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第1章 二つの心
[1] 酒に呑まれて
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薄暗く、雰囲気を引き立てる曲が流れる店内。
一人の時間を楽しむ人や、男女で愛を語り合う人々がいるなか、カウンターのすみでは、まったく違う空気をまとう女が一人いた。
店内に流れるジャズの生演奏に耳を傾けることも、楽しんでいる様子もなく、ハイペースでグラスをあけていく。
「そろそろ、やめておいたほうが……」
そんなバーテンダーの言葉に、すでに酔っている彼女――――黒栖エマは、グラスを押しやり首を横に振った。
「同じのを……お願いします」
バーテンダーは小さくため息を吐くと、グラスに新しく酒を注いだ。
普段のエマは、酒を飲まない。
別に弱い訳ではないが、次の日に酷い頭痛と、人には理解できない面で酷いことになるから抑えている。
それでも、今夜だけは飲まずにはいられなかった。
何杯目かも分からなくなったグラスをあおり、ちらりと視線を向けると、仲の良さそうな男女が熱い抱擁とキスを交わしていた。
ズキッ、と胸が痛み、苦いものがこみ上げてくる。
思わず、酒に溺れる原因になった場面を思い出した。
数時間前――――。
エマは昔から決められていた婚約者の家へと向かった。彼の家に行くのは、今回の訪問を入れても二十五年間でたったの三回目。
二人の間に恋や愛なんて甘い感情はなく、ただ家同士が勝手に決めただけのもの。
二十歳を越えた頃、お互いを知ることも必要だろうと考えた親族が、合鍵を持つように決めた。
自由に行き来をして、仲を深めればいいと考えたのだろう。
だけど、親族の期待もむなしく理由もなく行き来をすることはなく、心が近づくことはなかった。
今回だって、エマは行きたくて行った訳じゃない。
結婚の準備に入れと言われ、仕方がなく行ったのだ。無理矢理持たされた結婚式場のパンフレットを手に――――。
一応、チャイムだって鳴らした。居ないなら居ないで、パンフレットとメモを置いて帰るつもりだった。
使う気もなかった合鍵を使って入り、綺麗に掃除されている廊下を進んでリビングの扉を開けると、いつもは太陽の光で満たされている部屋は軽くカーテンが引かれていて薄暗かった。
でも、部屋の中が見えないほどではない。
中を見回して詮索するつもりは無かったけれど、嫌でも目についてしまった。
床に脱ぎ散らかされた洋服と下着が。
気分が一気に悪くなり、ノロノロと顔を上げたところで、奥のソファで動く影が目に飛び込んできた。
ソファが動きに合わせて軋み、女の甘い啼き声と、男の苦悶と恍惚の声が響く。
最悪なことに、一番のクライマックスに出くわしたのだ。
その後のことは、覚えていない。
気がつけば、このバーに座って少し強めの酒を飲んでいた。
これから、どうなるのかが不安だった。
誰にも理解されず、ちょっとした気の迷いだからと、無罪放免の男と結婚させられるのか――――。
エマに、浮気を許せる心はない。
自分自身が清らかなままでいるのだから、相手にも同じだけの誠実さを求めていた。
出会ったのが、大人になってからなら目をつぶることができるが、二人の婚約は幼い頃から決まっていたことだ。
許せる訳がない。
今の時代に古い、堅苦しいと言われるかもしれないけれど、エマの考えは変わらない。
エマは、ぼんやりと考え込んでいて、グラスの中で動いた氷のカランッという音で、はっとした。
「お客様。そろそろ閉店のお時間なのですが……」
バーテンダーは、申し訳なさそうに言った。
いつの間にかそんなに時間が経っていたのか、音楽は流れておらず、エマ以外の客はいない。
店内に響くのは食器を洗う音と、テーブル席の椅子を上にあげて、清掃の準備をする音だけだ。
「あ……ごめんなさい。か、会計を」
慌てて顔を上げると、一気に酔いが回ったのか、くらりと目眩がした。
