4 / 59
第一部
TRIGGER4
しおりを挟む
「ふあああ……。ああ、眠い……」
藤原は大きなあくびをしながら毛量の多い髪をかき上げる。差し迫った仕事がないせいで、断続的に眠気が襲ってくる。
平日の午前中はいつもヒマだ。客など大して訪れない。店先に貼られた物件資料を、通行人がたまに足を止めて見るくらいだ。従業員は営業と事務を合わせて六名足らず。今は誰一人急を要する仕事を抱えていなかったから、おのおのマイペースに業務に当たっている。梅雨明けの猛暑に対処するため、狭い店内では古いエアコンが唸りを上げていた。
藤原は目の下のたるみを触りながら、昼飯は何にしようかと考える。また今日も中華にするかと思いながら、右斜め前のデスクに目を向ける。事務員の鈴木貴子がパソコンのディスプレイを凝視しながらキーボードを叩いている。藤原は彼女の横顔を見て、久しぶりに貴子と一発やりたいな、とふと思う。
鈴木貴子が入社してすぐに、藤原は彼女と関係をもった。当時は彼女もまだ若く、性的な魅力にあふれていたから、勤務後の情事は毎回激しいものになった。ベッドの上での彼女との相性は抜群に良かった。さらに、向こうが超がつくほどのドMだったこともあって、妻にはできないことをさんざんした。その一つに、アナルセックスがあった。
当時は妻との関係にマンネリを覚えていたころだったから刺激を求めていたのだろう。最初に尻の穴に挿れたときは痛がって泣いていたが、そのうち自分から尻の穴を広げて、「今日はお尻にさして~」とせがんでくるまでになった。
アナル以外の場所も徹底的に開発してやった。出会ったころは反応が薄かったというのに、いつのころからか、乳首をちょっと舐めただけでも身をくねらせるようになり、「濡れちゃうぅぅ」と喉の奥から声を上げるまでになった。真面目くさった顔をしていただけに、そのギャップに少なからず興奮した。正直、自分が女にしてやったという自負があった。そのため、開発料として百万くらい請求しても安いだろうと藤原は常々思っていた。
仕事中にもかかわらず、当時のことを思い出しているうちに藤原は軽く勃起した。最近、勃ちがめっきり悪くなっていただけに、反応したことを素直に喜んだ。股間が熱くなったことで、鈴木貴子のからだが無性に恋しくなってきた。若さを失ったとはいえ、熟女には熟女なりの魅力がある。とはいえ、仮に彼女が誘いに応じたとしても、ここぞというときに下半身が機能しない恐れもあった。一昔前なら、四回戦、五回戦と一晩で楽しめたというのに、今では勃たせるのもやっとで、一度射精したら二度目など考えられなかった。自分は死ぬまで精力的でいられると信じていただけに、最近の精力減退はとても受け入れがたいものだった。この先、自分の性器がまったく機能しなくなったらと思うと絶望的な気持ちになった。セックスが最高の快楽だと信じていただけになおさらだ。
過去には、スッポンやマムシエキス、馬の睾丸などが配合された怪しげな精力剤をネットで購入して試してみたこともあったが、期待していたほどの効果は得られなかった。また、バイアグラなどのED治療薬は、最終手段と考えていたからまだ手を出してはいなかった。
精力減退は、喫煙の習慣も少なからず影響するという。だが、十代のころから染みついた習慣を断つなど、とうてい不可能だと思っていたから、禁煙する気はさらさらなかった。とはいえ、衰えた精力を取り戻すために、何か手を打たねばという思いだけは常に抱いていた。
「店長。先週の競馬、どうでした?」
「あぁん?」
部下の言葉に思わずカッとなり、藤原は思わず声を荒げてしまう。店内がとたんに静まり返る。
「あ、何かすんません……」
バツが悪そうな顔で謝罪し、部下はそそくさと自分の席へ戻っていく。悪気はなかったのだろうが、彼の一言で競馬で大負けしたことを思い出し、はらわたがとたんに煮えくり返った。激しい怒りで顔がひきつってるのがわかる。たまのギャンブルはストレス発散の一つだったが、ときおり大損しては、こうやってストレスを増幅させるのだ。
「ああ、ちくしょう、腹立つな!」
思わず吐き出した苛立ちの言葉に、部下たちが萎縮するのがわかった。だが、藤原はそれには気づかなかったふりを装う。
