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第一部
予期せぬ提案 ③
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「田島君、仕事は順調かな?」
恩師が満面の笑みで口を開く。隣には二十代半ばほどのホステスが座り、身につけている青いドレスから胸の谷間を大きく覗かせていた。
「仕事のほうは変わりなくって感じですね」
「そうか。あとそうそう、美里君は元気にしとるのかな?」
「ええ、おかげさまで。また近いうちにぜひお越しください。家内もよろこびますから」
こんな会話で接待はスタートした。照明を抑えた店内は上質で落ち着いた空気が漂っていて、店の奥では赤いドレスを着た女性奏者が柔らかなピアノソナタを奏でている。
接待の相手は徳間総一郎という初老の男性で、田島がサラリーマン時代から世話になってきた人物だ。起業後も多大な援助を受けていたため、定期的な接待はその恩に報いるためのものだ。徳間は長らく会社経営にたずさわってきたが、数年前に経営からは身を引いており、今は名ばかりの会長職に就き、悠々自適の生活を送っている。久しく前に喫煙の習慣を断ち、酒の量を減らし、毎朝二時間のウォーキングを欠かさないなど、実に健康的な生活を送っているらしい。頭髪は年相応に薄くなっていたが、肌は若々しく艶があり、六十を超えた今でも活力の衰えはいささかも感じられなかった。
徳間は小柄で恰幅がよく、見るからに経営者然とした風体だったが、今夜は幅広のストライプが入ったグレーのスーツに、磨き込まれたコードバンのドレスシューズを合わせていた。スーツと革靴からでも高い経済力はうかがい知ることができたが、彼の手に巻かれている腕時計は別格だった。リシャール・ミルというブランドのもので、それ一本で都心にマンションが買えてしまう。彼は他にも、数百万円から数千万円の腕時計を何本も所有していた。徳間は笑っていつもこう言った。田島君、時計にはまると金がいくらあっても足りないよ、と。
年配者には珍しく、徳間は自分のことばかり語らず、人の話によく耳を傾けてくれた。人は年をとると自分が知ってることをとかく教えたがる傾向にあるが、徳間にはそれがなかった。求めてもいない余計なアドバイスをしてくることは決してなかった。説教じみたことはいっさい言わず、人の発言を否定することもない。発する言葉をすべて肯定してくれる人物といっしょにいるのは実に心地よかった。彼の人間性は、田島の理想とすべき姿だった。
美しいピアノソナタが流れる中、徳間は軽い冗談を言ってたびたびホステスたちを笑わせる。彼は流行にも敏感で、時事ネタを交えて面白おかしく語って見せる。恩師と楽しく語らう時間が流れるように過ぎていく。田島が時計を見ると、早いもので店に来て二時間が過ぎようとしていた。徳間といると、いつも時間が経つのが早く感じられる。アルコールもほどよく回り、気分はとても良かった。
そんな中、コニャックを飲み干した徳間が、突然真剣な眼差しを向けてきた。
「田島君、場所を移さないかね。君に話しておきたいことがあるんだ」
* * *
二人して麻布にある会員制のBARに場所を移した。通された深紅の個室は、照明がぐっと落とされていて、マイルス・デイヴィスの奏でるジャズが耳に心地よかった。互いに黒革のシングルソファに深く身をゆだね、アルコールの入ったグラスを傾ける。
「田島君、君との付き合いはどのくらいだったかな?」
「そうですね。かれこれ二十年近くお世話になっているかと」
元経営者は感慨深げにうなずく。
「もうそんなになるのか……。今思うと、出会ったころの君は若かったなぁ。肌も艶々していて、しわの一つもなかったんじゃないのかね」
田島が苦笑する中、徳間は真剣な表情で続けた。
「だがあれだ。こうして成功を手にしたというのに、ぼくには君が幸せそうには見えないのだよ。いや、下手に否定せんでいい。他の人間はだませても、このぼくはそうはいかんよ。ぼくくらいの年になるとね、目を見ればだいていのことがわかるんだよ」
話の予想外の展開に、田島は大いにとまどった。銀座のクラブで場所を変えることを提案されたときから重い話になりそうな気配はあったが、これは想像の範疇を超えていた。
