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第二章「chain of love」
第27話「Kissの事情(3/☆☆)」
その日は朝から、雨だった。
ワイパーを使いフロントガラスの水滴を散らす。
慎重にスピードを落として運転し勤務先の大学病院についた。
科の担当医と診察室の番号が表示された掲示板を確認する。
(顔写真まで載せるのは個人情報の漏洩じゃないのか。
どちらにしろ医師はマスク姿だから目元しか見せないわけだが)
病院によっては診察室の扉に担当医師の名前も
表記されているだろう。
実家の病院は、診察室の番号の下に担当医師の名前が表記されているはずだ。
午前は8時半から12時半まで午後二時から五時半までが外来を受けつける時間。
土曜日は交代勤務で午前中のみ出勤する場合もある。
去年の四月より前だったら、忙殺されて余裕はなかった。
出会う時期はベストだったのだ。
デジタルフォトフレームは目立つので、
朝から雨が降っていたため、いつもより更に安全運転を心がけた
勤務先の大学病院に着くと、
科の担当医と診察室の番号が表示された掲示板を確認する。
(顔写真まで載せるのは個人情報の漏洩じゃないのか。
どちらにしろ医師はマスク姿だから目元しか見せないわけだが)
昼休憩の時間、久々に車の中で昼食を取ることにした。
医局の冷蔵庫に入れていた弁当を持ち職員用駐車場に行く。
車に乗り運転席で弁当箱を開けると甘い卵焼きの匂いが鼻腔をくすぐった。
まずは卵焼きから食べてみよう。
美味しくて頬がゆるむ。
車は一人になれていい。
手作りの弁当は、一人で暮らしていた頃は考えられなかった。
一口一口、噛みしめながら昼食を食べ終えた。
そして癒やしを求めて携帯の画像フォルダを呼び出す。
写真が撮りたいと言えず無防備な時の姿を
隠し撮りしたものだが、見ていると勇気がわいてくる。
(このとびきりかわいくて清楚な笑顔が
たまらない。なんで寝ている時に笑ってるんだ。
可愛すぎるだろ)
車内では自由に癒やしを求めることができるし、
考え事もできる。
水筒のお茶を飲みながら去年の夏を回想する。
受けつけの前でぶっ倒れて介抱した患者は、
別の医師を希望した。
何だか面倒くさそうと思ったが口から漏れてしまっただけのようだった。
恋人と喧嘩し一人で検査に来たという
事情を聞き健気さに胸を打たれた。
煮えきらない俺はつい自分の話もしてしまったが、
また会うことがあると明るい報告をできる。
妹のような認識で頭を撫でてしまった小柄な女性だった。
(藤城総合病院に来るか……それとも
この病院にまた来るのだろうか)
あの頃は沙矢とのことで思い悩んでいたにも関わらず
自分を棚上げしてしまった……。
(幸せ掴んだか?
今度は沙矢を紹介してやるよ)
沙矢と一緒に過ごし始めてしばらく経った頃から、
患者さんとのコミュニケーションが取りやすくなった気がする。
偽りや作り笑顔ではなく素で接しているだけだ。
人タラシと長く一緒にいたし少なからず影響を受けている。
弁当を食べると車から降りた。
病院内に入ると看護師に呼び止められる。
「藤城先生、お客様がいらしてます!
午前中に健康診断を受けられた患者さんなんですが
どうしても藤城先生にお会いになりたいそうで」
「……その方はどちらに」
「カフェでお待ちになるそうです。
藤城先生がよく利用されるお店を聞かれたので、そちらをご案内しました」
「義兄(あに)が面倒をかけました」
看護師が名前を聞かなくても分かっていた。
看護師は、驚いたような顔をした後笑った。
「ありがとう」
笑顔を返したら、何故か彼女は固まった。
T店に行き店内を見渡すと、一人の人物が立ち上がった。
「青、待ってたよ」
満面の笑みに疲れを覚える。
「……お義兄さま、健康診断、お疲れ様でした」
父と同じく医師としては大先輩で三ヶ月前、
私生活(プライベート)で顔を合わせた義理の兄・葛井陽がそこにいた。
17歳上だが、恐ろしいことに出会った20年前から
ほとんど印象が変わらない。間違いなく魔物だ。
「普段は患者さんの検査をする側だけど、
他の先生に検査してもらうって結構緊張するよね。
心臓がバクバクだった」
「……そうですね」
(そこまで緊張はしてないはずだ)
藤城総合病院のベテラン内科医で、内科部長。
准教授の肩書きもある彼は、初対面の時の印象は最悪だった。
姉とのデートに俺も強制参加させ舞浜まで連れ回した。
義兄はコーヒーカップに口をつけて、にこにこと笑う。
俺は時間もあまりないので何も頼まなかった。
「あのちっちゃかった子も立派な医師になって……
感慨深いよ。僕も歳を取るはずだね」
(きょうだい馬鹿ってやつか?)
