左腕のDALIA

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序章

灰色の日常と赤い邂逅

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蛍光灯が落とされ、静まり返ったオフィスに、小林健介(こばやし けんすけ)のキーボードを叩く音だけが響いていた。時刻は午後11時をとうに過ぎている。
(何のために、俺はここにいるんだろうな)
42歳。家庭ではもはや自分の居場所などないように感じ、会社では、どれだけ仕事をしても正当に評価されることもなく、ただ歯車の一つとして消費されていくだけの毎日。情熱という名のガソリンは、とっくの昔に切れかかっていた。
ようやく重い腰を上げ、誰もいないオフィスを後にする。
自宅へと続く、街灯がところどころで寿命を迎え、闇が濃くなっている路地裏。湿ったゴミの匂いに混じって、微かに鉄錆のような、生臭い匂いが鼻をついた。その一角に差し掛かった時、彼の足が止まった。
「……ぅ……あ……」
暗がりから聞こえてきたのは、絞り出すような呻き声。人間の、それも女性の声だった。
導かれるように、声のする方へ。
路地裏の奥、自動販売機の明かりが虚しく地面を照らしている。健介は、その光の輪のすぐ外、最も深い闇の中に、人影がうずくまっているのに気づいた。
恐る恐る近づくと、それは、壁に背を預けて座り込んでいる、一人の女性だった。
月光をわずかに反射する、銀色の長い髪。この世の者とは思えぬほど、息を呑むほど美しい顔立ち。だが、その白いワンピースは土と血で汚れ、肌という肌におびただしい傷が刻まれている。そして何より、彼女の背中からは、まるで黒曜石の刃のような、六本の歪な触手が翼のように生えていた。それは、まるで生物のように、苦しげな呼吸に合わせて、微かに蠢いている。たとえ深手を負い、汚れていようとも、その姿には、犯しがたい気品が漂っていた。
「……っ!」
理解を超えた光景に、後ずさろうとした足が、恐怖でアスファルトに縫い付けられる。
その瞬間、彼女がゆっくりと瞼を上げた。血のように紅い瞳が、健介の魂の芯まで見透かすように射抜く。
「ほう……冴えない男が来たものよのぅ。だが、贅沢は言ってられんか」
弱々しいが、凛とした声だった。鈴を転がすような、しかし氷のように冷たい声が響く。
「貴様はただ、我が器となればよい」
「き、器……? 何を、言って……」
健介が戸惑いの言葉を最後まで言い終えることはなかった。
ダリアは答える代わりに、背中から一本の触手を閃かせた。
健介の目には、それが動いたことすら認識できなかった。ただ、黒い閃光が闇を駆けたように見えただけだった。
ブツン、という肉が断ち切られる鈍い感触。
遅れて、左腕に脳が焼き切れるような激痛が走った。
「あああああああああああああっ!!」
見慣れた自分の左腕が、肩の付け根から、無残にも断ち落とされ、アスファルトに転がった。噴き出した鮮血が、地面を赤黒く染めていく。
ダリアの触手の先端が、彼の左腕の切断面に突き刺さった。
その瞬間、ダリアの紅い瞳が妖しく輝き、健介の脳内に、理解を超えた古の言霊が直接響き渡った。
『我が血肉を贄に、その魂魄を縛り、器とする……!』
その言霊と共に、健介の傷口に、見たこともない複雑な文様が、禍々しい紫色の光を放ちながら浮かび上がる。
文様は、まるで生きているかのように彼の肉体に根を張り、黒い蔦となって血管を、神経を、骨を侵食していく。それは単なる痛みではなかった。魂そのものに、異質な盟約が焼き付けられるような、冒涜的な感覚だった。
『我が名はダリア。覚えておけ、我が宿主よ』
その言葉を最後に、壁に背を預けていたダリアの体は急速に輪郭を失い、淡い光の粒子となって健介の左肩の傷口へと吸い込まれていった。それと呼応するように、アスファルトに転がっていた健介自身の腕もまた、音もなく光の塵となって闇に溶けて消える。
そして、信じられないことが起きた。
左肩の傷口から、まるで映像を早送りするように、新しい腕が生えてきたのだ。肉が盛り上がり、骨が伸び、皮膚が再生していく。数秒後には、そこには血も傷もない、完璧な、彼自身の左腕があった。
だが、健介は歓喜するどころか、言葉を失い、後ずさった。
見た目は同じ。しかし、感覚が全く違う。そこにあるはずの温かい血の流れを感じない。まるで、精巧に作られた義手のように、自分の体でありながら、自分のものではないという、強烈な違和感だけがあった。
健介がその異様な感覚に混乱している、その時だった。
路地裏の入り口に、新たな人影が立った。