真剣な表情を崩さぬまま、徳間はさらに続けた。
「最初は、子どもができないことからくる苦悩かとも思っていた」
田島は過去に、妻とともに不妊治療の検査を受けたことがあった。ところが、生殖機能は夫婦ともに何ら問題はなかった。しかし、不妊の原因は自分側にあったに違いないと田島は固く信じていた。あんなことをした自分に、子どもなど持つ資格はないという思いが、きっと影響したに違いないのだ。
「だが、しばらく君のことを見てきて、どうやら原因は違うところにあると思うようになった。起業当初の、君の鬼気迫る顔は忘れられんよ。ぼくは、これまで起業した人間を何人も見てきたが、普通の起業家は、事業を軌道に乗せ、会社の規模を拡大することを目標にしていくが、君だけは違った。何かを成し遂げるための手段として、経営者の道を選んだようにぼくには見えた。どうかな? ぼくの考えは見当違いだろうか」
田島は言葉に詰まった。平静を装うが、内心の動揺はかなり大きい。長きに渡って自分の内面を見透かされていたことを知り、羞恥心と薄ら寒い恐怖を感じた。
「田島君。君にあることを話す前に、どうしても確認しておきたいことがあるのだが」
確認という言葉に、警戒心から顔がこわばった。心の準備が整う前に、徳間の口から衝撃的な質問が放たれた。
「では聞くが、君には殺したいほど憎んでいる者がいるんじゃないのかね?」
「え……!?」
頭の中がまっ白になっていく。田島は危うく右手に持っていたグラスを落としそうになる。放たれた言葉は、思考を一瞬で停止させるほど強烈なものだった。重苦しい沈黙が続く。それが続けば続くほど、徳間の問いを肯定しているようなものだった。徳間が黙ったままグラスを口に傾ける。田島もそれにならう。だが、ことさら慎重に口に運んでいく。気を抜いたら最後、一気に飲み干してしまいそうだったからだ。
するとここで、徳間は打って変わって穏やかな表情を見せた。
「そう構えなさんな。ぼくは君の過去を、とやかく詮索するつもりはないんだから」
詮索しないという言葉にいくらか警戒心は解けたが、まだ安心はできなかった。いまだ相手の真意を計りかねたからだ。今はただ、黙って静かに次の言葉を待つだけだった。再びブランデーを口に運ぶが、緊張で味も香りもわからなかった。
再び沈黙が訪れる。その間、徳間はグラスの中の氷の動きを思案げに眺めていた。表情には迷いの色が浮かんでいるようにも見える。彼がどんな言葉を次に発するのか想像もつかなかったが、それなりの覚悟が必要なのかもしれない。
やがて、徳間がブランデーの入ったグラスを黒いテーブルに置いた。彼は顎に手をやり、やや身を乗り出してくる。目は真剣そのものだ。
「田島君。君がぼくのことを聖人君子だなんて思ってるとしたら、それは大きな間違いだよ。君よりも、ちょいとばかり物を知っているだけで、決して褒められるような人間じゃない。ぼくも人の子だ。それを忘れちゃいけないよ」
田島は緊張気味に、徳間の言葉に耳を傾け続けた。
「あのね、田島君。ぼくには昔、どうしても許せない男が一人いたんだ。詳細は語らずにおくが、もともとは信頼していた親しい友人だったんだ。その男にだまされてしまい、ぼくは若くして多額の借金を抱えてしまったんだ。自殺を考えたのも、後にも先にもあのときだけだった。もし、当時小学生だった娘がいなかったら、迷わず死を選んでいたことだろう。それくらい何もかもがひどい状況だったんだ。そのときの状況を思うと、今こうして君と酒を酌み交わしているのが不思議に思えるほどだよ。だがまあ、その後は妻の献身的な支えと運も味方してくれたおかげで、どうにか経済的には立ち直ることはできたんだけど、しばらく家族以外の人間は誰も信じられなくなってしまった。そりゃそうだよね。まさかという人物に裏切られたんだから。それに経済的な状況が改善したからといって、ぼくをだました男への怒りが消えることはなかった。むしろ金の心配が消えたことで、かえってその男へ意識が向いてしまい、不快な気持ちで過ごす時間が多くなってしまった。寝ても覚めても四六時中その男の顔が頭にチラつくんだ。ぼくにとって、それはまさに生き地獄だったね。怒りのせいで睡眠も妨げられるものだから、睡眠薬なしでは眠ることもできなかった。当時を思い出すと、いまだに気分が悪くなるんだ。そんな苦悩する日々は何年も続いた……」