「初めてお会いした時、お義兄さまは医大生でしたよね。
かっこいいなと思った記憶は、微かにあります」
少しだけ話に乗ってみる。
「青とは17歳も離れてるじゃない。
ちょっと自分の子供のような感覚でいたんだよねえ。
翠にとっては弟だけど僕にはかわいい息子みたいな?」
(7歳の俺に対しての態度は、その後生まれた愛息に対するものと
同じだったのだと今になって感じている)
「かわいがって頂いてありがとうございます。
またお宅にもお邪魔しますね。
いい報告もできそうなので」
これ以上話す時間もない。
「運命の人と上手くいったんだね。
秋頃と違って、昔のきらきらが戻ってる」
(きらきら?)
「あの二人も呼ぶから、皆で楽しく過ごそう。
皆、親戚なんだから」
妙な縁ができている。
葛井家は、従姉妹が懇意にしていて、
どうやら恋のキューピッドにもなったようだった。
「……はい」
「藤城先生、うちの病院で再会できる日を
心待ちにしています」
「そう言って頂けて嬉しいです」
嘘のない瞳で言われて高揚した。
この病院で勤務する期間もあと二年もない。
病院は変わらずとも実家には帰るかも知れないが。
診察室の椅子に座って午後の患者を待つ。
「藤城せんせー」
その時背中に聞きなじみのある声が飛んできた。
「うるさい」
「ごめんなさいね」
月曜日に沙矢の話題にも出てきた女性医師がそこにはいた。
「藤城先生、休憩時間に少し話さない」
今日はどうしたのだろうか。
普段は仕事上以外で話さないのに。
「斎賀零子先生……何かご用でも?」
「ちょっとね。四月の健康診断のことで話があるわ。
屋上に来なさい」
勝手に言い置いて斎賀は去って行った。
貴重な休憩時間に呼び出されたが、
こんな呼び出しもめったにないので大目に見よう。
悪友はニコニコ笑い、こちらを見つめている。
俺は距離を取り、屋上の扉に背中をもたれさせた。
「それでね。毎年請け負っている健康診断……
去年は私と藤城先生が行ったでしょう。
今年も女性社員は私が診る予定なんだけど、
男性社員を診る医師はまだ決まってないの。
あんた行く?」
「……希望を出そうかと思ってた」
「どういう心境の変化? 去年は面倒くさそうだったじゃない」
「別に」
「ふうん」
この機会を逃すはずがないだろう。
「あの子に会えるかしら。うふふ」
「あの子?」
「名字も個性的で印象的に残ってるのよね」
間違いなく沙矢だ。
「もちろん、顔の印象で覚えてただけじゃなくて、
楽しくお話ししたから覚えてるのよ。
天然ゆるふわな雰囲気を醸しながらもしっかりした子で、
私が異性ならさっさと捕まえるわね」
(捕まえるとか言いやがって)
「そんなにも印象に残っていたのに、一度も話さなかったな」
独りごちた言葉から斎賀は続けた。
「あの時、階段から落ちかけた姿を見て駆け出したから、
助けたのよね」
「藤城せんせが走って行ったのを見届けて会社を出たわ。
私も聞いてなかったけどあの後どうなったの?」
存外しつこいな……。
「助けた。運良くどちらにも怪我がなかったのは幸いだったよ」
「それだけじゃないわよね?