軽く悪態をついただけでは自分への怒りは消えなかった。二十万もあれば、何ができただろうか? 銀座の高級クラブにでも行って、若いホステスと美味い酒でも飲めただろう。もしくは、スッポン鍋でも食ってギンギンにしてから、高級ソープで極上の女を抱くことだってできたはずだ。最初から無くなるとわかっていたなら、女に使ったほうがよっぽどマシだった——。失った金でできたことをあれこれ思い起こしているうちに、怒りはさらに増大していく。
藤原はここで、いつもの習慣を試すことにした。気分がむしゃくしゃしたときに実践しているものだ。
まずは椅子に背を預けてリラックスした姿勢をとり、軽く目を閉じる。このまま寝てしまっても注意する者は誰もいない。目を閉じたまま、記憶のチャンネルを高校時代のあの日に合わせる。強烈に刻まれた記憶は、いまだ色褪せてはいない。頭の中だけ高校時代に戻った藤原は、しばらく過去の蛮行を追体験する。薄暗い部屋に漂う匂いまでもが思い出され、鼻の奥が生臭い臭気で充たされる。しだいに気分は高揚していき、股間がムズムズしはじめる。人目がなければ股間をまさぐっているところだ。
気づけば、苛立ちは嘘のように消えていた。硬くこわばっていた顔も、すっかりほぐれているのがわかる。記憶に強く刻み込まれた同級生の無様な姿は、三十年近く経った今でも、荒ぶった心を静めるのに役立ってくれた。あの男が被った不幸に比べれば、競馬で失った二十万など取るに足らぬと思えてくる——。
屈辱的な高校生活を強いられた腹いせに、友人たちの協力のもと、藤原は狡猾な罠を仕掛け、ある同級生を徹底的に追い込んだ。それはリスクの伴う危険な行為ではあったが、それに見合うだけのスリルと興奮を得ることができた。それに味をしめた友人たちはその遊びの継続を望んだが、藤原はリスクを考慮してそれは許さなかった。危険な橋を渡り続けるのは賢明ではないと判断したのだ。何事も引き際が肝心だと。
とはいえ、今にして思えば、もっと冒険してもよかったのかもしれない。選ぶ相手さえ間違えなければリスクは抑えられたはずだったし、とくに未成年というアドバンテージがあったから、たとえ警察沙汰になったとしても、将来を大きく棒に振ることはなかっただろう。しかし、たとえそうであったとしても後悔はなかった。なぜなら、二度、三度と続けたところで、あれ以上の獲物とあれを超える興奮は、決して得られなかったはずだからだ——。
過去を振り返ると必ず煙草が吸いたくなる。藤原は重い腰を上げると、店内奥の休憩室へ足を向けた。
* * *
「ん? 何だ?」
仕事を終えて会社近くの駐車場へ向かうと、マイカーの横に見知らぬワンボックスカーが停まっていた。来客用に会社が借り上げている駐車スペースに停められていたため当然訝しく感じたが、いちいち日が暮れたこんな時間から対応する気にもなれず、そのまま見過ごすことにした。多少イラつきながら、日産のエルグランドを背にしてマイカーのドアノブに手をかける。
すべり込んだ車内は、昼間の熱気がまだこもっていた。さらに、買い替えてまだ間もないため、新車特有のケミカルな匂いが少し立ち込めている。エンジンをかけると車内が振動して唸り、エアコンが作動して冷風が流れてくる。送風口から噴き出してくる冷気は、不快な汗で湿った肌に心地良かった。ライトを点けてサイドブレーキを下ろし、アクセルを軽く踏み込む。エンジンが再び軽く唸り、アスファルトをこする静かな音をタイヤの下から響かせながら、ハンドルを握るトヨタのセルシオはゆっくりと駐車場を離れていく。
細い路地をしばらく走行してから大通りに入る。ハンドルに右手を置き、片道二車線の国道を突き進んでいく。流れるラジオに耳を傾けながら物思いにふける。今は妻と別居中だったから、3LDKの自宅マンションに帰りを待つ者はなかった。それを寂しいと感じることはなかったが、人肌恋しくなってるのは事実だった。同僚の鈴木貴子でも誘おうか、などと考える。だが、関係が終わって久しいため、気軽に誘える感じではなかった。他の知人女性に連絡を取ろうかとも考えたが、いざというとき肝心なところが機能しなかったらと思うと、それが不安で連絡をためらってしまう。そうこうするうちに、国道沿いの自宅マンションが視界に入ってきた。ハンドルを切って左折し、地下の駐車場に下りながら、試しに一度、バイアグラでも使ってみるか、などと考える。
