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第1章 二つの心
[2] くすぐられる心
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「キレー、マロウみたい……」
そう言った彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
一瞬、やっぱりどこか怪我でもしたのかと彼――森山冬呀は心配したが、直後にアルコールの匂いが鼻を突いた。
どうやら、そのせいで酔いつぶれて眠ってしまったらしい。
「どうしたもんかな……」
冬呀は、小さく唸った。
酔い潰れた女性を路上に転がしておいたら、どんな事件に巻き込まれるか分かったものではないが、だからといって自宅に連れ帰る訳にもいかない。
「まったく、無防備だな」
若い女性が酔い潰れるなんて、と視線を下に向けると、ぶつかった拍子に落ちたのか彼女の鞄の中身が散らばっていた。
鞄のファスナーすら閉めていないことに、冬呀は若干呆れながら、片腕で彼女を支えながらゆっくりとしゃがんで拾っていると、定期入れを見つけて手が止まる。
悪いとは思いながらも、彼女が誰なのかということを知りたい好奇心には勝てない。もちろん、彼女を送るための情報が必要なのも事実だ。
「黒栖……エマか。住所は」
残念なことに、定期入れに入っていたのは資格の認定証と社員カードだけで、住所が書いてあるものはない。
冬呀は、途方にくれそうになった。
本当はやりたくないが、仕方なく鞄の中に手を突っ込んで、財布を取り出した。
あまり財布の中身を見ないようにしながら、最も名前が書いてありそうな保険証を探し出す。
意外にもあっさりと見つかった保険証を裏返すと、手書きで住所が書かれていた。
「とりあえず……独り暮らしじゃなければいいんだが」
完全に眠っているエマを見つめてから、自分の肩に頭をもたせかけて、腰と膝裏に手を入れて抱き上げた。
二人がぶつかった場所から、車までは二、三分で着く。
冬呀にとって、彼女の体重は軽いくらいだが、夜中に横抱きに女性を運んでいる姿は、見る人によってはかなり怪しく映る。
特に、相手が酔い潰れている場合には。
ただひたすら、パトカーが来ませんようにと冬呀は心から願った。
「まったく……とんだ災難だな」
一人、ぶつぶつと愚痴をこぼしていると、エマが身動ぎした。
「んっ……」
まるで、子犬が擦り寄るみたいに、冬呀の胸元に頬をこすり付けて、小さくため息を吐く。
その動作に、冬呀の心は揺さぶられた。
標準的な骨格と白い肌。
ナチュラルなメイクや香水ではない優しい香り。
守ってやりたくなる。
そんな彼女の中で、一つだけ気になることがあった。
彼女には不似合いな黒い革の手袋だ。
どうみたって、守ってやりたいと思わせる印象とはかけ離れていた。
無意識にエマへと気をとられていると、駐車場へと辿り着いていた。
二十八年の人生の中で、これほど自分の心を奪うものに、出会ったことがあっただろうか。
車の鍵を開けると、助手席にエマを座らせて、シートベルトをかけてやった。
その間も、エマが起きる気配はない。
だから、冬呀は大人しめに扉をとじ、運転席へと回った。
エンジンをかけ立ち上がったカーナビに、目的地を入力するとすぐに経路が示され、目的地までの所要時間が表示された。
目的地までは、およそ八分。
夜中であるこの時間なら、八分よりも速く着けるだろう。
ゆっくりと、冬呀は車を走らせはじめた。
夜の街は静かで、昼間の雑音が嘘のようだ。
渋滞もなく、車の通りも少ない。道路に書かれた速度を守りながら、冬呀は横で寝るエマの寝息に耳を澄ます。
安心しきったその音色は、久しぶりに感じる安らぎを冬呀にもたらした。
信号で止まるたび、彼女を見ずにはいられない。
そして、怒りも感じる。
女性が一人で、介抱してくれる相手がいない場で泥酔すべきではない。
もしも変な事を考えている奴に襲われていたら、事件にでも巻き込まれでもしたら……。
冬呀はハンドルをぎゅっと握り締めた。
「嘘つき……」
小さな呟きが聞こえた時には、さすがの冬呀も驚いた。
(起きたのか?)