ここで、徳間の顔に不気味な笑みが浮かんだ。その顔を見た瞬間、田島の背筋に寒気が走った。許せない男がいると言っておいてから浮かんだ笑みに、薄ら寒いものを感じてしまう。いったいこれは、どういうことなのか。話の先行きが読めず田島は不安になる。
徳間は不気味な笑みを浮かべたまま続けた。
「だがね、田島君。ぼくは非常に運が良かった。その怒りを解消する方法を見つけることができたんだからね。今からそれを、君に伝えようと思ってるんだ」
田島は頭が混乱してきた。この人は自分に何を伝えようとしているのか。怒りを解消する方法? まさか、何か怪しげな宗教にでも勧誘するつもりでは——。過去の経験から、田島は神の存在を全否定していた。結婚後に一度だけ聖書に救いを求めた時期もあったが、結局は気休めにしかならなかった。しかし、宗教の勧誘程度でこんな重い話をするだろうかと訝ってもしまう。
すでに徳間の顔から妖しい笑みは消えていた。彼は真剣な眼差しで続けた。
「田島君。これから君に話すことは、とても特殊なものだから、われわれの良好な関係に水を差しかねないとも危惧している。だからあえて、この話はこれまで語らずにおいてきたのだ。ぼくは君のことを昔から気にかけてきたし、これからもこうして酒を酌み交わしたいと思っている。だからこそ、余計な真似をして君との関係が壊れることをおそれているのだよ」
徳間がこれから語ろうとしていることは宗教の勧誘などではなさそうだ。彼のような人物が、宗教の勧誘程度でここまで言い淀むことはあるまい。続きを聞くのがこわかった。知れば後戻りできなくなる。直感がそう告げていた。
やがて、徳間はこれまで以上の真剣さをもって見据えてきた。表情は心なしか、苦悩に歪んでいるようにも見える。ついに、話の核心へと迫ろうとしていた。
「田島君。この話を聞いてぼくを軽蔑してくれてもいい。だがね、これから君に話すことはすべて事実だからね——」
* * *
話を聞き終え、田島は自分の顔から完全に血の気が引いているのがわかった。気づけば、右手は鼻の古傷に触れていた。
沈黙の時間が続く。たっぷり五分は過ぎただろうか。田島はようやく口を開くことができた。
「徳間さん。私はあなたの人柄を存じてますから、当然真実を語られたのだろうと思います……。ですが、今聞かされた話があまりにも突飛すぎて、どう答えていいのか……」
徳間は大きくうなずきながら答えた。
「うんうん、君の気持ちはよーくわかるよ。なぜならこのぼくも、その話を聞いたときは君と同じようにとまどったことを覚えてるからね」
徳間はブランデーを軽く口に含んでから続けた。
「今話したサービスを受けるためには、十二分な資産を有し、かつ彼らが優良顧客と認めるVIPクラスからの紹介が必要なんだ。ちなみにぼくはVIPクラスだから、君はこの二つの条件をクリアーしている。だからもし、君がそのサービスを利用する気があるなら、ぼくは喜んで紹介するつもりだよ。だがもしも興味がないようなら、ここでの話はきれいさっぱり忘れてもらいたい。それと最後に一つ——」
ここで、徳間の目が鋭く光った。
「ぼくから聞いた話を警察に話してくれてもかまわない。それを止める権利はぼくにはないからね。むしろ、常識人ならそうするのが賢明かも知れない。だがね、これだけは頭に入れておいてもらいたい。彼らはプロ中のプロだ。たとえ警察が動いたとしても、犯罪の証拠を見つけ出すのはむずかしいだろう」
田島はうつむき、しばし考え込んだ。そもそも警察に行くという発想自体、念頭にはなかった。徳間の行為は法に背くものではあったが、そこに確かな正当性が感じられたからだ。
「田島君、だいじょうぶかね?」
「え、ええ、すみません……。あまりにも突然だったので、何て答えていいものか……。あの、少し、考える時間をもらえませんか」
「もちろんだとも」
徳間は大きくうなずくと、田島の肩に手を置いてきた。大きな手のぬくもりが、動揺していた気持ちをいくらかやわらげてくれた。
「すぐに返事をする必要なんてない。君が納得するまでとことん考えてくれればいい。この場で簡単に下せる決断ではないことは、ぼくも充分わかっているつもりだからね。だけど、最後にこれだけは言わせてもらいたい」