所定の位置に駐車してセルシオから降りると、陰気くさい空気を漂わせている地下の駐車場を歩いていく。乾いた足音が駐車場内に響き渡る。エレベーターに乗り込んで目的の階を目指しながら、一度薬に頼ったが最後、薬なしでは勃たなくなるのではないかという不安が頭をもたげ、どうしたものかと悩みながら五階でエレベーターを降りる。廊下を少し進み、「藤原」という表札のある503号室の前で立ち止まり、玄関の鍵を開けて中に入る。室内は湿気と暑さのせいで、少しだけもわっとしていた。壁際のスイッチを押して廊下の照明を点け、シューズボックスの上に置かれている陶器の受け皿にキーケースを放ってから靴を脱ぐ。靴下のまま短い廊下を進み、リビングに続くドアを開けて中の明かりを点けたときだ。複数の人影が、いきなり視界に飛び込んできた。
予期せぬ光景に、藤原は口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。すぐさま二人の男に両腕をつかまれ、残りの男が注射器のようなものを向けて迫ってきた。鋭い針の先端がリビングの照明を受けて危険な光を放つ。
突然のことに頭の中がまっ白になっている中、藤原はとっさに大きく首をひねり、針の切っ先をギリギリでかわす。そしてその勢いのまま、力任せに両腕を振り上げた。こちらの力を見くびっていたのだろう。拘束は、ものの見事に振りほどくことができた。そこで間髪開けずに、固めた拳を目の前の男に叩き込む。自分の右腕前腕部が芯から震え、男の鼻骨がひしゃげる確かな手応えを感じ取る。相手は一瞬白目をむき、リビングの天井を見上げるようにしてふっ飛んでゆく。瞬時に、室内の空気が緊張で張り詰めた。まわりがいくぶんスローモーションに感じられる中、藤原は床を強く蹴って両サイドの男たちから距離を取るように飛び下がる。見ると、男たちは棒立ちのまま動けないでいる。自分の優位性を全身で知覚しながら、藤原は腰を落として身構える。身体中の毛穴という毛穴が大きく開き、そこから発散されているであろう好戦的な汗のにおいが侵入者たちを威嚇する。彼らのあからさまな動揺がビシビシと伝わってくる。脳内ではアドレナリンが音を立てて噴き出し、残りの二人もぶちのめしてしまえと叫ぶ。まるで自分が獰猛な獣にでもなったかのようだ。もしくは人間核弾頭か。今なら誰が相手でも負ける気はしなかった。だがここで、倒れていた男が鼻から血を噴き出しながら起き上がろうとしていることに気づくと、とたんに理性が舞い戻ってくる。〝一対二〟から〝三〟になるという構図に自信が揺らぎはじめる。猛り狂っていた感情が嘘のようにしぼんでいく。
弱気な感情に心が侵食されていく中、彼らよりも自分のほうが玄関に近いという事実に思い至ると、藤原は踵を返して玄関めがけて駆け出した。
* * *
国道脇の歩道を、死に物狂いで駆け抜けていく。すれ違う通行人が訝しげな視線を向けてくるが気にしてはいられない。すでに三〇〇メートルか、四〇〇メートルは走っただろうか。息が切れはじめ、心臓は悲鳴を上げていた。
破裂しそうな胸を手で押さえながら、走るスピードを少し緩めて背後を振り返る。不審な者は見当たらない。念のため再度振り返って追ってくる者がないことを確認してから、藤原は右手に立ち並ぶ雑居ビルの間へと駆け込んだ。すぐさま室外機の背後に回り込んで身を隠す。すぐ目の前は汚れたビルの外壁で、隣では年季の入った室外機はブンブン唸っている。周囲は湿った土の匂いとカビ臭い匂いが立ちこめていたが、今は当然そんなことは気にならなかった。
数十年ぶりの全力疾走のせいで、心臓は激しく鼓動していた。肩で息をしながら、ビルの外壁に背中を預ける。こめかみの太い血管が痛いくらいにドクドクと脈打ち、湿気の高さも手伝って、額から汗が滝のように流れ出る。額の汗を手の甲で拭ったところで急に目まいに襲われ、土で固められた地面に倒れ込みそうになる。藤原は倒れまいとして、ビルの壁に背中を強く押しつけた。
