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第2話:罪悪感と好奇心のあいだ
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「はい、じゃあこの案件の過去データ、午後までにまとめてくれる?」
「了解です、橘さん」
週明けの月曜日。
僕らは何事もなかったように、デスクを挟んで座っていた。
──たった数日前、一夜を共にした相手と。
その現実を飲み込むには、まだ時間が必要だった。
けれど、橘さんは本当に“完璧”だった。
表情にも、言葉にも、態度にも、何一つの乱れもない。
隣に座っていても、僕が特別な存在であるかのような気配は一切ない。
なのに僕は、心のどこかでずっとあの夜の彼女の笑顔を思い出していた。
弱さを見せた一瞬。濡れた指輪。震えた声。
今、目の前にいる“できる女”とは別人のようだった。
「成瀬くん、顔、赤いよ?熱ある?」
「えっ!?あ、いえ!全然……!」
「ふふ、緊張してる?何もなかったでしょ、先週」
「……はい」
その笑顔。
無邪気で、人懐っこくて、どこか“本音”が見えない。
「私はもう、気にしてないから。仕事に集中しよ?」
「はい、頑張ります」
僕の答えは、たぶん80点。いや、65点かもしれない。
今の僕は、“何もなかった”フリをするのが下手すぎた。
________________________________________
昼休み、屋上の喫煙所に立ち寄ると、橘さんが一人で缶コーヒーを飲んでいた。
喫煙しないのに、なぜかここによく来ている。
「……成瀬くんも、外の空気吸いに来た?」
「はい。疲れてきたんで……って、橘さんもですか?」
「うん。たまにね、ここでボーッとするの」
「意外ですね。橘さんって、忙しくても全然崩れないイメージだったんで」
「イメージって怖いよね。私だって、泣きたくなることくらいあるよ」
「……あの夜とかですか?」
言ってしまった。
思わず口から出てしまった言葉に、自分でも焦った。
でも橘さんは怒るでも、拒絶するでもなく——
「……うん、ああいう夜も、あるんだよね。人間だし」
そう、少しだけ寂しそうに笑った。
その笑顔は、会社では決して見せない顔だった。
「私、結婚してるって言ったよね。けど……なんでだろうね、あんなことしたの。成瀬くんと一緒にいて、なんか、ホッとしちゃって」
「……嬉しいです」
「でもね、怖いの。自分が崩れていくのが」
彼女が缶コーヒーを見つめたまま呟く。
「“いい奥さん”を演じるの、もう5年くらいやってる気がする。夫に合わせて、笑って、謝って。……でも最近、自分が誰なのか、わかんなくなることある」
僕はその言葉に、何も返せなかった。
重すぎて、何も言えなかった。
でも、知りたいと思った。
この人が、どんな人生を歩んで、どこで傷ついて、何を隠しているのか。
──知りたくなってしまった。
________________________________________
その日から、僕は橘さんの些細な“変化”に敏感になった。
・営業電話の後、ふと見せる深いため息
・LINEを見てすぐスマホを裏返す仕草
・右手で左の薬指をなぞるクセ
どれも小さな違和感だったけれど、そこには必ず「感情」があった。
そして、それを隠す技術に長けているのが、橘沙耶香という人だった。
ある日、彼女が廊下の隅で電話しているのを見かけた。
たまたま通りかかっただけだった。
「……はい、わかってる。ちゃんと帰るって言ってるでしょ?……GPS、またズレてるだけだってば」
その声は、いつもの彼女じゃなかった。
やたら低くて、怯えていて、誰かに“従わされている”ような声だった。
──夫だ。きっと、あのメッセージの相手。
僕の胸が締めつけられる。
誰にも言えない。でも、目をそらせない。
この人は、たぶん助けを求めている。
でも、求め方を知らない。
________________________________________
ある金曜日の夜。
会社の飲み会があったが、橘さんは残業で不参加だった。
帰り際、ビルの外に出ると、雨が降っていた。
傘を忘れて途方に暮れていると、ふいに後ろから声がした。
「成瀬くん、帰るの?」
振り向くと、橘さんがビニール傘をさして立っていた。
「……あ、橘さん」
「たまたま見かけて。よかったら一緒に帰らない?」
驚きと戸惑いが同時に押し寄せる。
「え、でも……方向違いません?」
「今日はちょっと、寄り道したい気分なの」
橘さんのビニール傘に入って、並んで歩く。
距離が妙に近く、呼吸が浅くなる。
「さっき、会社の更衣室で、ちょっと泣いちゃって」
ぽつりと、橘さんが言った。
「誰もいないの確認してからだけど……みっともないよね」
「……そんなことないです」
「たまにあるの。誰も見てない場所で、静かに崩れたくなる時が」
誰にも聞こえないような小さな声で、彼女は話していた。
「帰っても、夫がいるし……。今日は、少しだけ“普通の会話”がしたかったのかも」
「俺でいいなら、いくらでも話しますよ」
橘さんは少し驚いた顔をして、微笑んだ。
「……言うね、若いのに」
________________________________________
週明け。
橘さんはまた、完璧な仮面を被って会社に現れた。
でも、僕にはわかっていた。
その奥にいる人間の輪郭が、少しずつ透けて見えていることを。
そして、僕自身もまた、“ただの後輩”ではいられなくなっていた。
罪悪感と、好奇心と、焦がれるような想い。
そのどれもが、日を追うごとに強くなっていた。
──この人を、もっと知りたい。