その男――サイラス――は、ダリアと同じように異質な気配を放っていたが、その若々しい顔には、獲物を見つけた狩人のような、残酷な笑みが浮かんでいた。
「見つけたぞ、敗残者ダリア。そのような下等生物を使い、禁呪を発動させるとはな。随分と落ちぶれたものだ」
若い追手は、自身の両腕を前方へ突き出した。次の瞬間、その腕が、まるで溶けるように形を失い、そこから無数の金属的な触手が、蛇のように蠢きながら現れる。一本一本が、剃刀のように鋭利な先端を持っていた。
健介の精神は、限界を迎えていた。自らの腕を切り落とし、その身に寄生した、得体の知れない存在への恐怖。そして今、目の前に現れた、明確な殺意を放つ、もう一人の化け物への恐怖。内なる乗っ取り手と、外からの捕食者。逃げ場のない路地裏で、二つの死の脅威に挟まれ、健介はただ恐怖に震え、狼狽えることしかできなかった。
『フン……嗅ぎつけるのが早いではないか。下郎が』
ダリアの声が、健介の脳内に直接響く。
『宿主よ、黙って見ておれ。その体は、もう貴様だけのものではないのだからな』
その言葉と共に、健介の左腕が灼けつくように熱くなった。
意思とは無関係に、普通の腕に見えたはずの左腕が、ありえない形状へと変貌を遂げる。皮膚が裂け、骨が軋み、そこから現れたのは、ダリアの背中にあったものと同じ、黒曜石のように鋭利で、しなやかな刃だった。それは、まるで翼のように健介の腕から展開した。
「面白い……! そのような芸当がまだ残っていたとはな。だが、その程度の力で、この俺を止められると思うなよ!」
サイラスは、その異様な光景に一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不遜な笑みを浮かべ、変貌させた自らの触手を構え直す。
無数の触手が、一つの生き物のようにうねり、ダリアの生み出した黒曜の刃に向かって殺到した。
ジャラララララッ!!という、無数の金属片がぶつかり合うような甲高い音が路地裏に響き渡る。ダリアの操る一本の重い刃が、サイラスの繰り出す触手の嵐を受け止めていた。サイラスの触手は、鞭のようにしなり、槍のように突き、健介の体を四方八方から容赦なく襲う。健介は、自分の意思とは無関係に、まるで人形のように動かされていた。左腕の刃が、ありえない角度でしなり、触手を防ぎ、弾き、そして薙ぎ払う。
ガギンッ! ギシャァァッ!
刃と無数の触手がぶつかる音が、何度も響き渡る。ダリアの動きは力強く荒々しいが、最後の力を振り絞っているせいか、どこか精彩を欠く。対するサイラスは、若さに任せた速さと、圧倒的な手数で、徐々にダリアを追い詰めていく。アスファルトが削られ、コンクリートの壁に無数の斬撃の跡が刻まれる。健介は、自分の体が操られる恐怖に耐えながら、死闘をすぐ目の前で見ていることしかできない。
「終わりだ!」
サイラスの触手の一本が、ダリアの防御の隙をつき、健介の右肩を浅く切り裂いた。激痛に、健介の体がよろめく。
サイラスは、その好機を逃さなかった。全ての触手を束ね、一本の巨大な槍と化して、とどめの一撃を放つべく突き進む。
だが、それはダリアが作り出した、最後の罠だった。
『――喰らえ!』
ダリアの絶叫と同時。
健介の体が、ありえない体勢から、独楽のように回転した。遠心力を乗せた黒曜の刃が、槍と化したサイラスの触手の束を根元から断ち切り、勢いのままに、がら空きになった彼の懐に、下から上へと、深々と突き刺さった。
「ぐ……ぁ……!」
サイラスは、驚愕の表情で自らの胸を見下ろした。鮮血が、彼の口元から溢れ出す。
『これが……最後の力じゃ』
ダリアの声は、か細く、しかし冷酷だった。彼女は、黒曜の刃をさらに深く抉り、サイラスの動きが完全に止まるのを確認した。
荒い息をつきながら、ダリアの意志のままに、健介の左腕がサイラスの体から刃を引き抜いた。若い男は、その場に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
それと同時に、健介の左腕から、黒曜の刃が音もなく収縮していく。まるで映像を逆再生するように、刃は肉へと戻り、皮膚が再生し、瞬く間に、そこには見慣れたはずの、肩から伸びる自分の腕があった。しかし、その感触はどこか冷たく、生きた血が流れているという実感が湧かない。
後に残されたのは、静寂と、濃厚な血の匂い。そして、依然と変わらない見た目でありながら、自分のものではないという強烈な違和感を放つ自らの左腕を見つめ、呆然と立ち尽くす一人のサラリーマンだけだった。そこで健介の意識は途切れた。

彼の灰色の日常は、今この瞬間、赤い非日常によって、完全に塗り潰されたのだ。
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