ゴールデンウィーク明けから、何か変だったし……、
クリスマスなんてにやついて気持ちが悪かったもの。
どうせ、彼女をモノにしたんでしょう」
「嫌な言い方をするな。俺を女タラシみたいに」
(斎賀は恋愛対象として意識したことはなかった。
見た目は異性でも中身は同性な気がする。
いや、同性だからと斎賀のように下品な人間ばかりでもないか)
「女タラシじゃなかったわ。あんたは人タラシ。
見た目と違いガード堅いし異性には興味なかったんだもの。
そんな藤城青が、変わったのも夏くらいから。
患者さんからの人気が絶大になったのもその頃」
「フルネームで呼び捨てすんな」
つっこみをさらっとスルーされた。
「物腰が柔らかくなったわよね。
いいことだと思うわよ。
元々コミュケーション能力はあったんだし」
「仕事の用件でしたらもう話は終わりましたよね?」
慇懃無礼に聞こえるよう伝えた。
「クリスマスの時、あんたが一緒に過ごしたのはあの子?」
「クリスマスも一緒だったし、今一緒に暮らしてるよ」
目を見開くほど驚いた斎賀は、次の瞬間叫んだ。
「えええっ!」
「異性に興味がなかった藤城青が、
惹かれるなんて運命でしかないわ。
ちゃんと巡り会えてよかったじゃない」
ドアノブに手をかけた。
「そういや彼女は斎賀のことを大人の女性で憧れだって言ってたぞ。
覚えてもらえててよかったな」
「めちゃくちゃ不快そうに言うわね。
あんた相当独占欲が強いでしょ」
「……結婚式には呼んでやるよ」
チラ、と振り返った。
「医学部時代、相談に乗ってやった私に今まで隠して薄情なやつね。
煙草の匂いがしなくなったのもあの子のおかげでしょ」
屋上の扉を開けて閉めた。
一年近くも黙っていたことをぶちまけたのは、
そろそろ頃合いだと思ったからだった。
四年前の一月、バーでカクテルを煽っていた俺に
付き合ってくれた相手。
性別を気にせず話せると思ったから、過去の恋をぶちまけた。
相手のその後のことは、話してないがいずれは話してやってもいい。
とりあえず四月の健康診断に行くことが決まってほっとした。
二か月先にあの会社で沙矢に会えるのが楽しみだ。
久々に二時間の残業をしてしまった。
残業がなければ家で夕食を作り青を待っている時間だ。
エレベーターで佐緒里さんに遭遇したり会社を出る前にも
部長に声をかけられた。
同じ会社なので仕方がないができればお会いしたくない二人だ。
陽香は用事があるらしく残業を断ったから、
帰るときは一人だ。
会社の建物を出たところで、電話を掛けた。
一応、人目がないか確認する。
「青? 今日は残業だったからまだ帰ってないの」
「会社最寄りのバス停の辺りまで迎えに行くから待ってて」
帰ってないと伝えただけで迎えに行くと言われ、
胸が熱くなった。
「ありがとう。待ってるね」
今朝は朝から雨が降っていたが、午後には上がったので
折り畳み傘はビニールをかけたまま持っている。
雨天の場合は、濡れた傘にお使いくださいという
ビニール袋だ。
うちの会社でもそのビニールを置いているので助かる。
首にかけたガーネットの指輪は、少し重かったが
お守りになってくれていた。
20分ほど経った頃、軽やかに車が到着した。
あの時、車に乗れと言った彼とは、
別人のようで同じ人なんだと感じる。
助手席の扉に腕を伸ばして鍵を開けてくれるのは、
最初から変わらない。
本当は運転席から全部のドアが開閉できるのに、
彼は自分の手で鍵を開ける。
(青が長い腕を伸ばして開けてくれるのを見るの
好きだから……気にしなくていいか)
「お疲れさま」
車に乗り込み、運転席の彼の姿に目が釘付けになった。
「青もお疲れさま」
「残業、大変だったな」
「うん。でも二時間残業なんて一か月に一度
あるかないかだから」
「お前と一緒に帰れて嬉しい」
車は停止線を踏まずにゆっくりと一時停止した。
「明日、藤城総合病院とご実家に連れて行ってくれるのよね」
「嬉しそうな声だな」
「嬉しいに決まってるじゃない」
「病院は建物を見るだけだぞ。
用がないのに行く必要もない。
実家で父親と対面してもらうことになる」
実家に行くということはそういうことか。
大丈夫かな。
再び動き出した車の中、車窓から街の景色を眺めた。
バスはマンションから最寄りのバス停までに停留所で何度か停まるから、ゆっくり見ることもない。
青と二人で共有している景色……これからも増えていくんだろう。
マンションに帰り、手を洗った後のことだった。
隣にいた青が鞄から白い上着を取り出した。
ドラム式洗濯機に放り込む。
「ああー!」
「どうかしたか?」
「青、今まではクリーニングに出してたの?」
「うん。病院でクリーニングに出してたよ。
家で洗えばいいなって気がついて持って帰った」
(あれ……うんって言った。かわいいんだけど)
「早く気づいて」
「何着か換えはあるし急いで洗う必要はないんだけど」
「ええと。お、お願いがあるの」
「今度、私の前で着た姿を見せて!