ただ、それだけが、僕の原動力になっていた。
「了解です、橘さん」
週明けの月曜日。
僕らは何事もなかったように、デスクを挟んで座っていた。
──たった数日前、一夜を共にした相手と。
その現実を飲み込むには、まだ時間が必要だった。
けれど、橘さんは本当に“完璧”だった。
表情にも、言葉にも、態度にも、何一つの乱れもない。
隣に座っていても、僕が特別な存在であるかのような気配は一切ない。
なのに僕は、心のどこかでずっとあの夜の彼女の笑顔を思い出していた。
弱さを見せた一瞬。濡れた指輪。震えた声。
今、目の前にいる“できる女”とは別人のようだった。
「成瀬くん、顔、赤いよ?熱ある?」
「えっ!?あ、いえ!全然……!」
「ふふ、緊張してる?何もなかったでしょ、先週」
「……はい」
その笑顔。
無邪気で、人懐っこくて、どこか“本音”が見えない。
「私はもう、気にしてないから。仕事に集中しよ?」
「はい、頑張ります」
僕の答えは、たぶん80点。いや、65点かもしれない。
今の僕は、“何もなかった”フリをするのが下手すぎた。
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昼休み、屋上の喫煙所に立ち寄ると、橘さんが一人で缶コーヒーを飲んでいた。
喫煙しないのに、なぜかここによく来ている。
「……成瀬くんも、外の空気吸いに来た?」
「はい。疲れてきたんで……って、橘さんもですか?」
「うん。たまにね、ここでボーッとするの」
「意外ですね。橘さんって、忙しくても全然崩れないイメージだったんで」
「イメージって怖いよね。私だって、泣きたくなることくらいあるよ」
「……あの夜とかですか?」
言ってしまった。
思わず口から出てしまった言葉に、自分でも焦った。
でも橘さんは怒るでも、拒絶するでもなく——
「……うん、ああいう夜も、あるんだよね。人間だし」
そう、少しだけ寂しそうに笑った。
その笑顔は、会社では決して見せない顔だった。
「私、結婚してるって言ったよね。けど……なんでだろうね、あんなことしたの。成瀬くんと一緒にいて、なんか、ホッとしちゃって」
「……嬉しいです」
「でもね、怖いの。自分が崩れていくのが」
彼女が缶コーヒーを見つめたまま呟く。
「“いい奥さん”を演じるの、もう5年くらいやってる気がする。夫に合わせて、笑って、謝って。……でも最近、自分が誰なのか、わかんなくなることある」
僕はその言葉に、何も返せなかった。
重すぎて、何も言えなかった。
でも、知りたいと思った。
この人が、どんな人生を歩んで、どこで傷ついて、何を隠しているのか。
──知りたくなってしまった。
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その日から、僕は橘さんの些細な“変化”に敏感になった。
・営業電話の後、ふと見せる深いため息
・LINEを見てすぐスマホを裏返す仕草
・右手で左の薬指をなぞるクセ
どれも小さな違和感だったけれど、そこには必ず「感情」があった。
そして、それを隠す技術に長けているのが、橘沙耶香という人だった。
ある日、彼女が廊下の隅で電話しているのを見かけた。
たまたま通りかかっただけだった。
「……はい、わかってる。ちゃんと帰るって言ってるでしょ?……GPS、またズレてるだけだってば」
その声は、いつもの彼女じゃなかった。
やたら低くて、怯えていて、誰かに“従わされている”ような声だった。
──夫だ。きっと、あのメッセージの相手。
僕の胸が締めつけられる。
誰にも言えない。でも、目をそらせない。
この人は、たぶん助けを求めている。
でも、求め方を知らない。
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ある金曜日の夜。
会社の飲み会があったが、橘さんは残業で不参加だった。
帰り際、ビルの外に出ると、雨が降っていた。
傘を忘れて途方に暮れていると、ふいに後ろから声がした。
「成瀬くん、帰るの?」
振り向くと、橘さんがビニール傘をさして立っていた。
「……あ、橘さん」
「たまたま見かけて。よかったら一緒に帰らない?」
驚きと戸惑いが同時に押し寄せる。
「え、でも……方向違いません?」
「今日はちょっと、寄り道したい気分なの」
橘さんのビニール傘に入って、並んで歩く。
距離が妙に近く、呼吸が浅くなる。
「さっき、会社の更衣室で、ちょっと泣いちゃって」
ぽつりと、橘さんが言った。
「誰もいないの確認してからだけど……みっともないよね」
「……そんなことないです」
「たまにあるの。誰も見てない場所で、静かに崩れたくなる時が」
誰にも聞こえないような小さな声で、彼女は話していた。
「帰っても、夫がいるし……。今日は、少しだけ“普通の会話”がしたかったのかも」
「俺でいいなら、いくらでも話しますよ」
橘さんは少し驚いた顔をして、微笑んだ。
「……言うね、若いのに」
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週明け。
橘さんはまた、完璧な仮面を被って会社に現れた。
でも、僕にはわかっていた。
その奥にいる人間の輪郭が、少しずつ透けて見えていることを。
そして、僕自身もまた、“ただの後輩”ではいられなくなっていた。
罪悪感と、好奇心と、焦がれるような想い。
そのどれもが、日を追うごとに強くなっていた。
──この人を、もっと知りたい。
ただ、それだけが、僕の原動力になっていた。
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