でも、これ以上の迷惑をかけたくなくて、エマはハイチェアから下りた。
あまり踵の高くない靴をはいているのに、床に足がついたとたんに地面が揺れる。明らかに、泥酔に近い状態だ。
「大丈夫ですか?」
洗い物をしている手を止めて、カウンターの外に出てこようとしたバーテンダーに、エマは大丈夫だと告げて会計を頼んだ。
フワフワとした足取りと気分でよろめきながらも立て直し、どうにか財布を取り出して会計を済ませると、北風の吹く外へと出た。
バーが閉まるほどの時間のせいか、外に人の姿はあまりない。
タクシーを拾おうにも、エマと同じ状態の人々が乗っていったのか、タクシーが一台もいなかった。
「もおー、普段はいっぱいいるくせに……」
エマはちらりと振り返って、数秒前まで居たバーを見た。
さっきの優しそうやバーテンダーに聞けばタクシーを呼んでくれるだろうが、これ以上の迷惑をかけたくなくて、エマは駅前まで歩くことにした。
あそこなら、タクシー乗り場とタクシープールがあるし、一台くらいすぐつかまるはずだ。
エマは、街灯の少ない裏道を歩きはじめた。
冷たい風は、酒で火照った頬に心地よく、どこか夢心地な気分になる。
今日、傷ついた心も嫌な記憶も、ほんとうは無かったのかもしれない。
人からみれば、ただの現実逃避かもしれないけれど、明日までは許してほしいと思った。
明日の朝、自分の部屋のベットで目を覚ました瞬間、全てを受け入れるから。
エマは、涙をこぼしながらそう願い、角を曲がったところで――――。
何かとぶつかった。
それは、大きくて固いもの。
あまりの衝撃に、後ろへと倒れそうになったが、すぐに手首を掴まれて引っ張られた。
ぶつかった何かは、エマが怪我をしないようにそうした行動に出たのだろうけど、激しい頭の揺れに一気に酔いが回って、エマの頭の中は真っ白になった。
ぼんやりとしたまま、その手に支えられていると、低い声が耳を撫でた。
「大丈夫か? 怪我でも?」
その声に導かれるように顔を上げると、心配そうな青い瞳と目が合った。
「キレー……マロウみたい」
思わず、エマの口からそんな言葉がもれた。
一人の時間を楽しむ人や、男女で愛を語り合う人々がいるなか、カウンターのすみでは、まったく違う空気をまとう女が一人いた。
店内に流れるジャズの生演奏に耳を傾けることも、楽しんでいる様子もなく、ハイペースでグラスをあけていく。
「そろそろ、やめておいたほうが……」
そんなバーテンダーの言葉に、すでに酔っている彼女――――黒栖エマは、グラスを押しやり首を横に振った。
「同じのを……お願いします」
バーテンダーは小さくため息を吐くと、グラスに新しく酒を注いだ。
普段のエマは、酒を飲まない。
別に弱い訳ではないが、次の日に酷い頭痛と、人には理解できない面で酷いことになるから抑えている。
それでも、今夜だけは飲まずにはいられなかった。
何杯目かも分からなくなったグラスをあおり、ちらりと視線を向けると、仲の良さそうな男女が熱い抱擁とキスを交わしていた。
ズキッ、と胸が痛み、苦いものがこみ上げてくる。
思わず、酒に溺れる原因になった場面を思い出した。
数時間前――――。
エマは昔から決められていた婚約者の家へと向かった。彼の家に行くのは、今回の訪問を入れても二十五年間でたったの三回目。
二人の間に恋や愛なんて甘い感情はなく、ただ家同士が勝手に決めただけのもの。
二十歳を越えた頃、お互いを知ることも必要だろうと考えた親族が、合鍵を持つように決めた。
自由に行き来をして、仲を深めればいいと考えたのだろう。
だけど、親族の期待もむなしく理由もなく行き来をすることはなく、心が近づくことはなかった。
今回だって、エマは行きたくて行った訳じゃない。
結婚の準備に入れと言われ、仕方がなく行ったのだ。無理矢理持たされた結婚式場のパンフレットを手に――――。
一応、チャイムだって鳴らした。居ないなら居ないで、パンフレットとメモを置いて帰るつもりだった。