一生の思い出にするから」
「単なる仕事着だ」
「中々見られる機会なんてないんだもの」
変なお願いをしている自覚はあるけど、どうしても見たかった。
出逢った日だって、白衣姿ではなかったから、
じっくり見たことがない。
「……お前が着てくれたら
見せてやってもいい」
気がつけば壁際まで追いつめられ、息も触れる距離にいた。
壁に腕もついている。
「私が着たら変人じゃない」
引きずるのなんてわかりきっている。
「家で白衣を着る医者こそ変人じゃないか。
訪問診療でもないのに」
「えっ……」
「今日は、入浴の後で夕食だぞ。本来はこの順番がいいんだから」
腕の柵を外して、青は背中を向けた。
入浴は、二人は別々にして食事は一緒にとった。
主寝室(ベッドルーム)に行くと青が白衣を手にして待っていた。
ルームウェアを着込んだ私は、そろりと一歩近づく。
ベッドの端に座った青は指で手招いた。
「沙矢、おいで」
いつかの危うさではなく、本来の青が醸し出す空気に
自然と導かれてしまう。
とん、と隣に腰かけた私の肩に白衣がかけられる。
「立って」
指示通りに動く。
次は白衣に手が伸びてきて彼の手がボタンを留めた。
予想通り床についたし引きずっている。
留守中にお掃除ロボットを使っているため綺麗でよかった。
「白衣、着たことがなかったわ。
高校でも理数系科目の実習で使ったりするみたいだけど、
そういうのなかったから。
学校の先生が着てた白衣とも違うし、これがドクターズコートかー」
スーツのジャケットのような襟元だ。
青は私が楽しそうな様子に呆れたのだろうか。
黙ってこちらを見つめ続けている。
ちょっとはしゃいでくるっと一回転してみた。
疲れすぎて頭がどうかしている。
「沙矢がそうやってかわいい姿を見せてくれる度、
好きが増えていく。愛してるよ」
腕を引かれて彼の膝の上に倒れ込んだ。
「っ……ふあ」
激しいキスで息もつけない。
甘さと刺激を両方含んでいて心臓が高鳴る。
もぐりこんでいる舌に舌を絡める。
お互い、舌を吸い合うと二人の間で唾液の橋ができた。
キスをやめた時ぷつ、んと途切れる。
肩で弾む息を整えた。
脱がされ、彼の手の元に戻った白衣。
ベッドから下りた彼が身に着けてこちらに見せてくれた。
「この姿でいつも患者さんを診ているのね」
「……ああ」
やはり家で白衣を着るのが恥ずかしいのだろう。
耳まで赤い。
青はさっさと白衣を脱いで畳んだ。
「かっこよかったから、もうちょっと見たかった」
彼にとって仕事着だから不謹慎だけど。
「いずれ、お前が藤城総合病院で
俺の子供を産む時、いくらでも見られるよ。
勤務するのは産婦人科だ」
抱きしめられた腕の中で、彼は囁いた。
「……うん」
「人に恥ずかしい思いをさせたんだから、
今日は楽しませてくれるんだろ」
挑発的な唇が、首筋に噛みついた。
鎖骨に這う舌がそこを執拗になぞり吸い上げる。
ネグリジェの上からフロントホックの下着を外した。
「明日に響かないようにしてね」
外出から帰ってからと伝えていたのに私も青もどうしようもない。
「どうせ外出は午後だから、大丈夫だ。
安心して朝まで過ごそう。
お互い嫌なことも忘れて……」
青はとびきりの殺し文句を耳元に吐いた。
抱き尽くされて先に意識を飛ばしたけれど、
彼もすぐ追いかけてきた。
ほぼ同時なのは嬉しい。
思いが通じ合うようになったから、こんな二人になれた。
それでも青は朝まで吐息を混ぜあっていたいのだろうけど。
ワイパーを使いフロントガラスの水滴を散らす。
慎重にスピードを落として運転し勤務先の大学病院についた。
科の担当医と診察室の番号が表示された掲示板を確認する。
(顔写真まで載せるのは個人情報の漏洩じゃないのか。
どちらにしろ医師はマスク姿だから目元しか見せないわけだが)
病院によっては診察室の扉に担当医師の名前も
表記されているだろう。
実家の病院は、診察室の番号の下に担当医師の名前が表記されているはずだ。
