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第十八話 『赫の再生、怒りの覚醒』
しおりを挟む血の匂いが、霧に満ちていた。
ミレイアは呆然と、地面に崩れ落ちていた。
その目の前に、クロが倒れている。
頭部は砕け、返り血が土にじわじわと染み込んでいた。
「……あ……ぁ……」
言葉にならない声が、喉から漏れる。
目が熱く、涙が止まらない。
胸の奥が、息をするたびに引き裂かれるように痛かった。
「いや……いや、嘘、嘘でしょ……そんなの……」
動かない。
返事もない。
その姿は、まるで命を抜かれた抜け殻のように見えた。
ミレイアは、膝をついたまま、クロの体に縋りついた。
冷たくなりつつあるその肌に手を触れると、細い指が震える。
「クロ様……クロ様……お願いです……起きてください……」
呼びかけても、何も返ってこなかった。
耳に届くのは、風に運ばれる霧のざわめきだけ。
その霧の向こうから、音が響いた。
「……フフ……ッ」
不気味に乾いた音。
霧が波のように揺れ、その中で“それ”がこちらを見ていた。
仮面のような無表情な顔面。
のっぺりとした霧の仮面には目も口もなく、ただ黒い筋が魔力に合わせてうごめいている。
靄獣は、ぐにゃりと体を仰け反らせ、
“ガバッ”と霧の顔を割って口を開いた。
音が爆ぜるように響いた。
「ギィエアアアアアッ!!」
笑いだった。
勝ち誇った、嗤い。
この世の何よりも愉快そうに響く、異形の笑声。
ミレイアは耳を塞ぎながら、クロの体にすがる。
「黙れ……! 黙ってよ……!」
細い体を震わせながら、彼女はそれでも立ち上がろうとした。
手に残るクロの重さは、想像以上だった。
それでも、ミレイアは歯を食いしばる。
「……こんなところで……誰が置いていくもんですか……!」
全身の力を振り絞って、クロの身体を引きずる。
泣きながら、呼吸を乱しながら、それでも一歩、また一歩。
「まだ……まだ、生きてるんです……クロ様は……!」
——その瞬間、霧が唸った。
靄獣の尾が、無音でしなりながら襲いかかる。
まるで鉄鞭のように変化したその霧の一撃が、一直線にミレイアを撃ち抜いた。
「っ——!」
音はなかった。
ただ、ミレイアの体がふわりと宙に舞い、そのまま背後の木に叩きつけられた。
ボゴン、と肉の潰れる音がして、
彼女の体はずるりと地に滑り落ちた。
呼吸も、鼓動も、もうなかった。
靄獣は、その様子をしばし眺めると、
ふたたび、霧の仮面を割るようにして“口”を開けた。
「ギエエアアアアアアア!!」
笑う。狂ったように、笑い続ける。
すべてを壊し、勝利を得た“支配者”の嘲笑だった。
——だが、そこに、空気の変化が訪れた。
風が止まり、霧が凍りつくように動きを止める。
森全体が、息をひそめたかのようだった。
地に伏したままのクロの身体。
その胸が、わずかに膨らんだ。
血に濡れた地面から、骨のきしむ音が響く。
潰れていた頭部が、わずかに隆起する。
肉が再生し、筋が走り、目が、形成される。
皮膚が張り、血管が浮かび、そこに宿る“何か”が立ち上がる。
クロが、ゆっくりと立ち上がった。
左半分の頬はまだ完全に塞がっていなかった。
だが、片目だけはすでに開いていた。
その目が、靄獣を捉える。
「……何が、そんなに可笑しいんだよ」
その声音は、怒鳴り声でも、呪いでもなかった。
ただ、静かだった。
しかしその静けさこそが、恐怖を孕んでいた。
靄獣が後ずさる。
巨大な体が細かく震え、仮面の下から漏れる霧が不安定に乱れる。
クロは、ゆっくりと靄獣を見下ろしたまま、一歩、また一歩と歩を進めた。
だが、靄獣には向かわない。
彼が向かう先は——ミレイア。
彼女の体に近づき、静かに膝をつく。
小さな体。
冷たくなった指先。
優しい顔立ちは、もう何も感じていなかった。
クロは、彼女の髪にそっと触れた。
何かを感じたわけではない。
言葉をかけるわけでもなかった。
ただそこに、しばらく佇んでいた。
——そして。
次の瞬間、空気が、震えた。
まるで爆発のように、全方位に“気”が放たれる。
霧が押し返され、木々が軋み、地面が震える。
空気が低くうなり始め、辺りの気配が一変する。
靄獣がたまらず、半歩後ずさる。
恐怖の気配が、奴の体を貫いた。
クロの背中から噴き出したそれは、魔力ではない。
純粋な“殺気”と“怒り”が混ざった、獣の咆哮のような存在圧だった。
クロは立ち上がり、靄獣の方へと顔を向けた。
その目は、笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ——“冷たい”だけだった。
「……俺の“物”に」
静かに言葉を紡ぐ。
けれどその一言が、周囲の気温を数度下げたような気さえした。
「よくも、手を出してくれたな」
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