使う気もなかった合鍵を使って入り、綺麗に掃除されている廊下を進んでリビングの扉を開けると、いつもは太陽の光で満たされている部屋は軽くカーテンが引かれていて薄暗かった。
でも、部屋の中が見えないほどではない。
中を見回して詮索するつもりは無かったけれど、嫌でも目についてしまった。
床に脱ぎ散らかされた洋服と下着が。
気分が一気に悪くなり、ノロノロと顔を上げたところで、奥のソファで動く影が目に飛び込んできた。
ソファが動きに合わせて軋み、女の甘い啼き声と、男の苦悶と恍惚の声が響く。
最悪なことに、一番のクライマックスに出くわしたのだ。
その後のことは、覚えていない。
気がつけば、このバーに座って少し強めの酒を飲んでいた。
これから、どうなるのかが不安だった。
誰にも理解されず、ちょっとした気の迷いだからと、無罪放免の男と結婚させられるのか――――。
エマに、浮気を許せる心はない。
自分自身が清らかなままでいるのだから、相手にも同じだけの誠実さを求めていた。
出会ったのが、大人になってからなら目をつぶることができるが、二人の婚約は幼い頃から決まっていたことだ。
許せる訳がない。
今の時代に古い、堅苦しいと言われるかもしれないけれど、エマの考えは変わらない。
エマは、ぼんやりと考え込んでいて、グラスの中で動いた氷のカランッという音で、はっとした。
「お客様。そろそろ閉店のお時間なのですが……」
バーテンダーは、申し訳なさそうに言った。
いつの間にかそんなに時間が経っていたのか、音楽は流れておらず、エマ以外の客はいない。
店内に響くのは食器を洗う音と、テーブル席の椅子を上にあげて、清掃の準備をする音だけだ。
「あ……ごめんなさい。か、会計を」
慌てて顔を上げると、一気に酔いが回ったのか、くらりと目眩がした。
でも、これ以上の迷惑をかけたくなくて、エマはハイチェアから下りた。
あまり踵の高くない靴をはいているのに、床に足がついたとたんに地面が揺れる。明らかに、泥酔に近い状態だ。
「大丈夫ですか?」
洗い物をしている手を止めて、カウンターの外に出てこようとしたバーテンダーに、エマは大丈夫だと告げて会計を頼んだ。
フワフワとした足取りと気分でよろめきながらも立て直し、どうにか財布を取り出して会計を済ませると、北風の吹く外へと出た。
バーが閉まるほどの時間のせいか、外に人の姿はあまりない。
タクシーを拾おうにも、エマと同じ状態の人々が乗っていったのか、タクシーが一台もいなかった。
「もおー、普段はいっぱいいるくせに……」
エマはちらりと振り返って、数秒前まで居たバーを見た。
さっきの優しそうやバーテンダーに聞けばタクシーを呼んでくれるだろうが、これ以上の迷惑をかけたくなくて、エマは駅前まで歩くことにした。
あそこなら、タクシー乗り場とタクシープールがあるし、一台くらいすぐつかまるはずだ。
エマは、街灯の少ない裏道を歩きはじめた。
冷たい風は、酒で火照った頬に心地よく、どこか夢心地な気分になる。
今日、傷ついた心も嫌な記憶も、ほんとうは無かったのかもしれない。
人からみれば、ただの現実逃避かもしれないけれど、明日までは許してほしいと思った。
明日の朝、自分の部屋のベットで目を覚ました瞬間、全てを受け入れるから。
エマは、涙をこぼしながらそう願い、角を曲がったところで――――。
何かとぶつかった。
それは、大きくて固いもの。
あまりの衝撃に、後ろへと倒れそうになったが、すぐに手首を掴まれて引っ張られた。
ぶつかった何かは、エマが怪我をしないようにそうした行動に出たのだろうけど、激しい頭の揺れに一気に酔いが回って、エマの頭の中は真っ白になった。
ぼんやりとしたまま、その手に支えられていると、低い声が耳を撫でた。
「大丈夫か? 怪我でも?」
その声に導かれるように顔を上げると、心配そうな青い瞳と目が合った。
「キレー……マロウみたい」
思わず、エマの口からそんな言葉がもれた。
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