午前は8時半から12時半まで午後二時から五時半までが外来を受けつける時間。
土曜日は交代勤務で午前中のみ出勤する場合もある。
去年の四月より前だったら、忙殺されて余裕はなかった。
出会う時期はベストだったのだ。
デジタルフォトフレームは目立つので、
朝から雨が降っていたため、いつもより更に安全運転を心がけた
勤務先の大学病院に着くと、
科の担当医と診察室の番号が表示された掲示板を確認する。
(顔写真まで載せるのは個人情報の漏洩じゃないのか。
どちらにしろ医師はマスク姿だから目元しか見せないわけだが)
昼休憩の時間、久々に車の中で昼食を取ることにした。
医局の冷蔵庫に入れていた弁当を持ち職員用駐車場に行く。
車に乗り運転席で弁当箱を開けると甘い卵焼きの匂いが鼻腔をくすぐった。
まずは卵焼きから食べてみよう。
美味しくて頬がゆるむ。
車は一人になれていい。
手作りの弁当は、一人で暮らしていた頃は考えられなかった。
一口一口、噛みしめながら昼食を食べ終えた。
そして癒やしを求めて携帯の画像フォルダを呼び出す。
写真が撮りたいと言えず無防備な時の姿を
隠し撮りしたものだが、見ていると勇気がわいてくる。
(このとびきりかわいくて清楚な笑顔が
たまらない。なんで寝ている時に笑ってるんだ。
可愛すぎるだろ)
車内では自由に癒やしを求めることができるし、
考え事もできる。
水筒のお茶を飲みながら去年の夏を回想する。
受けつけの前でぶっ倒れて介抱した患者は、
別の医師を希望した。
何だか面倒くさそうと思ったが口から漏れてしまっただけのようだった。
恋人と喧嘩し一人で検査に来たという
事情を聞き健気さに胸を打たれた。
煮えきらない俺はつい自分の話もしてしまったが、
また会うことがあると明るい報告をできる。
妹のような認識で頭を撫でてしまった小柄な女性だった。
(藤城総合病院に来るか……それとも
この病院にまた来るのだろうか)
あの頃は沙矢とのことで思い悩んでいたにも関わらず
自分を棚上げしてしまった……。
(幸せ掴んだか?
今度は沙矢を紹介してやるよ)
沙矢と一緒に過ごし始めてしばらく経った頃から、
患者さんとのコミュニケーションが取りやすくなった気がする。
偽りや作り笑顔ではなく素で接しているだけだ。
人タラシと長く一緒にいたし少なからず影響を受けている。
弁当を食べると車から降りた。
病院内に入ると看護師に呼び止められる。
「藤城先生、お客様がいらしてます!
午前中に健康診断を受けられた患者さんなんですが
どうしても藤城先生にお会いになりたいそうで」
「……その方はどちらに」
「カフェでお待ちになるそうです。
藤城先生がよく利用されるお店を聞かれたので、そちらをご案内しました」
「義兄(あに)が面倒をかけました」
看護師が名前を聞かなくても分かっていた。
看護師は、驚いたような顔をした後笑った。
「ありがとう」
笑顔を返したら、何故か彼女は固まった。
T店に行き店内を見渡すと、一人の人物が立ち上がった。
「青、待ってたよ」
満面の笑みに疲れを覚える。
「……お義兄さま、健康診断、お疲れ様でした」
父と同じく医師としては大先輩で三ヶ月前、
私生活(プライベート)で顔を合わせた義理の兄・葛井陽がそこにいた。
17歳上だが、恐ろしいことに出会った20年前から
ほとんど印象が変わらない。間違いなく魔物だ。
「普段は患者さんの検査をする側だけど、
他の先生に検査してもらうって結構緊張するよね。
心臓がバクバクだった」
「……そうですね」
(そこまで緊張はしてないはずだ)
藤城総合病院のベテラン内科医で、内科部長。
准教授の肩書きもある彼は、初対面の時の印象は最悪だった。
姉とのデートに俺も強制参加させ舞浜まで連れ回した。
義兄はコーヒーカップに口をつけて、にこにこと笑う。
俺は時間もあまりないので何も頼まなかった。
「あのちっちゃかった子も立派な医師になって……
感慨深いよ。僕も歳を取るはずだね」
(きょうだい馬鹿ってやつか?)