「何だったんだ、今のは!?」
やがて目まいは収まったが、自分の身に起きたことが現実のものとは思えず、変な夢でも見ているのではないかと感じた。だが、右手の小指が腫れていることに気づくと、ぞっと悪寒が走って身震いした。侵入者の一人を殴った際に痛めたのだ。どうやら、夢ではなさそうだった——。
学生時代に柔道をしていたことが身を救ったのだろう。でなければ、あの場でとっさに身体は動かなかったはずだ。ここで、自分の拳がクリーンヒットした瞬間を思い出し、少しだけ気分が高揚した。だが、それは一瞬のことで、すぐに不安な気持ちに取って代わった。胃が強く締めつけられてギリギリと痛む。吐き気もこみ上げてくる。腫れた小指を見ながら思う。この程度で済んで良かったと。あのとき逃げ出せていなかったら、今ごろどうなっていたことか——。最悪の事態を想像して思わず震えが走る。
あの連中が何者なのかは想像もできなかったが、やばい連中であることは間違いなさそうだ。清掃員風の格好であの場にいた事実と、あの組織立った行動を考えれば、その道のプロに違いない。おぼろげだが、男たちは青っぽいゴム手袋をしていたように記憶している。指紋対策だろう。
ふと気づけば、下半身がギンギンに勃起していた。黒いスラックスの上からでも逞しく隆起しているのがわかるほどで、最近の勃起不全が嘘のようだ。人は生命の危機に晒されると、種を残そうとして急激に性欲が高まるという。それかもしれない。こうなっては理由はどうあれ、すぐにでも女を抱いて欲望を発散したかった。若くて色白で、細身でありながらも出るとこはしっかり出ているような極上の女に、たぎったモノをぶち込み、溜まったものをぶちまけたかった。だが今は、女を抱くことよりも先に警察に通報することが優先された。
額の汗を拭って、スラックスの中のスマホを握りしめる。これまで疎ましく感じていた警察という存在が、今は打って変わって頼もしく感じられた。
「まさか、警察に助けを求める日がくるとはな……」
藤原はスマホを取り出すと、指を震わせながら電話アプリを立ち上げた。
◈
ポチッと♡、お願いします(^ ^)v
藤原は大きなあくびをしながら毛量の多い髪をかき上げる。差し迫った仕事がないせいで、断続的に眠気が襲ってくる。
平日の午前中はいつもヒマだ。客など大して訪れない。店先に貼られた物件資料を、通行人がたまに足を止めて見るくらいだ。従業員は営業と事務を合わせて六名足らず。今は誰一人急を要する仕事を抱えていなかったから、おのおのマイペースに業務に当たっている。梅雨明けの猛暑に対処するため、狭い店内では古いエアコンが唸りを上げていた。
藤原は目の下のたるみを触りながら、昼飯は何にしようかと考える。また今日も中華にするかと思いながら、右斜め前のデスクに目を向ける。事務員の鈴木貴子がパソコンのディスプレイを凝視しながらキーボードを叩いている。藤原は彼女の横顔を見て、久しぶりに貴子と一発やりたいな、とふと思う。
鈴木貴子が入社してすぐに、藤原は彼女と関係をもった。当時は彼女もまだ若く、性的な魅力にあふれていたから、勤務後の情事は毎回激しいものになった。ベッドの上での彼女との相性は抜群に良かった。さらに、向こうが超がつくほどのドMだったこともあって、妻にはできないことをさんざんした。その一つに、アナルセックスがあった。
当時は妻との関係にマンネリを覚えていたころだったから刺激を求めていたのだろう。最初に尻の穴に挿れたときは痛がって泣いていたが、そのうち自分から尻の穴を広げて、「今日はお尻にさして~」とせがんでくるまでになった。
アナル以外の場所も徹底的に開発してやった。出会ったころは反応が薄かったというのに、いつのころからか、乳首をちょっと舐めただけでも身をくねらせるようになり、「濡れちゃうぅぅ」と喉の奥から声を上げるまでになった。真面目くさった顔をしていただけに、そのギャップに少なからず興奮した。正直、自分が女にしてやったという自負があった。そのため、開発料として百万くらい請求しても安いだろうと藤原は常々思っていた。
