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第一部
予期せぬ提案 ①
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「あなた、朝食の準備ができましたよ」
姿見の前で着こなしをチェックしていたところで声がかかる。田島は鏡を見ながら、「すぐ行く」と妻に答えた。鏡に映るダークグレーのスーツは、オーダーメイドだけあって身体の線をきれいに見せてくれていた。
姿見から離れて腕時計を左手に巻くと、気持ちが自然と仕事モードへと切り替わっていく。身につけたのは、おもにビジネス用に愛用しているパテック・フィリップだ。シンプルなデザインだが、世界三大高級時計メーカーならではの気品に満ち、経営者仲間にも人気が高かった。
〝持ち物は人を変える〟と田島は信じていた。だからこそ、身につける物にこだわりを見せない者は信用できなかった。ある程度の年齢に達したならば、無理をしてでも年相応のものを身につけるべきだという信念から、安物のクォーツや数千円程度のビジネスシューズで満足しているような中年男たちを、田島は冷ややかな目で眺めていた。
簡単な朝食を済ませたあと、田島はスマートフォンと財布だけを持って玄関を出た。軽装がいつものスタイルだ。妻と二人で暮らす邸宅は、瀟洒な建物が立ち並ぶ閑静な住宅街にあった。広い中庭を進み、門扉を抜けて待たせてあったハイヤーに乗り込む。久しく前からドアの開閉サービスは断っていた。すぐに馴染みの運転手と挨拶をかわす。車内はいつもながら清涼な空気に充ちている。運転手の吉田がハンドルに手を置き、トヨタのクラウンが静かに走り出す。目的地までは二十分ほどだ。
「田島さん、今日は少し冷えますね」
「ええ、そうですね」
確かに、六月だというのに今朝はやや肌寒かった。ハイヤーは住宅街を抜けて、交通量の多い大通りに入っていく。すぐに小さな渋滞にはまり、蛇行運転となる。
スマホで日経新聞の記事をチェックしていたところで、ふと窓の外に目をやった。歩道を歩く男子学生の姿が視界に入り、背中がこわばるのがわかった。気づけば右手が鼻の傷跡に触れていた。ストレスを感じたときの癖だったが、それは三十年近く経った今でも直らなかった。
鼻の傷跡は右の鼻の穴から縦に伸びているもので一センチにも満たなかったが、鼻先にあることで割と目立ち、初対面の者には必ず注目を浴びた。
緊張が伝わったのか、バックミラー越しに運転席からの視線を感じた。吉田が無言で心配してくれている様子だ。吉田は五十を過ぎているが、ときたま気遣いの言葉をかけてくれる。そのたびに彼はこう言った。
「経営者ともなると心労が絶えないでしょう。その点、運転手稼業は気楽で面倒がなくていいですよ」
田島はスマホを仕舞って目を閉じた。そして今日もまた、時が解決してくれぬ心の傷があることを痛感するのだった。
◈
ポチッと♡、お願いします(^ ^)v
姿見の前で着こなしをチェックしていたところで声がかかる。田島は鏡を見ながら、「すぐ行く」と妻に答えた。鏡に映るダークグレーのスーツは、オーダーメイドだけあって身体の線をきれいに見せてくれていた。
姿見から離れて腕時計を左手に巻くと、気持ちが自然と仕事モードへと切り替わっていく。身につけたのは、おもにビジネス用に愛用しているパテック・フィリップだ。シンプルなデザインだが、世界三大高級時計メーカーならではの気品に満ち、経営者仲間にも人気が高かった。
〝持ち物は人を変える〟と田島は信じていた。だからこそ、身につける物にこだわりを見せない者は信用できなかった。ある程度の年齢に達したならば、無理をしてでも年相応のものを身につけるべきだという信念から、安物のクォーツや数千円程度のビジネスシューズで満足しているような中年男たちを、田島は冷ややかな目で眺めていた。
簡単な朝食を済ませたあと、田島はスマートフォンと財布だけを持って玄関を出た。軽装がいつものスタイルだ。妻と二人で暮らす邸宅は、瀟洒な建物が立ち並ぶ閑静な住宅街にあった。広い中庭を進み、門扉を抜けて待たせてあったハイヤーに乗り込む。久しく前からドアの開閉サービスは断っていた。すぐに馴染みの運転手と挨拶をかわす。車内はいつもながら清涼な空気に充ちている。運転手の吉田がハンドルに手を置き、トヨタのクラウンが静かに走り出す。目的地までは二十分ほどだ。
「田島さん、今日は少し冷えますね」
「ええ、そうですね」
確かに、六月だというのに今朝はやや肌寒かった。ハイヤーは住宅街を抜けて、交通量の多い大通りに入っていく。すぐに小さな渋滞にはまり、蛇行運転となる。
スマホで日経新聞の記事をチェックしていたところで、ふと窓の外に目をやった。歩道を歩く男子学生の姿が視界に入り、背中がこわばるのがわかった。気づけば右手が鼻の傷跡に触れていた。ストレスを感じたときの癖だったが、それは三十年近く経った今でも直らなかった。
鼻の傷跡は右の鼻の穴から縦に伸びているもので一センチにも満たなかったが、鼻先にあることで割と目立ち、初対面の者には必ず注目を浴びた。
緊張が伝わったのか、バックミラー越しに運転席からの視線を感じた。吉田が無言で心配してくれている様子だ。吉田は五十を過ぎているが、ときたま気遣いの言葉をかけてくれる。そのたびに彼はこう言った。
「経営者ともなると心労が絶えないでしょう。その点、運転手稼業は気楽で面倒がなくていいですよ」
田島はスマホを仕舞って目を閉じた。そして今日もまた、時が解決してくれぬ心の傷があることを痛感するのだった。
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