「初めてお会いした時、お義兄さまは医大生でしたよね。
かっこいいなと思った記憶は、微かにあります」
少しだけ話に乗ってみる。
「青とは17歳も離れてるじゃない。
ちょっと自分の子供のような感覚でいたんだよねえ。
翠にとっては弟だけど僕にはかわいい息子みたいな?」
(7歳の俺に対しての態度は、その後生まれた愛息に対するものと
同じだったのだと今になって感じている)
「かわいがって頂いてありがとうございます。
またお宅にもお邪魔しますね。
いい報告もできそうなので」
これ以上話す時間もない。
「運命の人と上手くいったんだね。
秋頃と違って、昔のきらきらが戻ってる」
(きらきら?)
「あの二人も呼ぶから、皆で楽しく過ごそう。
皆、親戚なんだから」
妙な縁ができている。
葛井家は、従姉妹が懇意にしていて、
どうやら恋のキューピッドにもなったようだった。
「……はい」
「藤城先生、うちの病院で再会できる日を
心待ちにしています」
「そう言って頂けて嬉しいです」
嘘のない瞳で言われて高揚した。
この病院で勤務する期間もあと二年もない。
病院は変わらずとも実家には帰るかも知れないが。
診察室の椅子に座って午後の患者を待つ。
「藤城せんせー」
その時背中に聞きなじみのある声が飛んできた。
「うるさい」
「ごめんなさいね」
月曜日に沙矢の話題にも出てきた女性医師がそこにはいた。
「藤城先生、休憩時間に少し話さない」
今日はどうしたのだろうか。
普段は仕事上以外で話さないのに。
「斎賀零子先生……何かご用でも?」
「ちょっとね。四月の健康診断のことで話があるわ。
屋上に来なさい」
勝手に言い置いて斎賀は去って行った。
貴重な休憩時間に呼び出されたが、
こんな呼び出しもめったにないので大目に見よう。
悪友はニコニコ笑い、こちらを見つめている。
俺は距離を取り、屋上の扉に背中をもたれさせた。
「それでね。毎年請け負っている健康診断……
去年は私と藤城先生が行ったでしょう。
今年も女性社員は私が診る予定なんだけど、
男性社員を診る医師はまだ決まってないの。
あんた行く?」
「……希望を出そうかと思ってた」
「どういう心境の変化? 去年は面倒くさそうだったじゃない」
「別に」
「ふうん」
この機会を逃すはずがないだろう。
「あの子に会えるかしら。うふふ」
「あの子?」
「名字も個性的で印象的に残ってるのよね」
間違いなく沙矢だ。
「もちろん、顔の印象で覚えてただけじゃなくて、
楽しくお話ししたから覚えてるのよ。
天然ゆるふわな雰囲気を醸しながらもしっかりした子で、
私が異性ならさっさと捕まえるわね」
(捕まえるとか言いやがって)
「そんなにも印象に残っていたのに、一度も話さなかったな」
独りごちた言葉から斎賀は続けた。
「あの時、階段から落ちかけた姿を見て駆け出したから、
助けたのよね」
「藤城せんせが走って行ったのを見届けて会社を出たわ。
私も聞いてなかったけどあの後どうなったの?」
存外しつこいな……。
「助けた。運良くどちらにも怪我がなかったのは幸いだったよ」
「それだけじゃないわよね?