仕事中にもかかわらず、当時のことを思い出しているうちに藤原は軽く勃起した。最近、勃ちがめっきり悪くなっていただけに、反応したことを素直に喜んだ。股間が熱くなったことで、鈴木貴子のからだが無性に恋しくなってきた。若さを失ったとはいえ、熟女には熟女なりの魅力がある。とはいえ、仮に彼女が誘いに応じたとしても、ここぞというときに下半身が機能しない恐れもあった。一昔前なら、四回戦、五回戦と一晩で楽しめたというのに、今では勃たせるのもやっとで、一度射精したら二度目など考えられなかった。自分は死ぬまで精力的でいられると信じていただけに、最近の精力減退はとても受け入れがたいものだった。この先、自分の性器がまったく機能しなくなったらと思うと絶望的な気持ちになった。セックスが最高の快楽だと信じていただけになおさらだ。
過去には、スッポンやマムシエキス、馬の睾丸などが配合された怪しげな精力剤をネットで購入して試してみたこともあったが、期待していたほどの効果は得られなかった。また、バイアグラなどのED治療薬は、最終手段と考えていたからまだ手を出してはいなかった。
精力減退は、喫煙の習慣も少なからず影響するという。だが、十代のころから染みついた習慣を断つなど、とうてい不可能だと思っていたから、禁煙する気はさらさらなかった。とはいえ、衰えた精力を取り戻すために、何か手を打たねばという思いだけは常に抱いていた。
「店長。先週の競馬、どうでした?」
「あぁん?」
部下の言葉に思わずカッとなり、藤原は思わず声を荒げてしまう。店内がとたんに静まり返る。
「あ、何かすんません……」
バツが悪そうな顔で謝罪し、部下はそそくさと自分の席へ戻っていく。悪気はなかったのだろうが、彼の一言で競馬で大負けしたことを思い出し、はらわたがとたんに煮えくり返った。激しい怒りで顔がひきつってるのがわかる。たまのギャンブルはストレス発散の一つだったが、ときおり大損しては、こうやってストレスを増幅させるのだ。
「ああ、ちくしょう、腹立つな!」
思わず吐き出した苛立ちの言葉に、部下たちが萎縮するのがわかった。だが、藤原はそれには気づかなかったふりを装う。
軽く悪態をついただけでは自分への怒りは消えなかった。二十万もあれば、何ができただろうか? 銀座の高級クラブにでも行って、若いホステスと美味い酒でも飲めただろう。もしくは、スッポン鍋でも食ってギンギンにしてから、高級ソープで極上の女を抱くことだってできたはずだ。最初から無くなるとわかっていたなら、女に使ったほうがよっぽどマシだった——。失った金でできたことをあれこれ思い起こしているうちに、怒りはさらに増大していく。
藤原はここで、いつもの習慣を試すことにした。気分がむしゃくしゃしたときに実践しているものだ。
まずは椅子に背を預けてリラックスした姿勢をとり、軽く目を閉じる。このまま寝てしまっても注意する者は誰もいない。目を閉じたまま、記憶のチャンネルを高校時代のあの日に合わせる。強烈に刻まれた記憶は、いまだ色褪せてはいない。頭の中だけ高校時代に戻った藤原は、しばらく過去の蛮行を追体験する。薄暗い部屋に漂う匂いまでもが思い出され、鼻の奥が生臭い臭気で充たされる。しだいに気分は高揚していき、股間がムズムズしはじめる。人目がなければ股間をまさぐっているところだ。
気づけば、苛立ちは嘘のように消えていた。硬くこわばっていた顔も、すっかりほぐれているのがわかる。記憶に強く刻み込まれた同級生の無様な姿は、三十年近く経った今でも、荒ぶった心を静めるのに役立ってくれた。あの男が被った不幸に比べれば、競馬で失った二十万など取るに足らぬと思えてくる——。
屈辱的な高校生活を強いられた腹いせに、友人たちの協力のもと、藤原は狡猾な罠を仕掛け、ある同級生を徹底的に追い込んだ。それはリスクの伴う危険な行為ではあったが、それに見合うだけのスリルと興奮を得ることができた。それに味をしめた友人たちはその遊びの継続を望んだが、藤原はリスクを考慮してそれは許さなかった。危険な橋を渡り続けるのは賢明ではないと判断したのだ。何事も引き際が肝心だと。
