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第三章 悪魔的策略
ひらめき ②
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午後六時を少し過ぎたころ、佐藤はコーヒーショップをあとにした。
三十分後に会社に着くと、佐藤はノートパソコンを開き、事務処理をダラダラと続けた。気づけば八時を回っていた。週の始めということもあり、今日は遅くまで残業する気にはなれなかった。
「早く帰るんだな」
帰り際、社長にそう声をかけられた。終業時間はとっくに過ぎているというのに、ずいぶんな言い草だ。佐藤は卑屈な愛想笑いを浮かべてオフィスをあとにした。
「ったく、イラつくな!」
ビルの外に出たとたん、憤りを声にして吐き出した。月曜日だったが、今は飲まずにはいられなかった。とっくに夕食時を過ぎていたが、昼に食べた280グラムのステーキが胃の中にまだ残っていて空腹は感じなかった。今は固形物よりも、アルコールを強く欲した。
会社から遠ざかるため、タクシーで渋谷へ向かった。十分ほどで渋谷に着くと、渋谷警察署の近くで降り、いきつけのワインバーを目指す。最近はストレスから酒量が増えていたが、今後ますます増えていきそうな勢いだった。それでも、不快な気分をてっとり早く解消するには酒がいちばんだった。
国道沿いの歩道を歩いていると、スタンド型の看板が目に留まった。いつもは素通りしていたが、どうやら年季の入った雑居ビルにカフェバーが入っているらしい。佐藤はどことなく惹かれ、ふらっとビルの中へ足を踏み入れた。
乗り込んだエレベーターはとても狭く、カビ臭さが鼻をついた。また上昇中、不気味な軋み音が絶えず響いていた。目的の階で降りると、エレベーターを出たすぐ左手がエントランスになっていた。佐藤を迎え入れるべく、人感センサーに反応したガラス製の自動ドアが左から右へと開いた。
店内はこじんまりとしていて薄暗く、横に長い作りだ。カウンターとテーブル席を合わせて三十席ほど。客はまばらで、立地的にも常連しか来ないような雰囲気だ。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、白シャツの店員が声をかけてきた。すらっとした長身の男で、端正な顔に薄い無精ヒゲを生やしている。
「ここ、煙草吸える?」
「ええ、電子タバコなら」
佐藤はカウンター席に腰を下ろし、電子タバコを取り出した。注文を促され、ウォッカトニックを頼む。
カウンター席には先客がいた。ベージュのスーツを着た二十代後半くらいの女で、会社帰りのOLといった雰囲気だ。少し目が吊り上がっていて、きつめの印象を受ける。女性客はちらりと佐藤に顔を向けてきたが、すぐに関心がなさそうに視線を外してドリンクに口をつけた。
カウンターの奥は厨房になっていた。キッチン担当らしき若い男女が談笑している。客が少ないからヒマなのだろう。二人とも私服のようなラフな格好だ。
佐藤の左側に座る女性客は、白シャツの店員に熱心に話しかけていた。
「タクミさん、わたし、次の舞台も絶対に見にいくからね」
「ありがとう。よかったら友だちも誘ってよ」
この会話から、店員の男が演劇か何かに携わっていることがうかがわれた。女性客は彼のファンなのかも知れない。男はルックスがいいので、裏方ではなく演者だろうと佐藤は推測した。
注文したウォッカトニックがカウンターに置かれ、佐藤はさっそくグラスを口に運んだ。
アルコールが喉を通る感覚を味わいながら今日の疲れを癒していくが、距離が近いため、女性客と店員の会話が自然と耳に入ってくる。二人のやりとりから、白シャツの店員はやはり役者をやっているようで、かなり本格的に活動しているらしいことがわかった。女性客はうっとりとした表情で彼との会話を楽しんでいた。
一時間ほどして女性客が帰ると、カウンターに残った客は佐藤だけになった。空いたグラスを見て白シャツの店員が声をかけてきた。
「おかわり、どうです?」
「ああ、頼む」
「また同じもので?」
「ああ」
男は手際よく新しいドリンクを作り始めた。
「この店、初めてですよね?」
出来上がったドリンクをカウンターに置きながら男が声をかけてきた。
「ああ、たまたま通りがかったんだ。いい店だな」
「どうも。オーナーのセンスがいいんですよ」
男は謙遜するように笑って答えた。
「さっき話が聞こえてきたんだが、あんた、役者やってんの?」
「ええ、まあ、売れない役者ですけど」
男は頭をかきながら、自嘲気味に口元を緩めた。
「次の舞台が近いんだって?」
「あはは、丸聞こえだったんですね。まあ、この距離なら当然か」
苦笑を浮かべる男に、佐藤はさらに質問を続けた。
「もしかして、主演なの?」
「ええ、まあ一応」
「あんた、顔がいいから、ファンとかいそうだな」
「そんなことないですよ」
男は苦笑しながら照れくさそうに頭をかいた。
「さっきの客なんて、あんたのファンなんじゃないのか?」
「どうなんですかね。何度か見に来てくれてはいますけど」
ここでふと、佐藤の脳裏に〝新庄麗子〟の顔が浮かんだ。そして次の瞬間、天啓のようなひらめきが頭をよぎった。
「……そうか。あの女はまた、きっと別の男でも試すはず」
「え、何か言いました?」
「いや、何でもない」
白シャツの男は怪訝そうに小首を傾げたが、それ以上は追求してこなかった。
佐藤は新庄麗子と遭遇した場面を思い起こす。彼女は満面の笑みで高級ブランドショップから出てきて、移動は運転手付きのリムジンだ。佐藤は怒りで身体が震えた。特殊メイクか何かで火傷を装い、あざ笑うかのように自分を試してきた彼女に殺意すら覚えた。思わず、どんとカウンターを強く叩いてしまう。
「……くそっ。だまされっぱなしじゃな」
白シャツの男が視線を向けてきたが、今度は何も言わなかった。
佐藤は電子タバコの煙を吐き出すと、グラスを拭く男に目を向けた。
「役者のほうは、長いことやってんの?」
「ええ、そうですね。学生時代からだから、もう十年以上になります」
「なら、演技には、それなりに自信があるんだろうな」
「いえ、そんなこと……。ぼくなんて、まだまだですよ」
そう謙遜する男を、佐藤はじっと見つめた。万人受けするような甘いルックス。そこに演技力が加われば——。
「おれもあんたの舞台、今度見に行ってみようかな」
佐藤がそう言うと、男の顔がぱっと輝いた。
「本当ですか? ぜひ来てくださいよ!」
「じゃあ、連絡先、教えてもらえるか?」
◈
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三十分後に会社に着くと、佐藤はノートパソコンを開き、事務処理をダラダラと続けた。気づけば八時を回っていた。週の始めということもあり、今日は遅くまで残業する気にはなれなかった。
「早く帰るんだな」
帰り際、社長にそう声をかけられた。終業時間はとっくに過ぎているというのに、ずいぶんな言い草だ。佐藤は卑屈な愛想笑いを浮かべてオフィスをあとにした。
「ったく、イラつくな!」
ビルの外に出たとたん、憤りを声にして吐き出した。月曜日だったが、今は飲まずにはいられなかった。とっくに夕食時を過ぎていたが、昼に食べた280グラムのステーキが胃の中にまだ残っていて空腹は感じなかった。今は固形物よりも、アルコールを強く欲した。
会社から遠ざかるため、タクシーで渋谷へ向かった。十分ほどで渋谷に着くと、渋谷警察署の近くで降り、いきつけのワインバーを目指す。最近はストレスから酒量が増えていたが、今後ますます増えていきそうな勢いだった。それでも、不快な気分をてっとり早く解消するには酒がいちばんだった。
国道沿いの歩道を歩いていると、スタンド型の看板が目に留まった。いつもは素通りしていたが、どうやら年季の入った雑居ビルにカフェバーが入っているらしい。佐藤はどことなく惹かれ、ふらっとビルの中へ足を踏み入れた。
乗り込んだエレベーターはとても狭く、カビ臭さが鼻をついた。また上昇中、不気味な軋み音が絶えず響いていた。目的の階で降りると、エレベーターを出たすぐ左手がエントランスになっていた。佐藤を迎え入れるべく、人感センサーに反応したガラス製の自動ドアが左から右へと開いた。
店内はこじんまりとしていて薄暗く、横に長い作りだ。カウンターとテーブル席を合わせて三十席ほど。客はまばらで、立地的にも常連しか来ないような雰囲気だ。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、白シャツの店員が声をかけてきた。すらっとした長身の男で、端正な顔に薄い無精ヒゲを生やしている。
「ここ、煙草吸える?」
「ええ、電子タバコなら」
佐藤はカウンター席に腰を下ろし、電子タバコを取り出した。注文を促され、ウォッカトニックを頼む。
カウンター席には先客がいた。ベージュのスーツを着た二十代後半くらいの女で、会社帰りのOLといった雰囲気だ。少し目が吊り上がっていて、きつめの印象を受ける。女性客はちらりと佐藤に顔を向けてきたが、すぐに関心がなさそうに視線を外してドリンクに口をつけた。
カウンターの奥は厨房になっていた。キッチン担当らしき若い男女が談笑している。客が少ないからヒマなのだろう。二人とも私服のようなラフな格好だ。
佐藤の左側に座る女性客は、白シャツの店員に熱心に話しかけていた。
「タクミさん、わたし、次の舞台も絶対に見にいくからね」
「ありがとう。よかったら友だちも誘ってよ」
この会話から、店員の男が演劇か何かに携わっていることがうかがわれた。女性客は彼のファンなのかも知れない。男はルックスがいいので、裏方ではなく演者だろうと佐藤は推測した。
注文したウォッカトニックがカウンターに置かれ、佐藤はさっそくグラスを口に運んだ。
アルコールが喉を通る感覚を味わいながら今日の疲れを癒していくが、距離が近いため、女性客と店員の会話が自然と耳に入ってくる。二人のやりとりから、白シャツの店員はやはり役者をやっているようで、かなり本格的に活動しているらしいことがわかった。女性客はうっとりとした表情で彼との会話を楽しんでいた。
一時間ほどして女性客が帰ると、カウンターに残った客は佐藤だけになった。空いたグラスを見て白シャツの店員が声をかけてきた。
「おかわり、どうです?」
「ああ、頼む」
「また同じもので?」
「ああ」
男は手際よく新しいドリンクを作り始めた。
「この店、初めてですよね?」
出来上がったドリンクをカウンターに置きながら男が声をかけてきた。
「ああ、たまたま通りがかったんだ。いい店だな」
「どうも。オーナーのセンスがいいんですよ」
男は謙遜するように笑って答えた。
「さっき話が聞こえてきたんだが、あんた、役者やってんの?」
「ええ、まあ、売れない役者ですけど」
男は頭をかきながら、自嘲気味に口元を緩めた。
「次の舞台が近いんだって?」
「あはは、丸聞こえだったんですね。まあ、この距離なら当然か」
苦笑を浮かべる男に、佐藤はさらに質問を続けた。
「もしかして、主演なの?」
「ええ、まあ一応」
「あんた、顔がいいから、ファンとかいそうだな」
「そんなことないですよ」
男は苦笑しながら照れくさそうに頭をかいた。
「さっきの客なんて、あんたのファンなんじゃないのか?」
「どうなんですかね。何度か見に来てくれてはいますけど」
ここでふと、佐藤の脳裏に〝新庄麗子〟の顔が浮かんだ。そして次の瞬間、天啓のようなひらめきが頭をよぎった。
「……そうか。あの女はまた、きっと別の男でも試すはず」
「え、何か言いました?」
「いや、何でもない」
白シャツの男は怪訝そうに小首を傾げたが、それ以上は追求してこなかった。
佐藤は新庄麗子と遭遇した場面を思い起こす。彼女は満面の笑みで高級ブランドショップから出てきて、移動は運転手付きのリムジンだ。佐藤は怒りで身体が震えた。特殊メイクか何かで火傷を装い、あざ笑うかのように自分を試してきた彼女に殺意すら覚えた。思わず、どんとカウンターを強く叩いてしまう。
「……くそっ。だまされっぱなしじゃな」
白シャツの男が視線を向けてきたが、今度は何も言わなかった。
佐藤は電子タバコの煙を吐き出すと、グラスを拭く男に目を向けた。
「役者のほうは、長いことやってんの?」
「ええ、そうですね。学生時代からだから、もう十年以上になります」
「なら、演技には、それなりに自信があるんだろうな」
「いえ、そんなこと……。ぼくなんて、まだまだですよ」
そう謙遜する男を、佐藤はじっと見つめた。万人受けするような甘いルックス。そこに演技力が加われば——。
「おれもあんたの舞台、今度見に行ってみようかな」
佐藤がそう言うと、男の顔がぱっと輝いた。
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