ゴールデンウィーク明けから、何か変だったし……、
クリスマスなんてにやついて気持ちが悪かったもの。
どうせ、彼女をモノにしたんでしょう」
「嫌な言い方をするな。俺を女タラシみたいに」
(斎賀は恋愛対象として意識したことはなかった。
見た目は異性でも中身は同性な気がする。
いや、同性だからと斎賀のように下品な人間ばかりでもないか)
「女タラシじゃなかったわ。あんたは人タラシ。
見た目と違いガード堅いし異性には興味なかったんだもの。
そんな藤城青が、変わったのも夏くらいから。
患者さんからの人気が絶大になったのもその頃」
「フルネームで呼び捨てすんな」
つっこみをさらっとスルーされた。
「物腰が柔らかくなったわよね。
いいことだと思うわよ。
元々コミュケーション能力はあったんだし」
「仕事の用件でしたらもう話は終わりましたよね?」
慇懃無礼に聞こえるよう伝えた。
「クリスマスの時、あんたが一緒に過ごしたのはあの子?」
「クリスマスも一緒だったし、今一緒に暮らしてるよ」
目を見開くほど驚いた斎賀は、次の瞬間叫んだ。
「えええっ!」
「異性に興味がなかった藤城青が、
惹かれるなんて運命でしかないわ。
ちゃんと巡り会えてよかったじゃない」
ドアノブに手をかけた。
「そういや彼女は斎賀のことを大人の女性で憧れだって言ってたぞ。
覚えてもらえててよかったな」
「めちゃくちゃ不快そうに言うわね。
あんた相当独占欲が強いでしょ」
「……結婚式には呼んでやるよ」
チラ、と振り返った。
「医学部時代、相談に乗ってやった私に今まで隠して薄情なやつね。
煙草の匂いがしなくなったのもあの子のおかげでしょ」
屋上の扉を開けて閉めた。
一年近くも黙っていたことをぶちまけたのは、
そろそろ頃合いだと思ったからだった。
四年前の一月、バーでカクテルを煽っていた俺に
付き合ってくれた相手。
性別を気にせず話せると思ったから、過去の恋をぶちまけた。
相手のその後のことは、話してないがいずれは話してやってもいい。
とりあえず四月の健康診断に行くことが決まってほっとした。
二か月先にあの会社で沙矢に会えるのが楽しみだ。
久々に二時間の残業をしてしまった。
残業がなければ家で夕食を作り青を待っている時間だ。
エレベーターで佐緒里さんに遭遇したり会社を出る前にも
部長に声をかけられた。
同じ会社なので仕方がないができればお会いしたくない二人だ。
陽香は用事があるらしく残業を断ったから、
帰るときは一人だ。
会社の建物を出たところで、電話を掛けた。
一応、人目がないか確認する。
「青? 今日は残業だったからまだ帰ってないの」
「会社最寄りのバス停の辺りまで迎えに行くから待ってて」
帰ってないと伝えただけで迎えに行くと言われ、
胸が熱くなった。
「ありがとう。待ってるね」
今朝は朝から雨が降っていたが、午後には上がったので
折り畳み傘はビニールをかけたまま持っている。
雨天の場合は、濡れた傘にお使いくださいという
ビニール袋だ。
うちの会社でもそのビニールを置いているので助かる。
首にかけたガーネットの指輪は、少し重かったが
お守りになってくれていた。
20分ほど経った頃、軽やかに車が到着した。
あの時、車に乗れと言った彼とは、
別人のようで同じ人なんだと感じる。
助手席の扉に腕を伸ばして鍵を開けてくれるのは、
最初から変わらない。
本当は運転席から全部のドアが開閉できるのに、
彼は自分の手で鍵を開ける。
(青が長い腕を伸ばして開けてくれるのを見るの
好きだから……気にしなくていいか)
「お疲れさま」
車に乗り込み、運転席の彼の姿に目が釘付けになった。
「青もお疲れさま」
「残業、大変だったな」
「うん。でも二時間残業なんて一か月に一度
あるかないかだから」
「お前と一緒に帰れて嬉しい」
車は停止線を踏まずにゆっくりと一時停止した。
「明日、藤城総合病院とご実家に連れて行ってくれるのよね」
「嬉しそうな声だな」
「嬉しいに決まってるじゃない」
「病院は建物を見るだけだぞ。
用がないのに行く必要もない。
実家で父親と対面してもらうことになる」
実家に行くということはそういうことか。
大丈夫かな。
再び動き出した車の中、車窓から街の景色を眺めた。
バスはマンションから最寄りのバス停までに停留所で何度か停まるから、ゆっくり見ることもない。
青と二人で共有している景色……これからも増えていくんだろう。
マンションに帰り、手を洗った後のことだった。
隣にいた青が鞄から白い上着を取り出した。
ドラム式洗濯機に放り込む。
「ああー!」
「どうかしたか?」
「青、今まではクリーニングに出してたの?」
「うん。病院でクリーニングに出してたよ。
家で洗えばいいなって気がついて持って帰った」
(あれ……うんって言った。かわいいんだけど)
「早く気づいて」
「何着か換えはあるし急いで洗う必要はないんだけど」
「ええと。お、お願いがあるの」
「今度、私の前で着た姿を見せて!