徳間の目が妖しく光り、田島は身構えた。
「田島君、心底憎む者の苦しむ姿を見るほど、人を満足させるものはないよ——」
◈
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恩師が満面の笑みで口を開く。隣には二十代半ばほどのホステスが座り、身につけている青いドレスから胸の谷間を大きく覗かせていた。
「仕事のほうは変わりなくって感じですね」
「そうか。あとそうそう、美里君は元気にしとるのかな?」
「ええ、おかげさまで。また近いうちにぜひお越しください。家内もよろこびますから」
こんな会話で接待はスタートした。照明を抑えた店内は上質で落ち着いた空気が漂っていて、店の奥では赤いドレスを着た女性奏者が柔らかなピアノソナタを奏でている。
接待の相手は徳間総一郎という初老の男性で、田島がサラリーマン時代から世話になってきた人物だ。起業後も多大な援助を受けていたため、定期的な接待はその恩に報いるためのものだ。徳間は長らく会社経営にたずさわってきたが、数年前に経営からは身を引いており、今は名ばかりの会長職に就き、悠々自適の生活を送っている。久しく前に喫煙の習慣を断ち、酒の量を減らし、毎朝二時間のウォーキングを欠かさないなど、実に健康的な生活を送っているらしい。頭髪は年相応に薄くなっていたが、肌は若々しく艶があり、六十を超えた今でも活力の衰えはいささかも感じられなかった。
徳間は小柄で恰幅がよく、見るからに経営者然とした風体だったが、今夜は幅広のストライプが入ったグレーのスーツに、磨き込まれたコードバンのドレスシューズを合わせていた。スーツと革靴からでも高い経済力はうかがい知ることができたが、彼の手に巻かれている腕時計は別格だった。リシャール・ミルというブランドのもので、それ一本で都心にマンションが買えてしまう。彼は他にも、数百万円から数千万円の腕時計を何本も所有していた。徳間は笑っていつもこう言った。田島君、時計にはまると金がいくらあっても足りないよ、と。
年配者には珍しく、徳間は自分のことばかり語らず、人の話によく耳を傾けてくれた。人は年をとると自分が知ってることをとかく教えたがる傾向にあるが、徳間にはそれがなかった。求めてもいない余計なアドバイスをしてくることは決してなかった。説教じみたことはいっさい言わず、人の発言を否定することもない。発する言葉をすべて肯定してくれる人物といっしょにいるのは実に心地よかった。彼の人間性は、田島の理想とすべき姿だった。
美しいピアノソナタが流れる中、徳間は軽い冗談を言ってたびたびホステスたちを笑わせる。彼は流行にも敏感で、時事ネタを交えて面白おかしく語って見せる。恩師と楽しく語らう時間が流れるように過ぎていく。田島が時計を見ると、早いもので店に来て二時間が過ぎようとしていた。徳間といると、いつも時間が経つのが早く感じられる。アルコールもほどよく回り、気分はとても良かった。
そんな中、コニャックを飲み干した徳間が、突然真剣な眼差しを向けてきた。
「田島君、場所を移さないかね。君に話しておきたいことがあるんだ」
* * *
二人して麻布にある会員制のBARに場所を移した。通された深紅の個室は、照明がぐっと落とされていて、マイルス・デイヴィスの奏でるジャズが耳に心地よかった。互いに黒革のシングルソファに深く身をゆだね、アルコールの入ったグラスを傾ける。
「田島君、君との付き合いはどのくらいだったかな?」
「そうですね。かれこれ二十年近くお世話になっているかと」
元経営者は感慨深げにうなずく。
「もうそんなになるのか……。今思うと、出会ったころの君は若かったなぁ。肌も艶々していて、しわの一つもなかったんじゃないのかね」
田島が苦笑する中、徳間は真剣な表情で続けた。
「だがあれだ。こうして成功を手にしたというのに、ぼくには君が幸せそうには見えないのだよ。いや、下手に否定せんでいい。他の人間はだませても、このぼくはそうはいかんよ。ぼくくらいの年になるとね、目を見ればだいていのことがわかるんだよ」
話の予想外の展開に、田島は大いにとまどった。銀座のクラブで場所を変えることを提案されたときから重い話になりそうな気配はあったが、これは想像の範疇を超えていた。
真剣な表情を崩さぬまま、徳間はさらに続けた。
「最初は、子どもができないことからくる苦悩かとも思っていた」
田島は過去に、妻とともに不妊治療の検査を受けたことがあった。ところが、生殖機能は夫婦ともに何ら問題はなかった。しかし、不妊の原因は自分側にあったに違いないと田島は固く信じていた。あんなことをした自分に、子どもなど持つ資格はないという思いが、きっと影響したに違いないのだ。
「だが、しばらく君のことを見てきて、どうやら原因は違うところにあると思うようになった。起業当初の、君の鬼気迫る顔は忘れられんよ。ぼくは、これまで起業した人間を何人も見てきたが、普通の起業家は、事業を軌道に乗せ、会社の規模を拡大することを目標にしていくが、君だけは違った。何かを成し遂げるための手段として、経営者の道を選んだようにぼくには見えた。どうかな? ぼくの考えは見当違いだろうか」
田島は言葉に詰まった。平静を装うが、内心の動揺はかなり大きい。長きに渡って自分の内面を見透かされていたことを知り、羞恥心と薄ら寒い恐怖を感じた。
「田島君。君にあることを話す前に、どうしても確認しておきたいことがあるのだが」
確認という言葉に、警戒心から顔がこわばった。心の準備が整う前に、徳間の口から衝撃的な質問が放たれた。
「では聞くが、君には殺したいほど憎んでいる者がいるんじゃないのかね?」
「え……!?」
頭の中がまっ白になっていく。田島は危うく右手に持っていたグラスを落としそうになる。放たれた言葉は、思考を一瞬で停止させるほど強烈なものだった。重苦しい沈黙が続く。それが続けば続くほど、徳間の問いを肯定しているようなものだった。徳間が黙ったままグラスを口に傾ける。田島もそれにならう。だが、ことさら慎重に口に運んでいく。気を抜いたら最後、一気に飲み干してしまいそうだったからだ。
するとここで、徳間は打って変わって穏やかな表情を見せた。
「そう構えなさんな。ぼくは君の過去を、とやかく詮索するつもりはないんだから」
詮索しないという言葉にいくらか警戒心は解けたが、まだ安心はできなかった。いまだ相手の真意を計りかねたからだ。今はただ、黙って静かに次の言葉を待つだけだった。再びブランデーを口に運ぶが、緊張で味も香りもわからなかった。
再び沈黙が訪れる。その間、徳間はグラスの中の氷の動きを思案げに眺めていた。表情には迷いの色が浮かんでいるようにも見える。彼がどんな言葉を次に発するのか想像もつかなかったが、それなりの覚悟が必要なのかもしれない。
やがて、徳間がブランデーの入ったグラスを黒いテーブルに置いた。彼は顎に手をやり、やや身を乗り出してくる。目は真剣そのものだ。
「田島君。君がぼくのことを聖人君子だなんて思ってるとしたら、それは大きな間違いだよ。君よりも、ちょいとばかり物を知っているだけで、決して褒められるような人間じゃない。ぼくも人の子だ。それを忘れちゃいけないよ」
田島は緊張気味に、徳間の言葉に耳を傾け続けた。
「あのね、田島君。ぼくには昔、どうしても許せない男が一人いたんだ。詳細は語らずにおくが、もともとは信頼していた親しい友人だったんだ。その男にだまされてしまい、ぼくは若くして多額の借金を抱えてしまったんだ。自殺を考えたのも、後にも先にもあのときだけだった。もし、当時小学生だった娘がいなかったら、迷わず死を選んでいたことだろう。それくらい何もかもがひどい状況だったんだ。そのときの状況を思うと、今こうして君と酒を酌み交わしているのが不思議に思えるほどだよ。だがまあ、その後は妻の献身的な支えと運も味方してくれたおかげで、どうにか経済的には立ち直ることはできたんだけど、しばらく家族以外の人間は誰も信じられなくなってしまった。そりゃそうだよね。まさかという人物に裏切られたんだから。それに経済的な状況が改善したからといって、ぼくをだました男への怒りが消えることはなかった。むしろ金の心配が消えたことで、かえってその男へ意識が向いてしまい、不快な気持ちで過ごす時間が多くなってしまった。寝ても覚めても四六時中その男の顔が頭にチラつくんだ。ぼくにとって、それはまさに生き地獄だったね。怒りのせいで睡眠も妨げられるものだから、睡眠薬なしでは眠ることもできなかった。当時を思い出すと、いまだに気分が悪くなるんだ。そんな苦悩する日々は何年も続いた……」