とはいえ、今にして思えば、もっと冒険してもよかったのかもしれない。選ぶ相手さえ間違えなければリスクは抑えられたはずだったし、とくに未成年というアドバンテージがあったから、たとえ警察沙汰になったとしても、将来を大きく棒に振ることはなかっただろう。しかし、たとえそうであったとしても後悔はなかった。なぜなら、二度、三度と続けたところで、あれ以上の獲物とあれを超える興奮は、決して得られなかったはずだからだ——。
過去を振り返ると必ず煙草が吸いたくなる。藤原は重い腰を上げると、店内奥の休憩室へ足を向けた。
* * *
「ん? 何だ?」
仕事を終えて会社近くの駐車場へ向かうと、マイカーの横に見知らぬワンボックスカーが停まっていた。来客用に会社が借り上げている駐車スペースに停められていたため当然訝しく感じたが、いちいち日が暮れたこんな時間から対応する気にもなれず、そのまま見過ごすことにした。多少イラつきながら、日産のエルグランドを背にしてマイカーのドアノブに手をかける。
すべり込んだ車内は、昼間の熱気がまだこもっていた。さらに、買い替えてまだ間もないため、新車特有のケミカルな匂いが少し立ち込めている。エンジンをかけると車内が振動して唸り、エアコンが作動して冷風が流れてくる。送風口から噴き出してくる冷気は、不快な汗で湿った肌に心地良かった。ライトを点けてサイドブレーキを下ろし、アクセルを軽く踏み込む。エンジンが再び軽く唸り、アスファルトをこする静かな音をタイヤの下から響かせながら、ハンドルを握るトヨタのセルシオはゆっくりと駐車場を離れていく。
細い路地をしばらく走行してから大通りに入る。ハンドルに右手を置き、片道二車線の国道を突き進んでいく。流れるラジオに耳を傾けながら物思いにふける。今は妻と別居中だったから、3LDKの自宅マンションに帰りを待つ者はなかった。それを寂しいと感じることはなかったが、人肌恋しくなってるのは事実だった。同僚の鈴木貴子でも誘おうか、などと考える。だが、関係が終わって久しいため、気軽に誘える感じではなかった。他の知人女性に連絡を取ろうかとも考えたが、いざというとき肝心なところが機能しなかったらと思うと、それが不安で連絡をためらってしまう。そうこうするうちに、国道沿いの自宅マンションが視界に入ってきた。ハンドルを切って左折し、地下の駐車場に下りながら、試しに一度、バイアグラでも使ってみるか、などと考える。
所定の位置に駐車してセルシオから降りると、陰気くさい空気を漂わせている地下の駐車場を歩いていく。乾いた足音が駐車場内に響き渡る。エレベーターに乗り込んで目的の階を目指しながら、一度薬に頼ったが最後、薬なしでは勃たなくなるのではないかという不安が頭をもたげ、どうしたものかと悩みながら五階でエレベーターを降りる。廊下を少し進み、「藤原」という表札のある503号室の前で立ち止まり、玄関の鍵を開けて中に入る。室内は湿気と暑さのせいで、少しだけもわっとしていた。壁際のスイッチを押して廊下の照明を点け、シューズボックスの上に置かれている陶器の受け皿にキーケースを放ってから靴を脱ぐ。靴下のまま短い廊下を進み、リビングに続くドアを開けて中の明かりを点けたときだ。複数の人影が、いきなり視界に飛び込んできた。
予期せぬ光景に、藤原は口から心臓が飛び出さんばかりに驚いた。すぐさま二人の男に両腕をつかまれ、残りの男が注射器のようなものを向けて迫ってきた。鋭い針の先端がリビングの照明を受けて危険な光を放つ。
突然のことに頭の中がまっ白になっている中、藤原はとっさに大きく首をひねり、針の切っ先をギリギリでかわす。そしてその勢いのまま、力任せに両腕を振り上げた。こちらの力を見くびっていたのだろう。拘束は、ものの見事に振りほどくことができた。そこで間髪開けずに、固めた拳を目の前の男に叩き込む。自分の右腕前腕部が芯から震え、男の鼻骨がひしゃげる確かな手応えを感じ取る。相手は一瞬白目をむき、リビングの天井を見上げるようにしてふっ飛んでゆく。瞬時に、室内の空気が緊張で張り詰めた。まわりがいくぶんスローモーションに感じられる中、藤原は床を強く蹴って両サイドの男たちから距離を取るように飛び下がる。見ると、男たちは棒立ちのまま動けないでいる。自分の優位性を全身で知覚しながら、藤原は腰を落として身構える。身体中の毛穴という毛穴が大きく開き、そこから発散されているであろう好戦的な汗のにおいが侵入者たちを威嚇する。彼らのあからさまな動揺がビシビシと伝わってくる。脳内ではアドレナリンが音を立てて噴き出し、残りの二人もぶちのめしてしまえと叫ぶ。まるで自分が獰猛な獣にでもなったかのようだ。もしくは人間核弾頭か。今なら誰が相手でも負ける気はしなかった。だがここで、倒れていた男が鼻から血を噴き出しながら起き上がろうとしていることに気づくと、とたんに理性が舞い戻ってくる。〝一対二〟から〝三〟になるという構図に自信が揺らぎはじめる。猛り狂っていた感情が嘘のようにしぼんでいく。