一生の思い出にするから」
「単なる仕事着だ」
「中々見られる機会なんてないんだもの」
変なお願いをしている自覚はあるけど、どうしても見たかった。
出逢った日だって、白衣姿ではなかったから、
じっくり見たことがない。
「……お前が着てくれたら
見せてやってもいい」
気がつけば壁際まで追いつめられ、息も触れる距離にいた。
壁に腕もついている。
「私が着たら変人じゃない」
引きずるのなんてわかりきっている。
「家で白衣を着る医者こそ変人じゃないか。
訪問診療でもないのに」
「えっ……」
「今日は、入浴の後で夕食だぞ。本来はこの順番がいいんだから」
腕の柵を外して、青は背中を向けた。
入浴は、二人は別々にして食事は一緒にとった。
主寝室(ベッドルーム)に行くと青が白衣を手にして待っていた。
ルームウェアを着込んだ私は、そろりと一歩近づく。
ベッドの端に座った青は指で手招いた。
「沙矢、おいで」
いつかの危うさではなく、本来の青が醸し出す空気に
自然と導かれてしまう。
とん、と隣に腰かけた私の肩に白衣がかけられる。
「立って」
指示通りに動く。
次は白衣に手が伸びてきて彼の手がボタンを留めた。
予想通り床についたし引きずっている。
留守中にお掃除ロボットを使っているため綺麗でよかった。
「白衣、着たことがなかったわ。
高校でも理数系科目の実習で使ったりするみたいだけど、
そういうのなかったから。
学校の先生が着てた白衣とも違うし、これがドクターズコートかー」
スーツのジャケットのような襟元だ。
青は私が楽しそうな様子に呆れたのだろうか。
黙ってこちらを見つめ続けている。
ちょっとはしゃいでくるっと一回転してみた。
疲れすぎて頭がどうかしている。
「沙矢がそうやってかわいい姿を見せてくれる度、
好きが増えていく。愛してるよ」
腕を引かれて彼の膝の上に倒れ込んだ。
「っ……ふあ」
激しいキスで息もつけない。
甘さと刺激を両方含んでいて心臓が高鳴る。
もぐりこんでいる舌に舌を絡める。
お互い、舌を吸い合うと二人の間で唾液の橋ができた。
キスをやめた時ぷつ、んと途切れる。
肩で弾む息を整えた。
脱がされ、彼の手の元に戻った白衣。
ベッドから下りた彼が身に着けてこちらに見せてくれた。
「この姿でいつも患者さんを診ているのね」
「……ああ」
やはり家で白衣を着るのが恥ずかしいのだろう。
耳まで赤い。
青はさっさと白衣を脱いで畳んだ。
「かっこよかったから、もうちょっと見たかった」
彼にとって仕事着だから不謹慎だけど。
「いずれ、お前が藤城総合病院で
俺の子供を産む時、いくらでも見られるよ。
勤務するのは産婦人科だ」
抱きしめられた腕の中で、彼は囁いた。
「……うん」
「人に恥ずかしい思いをさせたんだから、
今日は楽しませてくれるんだろ」
挑発的な唇が、首筋に噛みついた。
鎖骨に這う舌がそこを執拗になぞり吸い上げる。
ネグリジェの上からフロントホックの下着を外した。
「明日に響かないようにしてね」
外出から帰ってからと伝えていたのに私も青もどうしようもない。
「どうせ外出は午後だから、大丈夫だ。
安心して朝まで過ごそう。
お互い嫌なことも忘れて……」
青はとびきりの殺し文句を耳元に吐いた。
抱き尽くされて先に意識を飛ばしたけれど、
彼もすぐ追いかけてきた。
ほぼ同時なのは嬉しい。
思いが通じ合うようになったから、こんな二人になれた。
それでも青は朝まで吐息を混ぜあっていたいのだろうけど。
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