そう思ったが、小さな寝息は聞こえている。
その事に、ほっとしたのもつかの間、白い頬を涙が伝う。
眠りながら涙を流す女性を見たのは、初めてのことだった。
胸の奥がギュッと掴まれるような、不思議な感覚に襲われる。
こんな感覚を冬呀は知っていながらも、今まで感じた事はない。
だか、そんな感覚に向き合う気はまだなかった。
信号が青に変わり、車を走らせはじめると同時に、本来の他者に対する冷たい感情で心を埋めつくす。
(今は、余計な感情に時間を取られている場合じゃない)
目的地に着く頃にはいつもの自分を取り戻し、エンジンを切ると周囲を観察しながら助手席に回り込んでエマを抱き上げる。
家は住宅街から離れた場所にあり、草花の香りで満たされていた。好ましいことに、家の裏は森になっている。
冬呀は、じっくりと目と耳と鼻、そして感覚で把握した。
休日にはパンを焼く匂いがしてきそうな家はレンガ造りで、周りには数十種類のハーブが植えられている。夜行性の小動物が動き回る音がする森。
思わず微笑んだ。
(いい環境だ)
家のポーチに上がり、玄関の横にあるベンチに座らせると、冬呀はチャイムを鳴らした。家の中に明かりが見えるから問題ないだろうと判断して、音もなくその場を離れた。
目隠しになりそうな木々の影に停めておいた車に乗り、エマの安全を冬呀は見守る。
数分もしないうちに玄関の扉が開き、若い女性たちが不思議そうに顔を覗かせた。
(ここは寮か?)
まるで大学の女子寮かというほどの人数が出てきて、ベンチに座って眠る彼女に気づいて何か騒ぎはじめた。
優れた聴力を持つ冬呀も、さすがに離れた場所の車の中に居たのでは、何を話しているのか分からない。
協力し合いエマを立ち上がらせ、一人がおぶると扉の奥へと消えていった。扉が閉まり、冬呀は数分そのまま様子を見て、誰も戻って来ないのを確信してからシートベルトをした。
エンジンが静かに息を吹き返したのに、この場所から去りがたくなっている自分の心に気がついた。
目を覚ましている彼女の声が聞きたい。
「ああー、くそっ!」
定期入れに入っていた社員証を、もっとしっかりと見ておくんだった。
そんな風に思ったが、今さら遅い。
名残惜しい気持ちをどうにも出来ないまま、冬呀は深くなりつつある夜の道へと車を走らせた。
そう言った彼女は、ゆっくりと目を閉じた。
一瞬、やっぱりどこか怪我でもしたのかと彼――森山冬呀は心配したが、直後にアルコールの匂いが鼻を突いた。
どうやら、そのせいで酔いつぶれて眠ってしまったらしい。
「どうしたもんかな……」
冬呀は、小さく唸った。
酔い潰れた女性を路上に転がしておいたら、どんな事件に巻き込まれるか分かったものではないが、だからといって自宅に連れ帰る訳にもいかない。
「まったく、無防備だな」
若い女性が酔い潰れるなんて、と視線を下に向けると、ぶつかった拍子に落ちたのか彼女の鞄の中身が散らばっていた。
鞄のファスナーすら閉めていないことに、冬呀は若干呆れながら、片腕で彼女を支えながらゆっくりとしゃがんで拾っていると、定期入れを見つけて手が止まる。
悪いとは思いながらも、彼女が誰なのかということを知りたい好奇心には勝てない。もちろん、彼女を送るための情報が必要なのも事実だ。
「黒栖……エマか。住所は」
残念なことに、定期入れに入っていたのは資格の認定証と社員カードだけで、住所が書いてあるものはない。
冬呀は、途方にくれそうになった。
本当はやりたくないが、仕方なく鞄の中に手を突っ込んで、財布を取り出した。
あまり財布の中身を見ないようにしながら、最も名前が書いてありそうな保険証を探し出す。
意外にもあっさりと見つかった保険証を裏返すと、手書きで住所が書かれていた。
「とりあえず……独り暮らしじゃなければいいんだが」
完全に眠っているエマを見つめてから、自分の肩に頭をもたせかけて、腰と膝裏に手を入れて抱き上げた。
二人がぶつかった場所から、車までは二、三分で着く。
冬呀にとって、彼女の体重は軽いくらいだが、夜中に横抱きに女性を運んでいる姿は、見る人によってはかなり怪しく映る。
特に、相手が酔い潰れている場合には。
ただひたすら、パトカーが来ませんようにと冬呀は心から願った。
「まったく……とんだ災難だな」
一人、ぶつぶつと愚痴をこぼしていると、エマが身動ぎした。
「んっ……」
まるで、子犬が擦り寄るみたいに、冬呀の胸元に頬をこすり付けて、小さくため息を吐く。
その動作に、冬呀の心は揺さぶられた。
標準的な骨格と白い肌。
ナチュラルなメイクや香水ではない優しい香り。
守ってやりたくなる。
そんな彼女の中で、一つだけ気になることがあった。
彼女には不似合いな黒い革の手袋だ。
どうみたって、守ってやりたいと思わせる印象とはかけ離れていた。
無意識にエマへと気をとられていると、駐車場へと辿り着いていた。
二十八年の人生の中で、これほど自分の心を奪うものに、出会ったことがあっただろうか。
車の鍵を開けると、助手席にエマを座らせて、シートベルトをかけてやった。
その間も、エマが起きる気配はない。
だから、冬呀は大人しめに扉をとじ、運転席へと回った。
エンジンをかけ立ち上がったカーナビに、目的地を入力するとすぐに経路が示され、目的地までの所要時間が表示された。
目的地までは、およそ八分。
夜中であるこの時間なら、八分よりも速く着けるだろう。
ゆっくりと、冬呀は車を走らせはじめた。
夜の街は静かで、昼間の雑音が嘘のようだ。
渋滞もなく、車の通りも少ない。道路に書かれた速度を守りながら、冬呀は横で寝るエマの寝息に耳を澄ます。
安心しきったその音色は、久しぶりに感じる安らぎを冬呀にもたらした。
信号で止まるたび、彼女を見ずにはいられない。
そして、怒りも感じる。
女性が一人で、介抱してくれる相手がいない場で泥酔すべきではない。
もしも変な事を考えている奴に襲われていたら、事件にでも巻き込まれでもしたら……。
冬呀はハンドルをぎゅっと握り締めた。
「嘘つき……」
小さな呟きが聞こえた時には、さすがの冬呀も驚いた。
(起きたのか?)
そう思ったが、小さな寝息は聞こえている。
その事に、ほっとしたのもつかの間、白い頬を涙が伝う。
眠りながら涙を流す女性を見たのは、初めてのことだった。
胸の奥がギュッと掴まれるような、不思議な感覚に襲われる。
こんな感覚を冬呀は知っていながらも、今まで感じた事はない。
だか、そんな感覚に向き合う気はまだなかった。
信号が青に変わり、車を走らせはじめると同時に、本来の他者に対する冷たい感情で心を埋めつくす。
(今は、余計な感情に時間を取られている場合じゃない)
目的地に着く頃にはいつもの自分を取り戻し、エンジンを切ると周囲を観察しながら助手席に回り込んでエマを抱き上げる。
家は住宅街から離れた場所にあり、草花の香りで満たされていた。好ましいことに、家の裏は森になっている。
冬呀は、じっくりと目と耳と鼻、そして感覚で把握した。
休日にはパンを焼く匂いがしてきそうな家はレンガ造りで、周りには数十種類のハーブが植えられている。夜行性の小動物が動き回る音がする森。
思わず微笑んだ。
(いい環境だ)
家のポーチに上がり、玄関の横にあるベンチに座らせると、冬呀はチャイムを鳴らした。家の中に明かりが見えるから問題ないだろうと判断して、音もなくその場を離れた。
目隠しになりそうな木々の影に停めておいた車に乗り、エマの安全を冬呀は見守る。
数分もしないうちに玄関の扉が開き、若い女性たちが不思議そうに顔を覗かせた。
(ここは寮か?)
まるで大学の女子寮かというほどの人数が出てきて、ベンチに座って眠る彼女に気づいて何か騒ぎはじめた。
優れた聴力を持つ冬呀も、さすがに離れた場所の車の中に居たのでは、何を話しているのか分からない。
協力し合いエマを立ち上がらせ、一人がおぶると扉の奥へと消えていった。扉が閉まり、冬呀は数分そのまま様子を見て、誰も戻って来ないのを確信してからシートベルトをした。
エンジンが静かに息を吹き返したのに、この場所から去りがたくなっている自分の心に気がついた。
目を覚ましている彼女の声が聞きたい。
「ああー、くそっ!」
定期入れに入っていた社員証を、もっとしっかりと見ておくんだった。
そんな風に思ったが、今さら遅い。
名残惜しい気持ちをどうにも出来ないまま、冬呀は深くなりつつある夜の道へと車を走らせた。
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