弱気な感情に心が侵食されていく中、彼らよりも自分のほうが玄関に近いという事実に思い至ると、藤原は踵を返して玄関めがけて駆け出した。
* * *
国道脇の歩道を、死に物狂いで駆け抜けていく。すれ違う通行人が訝しげな視線を向けてくるが気にしてはいられない。すでに三〇〇メートルか、四〇〇メートルは走っただろうか。息が切れはじめ、心臓は悲鳴を上げていた。
破裂しそうな胸を手で押さえながら、走るスピードを少し緩めて背後を振り返る。不審な者は見当たらない。念のため再度振り返って追ってくる者がないことを確認してから、藤原は右手に立ち並ぶ雑居ビルの間へと駆け込んだ。すぐさま室外機の背後に回り込んで身を隠す。すぐ目の前は汚れたビルの外壁で、隣では年季の入った室外機はブンブン唸っている。周囲は湿った土の匂いとカビ臭い匂いが立ちこめていたが、今は当然そんなことは気にならなかった。
数十年ぶりの全力疾走のせいで、心臓は激しく鼓動していた。肩で息をしながら、ビルの外壁に背中を預ける。こめかみの太い血管が痛いくらいにドクドクと脈打ち、湿気の高さも手伝って、額から汗が滝のように流れ出る。額の汗を手の甲で拭ったところで急に目まいに襲われ、土で固められた地面に倒れ込みそうになる。藤原は倒れまいとして、ビルの壁に背中を強く押しつけた。
「何だったんだ、今のは!?」
やがて目まいは収まったが、自分の身に起きたことが現実のものとは思えず、変な夢でも見ているのではないかと感じた。だが、右手の小指が腫れていることに気づくと、ぞっと悪寒が走って身震いした。侵入者の一人を殴った際に痛めたのだ。どうやら、夢ではなさそうだった——。
学生時代に柔道をしていたことが身を救ったのだろう。でなければ、あの場でとっさに身体は動かなかったはずだ。ここで、自分の拳がクリーンヒットした瞬間を思い出し、少しだけ気分が高揚した。だが、それは一瞬のことで、すぐに不安な気持ちに取って代わった。胃が強く締めつけられてギリギリと痛む。吐き気もこみ上げてくる。腫れた小指を見ながら思う。この程度で済んで良かったと。あのとき逃げ出せていなかったら、今ごろどうなっていたことか——。最悪の事態を想像して思わず震えが走る。
あの連中が何者なのかは想像もできなかったが、やばい連中であることは間違いなさそうだ。清掃員風の格好であの場にいた事実と、あの組織立った行動を考えれば、その道のプロに違いない。おぼろげだが、男たちは青っぽいゴム手袋をしていたように記憶している。指紋対策だろう。
ふと気づけば、下半身がギンギンに勃起していた。黒いスラックスの上からでも逞しく隆起しているのがわかるほどで、最近の勃起不全が嘘のようだ。人は生命の危機に晒されると、種を残そうとして急激に性欲が高まるという。それかもしれない。こうなっては理由はどうあれ、すぐにでも女を抱いて欲望を発散したかった。若くて色白で、細身でありながらも出るとこはしっかり出ているような極上の女に、たぎったモノをぶち込み、溜まったものをぶちまけたかった。だが今は、女を抱くことよりも先に警察に通報することが優先された。
額の汗を拭って、スラックスの中のスマホを握りしめる。これまで疎ましく感じていた警察という存在が、今は打って変わって頼もしく感じられた。
「まさか、警察に助けを求める日がくるとはな……」
藤原はスマホを取り出すと、指を震わせながら電話アプリを立ち上げた。
◈
ポチッと♡、お願いします(^ ^)v
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる