いた糸がほどけるようにして空間の上部が剥がれていき、その外側に星空が見えてきた。
空間の剥離は一定の速さで続いてゆき、最終的に俺の背後の闇から森林が姿を見せた所で、暗闇は完全に消失した。
……背後に、森林?
俺は再び落下する羽目になった。しかし今度は落ちてすぐに木にぶつかり、枝から枝へと転げ落ちる形で地面に辿り着いた。
身体の節々が、痛い。全身すり傷だらけだ。俺はその場で丸くなり、暫くの間動けずにいた。
それから、三分程たった頃だろうか。何者か、それも複数の人物がこちらに近付いてくるような足音が聞こえた。しかし、聞こえたのは足音だけではない。何と言うか、鉄板が打ち付けられるような……鎧の音?
足音が、俺の間近で止まる。顔を上げると、12人の、背格好のそれぞれ違う男女が、俺の周囲をぐるりと取り囲んでいた。
しかし彼等の姿は……、普通の人間の男女と呼ぶにはあまりにも浮世離れ、いや、現実離れしていた。
真正面の大柄な男は中世ヨーロッパの騎士のような鎧に身を包み、背丈ほどもある頑丈そうな盾を装備している。
その右隣の華奢な女は、褐色の肌の表面に所々爬虫類のような白い鱗が生えている。
他にも、数えきれないほどの武器を持つ耳が異常に尖った者、大人と同じくらいの大きさの精巧な人形を糸で操る小柄な少年、青年のような出で立ちをした半透明な液状のなにか……とにかく、およそ今まで俺が生きてきた世界ではあり得ないような者に、取り囲まれていたのだ。
「##### ####?」
盾を持った男が未知の言語で俺に何かを問いかけ、同時に剣の切っ先を、俺の喉元に向けた。
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