ここで、徳間の顔に不気味な笑みが浮かんだ。その顔を見た瞬間、田島の背筋に寒気が走った。許せない男がいると言っておいてから浮かんだ笑みに、薄ら寒いものを感じてしまう。いったいこれは、どういうことなのか。話の先行きが読めず田島は不安になる。
徳間は不気味な笑みを浮かべたまま続けた。
「だがね、田島君。ぼくは非常に運が良かった。その怒りを解消する方法を見つけることができたんだからね。今からそれを、君に伝えようと思ってるんだ」
田島は頭が混乱してきた。この人は自分に何を伝えようとしているのか。怒りを解消する方法? まさか、何か怪しげな宗教にでも勧誘するつもりでは——。過去の経験から、田島は神の存在を全否定していた。結婚後に一度だけ聖書に救いを求めた時期もあったが、結局は気休めにしかならなかった。しかし、宗教の勧誘程度でこんな重い話をするだろうかと訝ってもしまう。
すでに徳間の顔から妖しい笑みは消えていた。彼は真剣な眼差しで続けた。
「田島君。これから君に話すことは、とても特殊なものだから、われわれの良好な関係に水を差しかねないとも危惧している。だからあえて、この話はこれまで語らずにおいてきたのだ。ぼくは君のことを昔から気にかけてきたし、これからもこうして酒を酌み交わしたいと思っている。だからこそ、余計な真似をして君との関係が壊れることをおそれているのだよ」
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やがて、徳間はこれまで以上の真剣さをもって見据えてきた。表情は心なしか、苦悩に歪んでいるようにも見える。ついに、話の核心へと迫ろうとしていた。
「田島君。この話を聞いてぼくを軽蔑してくれてもいい。だがね、これから君に話すことはすべて事実だからね——」
* * *
話を聞き終え、田島は自分の顔から完全に血の気が引いているのがわかった。気づけば、右手は鼻の古傷に触れていた。
沈黙の時間が続く。たっぷり五分は過ぎただろうか。田島はようやく口を開くことができた。
「徳間さん。私はあなたの人柄を存じてますから、当然真実を語られたのだろうと思います……。ですが、今聞かされた話があまりにも突飛すぎて、どう答えていいのか……」
徳間は大きくうなずきながら答えた。
「うんうん、君の気持ちはよーくわかるよ。なぜならこのぼくも、その話を聞いたときは君と同じようにとまどったことを覚えてるからね」
徳間はブランデーを軽く口に含んでから続けた。
「今話したサービスを受けるためには、十二分な資産を有し、かつ彼らが優良顧客と認めるVIPクラスからの紹介が必要なんだ。ちなみにぼくはVIPクラスだから、君はこの二つの条件をクリアーしている。だからもし、君がそのサービスを利用する気があるなら、ぼくは喜んで紹介するつもりだよ。だがもしも興味がないようなら、ここでの話はきれいさっぱり忘れてもらいたい。それと最後に一つ——」
ここで、徳間の目が鋭く光った。
「ぼくから聞いた話を警察に話してくれてもかまわない。それを止める権利はぼくにはないからね。むしろ、常識人ならそうするのが賢明かも知れない。だがね、これだけは頭に入れておいてもらいたい。彼らはプロ中のプロだ。たとえ警察が動いたとしても、犯罪の証拠を見つけ出すのはむずかしいだろう」
田島はうつむき、しばし考え込んだ。そもそも警察に行くという発想自体、念頭にはなかった。徳間の行為は法に背くものではあったが、そこに確かな正当性が感じられたからだ。
「田島君、だいじょうぶかね?」
「え、ええ、すみません……。あまりにも突然だったので、何て答えていいものか……。あの、少し、考える時間をもらえませんか」
「もちろんだとも」
徳間は大きくうなずくと、田島の肩に手を置いてきた。大きな手のぬくもりが、動揺していた気持ちをいくらかやわらげてくれた。
「すぐに返事をする必要なんてない。君が納得するまでとことん考えてくれればいい。この場で簡単に下せる決断ではないことは、ぼくも充分わかっているつもりだからね。だけど、最後にこれだけは言わせてもらいたい」
徳間の目が妖しく光り、田島は身構えた。
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